十
それから、菖蒲紫雲英は足繫く飛香舎へ通うようになった。
蘇芳紅雨が一歩抜きん出たかに見えた婿がねの競べは、一気に菖蒲が抜き返し、他の追随を許さぬ速さで先を行く。
というのが世間の評判である。
無論堅香子は知っている。
紫雲英は榠樝と碁と政の話がしたくて来るのだ。
甘い雰囲気など欠片も無い。
「政略結婚ですけれども。もう少しこう、何かないんですか」
榠樝と紫雲英は顔を見合わせ、同じ角度で首を傾げた。
「仮に紫雲英が王配になっても、遣り易いかなとは思うわね」
「仮に私が選ばれたなら、無論全力を賭してお支え申し上げるつもりであるが」
「ただ、そうすると六家でまた菖蒲が専横を図るのかしら?」
ちらりと榠樝が流し目を遣る。
紫雲英は真っ向から受け止めて首を振った。
「そのようなことはさせぬ、と断言出来たらよいのですが、そこまでの力はまだ私には」
「正直なのが紫雲英の良い所ね」
「お褒め頂き恐悦至極」
「うむ」
仲は良い。確かに仲は良いのだが。
はあ、と堅香子が溜め息を吐く。
「そういえば榠樝さま、紫雲英どの。藤黄の茅花どのから提案なのですが、榠樝さまにお出まし頂いて、婿がねで小弓合など如何かと」
「小弓合。いいじゃない。楽し気で」
榠樝が肯くのに、紫雲英は少し眉を顰めた。
「茅花どのといえば小弓はかなりお得意の筈。なるほど、点数を稼ぎに来たか」
榠樝が扇をひらりと返す。
「紫雲英、あなたは他より一歩、先んじてると思ってるかもしれないけれど、まだまだ決定打には欠けるのだということを肝に銘じて置いて」
紫雲英はふふんと鼻で笑った。
「言われずとも。無論小弓合であっても他の者に負ける気はありません」
段々態度が図々しくなってきた。本来の紫雲英の性質なのだろう。
却って心地良い、と榠樝は言うが堅香子は不満である。
猫被ってるよりマシ。とは榠樝の談だ。
そして、大方の予想通り。
小弓合は藤黄茅花が一等だった。
幾度も的のど真ん中を貫いて。
きゃっきゃとはしゃぐ榠樝を見、嬉し気な茅花と不機嫌な紫雲英。そして蘇芳紅雨。
縹笹百合は相変わらず静かに微笑んでいる。
見る方もなし、となっているのが月白虎杖と黒鳶花時である。
流石の月白凍星も黒鳶夕菅も目を覆っていた。
「褒美を取らせる。藤黄茅花、参れ」
「はい!」
元気よく茅花が進み出て、榠樝は衣を肩に掛けてやる。
上気した頬ときらきら輝く眸が犬のよう。
可愛らしいと榠樝は微笑んで、茅花は耳まで赤くなった。
それを見、紅雨が思い切り顔を顰めた。
先日の蹴鞠会で蘇芳が一歩、碁で菖蒲が、小弓合で藤黄がそれぞれ一歩ずつ並んだ。
六家それぞれの当主たちはまずまずの結果と見ているらしいが、縹苧環は息子の笹百合にそっと視線を投げた。
お前はいいのかい、とでも言いたげに。
それに気付いた笹百合がそっと肯くように頭を下げた。
笹百合は、榠樝が笑っていてくれるなら、それでいいのだ。
「昔から欲の無い子であったけれど」
小さく零れた苧環の言葉に藤黄橘が少し小首を傾げる。
「笹百合どのですか?見事でしたね。今回ばかりは我が弟の方が一歩勝っていたかもしれませんが、次は笹百合どのかもしれません」
「ふふ、それは分に過ぎたるお言葉を。茅花どのは百発百中ですか。ほぼ真ん中でしたね」
「弟は気分に左右される性質でして。今は調子に乗り過ぎていて、お恥ずかしい」
「いやいや、元気で宜しい」
言う側から、茅花と紅雨が小競り合いを始めている。
「では誓約をしようではないか!」
「望むところだ!望みを言って矢を射よう」
ぎょっとしたのは蘇芳躑躅と橘だ。
「何をしている、紅雨!女東宮の御前であるぞ!」
「茅花!調子に乗り過ぎだ!」
二人慌ててそれぞれ息子と弟を押さえに走る。
榠樝は面白そうに眺めている。
六家当主が慌てふためく姿など、到底見られるものでは無い。
「いいえ、父上!今日こそは思い知らせて遣らねばなりません!」
「橘兄上、これは男として退いちゃいけない勝負だよ!」
鼻息荒く訴える紅雨に、毛を逆立てた猫のような茅花。
ぎゃあぎゃあと争う様に榠樝は宣う。
「よいぞ。遣って見せよ。そなたらは何を願う?」
軽く投げた言葉だったが、真っ向から男子二人の熱を帯びた強い視線を浴びて。
榠樝は目を瞬いた。
傍らの堅香子に、扇の影でそっと問う。
「もしかして、これ、マズい感じ?」
「火に油注いじゃいましたね」
堅香子はやれやれと首を振る。
「紫雲英どので完全に油断してましたでしょ。榠樝さま、婿がねとは文字通り婿の候補。婿とは夫君です。榠樝さまを妻にと望んでいる殿御たちの争いなのですよ」
紫雲英が例外なのです、と改めて、噛んで含めるように言われて。
榠樝は血の気が引くのを感じた。
「では」
と紅雨が狩衣を片肌脱ぐ。
弓を引き、宣言する。
「我、女東宮の婿たらば、この弓当たれ」
ひゅっと榠樝が喉を鳴らす。
矢は真っ直ぐに飛び、けれど的を外れる。
次は茅花。目を閉じ、すっと表情を消した。
再び目を開けた時には別人のような真剣な目で。
「俺が女東宮の婿になるなら、この矢当たれ!」
ビィンと鳴弦のように音を響かせ、矢が放たれる。
榠樝は目を瞠って、視線を外さない。
矢は、同じく的を外した。
ほっとしたように吐息する榠樝に、堅香子が何とも言えない顔を向けた。
「どなただったら、当たって欲しいのですか?」
榠樝はちらりと流し目をくれるが何も言わず、また前を向いた。
どきどきと心臓が早鐘のようだ。苦しくて頭がずきずきする。
気分が悪い。
ぎり、と榠樝は奥歯を噛みしめる。
私が男だったなら。
もしも女東宮などという特殊な立場ではなく、ただの東宮であったなら。
何とも言い難い感情が胃の腑の辺りに燻っている。
すっくと榠樝は立ち上がり、袴の裾を翻し前に出た。
「女東宮?!」
止める声に耳も貸さず、榠樝は庭に降りた。
堅香子が慌てて駆け寄る。
榠樝は前を、的を見据えて言った。
「弓を。私も誓約を」
するりと袿を脱ぐ。
単袴姿で大勢のしかも男性の前に立つなど、正気の沙汰とも思えない。
だが榠樝はどこまでも本気だった。
「なりません、榠樝さま!」
笹百合がそっと堅香子を抑える。
「お望みのままに」
弓矢を差し出し、笹百合はそっと跪いて首を垂れた。
笹百合を見つめ、頷いて。
榠樝は的を見据える。
近くて遠い距離。見えるのに届かない。
「私が王に足る器ならば」
皆の視線を一身に集め、榠樝は弓を引いた。
「この矢、当たれ」
矢が放たれた。
真っ直ぐに、揺らぎもせずに飛んでいく。
花時は思う。
昔幼子の頃、小弓が引けずに地団太踏んで怒っていた女童が、今やこんなにも立派に。
けれどまさか、当たりはすまいと思っていた。
榠樝がふ、と息を吐く音が聞こえた。
皆が皆、全員、息を止めて見入っていた。
「誓約はなされた」
透き通るような声で、榠樝は宣言する。
矢は的の中心を違わず射抜いていた。