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虹霓国の女東宮  作者: 浮田葉子
第六章 月白の闇
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 月白(つきしろ)邸。

 物思いに(ふけ)る当主凍星(いてぼし)の前に(はなだ)家当主苧環(おだまき)が現れる。


 確かに従者が先触れを告げていたが、本当に来るとは。

 凍星は少し目を細め、懐かしい友人を見た。



「何年振りだろうな。お前がここに来るのは」



 苧環はひょいと肩を竦めて、酒の入った朱塗りの瓶子(へいし)を揺らして見せる。


「さて、何年ぶりだろうね。仕事以外で君とこうして会うのは」


 苧環は凍星の隣に腰を下ろし、微笑む。


「月味酒といかないかい」


 相変わらず美しい男だな、と凍星は苧環をしげしげと見詰めた。


「見蕩れた?」

「抜かせ」


 揶揄(からか)う様子の苧環に、凍星は少しだけ気まずげに酒を(あお)る。


 図星だ。



「良い月夜だ。ずっと、見ていたくなる」



 澄んだ夜空に静かに浮かぶ月は、よく磨いた銀の鏡のように見える。

 見上げているこちらの顔が映るのではないかと思えるくらいだ。


 秋の月は格別の美しさがある。


「ああ。そうだな」


 友人の横顔を盗み見、苧環はそっと月へと視線を戻した。


「月にはこの世を去った者たちが居て、こちらを見ているのだそうだね」


 凍星が呟く。


知左(ちさ)も月に居るのだろうか」

「居るかもしれないね」




 知左。凍星の側妾であった女性。六花の母親。

 そして凍星と苧環と、幼馴染でもあった。


 苧環の乳母子(めのとご)に当たる。

 所謂乳兄妹(ちきょうだい)だ。


 凍星の乳母と苧環の乳母は姉妹であり、よく行き来していた縁で、幼い三人は当然のように仲良くなった。


 それから幾年月を経ただろう。

 三人はいつの間にか大人になった。

 凍星と知左は恋に落ち、子をもうけた。

 そんな幸せな時間は瞬く間に過ぎて。




「皆、月に行ってしまった」


 凍星の乳母も、苧環の乳母も、知左も。


「私たちも年を取ったね」

「お前が言うと嫌味にしか聞こえん」


 苧環は二十年前から、殆ど容姿が変わっていない気がする。

 ただ艶が増した。


「男に言う台詞ではないが、お前は美しいな。年を取らぬように見える」

「私も老けたよ。腰も痛い年頃だ」


 苧環が笑い、凍星も笑った。



 涼やかな風が穏やかに木々の葉を揺らし、通り過ぎていく。


女東宮(にょとうぐう)が月白を気にしているようだが」


 ぴくりと凍星の指が引き攣った。


「何か困ったことがあったら、言いなさい。力になるから」


 酒をぐいと呷り、凍星は首を振る。


「何も無いさ」


 苧環は目を細める。


「君の癖。直って無いよ。困ると右の頬が引き攣る」

「見て見ぬふりをしろ。そういう時は」

「五雲国の薬師かい?」

(たちま)正鵠(せいこく)を射るな、お前は」


 嫌そうに顔を顰める凍星に、苧環は苦笑する。


「そう。女東宮の使いの者がうちの薬師に会いたいそうだ。女房と医官を遣っても良いかと(ふみ)が来た」


「探られれば痛い腹かな?」


「そういうことを聞くな。わかっているのに敢えて聞くのはお前の悪い癖だぞ苧環。もう、私は誰を信用し、誰を疑えばいいのかすらわからんというのに」


 凍星は無造作に視線を投げた。


「無理をするなよ、我が友」


 真っ向から視線を受け止め、苧環は言う。

 凍星は少しばかり泣きそうに笑った。


「お前は深入りするな。自分が何処に立っているのかすらわからなくなるぞ」


 ひらりと袖を振って苧環は表情を改めた。


「六花の病、良くないのかい?」


「いや、福徳延寿丸(ふくとくえんじゅがん)という薬を調合してもらって、今はもう元気だ。その筈だ。このまま薬を飲み続ければ、いずれは健康になれると薬師も言っている」



 ただ、その見返りに望まれている対価が高いだけ。



 凍星は酒を呷った。


「王が」

「ん?」


前王(さきのおう)が今の私たちを見たら、何と言うかな」

「お前たち、相変わらずまだるっこしいことをやっているな、と(おっしゃ)るだろうね」


「違いない」


 凍星がふ、と吐息した。口遊(くちずさ)むのは漢詩。


「秋風庭樹に鳴り、紅葉故友に散る。杯酒再び酌みて語り、共に憶う往時の遊びを」


 秋の風が庭の木々を鳴らしていく。紅葉が、今は離れてしまった友人に向かって散っていくように感じられる。杯に酒を注ぎ、再び共に酌み交わしながら語り合い、共に過ぎ去った昔遊んだ頃を思い出す。


 続いて苧環が詠む。


「秋風故里を吹き、孤雁影を相尋ぬ。遠道山水を隔て、夢中旧音を問う」


 秋風が懐かしい故郷に吹いている。一羽の孤独な雁が影を追いながら飛んでいる。遠い道程には山と川が隔たり、友と会うことはできない。夢の中で友の声を尋ね求める。




 知左も、前王も、乳母たちも、皆が去った。

 あの頃には戻れない。



「この年になると、昔がしみじみ懐かしく感じられる」


「老いたね」

「お互いにな」


 二人は苦笑して、月に献杯し、酒を干した。


「せめて子供たちは、穏やかに生きて欲しいのだが」

「そうだね。あの子たちの時代は、過ごし易いといい」


 銀の鏡のような月は無表情に輝いている。


「その為にも、私たちが頑張らねばならぬのだな……」


 吐息のような凍星の呟きに、苧環は軽く肩を叩いて慰めた。







 棕晨星(しゅしんせい)は老齢の薬師だ。

 白髪混じりの長い髪を束ね、穏やかな笑顔を絶やさない。

 目元には深い皺が刻まれ、優しさと知恵とを感じさせる。


 きっと誰もが心を許してしまうだろう柔らかさがあった。




「棕晨星と申します。この度はわたくしに何か御用とお聞き致しましたが、何事でございましょうか?」


 穏やかで落ち着いた風貌の老人に、堅香子は少し肩の力を抜いた。


柳堅香子(やなぎのかたかご)と申します。女東宮のお使いで参りました」


 堅香子の母は藤黄本家の出だが、父親は中流貴族柳家の者だ。

 普段は藤黄の者として扱われる堅香子だが、正式には柳の姓を名乗る。


「お久しゅうございます、棕先生。山鳩杜鵑花にございます」


 優しい笑みが深くなる。


「これはこれは、杜鵑花どの。お久しゅうございます。お変わりありませんかな?」


「はい。おかげさまで日々健やかに過ごしております。本日参りましたのは、女東宮が福徳延寿丸に興味を持たれましたので、そのことです」


 うん、うん、と棕晨星は頷いた。


「女東宮のお耳にまでも届くとは、福徳延寿丸も有名になったのですな」


 感慨深く頷く棕晨星に、堅香子が肩を竦める。



「有名なのは貴方でございましてよ、棕晨星どの」



「はて、それはどういうことでございましょうか」


「六花どのの主治医でいらっしゃるのでしょう?福徳なんとやらが女東宮のお耳にまで届き、それを調合できるという貴方のことに、(いた)く興味を示されました」


「畏れ多いことでございます」


 堅香子は檜扇を広げる。



「つきましては、その処方を記した書物、拝見することは叶いませんかしら」



 棕晨星は目をぱちぱちと瞬いた。


「それは、申し訳ありませぬが、お見せすること叶いませぬ。秘伝でございます(ゆえ)

「まあ、そうでしょうね。杜鵑花どのも見せて貰えなかったという話ですものね」


 杜鵑花が頷き、棕晨星は目を細めた。


「福徳延寿丸は、奥義とも極意とも言わしめる薬にございますれば、ただ薬のみに精通しておればよいという訳には参りませぬ。人々の心の奥底にまで至れねば、福徳延寿丸の製法、お教えすることできませぬ」


 杜鵑花が感銘を受けたように深く(こうべ)を垂れた。

 堅香子が檜扇の向こう側から目を細める。


「貴方はそこに至れたのでしょう」


 棕晨星はそっと頷く。


「わたくしもまだまだ未熟でございますが、どうやらその裾野に触れることが叶うたと、我が師がお認めくださいました。それ以来、精進して参りました。そのことが若君さまをお助けすることに繋がり、ありがたいことに存じます」



 穏やかで落ち着いた老薬師。

 今はそれ以上のことはわからない。


 堅香子はそっと目を(すが)めた。



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