十
あっさりと。
蘇芳紅雨は落ちた。
榠樝が本当にこれでいいのかという顔をして、後ろを振り返って。
堅香子と山桜桃が拳を握って頷く。
いいのか。
紅雨は平伏したまま感動に打ち震えているし。
榠樝はぽりぽりと頬を掻き、小首を傾げた。
「改めて聞くが、紅雨」
「はっ!何なりと」
「私はそなたに何一つ確約しておらぬのだが」
紅雨が顔を上げた。
曇りのない双眸がきらきらと輝いて榠樝を見つめている。
榠樝は少し怯んだ。
「確約など要りません。私が女東宮のお役に立てるのであれば、我が名でさえも捨てましょう!」
ぎょっとして榠樝は目を剥く。
「家の名など、蘇芳の名など惜しくはありません。貴方の為に、すべてを捨てる覚悟です!」
「いや、捨てて貰っては困るのだ」
榠樝はそっと額を押さえた。逆上せ上っている。
「少し落ち着こう、紅雨。私はそなたを利用すると言ったな」
「はっ!」
嬉し気にさえ聞こえる返事に、紅雨が犬に見えて来た榠樝であった。
尻尾を振っているのが見える気がする。
「そなたの持つ、蘇芳の次期当主の立場が必要だ。私の足場を固める為、そなたの名を利用する。良いのか」
「構いませぬ」
紅雨は本当に全く構わないようで、躊躇い無く答えた。
「君がため何を惜しまん命すら、捧げんほどの恋に身を焼く」
あなたのためならば命さえ惜しみません。すべて捧げたいほどに恋に身を焦がしています。
さらりと即興でそんな和歌を詠んでみせて。
紅雨は宣言した。
「我が名が、立場が、蘇芳家次期当主というものが貴方のお役に立つのであれば。この蘇芳紅雨、何も惜しくはございません。何もかも、女東宮にお捧げ致します」
まっすぐ揺らぎない視線に、台詞に、榠樝の方が気圧される。
「我が伯父、摂政である蘇芳深雪に対抗すべく力が必要と仰せならば、私がその先鋒に立ちましょう」
榠樝が眼を見開いた。
「そこまでの覚悟か」
紅雨が頬を染めて榠樝を見詰める。
「無論のこと、女東宮が私を婿に選んでくださるのならば至上の喜びでございます。その為に何でも致しますし、見合った働きをご覧にいれましょう。ですが、お目に適わなければ、どうぞお捨て置きください」
炎の様な男だ。ともすれば火傷を負いそうだ。
燃え上がる熱い想いが榠樝を炙る。
炎が舐めて、榠樝を包もうとするその時。
冷たい水の様な声が浴びせられた。
「逆上せ上るなよ、紅雨。女東宮の一の忠臣は私だ」
隣の間に控えていた紫雲英に、紅雨の眦が鋭く尖った。
殺気すら漂う。
「生意気な。菖蒲の小倅が何をほざくか」
鼻で笑った紅雨に、紫雲英は冷たい視線を突き刺した。
「自分こそ蘇芳の小倅ではないか」
まるで炎と氷だ。
バチバチと火花を散らす紫雲英と紅雨に榠樝は溜め息を吐き、堅香子と山桜桃が足音高く場に加わる。
「紫雲英どのも紅雨どのも考え違いをなさっておいでです」
「そうですわ。女東宮の一の忠臣は私ですもの」
「何ですって?聞き捨てなりませんわ。一番はわたくしです」
榠樝は今度こそ頭を抱えた。
「何なんだ、全く」
万寿麿が寄って来て、鳴く。
抱え上げて、榠樝はそっと御簾の内側に戻ろうとして、できなかった。
「榠樝さま!わたくしが榠樝さまの一の忠臣にして寵臣でございますわよね」
堅香子がずいと身を乗り出して訴える。
「従姉妹にして、忠義者の女房として、勿論のこと私が一番ですわよね」
山桜桃が鋭く堅香子を牽制し、二人物凄い笑顔で主張する。
怖い。
紫雲英も紅雨も思わず一歩引いたが、ここで張り合えなくては婿がねとしてもきっと失格。
意を決して、退いた分改めて前に出た。
「女東宮、私こそが一番の貴方の理解者と自負している」
「私こそが、貴方を一番にお慕いしております!」
榠樝が万寿麿を抱え、溜め息を吐いた。
「皆落ち着け」
自分を見詰める八つの眸に若干気圧されつつ、榠樝は宣う。
「一番は万寿だ」
「何故です!」
悲鳴を上げた堅香子に、榠樝はぼそっと呟いた。
「一番うるさくないからな」
なぁう、と万寿麿が得意げに鳴いた。
榠樝は改めて紅雨に問う。
「そなたの所まで、噂は届いているのか」
「噂とは」
「我が父、前王が殺されたという話だ」
紅雨は目を見開く。
その表情を見て、榠樝は察した。
「そうか、届いてはいないのか。六家の嫡男にまでは及んでいないと。当主とその周辺までということかな」
「そうでございましょうね。紫雲英どのもこちらが振るまでご存じなかったですし」
「そうだな。蘇芳と菖蒲の嫡男が知らぬのならば、恐らくは他家も同じだろう」
堅香子と頷き合って、榠樝は紅雨に手短に状況を説明する。
「一つずつ当たってきたが、残るは縹と月白だ」
縹は笹百合に標的を絞った。月白だけ、攻める糸口が未だ無い。
紅雨は首を捻る。
「どうにも消極的な二家が残りましたね」
紫雲英がほう、と感心したように言った。
「その程度はわかるのだな」
「これ、紫雲英。一々突っ掛かるな」
榠樝が扇の先で突いて、紫雲英はぺこりと一応の了承を見せる。
となると紅雨は鬱憤を吐き出すわけにもいかず、鼻の頭に皺を寄せて沈黙を守った。
親しい様子も腹立たしい。
「まあ、とにかくそんな様子だ。何か知っていることや気付いたことがあったら言って欲しい」
紅雨は首を捻った。
「特には、と申し上げるしかございません。蘇芳の家の方でも私が知る限り特別な動きは無いと存じます」
「摂政なら、何かしら動き始めていると思うのだが、何か知らぬか」
「伯父上ですか。いつも何かしら忙しくしておられるので、常と変わった様子はありませんが」
それはそう。
摂政は常に忙しい。
特に補佐するのが未熟な女東宮だからこそ、蘇芳深雪は虹霓国の歴史上、最も忙しい摂政かもしれない。
「存外使えない男だな」
「何だと?!」
また紫雲英が紅雨を煽るようなことを言い、紅雨も律儀に反応する。
山桜桃が溜め息を吐いて割って入った。
「紅雨どの、紫雲英どのはこういう方です。お聞き流しなさい。短慮に見えますわ。紫雲英どの、思ったことをそのまま口に出すのをお止めなさい。戯け者に見えますわ」
二人共ぴたりと口を噤む。
「女東宮の御前です。控えるように」
簡単にあしらって静かにしてしまった。
山桜桃は流石の手練れである。朝廷で話題の貴公子二人がまるで猫のよう。
なぁん、と万寿麿が鳴いた。
仲間意識だろうか。
榠樝がよしよしと顎を掻いてやると、満足そうに咽喉を鳴らす。
「取り敢えず、次の二家について考えるとしよう。縹は笹百合に絞った故、主に月白だな。どこか糸口は無いか?」
榠樝がまとめ、それぞれがそれぞれに反応する。
この数刻後には、そんな悠長なことをしている場合ではなくなるのだが、それはまだ誰も知らぬこと。




