十
五雲国への親書はできた。
またしても榠樝は書かせてもらえなかった。が、代わりに摂政蘇芳深雪が心を込めて認めてくれた。
菱雪渓に親書を託し、今度も左大将蘇芳銀河が南の大宰府まで送って行くという。
今度は自分が行きたいと言った藤黄南天は血の気が多過ぎるので銀河に素気無く却下された。
「どうにかこうにか、纏まると良いが」
榠樝の呟きに深雪が吐息する。
「五雲国の王も協力してくれるのでしょう?」
「説得はしたが、聞いてくれるかはまだわからぬ、と言ったぞ」
「しかし女東宮。彼の王に求婚されたなどと大事なことは先に仰って頂かなくては困ります」
「それは、その、すまなかった」
「婿がねの対応と申しますか、処遇についても考え直さねばならぬ事案ですぞ」
榠樝はこめかみをぐりぐりと揉み解した。
「一切考えたくない気持ちとそれではいけないと思う気持ちとが鬩ぎ合っていてな」
「お気持ちお察し致します。ですが考えて頂かなくては困ります」
「わかっておる」
咳払いし、榠樝は居住まいを正した。
「五雲国に嫁ぐ気は無い。私を措いて虹霓国次期女王は居ない」
「その通りでございます。どのような条件であっても、女東宮が五雲国へ嫁がれることはございません。ですが、」
深雪は深く溜息を吐いた。
「然るべき対応を以て、五雲国側が婿を送ってきた場合に於いては、その限りでは御座いません」
「そこなのだ」
榠樝は頭を抱えた。
「秋霜が……ああ、五雲国の王が玄秋霜というのだがな、あやつが正式な手続きを踏んで求婚して来るなら考えないでもないという風なことをな」
深雪が眉間に深く皺を寄せる。
「仰いましたか」
「似たようなことはな。だが、まさか王の座を捨てて婿に来る筈もあるまいよ。私は虹霓国の次期女王として国を離れることは無いと明言した。そこは大丈夫だ」
「わかりませぬぞ。恋に狂った男は何をしでかすかわからぬものです」
榠樝は思わず驚いて身を乗り出した。
「……覚えが有るのか」
「一般論にございます」
榠樝は溜め息を吐いてずるりと姿勢を崩した。
「恋とは恐ろしいものだな、摂政。誰を彼をも狂わせる。脳の病か。まったく……」
深雪は少しばかり苦笑した。
「女東宮に覚えはございませぬか」
「無いな。無くていい。婚姻なぞ政治上の一手に過ぎぬ。それでいい」
疲れたような、枯れたような。そんな様子の榠樝に、深雪は目を細める。
「そのような時代もございましたな」
「そなたにもか」
「はい」
榠樝は少し悪戯めいた表情で水を向ける。
「自分に向けられるものでなければ、恋の話は嫌いではない。聞かせてくれるか」
いいえ、と深雪は首を振る。
「墓場まで持って行く所存です」
「そうか。残念だ」
風がふわりと一片雪を運んでくる。
花弁のようだ。
「大変な一年でございましたな」
深雪が目を細めた。
榠樝が頷く。
「まだまだこれからが大変だ。大いに働いてくれ」
「御意。差し当たっては正月の儀式の準備と婿がねの処遇を諮らねばなりませぬな」
「宜しく頼む」
飛香舎に戻るとその婿がねたちが集合していた。
「来るとは思ったが、全員か」
榠樝が苦笑して眉を下げた。
菖蒲紫雲英、蘇芳紅雨、縹笹百合、藤黄茅花、月白虎杖、黒鳶花時。
ここでこうして全員揃うのは初めてではないだろうか。
屛障具を押し遣って、皆が並んで座っている。
各々が複雑な表情をしているのが見えて。
榠樝は少しばかり気まずそうな様子で席に着いた。
「話は聞いたであろう。そなたらのいずれかを婿に迎えるという話は、白紙に戻るやもしれぬ。五雲国の出方次第だがな」
「納得いきませぬ」
紅雨が口火を切った。
「同盟の為とは言え、貴方を人柱に立てるなど、断じて受け入れる訳には参りません」
「そも、同盟が成るかどうかはまだわからぬ。向こうの出方次第だ」
「でも女東宮、同盟の条件として向こうの王族が婿入りしてくるなら、受け入れるかもしれないんでしょう?」
茅花の台詞に榠樝は束の間迷った。
「あー、それなのだがな……まず、無いと思って……いや、わからんが……うーん……」
歯切れの悪い榠樝に紫雲英が単刀直入に切り込んだ。
「何を隠しておられる」
榠樝の顔が引き攣った。
「容赦無いな、紫雲英。断定か」
「何か言い難いことを隠しておいででしょう。お教え願おう」
「紫雲英どの、きつい物言いをしては榠樝さまが困ってしまわれます」
笹百合がさりげなく庇ってくれるが、紫雲英は一切躊躇しなかった。
「遠慮は無用と常日頃仰っておられるのだ。今更歯に衣着せてもどうかと思う」
榠樝は気まずげに檜扇を開く。
「そんなに隠したいのか」
眉を寄せる紫雲英に、榠樝は溜め息を吐く。
「乙女の恥じらいという奴だ。そなたにはわからんだろうが」
「全くわからぬ」
「そういう奴だそなたは。はー。もう、仕方ない。いずれ発覚る。白状しよう」
榠樝はこほんと一つ咳払いをし、檜扇を畳む。
「五雲国の王、玄秋霜に求婚された。あれは私を好いているので、他の男を送り込んでくることはまず無いと思う」
一瞬場が静まり返る。
「そう何回も会った訳ではないし、人となりを理解しているわけでも無いので希望的観測だが、そういう訳だ」
花時が真っ青な顔で笏を落とした。
虎杖が不審そうな顔で首を傾げる。
「お会いになられた……?」
「ああ、そこからだな。説明が足りなかった。すまぬ。玄秋霜は夢渡の法とかいう術で夢を渡って会いに来た。何度かな。身分を明かしたのはこの前が初めてだが、」
「お会いに、なられたのですか?夢で?二人きりで?」
榠樝の台詞を遮り、紅雨が震える声で問い掛ける。
というより詰問する。
「う、うん」
気圧されて仰け反る榠樝を追い詰めるように、紅雨が一歩膝を進め、紫雲英が止める。
「無体なことなどされなかっただろうな」
「……うん。まあ、その、大丈夫だ」
紫雲英の眉根が一気に寄った。
「何をされた」
「いや、あの、はは……大したことは、されてな、」
「榠樝さま」
笹百合も膝を進める。
「か、堅香子、山桜桃!助けよ!」
二人がさっと榠樝の前に座り、壁となった。
「ですが榠樝さま、何かされたのですね?」
「まさかお手に触れるとか、御髪に……などと仰られませんよね?」
榠樝の顔がどんどん赤くなる。
この場でまさか、抱き締められた上に接吻されたなどと言えるはずがない。
「榠樝さま?!」
榠樝は袖で顔を覆って突っ伏した。
「居た堪れぬから止めてくれ」
蚊の鳴くような細い声。
笹百合が真っ青を通り越して白い顔でゆらりと上体を傾がせた。倒れそうだ。
茅花がハッと顔を上げる。
「まさか契りを交わし、」
「それはないから!!」
茅花の台詞に被せるように榠樝が叫んだ。
「恥ずかしいから!言わせないで!」
でも恥ずかしいことはされたんだ……。
その場の全員が五雲国王に殺意を抱いた。