六
満月の光が辺りを煌々と照らしている。見張りの姿もくっきりと露だ。
襟の高い長い上着には色鮮やかな刺繍。下にはゆったりとした褲を穿き、腰には太い帯が独特の結び方で巻かれている。そして皮の長靴。頭には頭巾。
光環国の一般的な装いだ。
見張りの男はやはり海が気になるのだろう。激しい戦闘が繰り広げられているであろう沖の方ばかり気にしている。
南天が走った。
見張りの男は驚く間もなく口を押えられ、声を上げる事すらできず。そのまま首を圧し折られ事切れた。
見張りを影に隠し、南天が合図を送る。
まるで闇が染み渡るように。
黒い集団は静かに斑鳩郡衙に攻め入った。
海賊たちが、襲撃に気付いた時には既に遅かった。
南天たちは残っていた海賊をあっさりと制圧。
「手応えが無いな」
まるで悪役のような台詞を吐き、南天は海賊の頭目と思しき女を追い詰めた。
女の前には三人が決死の覚悟を滲ませて剣を構えている。
どれも手練れに見えた。
だが、南天相手には不足だ。
あっという間に三人切り伏せて、南天は女に太刀を向けた。敵である以上、女でも容赦はしないのが藤黄南天という男だ。
女は剣を振り被り、南天に斬りかかる。それなりの腕だが南天の敵ではなく。
即座に剣を叩き落とし、南天は女の喉元に太刀を突き付けた。
「ソナムさま、お逃げください!」
倒れた男が必死で南天の足にしがみ付く。
南天は無情にも男を蹴り飛ばした。
血が飛び散る。
男は二、三回転がると壁にぶつかり、そのまま動かなくなった。
「エルゲン!」
ソナムと呼ばれた女が悲鳴を上げるが、南天は一顧だにしない。
「お前が頭目か」
ソナムは憎々し気な視線を南天に向ける。
「だとしたら、何だ」
「光環国の王族か」
ぎり、と歯軋りの音が響いた。
「我が国の名は、ナルニティタムだ」
ナルニティタム。
光環国のことを現地の言葉で発音するとそうなる。
血を吐くような声に、南天はにこりと笑った。
「こちらの狙い通りだな」
ソナムが眉を寄せた。と同時に奥から歓声が沸くのが聞こえた。
人質も解放できたらしい。
「狼煙を上げろ」
ソナムからちらとも目を離さず、南天は兵に命じる。
命を受けた兵はすぐさま外に走り出て、狼煙を上げた。
毒々しい黄色い煙がもくもくと立ち昇る様子は、恐らく海からもはっきりと見えるだろう。
満月を照り返し、光り輝くほどに。
ソナムは低く唸る。
「何が狙いだ」
南天は冷ややかにソナムを見下ろした。
「それはこちらの台詞だな。ナルニィ……舌を噛むな。光環国と呼ぶぞ。光環国の王族が何故虹霓国を襲う。滅ぼされた恨みなら五雲国に向けるが筋だろ」
ぐっと言葉に詰まり、ソナムは俯く。
「それは、その通りだ」
「存外素直だな。まあいいや。取り敢えず一緒に来てもらう」
「殺さないのか」
南天は片眉を上げる。
「殺されたいのか?」
「いや、そうではなく、」
「お前が王族なら、殺すのは悪手だ。きっと皆、仇を取ろうと最後の一人まで死に物狂いで掛かって来るだろうさ」
ソナムは怪訝そうに南天を見上げた。
「何故そう思う」
「俺がそうだからな」
南天の脳裏には榠樝の屈託のない笑顔が浮かんでいた。
狼煙に気付いたのだろう、海賊船は争いを止め我先にと斑鳩島に戻って来た。
征討軍の船団は一定の距離を保ってその後に続く。
海賊船から小舟が一艘、岸に向かって来た。乗っているのは男が二人。
南天はソナムを連れ、浜辺へと降りた。
周りは固唾をのんで見守っている。
船から、岸から。視線が集まるのがわかる。
夜が明けかかっていた。
東の空に生まれた僅かな朱の色が、徐々に月の光を押し退けてゆく。
くっきりと輝いていた満月の輪郭が微かに揺らぎ始めた。
満ち満ちていた夜の静寂が、鳥の声に搔き消されていく。
波音は普段なら心を落ち着かせるものだが、今は誰の胸をも騒めかせる。
ゆっくりと。
男が一人で南天に向かってくる。その手に武器は無い。
南天の前に、否、ソナムの前に男は跪いた。
満月はゆっくりと西へ沈んでいく。
全てが終わる時。
そして新たな始まりの時。
南天は特に感慨も無く男の挙動を見据えている。
男が口を開いた。
「私はスゲン。所謂この船団の副頭目といったところだ」
流暢な虹霓国の言葉だが、僅かに訛りがある。
「お前も光環国の者だな」
南天の問いにスゲンと名乗った男は頷き、首を垂れる。
「ソナムさまを解放してくれ。代わりに私の首級を差し上げよう」
南天の鼻の頭に皺が寄る。
「要らんわ」
ぞんざいな南天の態度にスゲンはギリリと歯を食い縛り、唸るように問う。
「では、何が望みだ」
南天は冷たい視線をスゲンに投げた。
突き刺さるようだった。
「お前らが害した虹霓国の民を残らず返せ。といっても出来ないだろ。死んだ奴は生き返らないからな」
言葉に詰まったソナムとスゲンに、南天は氷のように冷たい一瞥をくれる。
「お前ら一体何しに虹霓国に来やがった。洗いざらい吐け。話はそれからだ」
北の大宰府。
ソナムとスゲン、そしてエルゲンを連れて、南天は凱旋した。
人々が歓声と共に迎えてくれる。
人垣から子供が一人飛び出した。
「右大将さま!」
見覚えのある男児。あの日、泣いて帰った子供だ。
「ありがとう!みんな、帰って来たよ!父ちゃんも母ちゃんも、兄ちゃんも!」
今日も泣いていた。
「ありがとう!右大将さま、ありがと!!」
南天は男児にぞんざいに手を振って。副官が目を細める。
「もう少し愛想よくしてあげたらどうなんです?」
「全員、帰れたわけじゃねえからな」
副官は目を瞠り、軽く吐息を零した。
「貴方は随分と欲張りな方なのですね」
「今頃知ったのか」
「そうですよ」
呆れたように副官は首を振る。
「全員取りこぼさずに救うのは龍神様にも至難の業でしょう。只人には到底無理なことです。寧ろこれだけの被害で済んで上々と思いますがね」
南天は天を仰いだ。
自分はいい。勝てただけで充分だ。
だが、榠樝はこっそり泣くかもしれない。
なんとなくそう思って、南天は溜め息を吐いた。
心優しく、その志は天より高い女東宮。
完璧主義で、努力家で。いつでも一生懸命な少女。
ともあれひとまず朝廷に判断を仰がなくてはならない。
大宰帥が都に早馬を放った。
南天の考えを纏めた文も共に預け、馬は一路都を目指して走る。
「女東宮が何というかな」
文に認めた案に、榠樝はどんな顔をするのだろう。