七
都では摂政の蘇芳深雪こそが王に相応しいのではないかと囁かれもするが、朝廷でも似たような噂は広がっている。
というより対立が広がっている。
担ぐ神輿は軽い方がいいと思う派閥と、女東宮を国の根幹として支えるべしとの派閥。そして最早王は翡翠の血脈に限らず、優秀な摂政をこそ王に頂くべきという派閥。
結論は早い方がいい。
何しろ五雲国の正使を追い返したのだ。きっと遠からずまた何かある。
「いい迷惑だ」
蘇芳深雪は顔を顰めて吐き捨てる。
謀反を企てているとでも思われたらどうするのだと、深雪を推す者にその都度言い聞かせるのだが、それでもそういう者は根強く残っている。
無事五雲国の正使を見送り、先頃都に帰還した左近衛大将蘇芳銀河は兄の呟きに苦笑するしかない。
「兄上が優秀過ぎるからでしょうな」
もう一人の弟、躑躅が深雪を宥めようとして却って怒らせる。
「私が優れているのではなく、怠慢な者が多いのだ」
唸られ、躑躅はそっと銀河の影に隠れた。
「して銀河。どうだった」
「先程女東宮にご報告した通りです」
その報告を隣で聞いていたのだから、深雪が把握していない訳は無いのだが、それでも敢えて聞くというのは。
「手掛かりは」
「ありません」
前王は殺された。
誰が、何の為に流した噂なのだろう。
「やはり噂は南の大宰府に近い程多いが、出所がわかりません。都でもちらほら流れ始めたようですな」
そして、大内裏でもひっそりと広がり始めている。
「しかしわかりませぬ。何故、前王が、」
「躑躅」
口に出すのを止めさせて、深雪は首を振る。
「どこかに得をする者が居るということだ」
「どこの誰が利を得るというのでしょう。私にはさっぱりわかりませぬ」
「奇遇だな。私にもさっぱりわからん」
深雪は深々と吐息し、頭を振った。
「さっぱりわからん」
榠樝は清涼殿昼御座で頭を抱えていた。
銀河の報告は聞いたが、やはり噂の出所はわからないし、この噂で誰が得をするのかがさっぱりわからない。
「大宰府、大宰府か……遠いな。行って見てくる訳にもいかぬしなあ」
そもそも内裏を出ることすら難しいのだ。南の果てに行くなど無理に決まっている。
「行ったところで左大将にすら尻尾を掴ませぬ者の影など、私が掴まえられる筈も無し」
「榠樝さま、お声に出ておりますよ」
「おっと」
堅香子に指摘され、榠樝は袖で口元を隠した。
「しかしやることが多いな」
通常の政務も滞らせる訳にはいかない。
噂の出所も突き止めたい。
そして己の欲するものを見定めもしたい。
「私が三人くらい居たらそれぞれに役割分担できるのに」
「三人でよろしゅうございますの?」
「いや、やっぱり五人か六人は欲しいな」
榠樝と堅香子と、額を突き合わせて。
ふふふ、と密やかな笑い声があがった。
さて、と榠樝は文台に向かい墨を磨る。
どう書くか。
爽やかな墨の香りが立ち上り、頭がすっきりと働き出す。
榠樝は墨を磨りながら自問自答する。
前王が殺されたと明らかになって、得をする者は誰だ。
誰も居ない。
いや、誰かは居るのだろうが、榠樝には思い当たる節が無い。
逆に、明らかになれば不利になる者は誰だろう。
「不利になる。不利に……」
王殺しの犯人は誰だ。
まず自分。女東宮。
紙に己の名を書く。
王が死ねば次の王は自分。
王座を望んで父殺しを行った者になど誰もつかない。
しかも立場は女であるが故にとても不安定。
いずれにせよ榠樝ではないので除外。
榠樝は自分の名前の上に墨で線を引いた。
次に摂政、蘇芳深雪。王を殺害、力無き女東宮を王に立て、自分が権力を握る。
虹霓国を思い通りに動かすことができる、かもしれない。
しかし足がつく様な迂闊な真似はしないだろう。却下。
蘇芳深雪の名の上に黒線。
「そもそも父上とは良い関係だったし……。と見えただけかもしれないが」
次いで菖蒲。
紫雲英の報告では、王家に対して行ったのは縁結びの諸々。
「菖蒲は一応潔白だったとして」
菖蒲家に黒線。
黒鳶にも黒線。
夕菅の北の方を巡っての恋の鞘当ては的外れ。
藤黄にも一応黒線。
「無理ですわー。藤黄に謀とかできる者はおりません」
と堅香子言うを信じて。
というより実際菖蒲と黒鳶に王を殺して得は無い。藤黄も然り。
そもそもとして、蘇芳深雪に敵わない。
寧ろ王が存命の方が蘇芳の専横を阻めるだろう。
見込みが甘かったとか、うっかりとか。
そんな理由で父を殺されたくは無いが一応の可能性は無い訳ではない、のかもしれない。
がとても低い。次。
縹、月白。
「どちらかか……?いや、或いは深雪を後押ししたい蘇芳の誰か」
だとしても発覚した場合深雪も道連れに自爆。
「けれど、そこが一番怪しく見えるからな……。そう見えるように誰かが動いたという線も……」
縹。縹家当主苧環はとにかく掴めない男である。
代々縹は権力からある程度の距離を置き、家の安定を図っている。
「いきなり気が変わった、とか……………。いやいや」
次、月白。月白当主凍星が王を殺す理由が思い浮かばない。
「邪魔になったとか?いや、何の?……無いな」
黒線。
結局のところ誰も残らない。
「駄目だ。わからない」
筆の先を弄び、榠樝はふと思いついた名を書いてみる。
五雲国の王。
何だっけ、正使が言っていた。
そう、玄秋霜。
「……だったと思う。確か」
五雲国からの刺客が王を殺害。
「どうやって」
毒殺か呪殺か。
「いや、だからどうやって?」
榠樝は硯の上で筆先を整えて、また紙に向き直った。
「春の終わり、女東宮暗殺を試みる。一度目は毒蛇を使う。二度目は毒を盛る」
それがやはり五雲国の手先によるものだったら?
「やっぱり父上も毒殺?いやしかし、その為には五雲国の手先が内裏に居ないと……」
榠樝は頭を抱えた。
結局振り出しに戻ってしまうのだ。
「仮に五雲国の手先だったとして、自国を売ってでも手を結びたいほどの得がある者がわからないー」
渡来品を扱う商人たちだろうか。
いや、国が危うくなっては商売どころでは無い筈。
それとも安全が担保されているのだろうか。
榠樝はぐぬぬ、と奥歯を噛んだ。
堂々巡り。
「私が死んで得をするのは蘇芳深雪。でも死ななくても別に敵にもならないというか、邪魔かもしれないけれどそこまで無理して排除するまでもない障害……と考えると、我ながら辛いな」
筆を置き、榠樝は後ろ向きに倒れ込んだ。
「わからん。全っ然わからん!」
「女東宮、如何なされましたか」
頭中将、菖蒲霜野が心配げにやってきて、控えた。
声が殿上間まで聞こえたらしい。
「いや、すまない。考えが纏まらぬだけだ」
霜野を下がらせ、榠樝は再び文台に向き直った。
全然わからないけれど。誰だか見当もつかないのだけれど。
榠樝の眼が細まる。
己のすぐ側に目に見えない敵が居るのだけは確かだ。
そして目に見える敵としては五雲国が居る訳で。
榠樝は頭を抱える。
戦にならずに五雲国を引かせる手段も講じなければならなかった。
手一杯に過ぎる。