一
「月白凍星を止めたい。その為に考えたことを言う」
榠樝は堅香子の耳に口を寄せ、小さく囁いた。
誰に聞かれてもまずい。
漏らすわけにはいかない。
女東宮がするべきことと正反対とも言えるだろうからだ。
凍星が全責任を負って自害するだろうことは文から察せられた。
忠義や名誉を守る為の決意の表れであり、当然の帰結のように見える。
だが榠樝はそれを阻むつもりだ。
「今後の責任を果たさせるため、凍星には生きていてもらわなくてはならない」
生きて贖罪の道を歩み、今後も虹霓国に尽くしてもらう。
その為には今回のことを秘密裏に処理しなくてはならない。
摂政、蘇芳深雪にさえ、知られてはならない。
これは国を裏切る行為であり、してはならぬことだ。
「だから。すべて隠蔽する。六家の月白当主として、大納言として。六家の一角を欠かすわけにはいかない」
堅香子が弾かれたように榠樝を見た。そして揺るがぬ眸に圧倒される。
「反論は後で聞く。今は黙って聞いて」
榠樝の声は震えていた。無理もない。
「明らかにすればどうしたって月白家を罰さなくてはならない。でもこの非常時に、六家の一角を滅ぼすわけにはいかない。五雲国との対決に一丸とならねばならぬ時に、味方の力を削ぐなんて愚行は冒せない。仮に当主交代で済ませても、虎杖では今の重責に耐えられない」
それに、と榠樝は取ってつけたように言う。実際今思い付いたのだろう。
「五雲国の事情を多少なりとも把握している人物が味方に居た方が良いに決まってる」
「ですが榠樝さま」
「まだ続きはある。寛容さを示し私の株を押し上げる。そして今後、凍星に重要な役目を負わせて逃げられなくもする。五雲国との対峙で表に立ってもらうとかね。恩を売るのよ」
「ですが、浅沙と棕晨星はどうなさるのです」
「生きて働かせる。これからの生を虹霓国の為に尽くしてもらう」
「甘過ぎますわ」
堅香子が、彼女にしては珍しく芯から怒りの炎が燃えている。
少しまずいな、と榠樝は思った。
堅香子は忠義故に榠樝に過剰な保護者意識がある。
何からも守ろうという気概に満ちている。
「浅沙は島流しにでも致しませ。仮にも女東宮に毒を盛った者が内裏に残るなどあり得ませぬ」
「謹慎で何とか」
「何故そこまで甘いのですか!」
「私情を挟む。月白六花の叔母だから。母上が居ない以上、血の繋がった叔母は特別に思うでしょう。六花からそれを取り上げるの?」
幼かったあの頃の自分を重ねているのか。
母を亡くし、心細く寂しく、いつも泣いていた幼子の頃を。
堅香子は榠樝の肩を掴んだ。
「罪人でございますよ。過剰な思い入れはおやめくださいまし」
「わかった上で言ってる。女東宮なら許せない。赦してはならない。虹霓国の秩序の為に。でも、榠樝なら。ただの榠樝なら許してもいい。だって私、今生きてるし」
少し青褪めて震えている、必死な表情。今にも割れそうな薄氷のようだ。
壊せない。
割ってはならない。
堅香子はがっくりと項垂れて榠樝の肩に額を埋めた。
どうしたって、こちらが折れるしかないではないか。
「榠樝さま……ほんっっっとうにどうしようもなく甘過ぎなのですわ」
榠樝は少し苦く笑った。
「誰にも死んでほしくない。甘っちょろいし、世の中舐めてるし、摂政にはきっとめちゃくちゃ怒られる。だから内緒にしておいて」
「前王をも死に至らしめた者を許すなど、亡き父上様が何と仰るでしょう」
堅香子の最後の抵抗に、榠樝は笑った。
「父上も同じことすると思うわね。生かした方が得なのよ。損得で考えるのよ。感情はこのさい無視してもいい」
堅香子は深く長く溜息を吐く。似たもの親子だ。
私情を挟むと言い、感情は無視しても良いと言い。矛盾だらけ。
女東宮が許さぬことを榠樝が許す。
榠樝が許せぬことを女東宮が許す。
そう自分に言い聞かせでもしなければ、やっていられないだろう。
「ともかく、早く手を打たないと凍星が自ら命を断ち兼ねない。だから明日早々に凍星を飛香舎に呼んで。話をする」
堅香子は額を押さえ、呻く。
明日とは。
性急に過ぎる。
「本当に榠樝さま、めちゃくちゃ仰いますわね。多少の矛盾は勢いで押し切ろうとなさってますでしょう」
「堅香子にだからよ」
相手が堅香子でなければこんなことは言い出さない。
相談もしない。
けれど堅香子ならば、共に背負ってくれるだろう。
だって腹心の女房で、誰よりも榠樝に近しく、また誰よりも榠樝を理解してくれている。
そう信じている。
乗せられてやろう、と堅香子は思った。そのくらい嬉しい言葉だった。
堅香子は居住まいを正し、榠樝の前に額づいた。
「そのお言葉に免じて、今回はお聞き致します。取り敢えず、明日凍星どのを召喚するという所のみですが」
「後は?」
少しばかり不安げな榠樝に、堅香子はそっと目を細めた。
「向こうの出方次第ですわね」
さて、と榠樝は冊子を捲り、何事かを付け足し、そしてまた別の冊子に手を伸ばし、と目まぐるしく手を動かしている。
手元の紙は書き込み過ぎて真っ黒だ。
堅香子が苦笑して角盥を持って来た。
「そのように書き込み過ぎてはお手が汚れますよ」
「んー。何とか一枚に纏めたいのよね」
「何故でございます?」
「覚えきれないから」
「はい?」
榠樝は角盥に手布を浸し、固く絞ると墨で汚れてしまった手を拭う。
そのまま手布を弄びながら、小首を傾げた。
「何て言ったらいいのかしら、こう、貴方には負けないわという宣言をね。格好良く決めたいじゃない」
堅香子は目を瞬いた。意味が分からない。
ただ、明日の凍星との面会のことではないとみえる。
なんとなく嫌な予感がした。
「それは一体どなたに向けてなのでございます?」
恐る恐る問う堅香子に、榠樝は歯を見せて笑った。
「誰とも知れない私の夏彦。またの名を麝香の君」
ガッタンと何かが落ちる音がした。
堅香子ばかりか山桜桃も飛んで来て問い詰める。
「どなたです!存じませんわ!あの麝香はやはり殿方のものでしたのね?!」
「私たちの目を盗んで榠樝さまの元へ通うだなんて、命知らずですわね、目にもの見せてやりますわ!」
鼻息荒く腕まくりする二人に榠樝は苦笑して訂正する。
「大丈夫。現の人では無いから。夢でしか会ってないし」
二人はきょとんとしたまま固まっている。
確かに意味はわからないよな、と榠樝は思った。
夢の中でしか会えない男。
名を名乗らないその人。
確か夢渡の法だとか言っていた。
五雲国の王は夢を渡る術を持つ。
月白凍星が棕晨星に聞いたこと。
まさかあの男が。
夏彦が五雲国の王だとは。
榠樝は唇の片端だけを上げ、皮肉な笑みを浮かべた。
文に書かれていたことを総合するとそうとしか思えない。
だが、思い返してみれば然もありなんということばかり。
最初から榠樝を狙って来たのだろう。小娘など篭絡するに容易いと思われたのだろうか。
だとしたら後悔させて遣らねばならない。
「気合で呼び出し、今度こそ万全の態勢で迎え撃つ」
雄々しく仁王立ちし、息巻いている榠樝に何とも不思議そうな顔をして。
堅香子と山桜桃は揃って首を傾げる。
万寿麿と共に御帳台に入ったからだろうか。
夏彦は現れなかった。




