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虹霓国の女東宮  作者: 浮田葉子
第二章 無知の知
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 菖蒲紫雲英(あやめのげんげ)を迎え撃つにあたって。

 榠樝(かりん)は雑念を捨てるべく、瀧に打たれるような気持ちでいた。


 明鏡止水(めいきょうしすい)の如く。



「婿がねを迎える姫君ではなく、決闘の前のお顔ですわね」


 堅香子(かたかご)が呆れるくらいに浮ついたところの無い榠樝だ。

 もう少し心躍るとか、そういう気持ちにならないものだろうか。


「まさしく決闘よ、堅香子。私のすべてを懸ける気持ちで挑むわ」


 凛と。

 榠樝は威儀(いぎ)を正して勝負に臨む。




「菖蒲紫雲英どの、参られました」




「通せ」


 ぴんと張り詰めた声。緊張が頂点に達する。


 ふわりと薫物(たきもの)が香った。



 焦る心を静めてくれるような、爽やかな香り。

 荷葉(かよう)に近いが若干、白檀(びゃくだん)甘松香(かんしょうこう)が強い。


 心が落ち着く良い香りだ。



 紫雲英がゆっくりと御簾(みす)を潜る。

 決して強過ぎず、けれど爽やかな甘みが良く似合う。


「菖蒲紫雲英にございます。此度(こたび)の機会をくださいましたこと、心より御礼申し上げます」


 声も透き通るようで心地良い。


「うむ。(おもて)を上げ、楽にせよ」


 紫雲英はすっと躊躇い無く顔を上げる。

 榠樝は紫雲英の視線を真っ向から受け止めた。


 却って紫雲英の方が狼狽(ろうばい)する。



 頼り無げな少女ではなく、美しく強い一人の女性がそこに居た。


 (おうち)のかさねも(あで)やかに、凛とした女東宮。それが最初の印象だった。


 つんと取り澄ました紫雲英の顔に、一瞬だけ当惑した少年の表情が(よぎ)った。



 勝った。と堅香子は思った、と後に榠樝に告げている。


 あの瞬間に、既に勝負は決したのだと。




「では、始めようか」


 榠樝は扇を鳴らし、碁盤を運ばせた。


「ご無礼申し上げます。置石は幾つになさいますか」


 紫雲英の台詞に榠樝は告げる。



「要らぬ」



 ぎょっとしたような紫雲英と堅香子に、少しおかしくなった。


「たとえ星目(せいもく)でも、そなたが私に負けることはあるまい。そのつもりで来たのだろう?」


 紫雲英は一瞬言葉に詰まり、けれど素直に頷いた。


「勿論です」


 榠樝は悠然と微笑み、言う。



「私が勝つことはあり得ぬかもしれぬ。だが万が一もあろう。それに、」


 榠樝は白石の碁笥(ごけ)を紫雲英の方へ押し遣る。


「負けるとしても無様な負け方はせぬよ」



 得物を狙う猛禽類のような眼だった、と後に紫雲英は語っている。


 そんな物騒じゃない、と榠樝は反応したらしい。

 ともかく、とても鋭い眼光ではあった。




「では」


 少し声が裏返って、紫雲英は咳払いをして誤魔化して。

 白石を握った手を盤上に置く。


「半先」


 榠樝が宣言する。紫雲英の開いた手の下には碁石が五つ。

 にこりと榠樝が笑って黒石の碁笥を引き寄せる。


「始めようか」










 ぱちり、ぱちりと。ゆったりとした時間が流れて行く。


 しかし空気は酷く張り詰めている。

 堅香子が手に汗握る状態だ。


 榠樝が善戦している。逆に紫雲英の方が焦っているようだ。

 現在優勢なのは紫雲英の方だというのに、気持ちにゆとりが無い。


 榠樝は静かに石を置いていく。


 紫雲英が顔を顰めた。アタリの石を助けるか、否か。

 ちらりと榠樝を見ると、榠樝もまた紫雲英を真っすぐに見据えていた。



 一点の曇りもない、澄んだ双眸。

 その中に自分の顔が映っている。


 動揺して、紫雲英は思わずがちゃりと石を鳴らした。


 らしくない挙動に、ますます紫雲英は狼狽(うろた)えたようで。


 珍しく、繋ぎに失敗した。



 手が滑ったのだろう、と榠樝は思う。

 紫雲英の方がずっと強いのだ。


 相手の動揺に付け込んで、榠樝は遠慮なく白石を取っていく。



 それから。

 紫雲英は酷く乱れた




「終わりだな」


「終わりましたね」


 ふう、と榠樝は長く息を吐く。

 黒の半目勝ち。辛うじて、辛うじて勝った。運がよかった。


 きっと次は無い。




「動揺のあまり打ち損じました」


「だろうな。付け込ませてもらった」


 悪びれない榠樝に紫雲英も小さく苦笑を返す。


「万が一にも負けることなどないと思っていましたよ」


「うむ、そうだな。私もそう思っていた」


 あまりにあっさりと榠樝が(うなず)き、紫雲英は苦笑を深くする。


「此度は私に龍神の加護があったのだろう。ありがたいことに、そなたが随分と失敗を重ねてくれた」


「見誤っていたかもしれません」


 紫雲英が溜め息交じりに零した。


「うん?」


 紫雲英が平伏する。



「私は女東宮を(あなど)っておりました」



 真っ直ぐに言われ、榠樝は思わず声を上げて笑った。


「ははは、見縊(みくび)られているのはわかっていたが、はは、まさか真っ正直に言ってくれるとはな!」


「お怒りでは?」


「怒っていたら、そもそも呼ばぬよ」


 扇でぱたぱたと(あお)いで。榠樝は笑いを収める。


「直接話がしたかったのは、というか、直接見極めたかったのは私も同じでな」


 二人の間にぴりりと緊張感が走る。




「菖蒲家の嫡男(ちゃくなん)、紫雲英。そなたも家の名に圧し潰されんとするのを()ね除けようと日々努力を重ねているだろう」


「女東宮も、真っ直ぐに真っ当に、王を目指しておられるのですね」


 榠樝は肯く。




「ただの王では意味が無い。良き王にならねばならぬ」


「私も、良き当主にならねばなりませぬ」


 紫雲英が榠樝の眼を真っ直ぐに見据え、言う。



「畏れながら女東宮は、私と似ておられます」



「ふふ、そうか。似ているか」


 楽し気な榠樝に、紫雲英もにやりと笑った。


 今までの貴公子然とした笑みではなく、それこそ榠樝と似た表情だった。


「貴方と(まつりごと)の話がしたい」


「奇遇だな。私もだ」


 見つめ合って、しっかりと頷く。


 熱い視線がぶつかって、爽やかな風が吹き抜ける。



 堅香子は天を仰いだ。

 恋ではなく友情が芽生えたらしい。


 盛大に溜め息を零しつつ、堅香子は言う。


「お二方ともお疲れでしょう。茶を用意させましょう」








「亡き父上が仰せになられたのは、国は身体であるということだ」


「なるほど。道を整え、滞りなく物資を流さねば、各部分がいずれ壊死していく」


「そう。血を一つ所に留めようとしてはならないと。身体の隅々まで行きわたらせ、各々の部署が正しく機能してこその朝廷である」


「仰せの通り。ゆくゆくは(いち)などももっと盛況に致したく。活気ある都になればと思っております」


「その為にも大路だけではなく小路も整えねば。あと水」


「そう、水。物資の運搬だけでなく、疫病の対策だけでなく」




 大いに盛り上がる二人に、堅香子は茶を差し出しながらそっと溜め息を吐いた。

 どうやら意気投合したらしいが、恋の欠片も見当たらない。


 距離を詰め、頬を紅潮させ、話し合うのは政。




「婿がねなんですけどねえ」




 堅香子の呟きは二人には拾われずに消えた。



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