一
龍に見守られし国、虹霓国。
葦が茂り、稲穂が瑞々しく育った、小国ながら平穏で豊かな国である。
建国の王の宝珠は翡翠。今も神器として大切に祀られている。
王の下、諸侯は忠誠を誓い粛々と頭を垂れる。
長閑な国であった。
だが本日、御前定についた公卿たちは浮足立って騒めくばかり。
虹霓国の内裏ではないかのような張り詰めた不穏な空気である。
ひそめた声であっても、耳には届く。
「まさか王が身罷られるとは……」
「斯様なことは前代未聞であるぞ」
まさかの王の崩御。
何の前兆も無く、病の気配も無く。
あまりに突然の王の死である。
「何かの陰謀では……」
「陰陽寮では何の兆候も予見できなかったというのか」
「呪詛では、あるいは毒……。いずれにしても陰陽師は何をしていた?この危機的状況の気配を察知できぬとは」
「残されたのは女東宮ただお一人だぞ」
「務まるのか」
「まだ十四の女東宮に、」
一際大きな咳払いが響き、しんとその場が静まり返った。
「御前であるぞ」
左大臣、蘇芳家の深雪が低く唸る。
政の場において、王の次席にあり、すべてを取り仕切っていた男である。
「よい。王の座さぬ御前定は異例中の異例。皆も動揺しておろう」
昼御帳から聞こえた高く澄んだ声は、震えてはいなかった。
だが、緊張感の溢れる様子は隠しようも無く。
まだ十四歳の少女、女東宮である榠樝は、今は亡き王のただ一人の子である。
いずれ王となる身。だがそれは今では無い筈だった。
早くて十年は先のことの筈。
王配たる婿を得、後ろ盾たる家を定め、その上での即位であると誰もが考えていた。
だが、突然に王は身罷った。
王座を空にはして置けぬ。
左大臣が恭しく頭を垂れた。
「女東宮に申し上げます」
「うむ」
「ご即位の前に、女東宮の婿君を早々に決めねばなりません」
場が揺れた。
再び騒めく公卿たち。左大臣は言葉を続けた。
「畏れながら、女東宮はあまりにお若く、また女性であられる為、確たる後ろ盾を持たねばならぬと存じまする」
榠樝は眉を寄せた。
「私は王たるには不足か」
騒めく公卿を尻目に、左大臣は肯いた。
「畏れながら」
あっさりとした返答に、女東宮はこれまたあっさりと同意する。
「で、あろうな。見ての通り、私はまだ子供である。だが」
一旦息を継ぎ、榠樝は言う。
「私は女東宮であるぞ」
十四歳の子供とは思えぬ威厳に、その場の全員が息を吞んだ。
「は」
平伏した左大臣。揺れる公卿らを眺め、榠樝は唇を噛む。
足りない。
自身では到底、足りはしない。
経験も知識も、能力も。求心力も影響力も。
今の榠樝では足りないことはわかっていた。父王に及びもしない。
当たり前だ。
まだ十四の少女。それでも父王と同じだけの忠誠を得なければならない。
だが、一瞬の威圧だけでこの難局を乗り切れる筈も無く。
王たる威厳が、今、必要なのに。
榠樝は精一杯の虚勢を張り、声を張った。
「そなたらも左大臣と同じ意見か。右大臣、そなたは如何だ」
右大臣、菖蒲家当主紫苑。
ゆっくりと顔を上げ、ひとつ咳払いをし、右大臣は言った。
「前代未聞でありますからな。まずは摂政を定めるべきかと」
「榠樝さま、いかがでございましたか、初めての御前定は」
飛香舎(女東宮の座所)に戻ると腹心の女房である堅香子が迎えてくれた。
「疲れた」
榠樝が纏うのは王族にのみ許された翡翠のかさね。
鮮やかな緑が瑞々しいが、却って疲労を際立たせてしまっている。
眼の下に隈が浮いている。
父を亡くしたばかりで泣きたいだろうに、それも許されず。
重責を終えて来たばかりなのだ。疲れ切って当然。
小袿を脱ぎ、衣袴姿になると榠樝はごろんと茵に引っ繰り返った。
「摂政が左大臣の、蘇芳の深雪に決まった。そこまでは想定内だった。そこまでは」
ぐしゃりと髪を掻き上げて、長く長く溜息。
「最初から上手くはいかないとは思っていたけど、まさか即位より先に婿取せよとはなー」
掻い摘んで話すと堅香子は眉を顰めた。
「然様なことが」
差し出された枕を首の下に突っ込んで、何とも雑な姿で榠樝は天井を仰ぐ。
「婿か」
榠樝はまだ十四歳。
女東宮の婿に相応しき若君の擁立に、そろそろ各家々が動き出そうとし始める頃合いかとは思っていた。
思ってはいたが、それがこんなにも早くとは。
しかも父王の逝去によってとは。
誰も予想し得なかった事態である。
あまりに突然過ぎた。
「父上も母上に早く逢いたかったのかしら」
思わずぽつりと零れた言葉だった。
だが、口に出してしまえば実際、そのような気もしてきて。
榠樝の母、故中宮は黒鳶家の一の姫で名を常花といった。
父王の唯一人の后だった。
榠樝が四つの年に病で果敢無くなった。
それ以来、父王は一人の女御も入内させず、御息所も設けず、ただ一人常花だけを想い続け、十年。
中宮のもとへと逝ってしまった。
「まだ早いのよ、父上」
まだ早い。
まだまだこれから。十年二十年と続く筈だった父王の御代。
賢王として歴史に輝かしく名を刻むはずだった。
その傍らで、虹霓国において初の女東宮として王の政を見つめるはずだった。
異例ではあるけれど、父王の御代ならば安泰。
充分に学び、備え、力を蓄える筈だった年月は泡沫のように消え去った。
人とはなんと儚いものだろうか。
失ってから気付く。
それでは遅いというのに、人はいつも繰り返し、後悔する。
当たり前の日々の、なんと尊いことか。
もっと話をしておけばよかった。
もっと、聞かねばならないことがたくさんあった。
王座を継ぐ者として。ただの親子として。
話しておかねばならないことは、話しておきたかったことは、もう二度と届かない。
ぐっと眉間に力を籠め、涙を堪える榠樝の顔に、堅香子はそっと衣を被せてくれた。
「見ておりませぬ故、我慢なさいますな。これからは我慢ばかりになりましょう」
「ぅえ……」
小さく漏れる嗚咽に、堅香子はそっと睫毛を伏せ、飛香舎を後にした。