六
飛香舎。堅香子と杜鵑花はことの次第を榠樝に報告した。
「どうも棕晨星どのは穏やかーで優しい老人のようにしか見えませんでしたわ。ただ、人の悩みを聞くことがお上手であるような印象を受けました。福徳なんとやらは人の心の奥にまで至ることのできる者のみが作れるのですって」
「女東宮は棕先生の何が気になられるのですか?」
杜鵑花の問いに、榠樝は小首を傾げる。
「何となく、引っ掛かるとしか言いようがないのがなんとも……」
檜扇を弄び、榠樝は眉を寄せる。
「ただ、腕のいい薬師が居たから、病弱な息子の為にわざわざ南の大宰府から連れて来ただけなのかもしれないけれど」
それだけなのかもしれないけれど。
それだけであってほしいけれど。
榠樝は小首を傾げるのだ。
「何が引っ掛かるのかしら」
自分で自分がわからない。
悩んでしまった榠樝のもとへ浅沙が参上した。
「女東宮、餅菓子をお持ち致しました」
堅香子が眉を跳ね上げる。
本当に、いつも見計らったかのように現れる。嫌な女だ。
榠樝の顔が輝いた。
「おお、いつも済まぬ。ありがたい。丁度行き詰っていた所だ。堅香子、茶を」
「畏まりました」
きれいに頭を垂れて礼をして、堅香子は敢えて浅沙に視線を遣らずに茶を淹れに行った。
「相変わらず仲が悪いのだな、そなたら」
「私の方はなんとも。ですが何故か堅香子どのに嫌われておりますので」
杜鵑花も浅沙と軽く挨拶を交わす。
「ところで女東宮、月白家の薬師のもとへお使いを出されたとか耳に致しましたが」
「耳聡いな」
榠樝は流石に苦笑する。
「一体どこで耳に入れてくるのだ?毎回毎回凄いな浅沙は」
「掌侍でございますので」
少しばかり得意げな浅沙に榠樝は苦笑を深めた。
「掌侍関係なくないか?しかし仕事ができる者は、何事にも早耳ということか」
「茶をお持ち致しました」
堅香子がそっと榠樝の前に茶碗を置く。
銀器故に微温湯程度に冷ましてある。
「では頂こう。ああ、これ。好きなのだ。知っていたのか?」
桂皮の粉が塗してある「てんせい」。
香ばしい香りが好みだ。
浅沙は黙って頭を垂れた。
堅香子が唇を噛む。
榠樝の好みなら、自分の方が把握しているのに。
「明日か明後日には蘇をお持ちできると存じます」
榠樝の顔が輝く。
牛乳を濃縮して粥状にしたものを酪。
酪を更に濃縮して乾酪のようにしたものを蘇と言った。
そして蘇を更に加工して出来た濃厚な液体を醍醐と言い、最後にして最上の美味であるとされる。
「蘇も好きだ」
にこにことご機嫌な榠樝と、悔し気な堅香子とを見比べ、杜鵑花はそっと溜め息を吐いた。胃が痛い。
きっと浅沙はわかってやっている。
「何故に月白の薬師に興味を持たれましたのか、不思議に思いまして」
堅香子がキッと浅沙を睨み付ける。
「女東宮のお考えに異議がございますの?!」
サクサクと餅菓子を齧りながら榠樝が苦笑した。
何もそこまで噛みつかなくても良いだろうに。
浅沙は苦笑して頭を振る。
「典薬寮で賄えぬことがおありなのかと思いましただけ」
「いやなに。典薬寮の医官でも作れぬ薬を作る薬師が居ると聞いて興味が湧いただけだ」
「然様でございましたか。どこもお悪くないのなら、安堵致しました」
温い茶をこくこくと飲み干し、榠樝は頷く。
「私は健康であらねばならないからな」
「よく食べ、よく学び、よく遊ぶ。健康を保つには休息を取ることも大切と、どうぞお忘れなきようにお願い致します」
杜鵑花の苦言に榠樝は軽く苦笑した。
「気を付ける」
浅沙は自分の局に帰ると早速紙に何かを書き付け始めた。
さらさらと筆が動き、見聞きした榠樝の動静を備に記していく。
墨が乾くと、それを手早く畳み始めた。
正式な報告書のように立て文で。
書状を礼紙で包み、更に白紙の包み紙で縦に包む。その包み紙の上下を裏側に折るという正式で儀礼的な書状の包み方である。
普通女君が文を出す時には結び文が多い。巻き畳み、その両端を捻り結び、封印として墨を引いた形。略式で恋文などに使われることが多かった。
浅沙は女童に文を託すと「いつものように」と言い添えて背中を押した。
女童は頷いて足早にその場を去る。
浅沙はその背を見送り小さく呟いた。
「姉上……。四郎君は私がお守りします」
その眸には決意が炎のように揺れている。
何もかもを焼き尽くさんとする劫火のようだ。
女童の向かう先は太政官。律令制における最高国家機関である。
左右大臣が実質的な長官としての役割を担った。事務局として少納言局と左右弁官局が附属する。
現在左大臣は置いていないので、右大臣菖蒲紫苑が筆頭である。その下に納言、弁官らが忙しく立ち回っている場所だ。
女童が軽々しく立ち入るような場所では無いのだが、誰も気に止めはしない。
いつものことだからだ。
女童は当然のように他の文遣い童と同じように振舞い、同じように人々の間を縫って、目的の人物の所まで走っていく。
「月白大納言様」
女童が文を差し出し、月白凍星が無造作に受け取る。
いつもの遣り取り。
ぺこりと一礼し、女童は去る。
それに続いて別の文遣い童が文を差し出す。
それをまた無造作に受け取る凍星。
彼方此方で似たような光景が繰り広げられていた。
各部署からここへ、毎日毎時、数多の報告書が届く。
何しろここは国家の最高機関なのだ。
幾つかの報告書に目を通し、凍星はその内の一つを持って右大臣に差し出した。
「右大臣さま」
菖蒲紫苑はちらと流し目を寄越し、筆を滑らせながら答える。
「そこへ」
書状を筥へ恭しく置き、凍星は席に戻った。
浅沙の文は他の報告書に紛れ、もはや凍星以外には誰の目にも区別はつかなかった。
幾つか書状を認め、弁官を呼びそれを託し、もう幾つかは文遣い童に託した。
そして浅沙の文を含めた幾つかの文を懐に入れ、凍星は席を立つ。
「すぐ戻る」
「承知仕りました」
弁官が畏まり、凍星は朱雀門を目指して歩き出した。
特に誰も気にも留めない、いつも通りの光景だ。
ここでは誰もが忙しなく行き交っている。