三
縹邸の庭に降り、笹百合はすっかり色付いた楓の樹に額を寄せ、溜め息を吐いた。
「紅葉散り、君と過ごせし彼の日々は……今やは遠く、思ひ出のみぞ」
紅葉が散る頃に、貴方と過ごしたあの日々は、今や遠い昔のことのように感じられます。ただあの頃の思い出だけが残っております。
笑顔の可愛らしい女東宮榠樝。
幼い頃から知っている少女。
春に榠樝の婿がねの一人として選ばれた時は、こんな気持ちは全く無かったのに。
風が吹き、赤や黄色の葉が静かに散り始めていた。
木々の間には萩や薄が揺れ、囁くような音を立てて。
池に視線を遣れば月明りを映した水面が揺らめき、木々の影が踊って見える。
白菊の花が秋の終わりを告げるように、清らかに香って来て。
彼女にこの庭を見せたいと思う。
それどころか。
笹百合はぎゅっと瞼を閉じると頭を振って、思い浮かんだ考えを掻き消そうとした。
榠樝の涙を拭いたいと思った。
この腕に抱きたいと思ってしまった。
そんな邪な思いを自分が抱くとは。
しかもその相手は、敬い守るべき存在で。幼い頃から慈しんで来た榠樝で。
笹百合は婿がねの一人であるだけで、充分だった。
自分が競べに勝ち残り王配になるなど想像もしなかった筈なのに。
だというのに今日、初めて気付いた。
胸の中に滾る、譲りたくないという想いに。
榠樝を誰にも渡したくない。
「ああ、なんという……」
苦し気に寄せられた眉を、きつく閉じられた瞼を、震える睫毛を、月影が静かに照らしていた。
飛香舎。
日暮れて落ちて。
空は月が煌々と輝いている。
風の音と虫の音とが調和して、物悲しくも麗しい。
榠樝は階に腰掛けて、頬杖をついて月を見上げている。
ひどくぼんやりとした気分だ。
「ええい、虚けてる場合か!」
ぺしんと両頬を叩いて首を振るも、笹百合の面影が目裏から消えてくれない。
あんな表情の笹百合を始めて見た。
好かれているとは思っていた。ただ、それは親しく妹としての類いのもので。
恋とか愛とか。
そういう感情に現を抜かしている場合では無いのだ。
寝て起きたら夢だったということにはならないだろうか。
そんなことを考えて御帳台に入ったのが悪かったのだろう。
夢を見た。
これで何度目だろう。
霧のような乳白色。
空は鈍い灰青色。
星は無く、少し風がある。
東屋で待つのはあの男。
「久しいな、私の織姫」
「また貴方なの、夏彦」
にこやかに手を振る真珠色の髪の男。
「七夕はとうに過ぎ去ったわ。季節外れよ」
「気にするな。この場で季節も何も無いだろう」
「そりゃまあそうかもしれないけど」
「再会の抱擁といこう」
両手を広げる夏彦に、榠樝は据わった目で応えた。
「断る」
「つれないな」
苦笑しつつも想定内だったのだろう。特に気にもせず夏彦は東屋に腰を下ろした。
手招かれ、榠樝も近くに座る。
夏彦は足を組み膝に肘を置き、まじまじと榠樝を見る。
「何よ」
「美しくなったな」
げふ、と榠樝が咳き込んだ。思ってもみない方向からの言葉に呼吸をし損ねた。
「数多の男に磨かれてきたか。色めく視線に染められたか」
「品の無い言い方止めて」
「失敬。だが当たりだろう。仕草に艶がある」
榠樝は唇を噛んだ。
「なんだ。不満か」
「恋だの愛だのにかまけている暇は無いのに、なんで、こんな……」
泣きそうに顔を歪める榠樝に、夏彦はひょいと手を伸ばし肩を抱いた。
「無礼者」
「気にするな。ここは夢であり現であり、何処でも無い。何をしようと誰も何も言わぬ」
榠樝は夏彦に凭れて、顔を覆った。
「私が私でなくなってしまう」
夏彦は榠樝を抱き寄せ、頭の上に顎を乗せた。
夏彦の心音がとくとくと榠樝の耳に響いていく。
「恋の駆け引きは嫌いか」
声が直接頭の中に響いていく感じだ。
「嫌い。大嫌い。皆、変わってしまうわ。私は私のままなのに、どうして……」
榠樝の髪を撫でながら、夏彦は甘く囁く。
「触れられて、口付けて、抱かれて、溶ける。心地良い熱に浮かされてみたいとは、思わぬのか?心も身体も溶けて、ひとつになりたくはないか?」
「そういうの、要らない。私が欲しいのは……」
口にして、ふと、気付いた。
自分を包む甘い熱に。
逞しい腕に。低い声に。
慌てて夏彦から離れようとして、できなかった。
夏彦の腕は揺るぎもしない。
かぁっと頭に血が上った。
夏彦が榠樝の耳に唇を寄せ、甘く囁く。
「私はそなたを貪り喰ってしまいたいぞ」
ぞくりと何かが背中を駆け上って。
榠樝は勢いよく首を振る。
「いや!放して、放せ!」
「放さないと言ったらどうする?」
「命令ぞ!放さぬのなら人を呼ぶ!」
夏彦が身を震わせて笑った。
「ここへ?どうやって?」
榠樝は目を瞬く。そういえばそうだ。
ここはどこだ。
夢の中だ。
ならばきっと、どうにでもなる。
榠樝は力一杯助けを呼んだ。
「誰か!!助けよ!!女東宮の命ぞ!!」
「だから無駄だと……。何だ?」
ぐるる、と獣が咽喉を鳴らすような声が近付いて来る。
重い足音。
そして夏彦が何かを叫んで飛び退いた。
榠樝の前に居るのは。
「……なに?」
大きな大きな猫だった。
背丈は榠樝よりもあるだろうか。
これは話に聞くところの虎というものなのだろうか。
唖然と見上げていると、それが振り返って、鳴いた。
なぁおう。
とても低かったが、確かに聞き覚えのある甘えた鳴き声。
榠樝は恐る恐る聞いてみる。
「……万寿?」
なぁぁぁん。
それは満足そうに鳴いて、榠樝に頭を磨り寄せて来た。
が、大き過ぎて潰された。
「おも!重い!万寿、潰れる!」
前足で押さえられ、べろんと大きな舌で顔中舐められて。
そんなこんなで夢は覚めた。
見慣れた御帳台の天井。
「重い」
視線を遣れば胸の辺り、万寿麿が丸まって満足そうに眠っている。
まさか万寿麿が本当に助けてくれた訳では無いと思うけれど。
「ありがとう。助かった」
万寿麿はむにゃむにゃと何事か呟いて、寝た。
「いや、だから。退いてくれぬと起きられぬのだが」




