六
「貴方のそういう誠実な所が好きで、同時に大嫌いですわ」
山桜桃がぽろぽろと涙を零す。
紫雲英は懐紙を差し出した。
「こういう時は袖で涙を拭うのが殿方の役目でしてよ」
「生憎、そういう手管は持ち合わせていないのだ」
「本当に朴念仁ですわ、貴方」
懐紙を受け取って涙を拭いて。山桜桃は紫雲英を真っ直ぐに見据えた。
「でも、そういう朴念仁が好きなのですから、仕方ありませんわね」
どこか吹っ切れたように山桜桃は顎を上げる。
「主上のお望みです。私たち二人で叶えましょう」
「それはつまり」
「共に、主上を支えましょう。けれど妻問いの手順は踏んでくださいまし。和歌くらいは私だけの為に詠んでくださいな」
紫雲英は真面目に頷いた。
「そうしよう」
真剣な表情に、山桜桃は嬉しいような悲しいような複雑な気持ちで微笑む。
「これから色々大変ですわよ。まずは父を説得しなくてはなりませんし」
「別当どのより大納言どのではないのか?」
「あら、伯父上の説得は簡単です」
「そうか。そうだな」
紫雲英は立ち上がりかけてまた座った。
「どうなさいました?」
「山桜桃」
「はい」
「私は今は貴方を愛してはいないが、愛するように努めようと思っている。妻として大切にする。それだけは伝えて置く」
山桜桃は深々と溜息を吐いて眉間を押さえた。
「そういう台詞は言わない方が良いですわよ。却って気持ちを逆撫でします」
「……そうか。すまない」
「いいえ。それも貴方の誠実さ故と存じておりますから、許します」
「ありがとう」
紫雲英は今度こそ立ち上がり御簾を上げて出て行った。
と思ったらすぐに戻って来る。
「伝え忘れた。恋や愛ではないが、私はちゃんと貴方を好きだ。そうでなければ妻に迎えようとは言わなかった」
ではな、とそれだけ言い置いて、紫雲英は今度こそ去って行く。
残された山桜桃はひどく複雑な表情で座り込んでいた。
「……本当に。どうしようもない男性ですわね」
清涼殿。
女房達も皆下がらせて。
榠樝は夜御殿の御帳台の中、ひとり膝を抱えて丸くなった。
ひとりきり。誰も居ない。
ならば泣いてもいいだろう。
ほたほたと涙が頬を伝っていく。
嬉しいのか悲しいのか、それとも悔しいのか。自分の気持ちが分からない。
十年しかない。
その間に虹霓国を盤石とせねばならない。
五雲国との同盟を強固にし、簡単に破棄できぬよう布石を打つ。
攻めるに難い国と成す。
沿岸の防備を完璧に、光環国の技術を取り入れて、我がものとする。
国内の基盤を確固たるものとする。六家の代替わり、六家以外の貴族の不満も取り除き。
そして、そして次の王を生む。
全部ひとりではできぬことだ。
だが、誰か一人を選ぶこともできはしない。
今の状況では。
だがそれでも、手を差し伸べてくれる者はいる。
誓いをくれる者たちがいる。
紫雲英は支えると言ってくれた。
紅雨は待つと言ってくれた。
十年もあれば気が変わるかもしれない。
それでも今、そう言ってくれたことは真実としてここにある。
胸の奥に火が灯った。
あたたかい。
あたたかいからこそ、苦しくもある。
さら、と衣擦れの音がする。
御帳台の前、誰かが跪いた気配がした。
榠樝は深く吐息する。この香りは間違いようもない。
「頭弁」
「はい」
「呼んだ覚えはないぞ」
「はい。ご無礼申し上げます」
帳の隙間から様子を伺えば、笹百合が小さく畏まっているのが見えた。
「どうした。紅雨に良い所を持って行かれて悔しかったのか」
「はい。悔しゅうございました」
揶揄ってやるつもりの台詞に真顔で返されて、榠樝は涙を引っ込めた。
そう、この三年で笹百合もだいぶ変わった。
「主上、いいえ、榠樝さま。私もお待ち申し上げて宜しいですね」
いつでも控えめで己のことなど二の次、三の次であった男が。
こんなにも榠樝を求めているとは。
まったく、世の中というものはどう転ぶのかわからない。
一手先すら見通せない。
「それは問い掛けではなく宣言ではないのか」
「はい」
ちっとも悪びれず頷く笹百合に、呆れを通り越して笑ってしまった。
「ならば笹百合、そなたも存分に遣うぞ。良いのだな」
「望むところです」
ああ、と榠樝は目を閉じた。
ひとりではない。
ならば、きっと。できることもあろう。
その年の夏を前に菖蒲紫雲英と黒鳶山桜桃との婚約が告げられた。
朝廷はまた大いに揺れた。
菖蒲家次期当主とその北の方に黒鳶家の姫が決まった。
六家の二角、菖蒲と黒鳶が手を結んだのだ。
そして同時に、近い将来の王配争いから菖蒲が手を引いたことになる。
「均衡を保ちたかったのでは無いのですか」
関白、蘇芳深雪が渋い顔をしている。
榠樝は平然としたものだ。
「紫雲英も山桜桃ももとより我が腹心。見た目ほど勢力は変わってはおらぬよ」
「見た目が、変わりますことが肝要でございますれば」
王配の競べは表立っては白紙。
だが水面下で丁々発止と遣り合っているとは聞く。
主に蘇芳紅雨と縹笹百合である。
藤黄茅花は少しばかり勢いに欠ける。何やら笹百合に深く釘を刺されたとかなんとかかんとか。そして今、北の大宰府に居るので中央の争いには加われぬ状況でもある。
「表で均衡を図るか」
「月白家を引き立てますか」
「虎杖の位を上げる。或いは弟たちを引き上げる」
「もしくはその両方でも構わぬかと」
深雪の言に榠樝は意外そうに眼を瞬いた。
「月白贔屓が過ぎぬだろうか」
「前当主凍星が相談役として五雲国に渡っておりますが、当主虎杖は右近衛中将。当主の位としては些か低うございますな。正四位下にし、参議と致しましょうか。弟たちも相応に」
榠樝は扇を閉じると口元に当てた。
蘇芳は深雪が関白、中央で権勢を振るい、菖蒲と黒鳶が手を結び威勢を増した。
藤黄は橘が中納言、南天が征討大将軍、茅花が大宰大弐で北方に勢力を持つ。
縹は何だかんだと笹百合が出世頭としても目立っているし。
六家の中で月白だけがひとつ出遅れている感はある。
やはり月白を引き立てる必要はあるな、と榠樝は頷いた。
「月白は各々が控えめで真面目で。あやつら兄弟は目立とうとせぬから……」
「気性でございましょうな」
「本人らの力が発揮できる場所に置いてやってくれ」
「諮らせまする」
「うん。頼む」




