七
意外にもすんなりと摂政、蘇芳深雪の許可は出た。
「神泉苑ならば民の目にも届きます。人心の慰撫にも宜しいかと」
なんと参加してくれるだけではなく手伝いまでも申し出た。
「良きお考えかと存じます。臣への心配りが行き届いておられる」
滅多に無いことに褒められまでして、榠樝は始終驚き通しだった。
葱花輦(葱坊主形の宝珠の飾りのついた輿)に揺られ神泉苑に着き、榠樝はほう、と溜め息を吐いた。
見事に整えられている。
軟障(壁代の上等なもの)が張り巡らされ、ゆらゆらと風にそよいでいるのが美しい。
女東宮の席として大床子(ベンチのような腰掛け)が置かれ、上に褥を敷き、菅円座を置いてある。
六家はそれぞれ幄舎(テント)を張り兀子(四脚の一人用腰掛け)を並べ、床子も誂えてある。
池には竜頭鷁首の船が二艘。
大々的にも程がある。
榠樝は少しばかり呆れを含んで深雪を見た。
「もう少し簡素なものを想像していた」
「女東宮の行幸ともなれば簡素とはいきますまい。それに」
深雪は警備の者の隙間からこちらを覗き見る民の姿を眺め、頷く。
「虹霓国は揺ぎ無き存在と示さねばなりませぬ故」
ほう、と榠樝は感嘆する。
「やはり流石だな、摂政。私もそなたのようになるにはあと幾年月掛かるやら」
心からの賛辞に深雪は片眉を上げた。
「女東宮が私のようになられるのは到底無理でしょうな」
あっさりと告げられ、がくりと肩を落とす榠樝だが、続く言葉に顔を跳ね上げた。
「貴方は私とはあまりにも違う。貴方なりの王を目指されよ」
「摂政、それは」
勢い込んで聞く榠樝に、深雪は珍しいことにはっきりと笑った。
「まあ、百年早いと申し上げておきますが」
「う……」
丁寧に礼をして、深雪は去り際に振り返って言う。
「そういえば女東宮も琴を演奏なさるとか。楽しみですな」
榠樝は頭を抱えたくなった。
衆人環視の中での演奏。
とちったらどうしよう。
六家の当主が入れ代わり立ち代わり挨拶に訪れる。
外だからなのだろうか。朝廷よりも幾分柔らかく感じる。
少しは気が緩んでいるのかもしれない。
だとしたらよかった、と榠樝は表情を和らげる。
月白凍星が息子の六花を連れて挨拶に来た。
「此度は我が息六花をもお招き頂き、恐悦至極に存じます」
「うむ。そなたが六花か。面を上げよ」
賢そうな男児がぴょこりと顔を上げた。
「御意を得ます、女東宮」
にこりと笑う顔がなんとも可愛らしい。
榠樝もつられて笑顔になった。
「元気になったそうだな。良かった。今日は楽しんで行くといい」
「はい。ありがとう存じます」
ぺこりと頭を下げる様がまた愛らしい。
これは凍星が可愛がるのも無理はない。
礼をして下がる六花に手を振って。
榠樝は空を仰ぐ。雲一つない蒼穹。
「平穏無事がなによりだ」
女東宮の婿がねたちの演奏があり、雅楽寮の舞人たちによる舞が披露され、歓声があがり、拍手が鳴り止まぬ。
竜頭鷁首の二対の船で同じく雅楽寮の楽人たちが、天にも届きそうな素晴らしい楽を披露する。
六家当主はそれぞれ得意の楽器を持ち寄り合奏。
嚙み合わないどころか素晴らしい調和で。
皆、大興奮だ。
そして皆が盛り上がれば盛り上がる程、榠樝の緊張は高まっていく。
堅香子がそっと酌をする。
「榠樝さま。お顔が引き攣っておられます」
「無理なかろ。この後私の演奏だぞ」
「大丈夫でございますよ。ほら、笑顔」
にこりと引き攣った笑みを無理矢理浮かべてみても、中々面白いことにしかならなくて。
「まあ、神妙なお顔も趣がございますよ」
慰めだか何だかわからないことを言って堅香子が下がる。
榠樝は天を仰いだ。
琴は王の楽器とも呼ばれる。
また祭祀に用いられる神降ろしの楽器でもある。
弾琴と神託には緊密な結び付きがあるとされている。
とかく琴は虹霓国の王にとって特別な楽器なのだ。
無我の境地で挑むしかない。
御仏の教えにもあった。
琴の糸は強く張り過ぎても、弱く張り過ぎても良い音は出ない。
本当に良い音を出すためには、強過ぎず、弱過ぎず、丁度良く調整しなければならないのだ。
力み過ぎても弛み過ぎても良い音は鳴らない。
悶えているうちに出番である。
榠樝は琴を前に小さく息を吸い、そうっと吐いた。
手は震えていない。大丈夫、いつも通りに弾けばいい。
澄み切った繊細な音が響く。
いつの間にやら静まり返った神泉苑。
だれもが榠樝の琴の音に耳を澄ましている。
これでは呼吸の音さえも聞かれそうだな、と少し思った。
雑念を捨てねば。榠樝はすっと表情を消した。
神に届けと、ただそれだけを念じ、弾く。
淑やかに、緩やかに。
松の間を吹く風にも例えられる琴の音色。
最初こそ頼り無く思われたが段々と力強く響きだす。
そよ、と風が吹き始めた。
まるで琴が風を呼んだかのようで、皆が琴を弾く女東宮、榠樝に注目する。
榠樝は一心不乱に琴を掻き鳴らしている。
本来これほど大きく琴の音が響くことは無いだろうに、どうしたことか辺り一面に音色が響き渡って。
荘厳で怖ろしささえも感じる。
雲一つなかった空が俄かに曇り、霧雨が舞った。
涼し気で、夏の空気を一掃するような清々しさ。
そして、琴が止む。
雲が晴れ、陽が差し込む。
「虹だ!」
誰かが叫んだ。
虹は瑞兆。龍神の祝福と称えられるもの。
騒めきは瞬く間に広がった。
そして響動めきが神泉苑を支配する。
「万年あられ!」
誰かが叫んだ。
いつまでもこの御代が続きますように。
主に正月の唱言としてよく知られる。
「女東宮さま!」
「万年あられ!」
「龍神さま!」
「万年あられ!」
「虹霓国!」
万年あられ!
彼方此方で上がる声に、半ば呆然としながら榠樝は虹を見上げた。
偶然だろう。
たまたま霧雨が降って、たまたま虹が出た。
それだけだ。
けれど、榠樝は周りを見回す。
龍神が榠樝を認めた証として虹が現れた。
それは何よりの瑞兆で。
跪く重臣らに、手を叩き喜び合う楽人たち。
誇らしげに真っ赤になって歓声を上げている婿がねたち。
涙を流している堅香子に山桜桃。
跳ね飛び騒ぎ躍る民。
摂政が珍しく微笑んでいる。
榠樝はほっとしたように口元を綻ばせた。
「よかった」
皆が笑顔なのが、いい。