八
飛香舎。
榠樝は香を焚き、心を落ち着けようと試みていた。
こういう時には黒方だろう。
冬を代表する香りでもある。
それに黒方は特に沈香が多く配合されている。
沈香は心を落ち着かせ、空気を浄化するとも言われる。
「ちっとも落ち着かぬがな!」
深く息を吸うと、深い甘みがじわりと染みる。
伽羅、沈香、薫陸、白檀、丁子、甲香、そして麝香。絶妙な配合で構成された、黒方の香り。
深い静寂や秋の夜風のような冷たさや、芳醇で異国情緒のある深み。
ゆっくりと変化する、甘さと苦さの入り混じった揺らぎ。
榠樝は目を閉じた。
冬は遠くの音がよく聞こえる気がする。
衣擦れの音、ぱたぱたとした足音、梟だろうか、鳥の声、風の音。
火桶の奥で炭がぱちりと微かに爆ぜた。
ゆっくりと自分の内側に落ちていく感覚。心を研ぎ澄ませる。
曇りなき鏡のように、映し出す。
自分の望み。願い。
きっと今、文を送った誰もが考えているだろう。
明日、どのような答えを出すのかを。
榠樝は薄く目を開く。
火桶の火の色が一際強く、明るく見えた。
光そのもののようだった。
摂政、蘇芳深雪が力を貸してくれると言ってくれた。
ならばもう、怖いことはない。その筈だ。
だって、深雪は虹霓国で一番、国を思っている人だから。
榠樝も国を思う気持ちは強くある。
けれどきっと深雪の思いの深さと重さとには敵わない。
それは積み重ねて来た時間の分。
それでも。
榠樝は虹霓国の女東宮なのだ。
父上、母上。力を貸して。
私を支えて。
私がこの国を守るから。
その為の力を貸して。
私が絶対に守るから。
婿がねたちにも文を書いた。
力を貸してほしいと。
これから先の虹霓国を支えるのは、次代の彼らだ。
今の危機を乗り越えてその先、また幾つもの難題が降り掛かるだろう。
なんとしても守り、次へ繋げなければならない。
菖蒲紫雲英、蘇芳紅雨、縹笹百合、藤黄茅花、月白虎杖、黒鳶花時。
次代の六家を支える者たち。
伝統を重んじ、教養や学問に秀でた菖蒲家。
政治的知略に長け、外交手腕に優れた蘇芳家。
芸術に秀で、詩歌や舞などを通じて影響力を持つ縹家。
武勇に優れ、勇猛果敢な武将を排出した藤黄家。
財力に長け商才に優れ、経済的な影響力の強い月白家。
誠実を重んじ、風格と礼節を守り続ける黒鳶家。
いずれが欠けても虹霓国は成り立たない。
そして六家に属さずとも、忠義を尽くし、苦境に屈することなく支えてくれる多くの者たち。
虹霓国に生きるすべての民。
皆、みんな、守って見せる。
榠樝は長く息を吐いた。
そういえば聞くのを忘れていた。
玄秋霜。彼は、或いは五雲国は。
本当に父王を呪詛し、死に至らしめたのだろうか。
月白凍星は棕晨星と父王からも直に聞いたというけれど。
彼が行ったのか、彼の兄である前五雲国王が行ったのか。
そこだけははっきりさせておくべきだったかもしれない。
同盟を組むにあたって、その事実が明るみに出れば、そのような国との同盟など到底受け入れられないだろう。
しかし属国たるを退け、強気で同盟を申し入れる他、戦を防ぐ手立ては無いだろう。
榠樝はまた、唸った。
「結局落ち着かぬわ」
がしがしと髪を掻き上げ、榠樝はそっと外へ出た。
冷たい空気が肌を刺す。ぴりりと気が引き締まった。
直接的にではなくとも、父王を殺したのは五雲国からの力で。
その仇と手を組まなくてはならないのは、無論はらわた煮えくりかえる思いで。
それでも冷静に虹霓国の利益を考えられる部分があるのだな、と榠樝は他人事のように思った。
仮に同盟が成らなかったとして、或いは成ったとしても裏切られるとして。
それでもある程度の時間は稼ぐことができる。
ならば上々。
一時的であっても五雲国からの攻撃は無い。
その間に更に虹霓国の力を増す。見せ掛けだけでもいい。敵に回すよりも味方に引き入れた方が得だと思わせる何かを探し出す。
玄秋霜を、完全に味方に引き入れることも考えている。
彼は榠樝への想いがあると確かに口にした。
ならば手練手管を使って篭絡して、榠樝の思う通りに動いてもらう。
「………もう十年くらい経たないと無理かしら」
女性としての魅力だとか、悪女らしい振る舞いだとか。
身に付けるにしても今すぐは無理だ。
そして、そういう手段を考えるということは。
榠樝は睫毛を伏せた。
誰も婿に迎える訳にはいかなくなった。
力を貸してほしい。
だが、誰も婿には迎えない。
そんな都合の良い話があって堪るか。
或いは双方に嘘を吐く。
婿に迎えると嘘を吐き、六家を繋ぎ止める。
后になる道も無くはないと嘘を吐き、五雲国を繋ぎ止める。
「悪女だな」
十四の小娘には荷が勝ち過ぎる。
こんな時こそ龍神様の加護があり、すべてが上手く運ばないだろうか。
空を仰いでも虹は無い。
当たり前だ。
どれほど珍しい光景なのか誰でも知っている。
月虹、或いは白虹。
幸せを招く、最高の祝福を意味する。
もしくは大きな変化の前触れとも言われている。
「こんな雪の降る夜に、虹が見える筈もない」
榠樝はそっと中へと戻った。
黒方の香りは柔らかく揺蕩っている。
余韻が続く琴の音のよう。
榠樝は御帳台に入り、衣ごと褥を引き被った。
意地でも眠らないと明日に障る。
今夜は出て来ないでくれと、届く訳も無いのに秋霜に念を送って。
榠樝はゆっくりと目を閉じた。