五
月白邸。
物思いに耽る当主凍星の前に縹家当主苧環が現れる。
確かに従者が先触れを告げていたが、本当に来るとは。
凍星は少し目を細め、懐かしい友人を見た。
「何年振りだろうな。お前がここに来るのは」
苧環はひょいと肩を竦めて、酒の入った朱塗りの瓶子を揺らして見せる。
「さて、何年ぶりだろうね。仕事以外で君とこうして会うのは」
苧環は凍星の隣に腰を下ろし、微笑む。
「月味酒といかないかい」
相変わらず美しい男だな、と凍星は苧環をしげしげと見詰めた。
「見蕩れた?」
「抜かせ」
揶揄う様子の苧環に、凍星は少しだけ気まずげに酒を呷る。
図星だ。
「良い月夜だ。ずっと、見ていたくなる」
澄んだ夜空に静かに浮かぶ月は、よく磨いた銀の鏡のように見える。
見上げているこちらの顔が映るのではないかと思えるくらいだ。
秋の月は格別の美しさがある。
「ああ。そうだな」
友人の横顔を盗み見、苧環はそっと月へと視線を戻した。
「月にはこの世を去った者たちが居て、こちらを見ているのだそうだね」
凍星が呟く。
「知左も月に居るのだろうか」
「居るかもしれないね」
知左。凍星の側妾であった女性。六花の母親。
そして凍星と苧環と、幼馴染でもあった。
苧環の乳母子に当たる。
所謂乳兄妹だ。
凍星の乳母と苧環の乳母は姉妹であり、よく行き来していた縁で、幼い三人は当然のように仲良くなった。
それから幾年月を経ただろう。
三人はいつの間にか大人になった。
凍星と知左は恋に落ち、子をもうけた。
そんな幸せな時間は瞬く間に過ぎて。
「皆、月に行ってしまった」
凍星の乳母も、苧環の乳母も、知左も。
「私たちも年を取ったね」
「お前が言うと嫌味にしか聞こえん」
苧環は二十年前から、殆ど容姿が変わっていない気がする。
ただ艶が増した。
「男に言う台詞ではないが、お前は美しいな。年を取らぬように見える」
「私も老けたよ。腰も痛い年頃だ」
苧環が笑い、凍星も笑った。
涼やかな風が穏やかに木々の葉を揺らし、通り過ぎていく。
「女東宮が月白を気にしているようだが」
ぴくりと凍星の指が引き攣った。
「何か困ったことがあったら、言いなさい。力になるから」
酒をぐいと呷り、凍星は首を振る。
「何も無いさ」
苧環は目を細める。
「君の癖。直って無いよ。困ると右の頬が引き攣る」
「見て見ぬふりをしろ。そういう時は」
「五雲国の薬師かい?」
「忽ち正鵠を射るな、お前は」
嫌そうに顔を顰める凍星に、苧環は苦笑する。
「そう。女東宮の使いの者がうちの薬師に会いたいそうだ。女房と医官を遣っても良いかと文が来た」
「探られれば痛い腹かな?」
「そういうことを聞くな。わかっているのに敢えて聞くのはお前の悪い癖だぞ苧環。もう、私は誰を信用し、誰を疑えばいいのかすらわからんというのに」
凍星は無造作に視線を投げた。
「無理をするなよ、我が友」
真っ向から視線を受け止め、苧環は言う。
凍星は少しばかり泣きそうに笑った。
「お前は深入りするな。自分が何処に立っているのかすらわからなくなるぞ」
ひらりと袖を振って苧環は表情を改めた。
「六花の病、良くないのかい?」
「いや、福徳延寿丸という薬を調合してもらって、今はもう元気だ。その筈だ。このまま薬を飲み続ければ、いずれは健康になれると薬師も言っている」
ただ、その見返りに望まれている対価が高いだけ。
凍星は酒を呷った。
「王が」
「ん?」
「前王が今の私たちを見たら、何と言うかな」
「お前たち、相変わらずまだるっこしいことをやっているな、と仰るだろうね」
「違いない」
凍星がふ、と吐息した。口遊むのは漢詩。
「秋風庭樹に鳴り、紅葉故友に散る。杯酒再び酌みて語り、共に憶う往時の遊びを」
秋の風が庭の木々を鳴らしていく。紅葉が、今は離れてしまった友人に向かって散っていくように感じられる。杯に酒を注ぎ、再び共に酌み交わしながら語り合い、共に過ぎ去った昔遊んだ頃を思い出す。
続いて苧環が詠む。
「秋風故里を吹き、孤雁影を相尋ぬ。遠道山水を隔て、夢中旧音を問う」
秋風が懐かしい故郷に吹いている。一羽の孤独な雁が影を追いながら飛んでいる。遠い道程には山と川が隔たり、友と会うことはできない。夢の中で友の声を尋ね求める。
知左も、前王も、乳母たちも、皆が去った。
あの頃には戻れない。
「この年になると、昔がしみじみ懐かしく感じられる」
「老いたね」
「お互いにな」
二人は苦笑して、月に献杯し、酒を干した。
「せめて子供たちは、穏やかに生きて欲しいのだが」
「そうだね。あの子たちの時代は、過ごし易いといい」
銀の鏡のような月は無表情に輝いている。
「その為にも、私たちが頑張らねばならぬのだな……」
吐息のような凍星の呟きに、苧環は軽く肩を叩いて慰めた。
棕晨星は老齢の薬師だ。
白髪混じりの長い髪を束ね、穏やかな笑顔を絶やさない。
目元には深い皺が刻まれ、優しさと知恵とを感じさせる。
きっと誰もが心を許してしまうだろう柔らかさがあった。
「棕晨星と申します。この度はわたくしに何か御用とお聞き致しましたが、何事でございましょうか?」
穏やかで落ち着いた風貌の老人に、堅香子は少し肩の力を抜いた。
「柳堅香子と申します。女東宮のお使いで参りました」
堅香子の母は藤黄本家の出だが、父親は中流貴族柳家の者だ。
普段は藤黄の者として扱われる堅香子だが、正式には柳の姓を名乗る。
「お久しゅうございます、棕先生。山鳩杜鵑花にございます」
優しい笑みが深くなる。
「これはこれは、杜鵑花どの。お久しゅうございます。お変わりありませんかな?」
「はい。おかげさまで日々健やかに過ごしております。本日参りましたのは、女東宮が福徳延寿丸に興味を持たれましたので、そのことです」
うん、うん、と棕晨星は頷いた。
「女東宮のお耳にまでも届くとは、福徳延寿丸も有名になったのですな」
感慨深く頷く棕晨星に、堅香子が肩を竦める。
「有名なのは貴方でございましてよ、棕晨星どの」
「はて、それはどういうことでございましょうか」
「六花どのの主治医でいらっしゃるのでしょう?福徳なんとやらが女東宮のお耳にまで届き、それを調合できるという貴方のことに、甚く興味を示されました」
「畏れ多いことでございます」
堅香子は檜扇を広げる。
「つきましては、その処方を記した書物、拝見することは叶いませんかしら」
棕晨星は目をぱちぱちと瞬いた。
「それは、申し訳ありませぬが、お見せすること叶いませぬ。秘伝でございます故」
「まあ、そうでしょうね。杜鵑花どのも見せて貰えなかったという話ですものね」
杜鵑花が頷き、棕晨星は目を細めた。
「福徳延寿丸は、奥義とも極意とも言わしめる薬にございますれば、ただ薬のみに精通しておればよいという訳には参りませぬ。人々の心の奥底にまで至れねば、福徳延寿丸の製法、お教えすることできませぬ」
杜鵑花が感銘を受けたように深く頭を垂れた。
堅香子が檜扇の向こう側から目を細める。
「貴方はそこに至れたのでしょう」
棕晨星はそっと頷く。
「わたくしもまだまだ未熟でございますが、どうやらその裾野に触れることが叶うたと、我が師がお認めくださいました。それ以来、精進して参りました。そのことが若君さまをお助けすることに繋がり、ありがたいことに存じます」
穏やかで落ち着いた老薬師。
今はそれ以上のことはわからない。
堅香子はそっと目を眇めた。