三
榠樝と紫雲英と。
今日も今日とて碁を打ちながら、何となく同時に山桜桃を盗み見る。
お互い、息を殺して囁き合うのは睦言では無く。
「黒鳶家からの間諜か」
「そう思う」
何とも色気の無い話。
二人は政談義の合間にこっそりと山桜桃の様子を窺っている。
堅香子は自分の立場が脅かされると思ってか、刺客かもしれないとまで言い出す始末で。
「仮に私が排除されて、誰が王に立つかと言えば」
「摂政どのを措いて無し、か」
蘇芳家が虹霓国を掌握するだろうことは間違いない。
「だが翡翠の血脈以外が王に立つことを、残りの五家が果たして認めるだろうか」
虹霓国建国の王が翡翠の宝玉を戴いたことから、王家の血筋は翡翠の血脈と表されることもある。
そして王座は常に翡翠の血脈にのみ受け継がれるのが習いだ。
だからこそ前王の唯一の子である榠樝が、女東宮という格別の位置にいるわけで。
「今や先々代まで遡らないと緑の血は出てこないけども。いや、降嫁した叔母上がいらしたか」
「とはいえ降嫁なさっておいでだから」
「うん」
又従兄弟たちまで合わせれば、数名居ないこともない。
だが正当な血筋と言えるのは。
「貴方だけだな、女東宮」
榠樝はふう、と吐息した。
「だからまさか殺されはしまいと高を括っていた」
認識が甘かったわけだが。
「だが、貴方を排除して誰が得をするか」
「摂政一派、となるわねえ。普通に考えて」
山桜桃は他の女房たちと共に榠樝の衣装を縫っている。
几帳の隙間からその様子を見、二人はまたこそこそと談合。
向こうからは仲睦まじいと見られているのだろう。
燥いだ楽し気な笑い声がこちらに向けられている。
気付かない振りをして、紫雲英は声を一層落とした。
「私が探ろうか」
「山桜桃を?」
うん、と紫雲英は肯く。
「黒鳶と蘇芳が手を組んだとは考え難い。だが、何某かの目的有ってのことだろう」
榠樝は逡巡し、口元に手を遣った。
考え込む時の癖だと、紫雲英ももう気付いている。
重ねて言った。
「私は貴方の味方だ。信じてほしい」
「それは信じてる」
あっさりと即答され、紫雲英の方が面食らった。
「そうなのか?」
驚く紫雲英に榠樝の方こそ驚いた。
「そうよ。信じて無ければこうも頻繁に碁の相手に呼ぶものですか。まさか信じられていないとでも思ってたの?そっちの方が吃驚だわ」
紫雲英は少し頬を赤くさせ、視線を揺らした。
「いや、まあ、私は菖蒲の嫡子だし。父上も伯母上も王家に連なることを念願としているし」
「嫡子でも家の傀儡にはならないのでしょ」
「うん」
榠樝はにやりと笑った。
「ならば。云わば、私たちは同志よ」
だからこそ。
「危険な目には合わせたくないというのが本音」
「貴方がそれを言うのか」
紫雲英は苦笑する。
「寧ろ私の方が貴方を危険に晒したくは無いのだが」
榠樝はふふんと鼻で笑う。今更だ。
王になりたいのだと宣言した時点で危険は覚悟の上。
「毒食らわば皿までよ」
「貴方が言うと余計怖ろしいな」
「まあ、正直毒はもう勘弁」
はははと二人声を合わせて笑って。
「任せてくれ」
紫雲英が言うのに榠樝はしっかりと頷いた。
「うん。任せた」
そして何事もなく幾日かが過ぎて。
ある日。
山桜桃が憤懣遣る方無しとばかりにどすどすと歩いてきて。
榠樝の前にどすんと座った。
普段優雅な山桜桃とも思えぬ仕草に榠樝はぱちぱちと目を瞬く。
「許せませんわ」
開口一番、紫雲英への批判が立て板に水の如くつらつらと流れ出した。
そして締め括りに宣言。
「あんな無礼者を女東宮の婿がねとは私、認めません」
何があったのだろう。榠樝はまた、目を瞬いた。
「全く、菖蒲の貴公子と名高い御方だと思っておりましたのに、とんだ見込み違いでしたわ」
どうやら山桜桃の周囲を紫雲英が嗅ぎ回っていることが露見したらしいが、それにしてもこの怒りようは何だろう。
「私の粗探しにしても程があります。それに何ですの、聞くところによると女東宮の元に参じるにあたって毎回手ぶらですって?」
榠樝は小首を傾げる。
「何か持って来たことは無かった、かな?」
たぶん。いや、そう。無かったと思う。
貰ったのは花を添えた果たし状くらいだろう。
「お歌の一つも持参すべきです。若しくは菓子なり流行りの化粧品なり」
「いや、紫雲英がそんなことをするのはおかし、」
「だから駄目なのですわ!」
最後まで言わせず山桜桃はドンと床を叩く。
思わず榠樝はびくりと飛び上がった。
「妻にと望む方の元に手ぶらで来るなんて今時民草でさえ有り得ません!」
その方が榠樝としては好ましいのだが、ここでそんなことを言ったら最後だというのは流石にわかる。
榠樝は賢明にも沈黙を守った。
「女東宮、夫君ですのよ。貴方を一生お支えする殿御です。あんな朴念仁にお任せできませんわ!ああ、私が男でしたら軒並み蹴倒してご覧に入れますのに」
鼻息荒く。
ひとしきり喚いたからであろうか、山桜桃は少し落ち着きを取り戻した。
「……水、要る?」
そっと胡瓶を取り寄せて碗に注いでやる。
胡瓶は本来酒器だが、榠樝は酒を嗜まない。水差し代わりに使っている。
それはともかく。
主が従者に水を注いでやるなど、ましてや女東宮が女房にすることでは無いのだが。
山桜桃は一瞬躊躇い、けれど碗を受け取った。
「頂戴します」
ごくごくと勢いよく飲み干して、山桜桃は碗を置く。
「ともかく、私の眼の黒い内は不甲斐無い殿御になぞ、女東宮をお渡しするものですか」
「……山桜桃は、誰を?」
「聞いた限り紫雲英どのが一等かと思っておりましたが駄目です。あんなのは候補にすら入れられません。かと言って蘇芳紅雨どのも藤黄茅花どのもイマイチ決め手に掛けます」
「はあ」
「我が従兄弟、花時どのなど問題外」
スッパリ切り捨てられている花時に、ほんの少し同情する榠樝。
「同様に月白虎杖どのも全く以て飛び抜けた所もなく」
辛い批評に、榠樝は若君たちが少し可哀そうになって来た。
「縹笹百合どのは、まあ、可もなく不可もなし。今までの競べでもそれなりの成績を修めておられるご様子。加えて女東宮へのお文もちゃんと贈って来られているとか。今の時点では私の一押しですわね」
意外な所に落ち着いたな、と榠樝は思わず唸ってしまった。
「尤も、笹百合どのも今のままでは及第点とは参りませんけれども」
山桜桃は熱い視線を榠樝に向ける。
「私が男でしたら、貴方をお守りするのに一番適していると思いますのに。残念でなりませんわ」
山桜桃の台詞に、榠樝もふと、揺らいだ。
もしも。
「私も、男だったら」
榠樝は少しだけ苦みを含んだ笑みを浮かべた。
叶わないこと。
有り得ないこと。
けれどもしも榠樝が女でなかったならば。
「世の中はもっと簡単に受け入れてくれたかな」
女東宮ではなかったなら。
もっと年齢を重ねていたなら。
父王がもっと長く生きていてくれたなら。
もしもの話。
有り得ない話。
榠樝の痛みが山桜桃にも伝わって来た。
「申し訳ございませんでした。言葉が過ぎました」
山桜桃は平伏し、詫びる。
「いや、私こそ、ただの愚痴だ。すまぬな。愚にもつかぬことを」
榠樝の手を取り、山桜桃は真っ直ぐに榠樝の眼を見た。
扁桃型の眼。猫のような山桜桃。
「私、命を賭して女東宮をお守り致します」
その言葉に嘘は感じられなかった。




