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虹霓国の女東宮  作者: 浮田葉子
第二章 無知の知
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 榠樝(かりん)は緊張していた。


 慕っていた相手に久し振りに会うのだ。緊張くらいする。



 ふわりと懐かしい香が鼻先を(くすぐ)る。優しい風のような香り。沈香(じんこう)丁子(ちょうじ)が涼し気で(すが)しい。榠樝には嗅ぎ分けられないが、奥深く色々な香が品よく混ざり合っている。


縹笹百合(はなだのささゆり)どの、参られました」


 堅香子(かたかご)が告げる。



 すっと御簾(みす)(くぐ)り笹百合が入って来た。


 用意された(しとね)の前で膝をつき、(こうべ)を垂れる。


「お久しゅうございますね、榠樝さま、いえ、女東宮」


 榠樝はぎこちなく笑った。


「榠樝でいいわ。久し振りね、笹百合」


 目が合って、微笑み合う。



 こうして近しく言葉を交わすのはどれくらいぶりだろう。

 やはり笹百合の側は空気が優しくて、居心地がいい。



「本日呼び立てたのは、碁の相手を頼みたくて」


「お聞きしました。菖蒲紫雲英(あやめのげんげ)どのと勝負をなさるとか」


「どこまで噂になってるの、それは」


 苦笑する榠樝に笹百合はそっと笑う。


「まだ、それほど」


「それなりには広まってるのね」


「早耳はどこにでも居ります(ゆえ)


 榠樝は肩を竦める。


「まあ、そういうことなの。私があまりに弱くても困るから、少し練習相手になって欲しくて」


「ええ、喜んで」


 笹百合は花が綻ぶように微笑んだ。

 その笑みを目にして、堅香子は息を呑む。


 男なのに、なんと美しい。




三子局(さんしきょく)でいいわね?」


 碁石を並べ始める榠樝に、笹百合が少し目を瞬いた。


「おや、置き碁ですか?」


 榠樝はくすりと笑った。


「まだそれくらいしないと勝てないんじゃないかと思ってるけど?」


 笹百合は悪戯っぽく笑い返す。


「私相手に三子では、紫雲英どのには七子、いや星目(せいもく)になりますよ」


 榠樝が膨れっ面になる。


「九子も置かないわよ」


「試してみましょう」


 楽し気な笹百合に榠樝は力強く応える。


「よくご覧なさいな」


 対局が始まった。




 ぱちり、ぱちりと静かに碁石の音がする以外は相手の呼吸しか聞こえない。


 二人きりの空間のような気すらする。


 いや、堅香子はすぐ側に控えているのだけれど。


 相手の動きを見て、先を読む。

 相手が何を考えているか、読む。


 榠樝は(じっ)と笹百合の手を見つめる。優美な指先。きれいな爪。だけど堅香子とは違う、少し骨ばった、大人の男の手。


 榠樝は頭を振る。


 余計なことを考える暇は無い。少しでも強くならねば。




 本当に星目で相手しなくてはならないのなら、紫雲英は幻滅するだろう。


 虹霓国(こうげいこく)の将来を見るに、王家は駄目だと判じられたら。


 菖蒲が蘇芳につくことは万が一にも無いだろうけれど。それでも。


 摂政(せっしょう)につく方が分のいい勝負と判断されたら。




 榠樝はまた、頭を振った。


 それだけは避けたい。




「榠樝さま?」


 笹百合が心配そうに声を掛けてくれる。榠樝は目を開け、笑う。


 大丈夫、と。


「余計なことを考えたわ。集中します」


 睫毛を伏せ、一見冷たくすら見える表情になる榠樝は、十四の少女の顔ではなくて。


 笹百合は少しだけ辛そうに睫毛を震わせる。


 無理をしないで、と言いたいけれど。それを榠樝は望んでいない。




 対局していてわかった。


 榠樝は王になりたいのだ。

 それも、亡き父王に匹敵するくらいの。比類なき王に。



「あなたは」


 笹百合はそっと囁くように、言った。


「強くなりたいのですね」


 榠樝が視線を上げる。


 先程と打って変わって、星を宿したように強く輝く双眸。



「ええ。強くなりたいわ。強くなるわ」



 そうでなければならないのだ。


 ぱちん、と碁石が置かれる。


 終盤。


 細かい陣地の争い、不完全な陣地の補強。

 気を抜くと進入されて陣地が減っていく。


 後は細やかな目配りがものをいう。見落としが一つでもあってはならない。


「力み過ぎては、却って目に入らぬことが増えるものです」


 穏やかな笹百合の言葉に、榠樝はふ、と笑った。


「笹百合には、敵わないわね」


 すべて見透かされているような気がする。

 少しだけ苦い思いを噛み締めて、榠樝は石を置いた。


「終わりね」


「終わりですね」


 ぱちり、ぱちりとダメを詰めていく。

 死石を除去し、整地。



 笹百合が微笑む。


「黒の三目勝ち。やっぱりお強くなられていますよ、榠樝さま」


「そりゃあ、幼い頃よりは」


 でも、と榠樝は笹百合を見る。


「笹百合、手加減したでしょう」


「おや、そのようなことは」


 意外そうな笹百合の表情に、榠樝は眉を下げた。


「じゃあ無意識ね」


 笹百合は怪訝そうに首を傾げている。全くの意識の外だったのだろう。


「笹百合に手加減してもらっているようでは、紫雲英には敵わないか」


 悔しそうな榠樝に、笹百合は申し訳なさそうな表情で頭を下げる。


「ご不快にさせてしまい、お詫び致します。そのようなつもりは無かったのですが」


「謝ってもらう所じゃないわ。ただ、少し残念なだけ」


「残念、ですか」




 榠樝は微妙な表情で笑った。

 大人とも子供ともつかないような、曖昧な笑顔。



「私は、まだまだ子供で、一人前には程遠いのね」



 笹百合が瞬く。


 今一瞬、榠樝が(まばゆ)く輝いて見えたのだ。


 (たと)えるならば、霜の中に咲く白菊。


 朝日が当たってきらきらと輝く一面の霜の中、その霜と見分けがつかないくらいに白い菊。

 霜にも負けずと首を(もた)げて凛と立つ白菊は、なんと清らかで美しいことだろう。


「いいえ、榠樝さま。あなたは」


 笹百合はゆっくりと、噛み締めるように目を細めた。


「素晴らしい大人におなりですよ」


 蘇芳紅雨(すおうのこうう)が一目で恋に落ちるくらいに。

 幼い頃から知っている自分が、思わず見蕩(みと)れてしまうくらいに。



 柔らかな表情の笹百合に少し照れて。


「だといいのだけど」


 小首を傾げる姿は幼いあの日と変わらないのに。

 纏う空気が(きらめ)きを増している。


 それは決して自分の気持ちの所為だけでは無いだろう、と笹百合は胸を熱くさせた。


 父王を亡くして、その細い両肩に否応(いやおう)なく重責を負って。



 榠樝は強くなった。

 そして強さに見合う程に、それ以上に。


 美しくなった。


 羽化したばかりの蝶のよう。

 儚くも力強く、そしてこれからもっと輝いていく。



 その日はきっとそれほど遠くはない。



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