五
榠樝は飛香舎から清涼殿へと戻る。
うっかりしていた。
即位したのだから清涼殿に居るのが常なのだ。
どうしても女東宮であった頃の癖が抜けず、足は自然と飛香舎に向かってしまう。
改めていかなくては。
夜御殿に戻ろうとするも、何やら昼御座が騒がしい。
「何かあったのか」
ひょいと顔を出したなら、女房が慌てて榠樝を押し止めた。
「主上、これ以上は危険でございます!」
「どうぞ夜御殿に!もしくは飛香舎に!」
「何が危険なのだ」
榠樝の言葉が終わらぬ内に大きい音が響いて。
殿上の間から年中行事障子と共に蘇芳紅雨が転がり出て来た。
榠樝は呆気に取られて固まって。
紅雨は御簾の奥の榠樝に気付き、冠を直してその場に畏まった。
「主上、お尋ねしたき儀がございます!」
後ろから縹笹百合が襟元を直しながら出て来て、同じく畏まった。
掴み合いでもしていたのだろうか。
乱れた有り様に愕然とする榠樝に、笹百合は極力平静を保って言う。
「ご無礼申しました。すぐに下がらせます」
榠樝は目を瞬いて、けれど首を振った。
「いや、よい。聞こう」
昼御座にて居住まいを正し、紅雨と笹百合が改めて畏まった。
「畏れながら申し上げます。婿がねの競べを白紙に返すとは、真実でございましょうか」
微かに震える紅雨の声に、榠樝は睫毛を伏せる。
「真実だ」
「王配を、暫くは決めぬというのも」
「その通りだ」
榠樝は静かに、冷たくも聞こえる声音で言った。
「紅雨、そなたらにも煩わしい思いをさせたな。すまぬ。だが、私は暫く婿を取らぬと決めた。それ故婿がねの競べは白紙とする」
紅雨は勢いよく顔を上げた。泣きそうに歪んでいる。
「我らに至らぬ点がございましたでしょうか!何か、お気に障ることを致しましたでしょうか!どうか、理由をお教えください!」
悲痛な叫びが胸に刺さる。
「そうではない」
そうではないのだ、紅雨。
婿がねの誰にも非は無い。
榠樝は少し息を吸った。
「面白い話ではないが、聞くか」
「は」
榠樝は溜め息を吐くと御簾を押し上げ、孫庇へと出た。
そのまますとんと紅雨の前に座る。
「主上」
笹百合が咎めるように言うのに、榠樝は視線を遣る。
「そなたも聞いていくといい。婿がねだったのだからな」
過去形で語られる語に、紅雨も笹百合も痛みを抑えたような顔をする。
榠樝は泣きそうに笑った。
「さて、私が暫く王配を迎えぬといった理由だが、幾つもある。まずは我が虹霓国の現状だ」
ひとつ、と指を立てて榠樝は言った。
「五雲国との同盟が成ったとはいえ、天秤はひどく揺れている状態だ。わかるな。それと同時に、揺れている間は均衡が取れているとも言える」
「傾きが定まっていない、つまりはどちらが優位かわからぬ状態ということですね」
「そうだ。危ういが都合が良い。だが、私が王配を迎えたらどうだ。その均衡は崩れる。そしてまた五雲国の王が私に求婚してこなくなった場合も、崩れるだろう」
紅雨がハッと目を瞠った。
榠樝は肯く。
「わかったか。五雲国の王が私に求婚してくる、この状況を長く保ちたい。その間、五雲国は虹霓国に攻め入ることはないだろうからな。そして、五雲国の王が代替わりした場合もまずい。今の王が私の意を慮ってくれているからこその同盟であり均衡だ。つまり、だからこそ」
榠樝は精一杯の虚勢と悪辣さを乗せて、口にした。
「私はこの状況をどうしても維持せねばならぬ。手玉に取らねばならぬ。それ故に、そなたたちから一人を選ぶことは出来ぬ」
榠樝は片胡坐を掻き、肘を乗せた。
「非道い話だろう」
溜め息と共に、苦々しく吐き出す。
そこには一抹の寂しさも紛れていた。
「……いつまで」
紅雨が小さく呟いた。
「いつまで、それは掛かりましょうか」
いつまで。
思いもよらぬ問いかけに榠樝は目を瞬いた。
五雲国との同盟を確固たるものにし、沿岸に崩れぬ防備を敷き、国内を安定させる。
不確かであやふやな虹霓国に盤石の体制を築く。
その為に何年掛かるだろう。
「わからぬ。が、私も王の役目として子を生さねばならぬ。期限はある。早ければ五年、長くて十年か」
十年経てば榠樝は二十六歳。
それ以上は、おそらく丈夫な子を生すことが難しくなる。
ああ、私が男であったなら。
何度考えたことだろう。
だが、現実は変わりはしない。
榠樝は女だ。そして王だ。
次代へ血を繋ぐことを考えなくてはならない。
ぎりぎりの制限時間が、十年。
「お待ち致します」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
榠樝はきょとんと紅雨を見る。
熱の籠ったひたむきな視線が榠樝を貫いた。
「主上が思い描かれる国を作ることに、私蘇芳紅雨は尽力致します。ここに誓います。そして、その暁にはどうぞ改めて主上の婿がねの一人にお加えください」
力強く、胸を打つその言葉に。
榠樝は思わず目が潤むのを感じた。
「……良かろう。その誓い、覚えて置く。蘇芳紅雨よ、精々扱き使ってやる故、覚悟致せ」
鼻の奥がツンと痛い。
まずいな。泣きそうだ。
発覚る前に御簾の中に戻らねば。
「では、そういうことだ。下がれ」
榠樝は敢えてぞんざいに袖を振ってみせた。
山桜桃と紫雲英は相変わらず向かい合って、見詰め合っていた。
想定外。そういう表情をしている。
山桜桃は溜め息を吐いた。
「思いもよらぬことだという表情をなさっておいでよ」
紫雲英は複雑な表情をどうにかこうにか取り繕おうとしている。
「……うん。思いもよらぬことだった」
「本当に、全く、ちらとも気付いていらっしゃらなかったでしょう」
「……」
気まずげな紫雲英に山桜桃は肩を竦める。
「気付かれぬようにしておりました。故に私の勝ちですわ」
「勝った負けたの話では無くないか?」
憮然とする紫雲英に、山桜桃は半眼になる。
惚れたこちらが負けなのだ。
その辺りでくらい、一つは勝ちを取って置きたい。
「私、貴方が好きですわ。ですが、貴方は王配になるべき方と思っております」
「私は主上直々に、王配には迎えぬと言われたぞ」
「現状維持をお望みだからです。でなければ貴方が一番相応しい」
そうかもしれない。
「そうかもしれないと思いましたでしょう」
「よくわかるな」
「貴方のことならわかります。そして主上のことも」
時が経てば。
きっと榠樝は紫雲英を恋しく思うだろう。
それは山桜桃の予感であり希望でもあった。
大好きな二人が手を取り合って、寄り添って、国を導いて行く。
それを山桜桃は女房として支えるのだ。
素晴らしい未来予想図。
「だが、主上は私と貴方とで背後を盤石なものとして支えてほしいと言った。私はそれを叶えたい」
山桜桃は眉を寄せる。
「榠樝さまを抱く手の持ち主が自分でなくても宜しいの」
「構わない。それが主上の望みなら、何を賭しても叶えたい」
「私を愛してはいらっしゃらないのに、榠樝さまの為に、私を妻にしたいと仰るの」
「そうだ」
酷い台詞だな、と紫雲英は思う。
「私は貴方を愛してはいない。だが、貴方を妻に迎えたい。共に榠樝さまを支える力になってもらえないだろうか」
山桜桃が泣きそうに顔を歪めた。




