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虹霓国の女東宮  作者: 浮田葉子
第六章 月白の闇
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 (はなだ)邸の庭に降り、笹百合(ささゆり)はすっかり色付いた楓の樹に額を寄せ、溜め息を()いた。


「紅葉散り、君と過ごせし彼の日々は……今やは遠く、思ひ出のみぞ」


 紅葉が散る頃に、貴方と過ごしたあの日々は、今や遠い昔のことのように感じられます。ただあの頃の思い出だけが残っております。




 笑顔の可愛らしい女東宮(にょとうぐう)榠樝(かりん)

 幼い頃から知っている少女。


 春に榠樝の婿がねの一人として選ばれた時は、こんな気持ちは全く無かったのに。




 風が吹き、赤や黄色の葉が静かに散り始めていた。

 木々の間には萩や(すすき)が揺れ、囁くような音を立てて。

 池に視線を遣れば月明りを映した水面が揺らめき、木々の影が踊って見える。

 白菊の花が秋の終わりを告げるように、清らかに香って来て。



 彼女にこの庭を見せたいと思う。


 それどころか。



 笹百合はぎゅっと瞼を閉じると(かぶり)を振って、思い浮かんだ考えを掻き消そうとした。


 榠樝の涙を拭いたいと思った。

 この腕に抱きたいと思ってしまった。


 そんな(よこしま)な思いを自分が抱くとは。

 しかもその相手は、敬い守るべき存在で。幼い頃から慈しんで来た榠樝で。


 笹百合は婿がねの一人であるだけで、充分だった。

 自分が(くら)べに勝ち残り王配になるなど想像もしなかった筈なのに。



 だというのに今日、初めて気付いた。


 胸の中に(たぎ)る、譲りたくないという想いに。


 榠樝を誰にも渡したくない。




「ああ、なんという……」


 苦し気に寄せられた眉を、きつく閉じられた瞼を、震える睫毛を、月影が静かに照らしていた。








 飛香舎(ひぎょうしゃ)

 日暮れて落ちて。

 空は月が煌々と輝いている。


 風の音と虫の音とが調和して、物悲しくも麗しい。

 榠樝は(きざはし)に腰掛けて、頬杖をついて月を見上げている。




 ひどくぼんやりとした気分だ。


「ええい、(うつ)けてる場合か!」


 ぺしんと両頬を叩いて首を振るも、笹百合の面影が目裏から消えてくれない。


 あんな表情の笹百合を始めて見た。

 好かれているとは思っていた。ただ、それは親しく妹としての類いのもので。



 恋とか愛とか。

 そういう感情に(うつつ)を抜かしている場合では無いのだ。

 寝て起きたら夢だったということにはならないだろうか。


 そんなことを考えて御帳台(みちょうだい)に入ったのが悪かったのだろう。




 夢を見た。

 これで何度目だろう。



 霧のような乳白色。

 空は鈍い灰青色。

 星は無く、少し風がある。


 東屋で待つのはあの男。


「久しいな、私の織姫」

「また貴方なの、夏彦」


 にこやかに手を振る真珠色の髪の男。


「七夕はとうに過ぎ去ったわ。季節外れよ」


「気にするな。この場で季節も何も無いだろう」


「そりゃまあそうかもしれないけど」


「再会の抱擁といこう」


 両手を広げる夏彦に、榠樝は据わった目で応えた。



「断る」



「つれないな」


 苦笑しつつも想定内だったのだろう。特に気にもせず夏彦は東屋に腰を下ろした。

 手招かれ、榠樝も近くに座る。

 夏彦は足を組み膝に肘を置き、まじまじと榠樝を見る。


「何よ」


「美しくなったな」


 げふ、と榠樝が咳き込んだ。思ってもみない方向からの言葉に呼吸をし損ねた。


数多(あまた)の男に磨かれてきたか。色めく視線に染められたか」


「品の無い言い方止めて」


「失敬。だが当たりだろう。仕草に艶がある」


 榠樝は唇を噛んだ。


「なんだ。不満か」



「恋だの愛だのにかまけている暇は無いのに、なんで、こんな……」



 泣きそうに顔を歪める榠樝に、夏彦はひょいと手を伸ばし肩を抱いた。


「無礼者」


「気にするな。ここは夢であり現であり、何処でも無い。何をしようと誰も何も言わぬ」


 榠樝は夏彦に凭れて、顔を覆った。


「私が私でなくなってしまう」


 夏彦は榠樝を抱き寄せ、頭の上に顎を乗せた。

 夏彦の心音がとくとくと榠樝の耳に響いていく。



「恋の駆け引きは嫌いか」



 声が直接頭の中に響いていく感じだ。


「嫌い。大嫌い。皆、変わってしまうわ。私は私のままなのに、どうして……」


 榠樝の髪を撫でながら、夏彦は甘く囁く。


「触れられて、口付けて、抱かれて、溶ける。心地良い熱に浮かされてみたいとは、思わぬのか?心も身体も溶けて、ひとつになりたくはないか?」



「そういうの、要らない。私が欲しいのは……」



 口にして、ふと、気付いた。

 自分を包む甘い熱に。

 逞しい腕に。低い声に。



 慌てて夏彦から離れようとして、できなかった。

 夏彦の腕は揺るぎもしない。


 かぁっと頭に血が上った。


 夏彦が榠樝の耳に唇を寄せ、甘く囁く。



「私はそなたを(むさぼ)り喰ってしまいたいぞ」


 ぞくりと何かが背中を駆け上って。

 榠樝は勢いよく首を振る。


「いや!放して、放せ!」


「放さないと言ったらどうする?」


「命令ぞ!放さぬのなら人を呼ぶ!」


 夏彦が身を震わせて笑った。




「ここへ?どうやって?」




 榠樝は目を瞬く。そういえばそうだ。


 ここはどこだ。


 夢の中だ。

 ならばきっと、()()()()()()()




 榠樝は力一杯助けを呼んだ。


「誰か!!助けよ!!女東宮の命ぞ!!」


「だから無駄だと……。何だ?」


 ぐるる、と獣が咽喉を鳴らすような声が近付いて来る。

 重い足音。

 そして夏彦が何かを叫んで飛び退いた。


 榠樝の前に居るのは。


「……なに?」


 大きな大きな猫だった。

 背丈は榠樝よりもあるだろうか。


 これは話に聞くところの虎というものなのだろうか。

 唖然と見上げていると、それが振り返って、鳴いた。



 なぁおう。



 とても低かったが、確かに聞き覚えのある甘えた鳴き声。

 榠樝は恐る恐る聞いてみる。


「……万寿?」


 なぁぁぁん。


 それは満足そうに鳴いて、榠樝に頭を磨り寄せて来た。


 が、大き過ぎて潰された。


「おも!重い!万寿、潰れる!」


 前足で押さえられ、べろんと大きな舌で顔中舐められて。




 そんなこんなで夢は覚めた。

 見慣れた御帳台の天井。



「重い」



 視線を遣れば胸の辺り、万寿麿(まんじゅまろ)が丸まって満足そうに眠っている。

 まさか万寿麿が本当に助けてくれた訳では無いと思うけれど。


「ありがとう。助かった」


 万寿麿はむにゃむにゃと何事か呟いて、寝た。


「いや、だから。退いてくれぬと起きられぬのだが」



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