一
清涼殿昼御座。榠樝は政務をこなしながらも、どこか上の空な様子だ。
眉は軽く寄せられ、溜め息ばかり吐いている。
頭中将菖蒲霜野が心配そうに書状を差し出した。
「お加減がお悪いのでしたら、今日はもうお休みになられては?」
「ああ、うん。すまない。少々考え事が纏まらぬのだ。具合が悪い訳ではない。心配をかけたな」
「勿体ないお言葉にございます」
榠樝は首を振り、また考えに沈んだ。
虹霓国の六家は特別な存在だ。
菖蒲、蘇芳、縹、藤黄、月白、黒鳶。建国当初からの古い貴族たち。
その一角が敵国と結んでいるかもしれない。などと声に出せる訳もなく。
国の基盤を揺るがしかねない事態だ。
疑わしきは罰せず。まずは疑惑を晴らさねばならない。
榠樝の取るべき行動。まず、証拠を掴むこと。
掴んだら明るみに出すか否かを慎重に判断すること。
迂闊なことをすれば一気に足場が崩れ去る。
「という訳で、うやむやになっていた月白への追及をせねばならんのだが、相変わらず手蔓が無くてな。何か良い手段は無いものかとそなたらを呼んだわけだ」
飛香舎に呼び出された菖蒲紫雲英と蘇芳紅雨はお互いにお互いを横目で睨みつつ席に着いた。
敵国との癒着疑惑はひとまず伏せ、陰陽師朱鷺賢木の卜占に従ってのことという体をとった。
堅香子と山桜桃にも口を噤んでもらっている。
「ところで女東宮。月白はともかくとして、縹の方はどうなのです?話は進んでいるのだろうか」
紫雲英の言葉に榠樝は檜扇を広げて顔を隠した。
「この所格別にお忙しかった女東宮に、その様な暇がおありの筈が無かろう。何を申しておるのやら」
紅雨の助け舟もぐさぐさと榠樝に突き刺さる。ますます以て顔を出し辛い。
忙しさにかまけて縹のことを放って置いたのは事実だ。
というより、笹百合を陥落させるということに尻込みしているのが本当の所であったりする。
「縹は、その……良い和歌が浮かばなくてな、ははは」
苦しい言い訳を口にし、榠樝は檜扇の影からそっと目を覗かせた。
全員の視線が痛い。
榠樝はまた、そうっと檜扇に隠れる。
「縹と申せば、確か縹中納言苧環さまと月白大納言凍星さまは筒井筒(幼馴染)であられたのでは?」
何気ない紅雨の台詞に榠樝は檜扇を投げ捨てて迫った。
「何それ知らぬ。詳しく申せ」
胸倉を掴まれ赤面し、紅雨はうっとりと榠樝を見詰める。
蕩けている。
ぱぁん!と堅香子が結構な音を立てて手を鳴らし、ハッと我に返った紅雨は至近距離の榠樝に狼狽えながらも喋りだした。
「苧環さまと凍星さまは確か乳母同士が姉妹だとかで、幼き頃よりよく行き来があったと聞いた覚えがございます。お若い頃は、彼方此方共に遠出もなされておられたとか」
榠樝は鼻がぶつかりそうなほど近く、紅雨の顔を覗き込んだ。
「その話、真実だな?」
澄んだ眸の中にうっとりとした自分の顔を見つけ、紅雨は夢現の心持ちだ。
「神掛けて」
半ば浮かされたように口にした。
「よし」
榠樝はぱっと紅雨の襟首から手を放し、紅雨は後ろ向きに引っ繰り返る。
紫雲英は面白くなさそうに一連の流れを見ていた。
「文を書く!紙と硯!」
紫雲英は冷めた視線を榠樝に投げる。
「和歌は宜しいのか」
「捻り出す!」
凛々しい物言いに紫雲英は苦笑を浮かべ、けれどどこか満足そうに目を細めた。
そうして何とか捻り出したのが次の和歌だ。
初霜や野辺の草花色あせて思い寄せつつ君を待つかな
初霜が降りて野の草花が色褪せていく中で、貴方を思いながら待っています。
丁子色の紙に書き付けて、それを艶やかな紅葉の枝に結び付け。榠樝は笹百合に文を贈った。
どのような返事が来るだろうかと、話をしようと思ったのも束の間。
剛速球の返歌を受け取り、榠樝は文台に突っ伏した。
慕わしく飛び立つ心秋の風雲路を越えて君に逢はなん
貴方を慕うこの心は、秋の風に乗って飛び立ち、雲の道を越えて、どうしても貴方に会いたいと思います。
瞬く間の返しに戦慄する紅雨。
銀色の紙を薄に寄せて。色合いも添える草花も完璧である。
風に揺れる薄の姿と和歌とが素晴らしく調和している。
「まさか我らが飛香舎に居る間の返歌とは、笹百合どのはやはり格別の方だな!」
「おや、素直に負けを認めるとは、らしくないのではないか?」
紫雲英の混ぜっ返しに紅雨は顔を真っ赤にして反論する。
「負けを認めてなどいるものか!ただ素晴らしい才能に感服すると言っているのだ。無論私とてそのくらいの芸当はできようとも!女東宮、貴方への想いならば幾らでも和歌に込めて贈りましょう!」
とばっちりを喰らった榠樝は檜扇を広げて顔を隠す。
「私はそこまで和歌が得意ではないのだ。見ていただろう。先程の和歌にどれほど時間が掛かったことか……!それを、それを笹百合と来たら、あっという間に返して来るなんて!」
少しは手加減してほしい。
紅雨は少し不安そうに榠樝に問う。
「もしや和歌は、あまりお好きではないのですか?」
「いや、和歌は好きだ。だが、好きと得意が同じでないように、嫌いと苦手も違うのだ」
紅雨はほっとしたように微笑んだ。
紫雲英が面白くなさそうに呟く。
「君が名を語りし人の数知らでわれのみかくる思ひならまし」
あなたの名前を口にする人がどれほど多いか分からないけれど、もし私一人だけが密かに思っているのなら、どれほど良かったことでしょう。
榠樝が赤面し、紅雨は眉を吊り上げ、堅香子は目を見開き、山桜桃は強く頷く。
四者四様。
「私とて和歌くらい詠める」
少し拗ねた風な紫雲英に榠樝は顔を顰め、掌を前に差し出した。
待ての合図だ。
「暫し時間が要る!」
今一生懸命和歌を考えていますといった仕草に、紫雲英は少しだけ得意げに微笑み、紅雨は憎らし気に紫雲英を睨み付ける。
ぶつぶつと呟きながら部屋を右往左往する榠樝を凝と見詰めて、紅雨は榠樝に捧げる和歌を練っている。
「別に急がずとも、返事はいつでも」
紫雲英をキッと睨みつつ、榠樝は詠む。
「君と我契りの糸は絶えせぬを世々を経めぐる友のまことに」
貴方と私の結びつきは、決して途絶えることなく、時代を越えて続くものであり、それは友である貴方の誠実さによるものです。
言い終えて榠樝は顔を押さえた。
「限界!無理!時間をくれ!作り直すから!」
叫んだ榠樝に無情にも廊下から女房の声が告げる。
「女東宮、縹笹百合さま、参られました」
がっくりと項垂れる榠樝を見、堅香子はパンパンと手を叩いた。
「はい。皆様撤収でございますわよ。お二方の語らいの邪魔は、わたくしが許しませんわ」