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虹霓国の女東宮  作者: 浮田葉子
第九章 女王即位
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「貴方のそういう誠実な所が好きで、同時に大嫌いですわ」




 山桜桃(ゆすら)がぽろぽろと涙を零す。


 紫雲英(げんげ)は懐紙を差し出した。




「こういう時は袖で涙を拭うのが殿方の役目でしてよ」


生憎(あいにく)、そういう手管(てくだ)は持ち合わせていないのだ」




「本当に朴念仁ですわ、貴方」




 懐紙を受け取って涙を拭いて。山桜桃は紫雲英を真っ直ぐに見据えた。




「でも、そういう朴念仁が好きなのですから、仕方ありませんわね」




 どこか吹っ切れたように山桜桃は顎を上げる。




「主上のお望みです。私たち二人で叶えましょう」


「それはつまり」




「共に、主上を支えましょう。けれど妻問(つまど)いの手順は踏んでくださいまし。和歌(うた)くらいは私だけの為に詠んでくださいな」




 紫雲英は真面目に頷いた。




「そうしよう」




 真剣な表情に、山桜桃は嬉しいような悲しいような複雑な気持ちで微笑む。




「これから色々大変ですわよ。まずは父を説得しなくてはなりませんし」


「別当どのより大納言どのではないのか?」




「あら、伯父上の説得は簡単です」


「そうか。そうだな」




 紫雲英は立ち上がりかけてまた座った。




「どうなさいました?」


「山桜桃」




「はい」


「私は今は貴方を愛してはいないが、愛するように努めようと思っている。妻として大切にする。それだけは伝えて置く」




 山桜桃は深々と溜息を吐いて眉間を押さえた。




「そういう台詞は言わない方が良いですわよ。却って気持ちを逆撫でします」


「……そうか。すまない」




「いいえ。それも貴方の誠実さ(ゆえ)と存じておりますから、許します」


「ありがとう」




 紫雲英は今度こそ立ち上がり御簾を上げて出て行った。


 と思ったらすぐに戻って来る。




「伝え忘れた。恋や愛ではないが、私はちゃんと貴方を好きだ。そうでなければ妻に迎えようとは言わなかった」




 ではな、とそれだけ言い置いて、紫雲英は今度こそ去って行く。


 残された山桜桃はひどく複雑な表情で座り込んでいた。




「……本当に。どうしようもない男性(ひと)ですわね」












 清涼殿(せいりょうでん)


 女房達も皆下がらせて。


 榠樝(かりん)夜御殿(よるのおとど)御帳台(みちょうだい)の中、ひとり膝を抱えて丸くなった。




 ひとりきり。誰も居ない。


 ならば泣いてもいいだろう。




 ほたほたと涙が頬を伝っていく。


 嬉しいのか悲しいのか、それとも悔しいのか。自分の気持ちが分からない。




 十年しかない。




 その間に虹霓国(こうげいこく)を盤石とせねばならない。


 五雲国(ごうんこく)との同盟を強固にし、簡単に破棄できぬよう布石を打つ。


 攻めるに(かた)い国と成す。




 沿岸の防備を完璧に、光環国(こうかんこく)の技術を取り入れて、我がものとする。


 国内の基盤を確固たるものとする。六家の代替わり、六家以外の貴族の不満も取り除き。




 そして、そして次の王を生む。




 全部ひとりではできぬことだ。


 だが、誰か一人を選ぶこともできはしない。




 今の状況では。




 だがそれでも、手を差し伸べてくれる者はいる。


 誓いをくれる者たちがいる。




 紫雲英は支えると言ってくれた。


 紅雨は待つと言ってくれた。




 十年もあれば気が変わるかもしれない。


 それでも今、そう言ってくれたことは真実としてここにある。




 胸の奥に火が灯った。


 あたたかい。




 あたたかいからこそ、苦しくもある。




 さら、と衣擦れの音がする。


 御帳台の前、誰かが(ひざまず)いた気配がした。




 榠樝は深く吐息する。この香りは間違いようもない。




頭弁(とうのべん)


「はい」




「呼んだ覚えはないぞ」


「はい。ご無礼申し上げます」




 (とばり)の隙間から様子を伺えば、笹百合(ささゆり)が小さく畏まっているのが見えた。




「どうした。紅雨に良い所を持って行かれて悔しかったのか」


「はい。悔しゅうございました」




 揶揄(からか)ってやるつもりの台詞に真顔で返されて、榠樝は涙を引っ込めた。


 そう、この三年で笹百合もだいぶ変わった。




主上(おかみ)、いいえ、榠樝さま。私もお待ち申し上げて宜しいですね」




 いつでも控えめで己のことなど二の次、三の次であった男が。


 こんなにも榠樝を求めているとは。




 まったく、世の中というものはどう転ぶのかわからない。


 一手先すら見通せない。




「それは問い掛けではなく宣言ではないのか」


「はい」




 ちっとも悪びれず頷く笹百合に、呆れを通り越して笑ってしまった。




「ならば笹百合、そなたも存分に遣うぞ。良いのだな」


「望むところです」




 ああ、と榠樝は目を閉じた。


 ひとりではない。


 ならば、きっと。できることもあろう。












 その年の夏を前に菖蒲紫雲英(あやめのげんげ)黒鳶山桜桃(くろとびのゆすら)との婚約が告げられた。




 朝廷はまた大いに揺れた。




 菖蒲家次期当主とその北の方に黒鳶家の姫が決まった。


 六家の二角、菖蒲と黒鳶が手を結んだのだ。




 そして同時に、近い将来の王配争いから菖蒲が手を引いたことになる。




「均衡を保ちたかったのでは無いのですか」




 関白、蘇芳深雪(すおうのみゆき)が渋い顔をしている。


 榠樝は平然としたものだ。




「紫雲英も山桜桃ももとより我が腹心。見た目ほど勢力は変わってはおらぬよ」


()()()()、変わりますことが肝要でございますれば」




 王配の(くら)べは表立っては白紙。


 だが水面下で丁々発止(ちょうちょうはっし)と遣り合っているとは聞く。




 主に蘇芳紅雨(すおうのこうう)縹笹百合(はなだのささゆり)である。


 藤黄茅花(とうおうのつばな)は少しばかり勢いに欠ける。何やら笹百合に深く釘を刺されたとかなんとかかんとか。そして今、北の大宰府に居るので中央の争いには加われぬ状況でもある。




「表で均衡を図るか」


月白(つきしろ)家を引き立てますか」




虎杖(いたどり)の位を上げる。或いは弟たちを引き上げる」


「もしくはその両方でも構わぬかと」




 深雪の言に榠樝は意外そうに眼を瞬いた。




「月白贔屓(びいき)が過ぎぬだろうか」




(さきの)当主凍星(いてぼし)が相談役として五雲国(ごうんこく)に渡っておりますが、当主虎杖は右近衛中将。当主の位としては(いささ)か低うございますな。正四位下にし、参議と致しましょうか。弟たちも相応に」




 榠樝は扇を閉じると口元に当てた。




 蘇芳は深雪が関白、中央で権勢を振るい、菖蒲と黒鳶が手を結び威勢を増した。


 藤黄は橘が中納言、南天が征討大将軍、茅花が大宰大弐で北方に勢力を持つ。


 縹は何だかんだと笹百合が出世頭としても目立っているし。




 六家の中で月白だけがひとつ出遅れている感はある。


 やはり月白を引き立てる必要はあるな、と榠樝は頷いた。




「月白は各々が控えめで真面目で。あやつら兄弟は目立とうとせぬから……」


「気性でございましょうな」




「本人らの力が発揮できる場所に置いてやってくれ」


(はか)らせまする」




「うん。頼む」

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