一
前王崩御より、三度目の春。
榠樝は十六になっていた。
梅の花が雪解けを待たずに香り高く咲き初めて、凛とした美しさを醸し出す。
雪が解けて日差しが暖かさを増して。
桃が咲き、そして李。濃い紅の桃は鮮やかに、真白な李は嫋やかに。
春が深まるにつれ、花々が咲き零れる。
桜に先んじて扁桃の白から淡紅の花弁が薄い霞を纏ったかのように咲き誇る。風に乗り緩やかに散り始め。
そして桜。一斉に壮麗に。空を覆わんばかりに咲き誇り。
地には菜の花、蒲公英、菫。そして名も知らぬ小さな花たち。
山も里も春爛漫。色が溢れ出る季節だ。
そしてそんな景色を切り取って纏ったかのような榠樝の姿は。
「まるで春の女神のようですわ」
堅香子がうっとりと微笑んだ。
榠樝は儀式のための物具装束である。
髪を結い宝冠をつけ、翡翠のかさねに緋色の袴、白花の打衣、紅梅色の表着、紅碧の唐衣を着込み、白練色の裳を付け、不言色の裙帯を結び白藤色の領巾を纏う。
そして首には玉の御統。中央の勾玉は勿論緑の翡翠である。
衵扇には五雲国より送られた瑠璃の花が飾りつけられている。
榠樝は楚々と口を開いた。
「……重い」
山桜桃が苦笑する。
「暫しのご辛抱を」
堅香子と山桜桃もそれぞれ祝いのかさねで着飾っている。
堅香子が萌黄の匂、山桜桃が松重。
今日は内裏が一段と鮮やかだ。
まるで春の盛りの山里に迷い込んだかのよう。
まず向かうのは内侍所だ。
神器の宝玉に王となることを報告せねばならない。
桐箱に納められた翡翠の宝玉を目にするのは、即位の儀の一度きり。
前回は虹を下さった龍神への感謝を込め、榊葉を献じた。
その際も姿を見てはいない。
鼓動が高鳴る。
喉が渇く。
榠樝はゆっくりと息を吸い込み、長く長く吐き出した。
榠樝以外誰も足を踏み入れてはならない空間。
静謐な空気の他に、肌がピリピリとひりつくような緊張感が張り詰めている。
それもその筈。
桐箱に納められた神器は、箱の外からでもわかるくらいに光り輝いていた。
箱から漏れ出る光は淡い翡翠色。
榠樝はそっと桐箱に手を伸ばした。
ゆっくりと蓋を持ち上げると、眩しい光が辺りを覆い尽くす程に溢れ出て。
光の柱が立ち上った。
それは大内裏ばかりか都中からも見て取れるだろう光の柱で。
人々は虹霓国に新たな王が立ったことを知るのだ。
目が眩みそうな光の奔流を前に、榠樝は定められた作法で宝玉に触れる。
瞼を伏せ、額の前に掲げ、膝を折り。
誓いの言葉を口にする。
「鴗鳥榠樝、御前に仕え奉る」
そして。
宝玉は光を外から内へと向かわせた。
光の柱はゆっくりと収束していく。
両手の中に光り輝く翡翠の宝玉を抱けば、まるで生きているように脈打って感じられる。
榠樝は再度額の前に宝玉を掲げ、そしてそうっと桐箱の中に戻し、蓋をした。
次に宝玉を拝むのは、まだ存在しない次の王たる者だ。
虹霓国王家鴗鳥の次の代。
翡翠の血脈、榠樝の血を引く子。
それまでの長い間、宝玉は国を守り、次の王を待ち続ける。
これで、龍神への報告の儀式は終わり、次は人への報告の儀式が待っている。
内侍所を出ると、尚侍を始め、女官たちが平伏して待ち侘びていた。
その中に浅沙の姿を認め、榠樝は少しだけ唇の端を持ち上げた。
わからない程度の微笑。
けれど気持ちは伝わっただろう。
尚侍が先導し、清涼殿にて蔵人頭に引き継ぐ。
今の蔵人頭は縹笹百合である。出世し従四位下となり右中弁を兼ねている。
笹百合は着飾った榠樝を眩し気に見詰め、ゆっくりと頭を垂れた。
そして榠樝は輿に乗り、大極殿へと向かう。
大極殿の中央の高御座に向かって、榠樝はゆっくりと歩いて行く。
一歩ずつ。一歩ずつ。
玉座への道を踏み締めて。
そしてゆっくりと。
榠樝は高御座に座すと、朱唇を開く。
澄んだ声が大極殿に響く。
「天と地、そして龍神の導きのもと、永久に虹霓国を守り繫栄させん」
しゃらんと鈴の音のような音が聴こえた気がした。
神威。
ふわり、と半ば透けた様子の龍が現れる。
それはゆっくりと高御座を回り、人々の頭上を泳ぎ、空へと昇った。
摂政蘇芳深雪が跪き、右大臣以下皆が跪く。
「お慶び申し上げます」
その時、空に虹が掛かった。
再びの瑞兆に、民は大いに沸いたという。
都の各地で人々が喜び舞い踊る。
儀式に招かれていた五雲国の大使は興奮のあまり卒倒したとか、誰それは虹霓国の霊験を伝えるべく文を書き殴っただとか。
とにかく凄まじい昂奮の度合いであった。
大極殿、高御座。
今は楽の演奏が一区切りつき、次の舞の準備だ。
楽も舞も、龍神に奉納する荘厳なものから、段々と賑やかに楽し気に、人々の為のものへと移っていく。
さて。
いつまでここで微笑んで居れば良いのやら。
新たな時代の訪れを喜び、寿ぎ、皆が楽し気に笑っている。
段々と無礼講になりつつある目の前の状況に榠樝は目を細めた。
婿がねたちがどうにかこうにか榠樝の晴れ姿を一目見ようと、列の端々から顔を出したり引っ込めたり。
何をやっているのやら。
声を出して笑いたいのを堪える。
「しかし、どこが暫しだ。日が暮れる」
ぼそりと呟いて、榠樝は顔に微苦笑を張り付けたままそっと瞼を伏せた。
そしてそれから数日間、榠樝は儀式に追われることとなる。




