八
榠樝は緊張していた。
慕っていた相手に久し振りに会うのだ。緊張くらいする。
ふわりと懐かしい香が鼻先を擽る。優しい風のような香り。沈香に丁子が涼し気で清しい。榠樝には嗅ぎ分けられないが、奥深く色々な香が品よく混ざり合っている。
「縹笹百合どの、参られました」
堅香子が告げる。
すっと御簾を潜り笹百合が入って来た。
用意された茵の前で膝をつき、頭を垂れる。
「お久しゅうございますね、榠樝さま、いえ、女東宮」
榠樝はぎこちなく笑った。
「榠樝でいいわ。久し振りね、笹百合」
目が合って、微笑み合う。
こうして近しく言葉を交わすのはどれくらいぶりだろう。
やはり笹百合の側は空気が優しくて、居心地がいい。
「本日呼び立てたのは、碁の相手を頼みたくて」
「お聞きしました。菖蒲紫雲英どのと勝負をなさるとか」
「どこまで噂になってるの、それは」
苦笑する榠樝に笹百合はそっと笑う。
「まだ、それほど」
「それなりには広まってるのね」
「早耳はどこにでも居ります故」
榠樝は肩を竦める。
「まあ、そういうことなの。私があまりに弱くても困るから、少し練習相手になって欲しくて」
「ええ、喜んで」
笹百合は花が綻ぶように微笑んだ。
その笑みを目にして、堅香子は息を呑む。
男なのに、なんと美しい。
「三子局でいいわね?」
碁石を並べ始める榠樝に、笹百合が少し目を瞬いた。
「おや、置き碁ですか?」
榠樝はくすりと笑った。
「まだそれくらいしないと勝てないんじゃないかと思ってるけど?」
笹百合は悪戯っぽく笑い返す。
「私相手に三子では、紫雲英どのには七子、いや星目になりますよ」
榠樝が膨れっ面になる。
「九子も置かないわよ」
「試してみましょう」
楽し気な笹百合に榠樝は力強く応える。
「よくご覧なさいな」
対局が始まった。
ぱちり、ぱちりと静かに碁石の音がする以外は相手の呼吸しか聞こえない。
二人きりの空間のような気すらする。
いや、堅香子はすぐ側に控えているのだけれど。
相手の動きを見て、先を読む。
相手が何を考えているか、読む。
榠樝は凝と笹百合の手を見つめる。優美な指先。きれいな爪。だけど堅香子とは違う、少し骨ばった、大人の男の手。
榠樝は頭を振る。
余計なことを考える暇は無い。少しでも強くならねば。
本当に星目で相手しなくてはならないのなら、紫雲英は幻滅するだろう。
虹霓国の将来を見るに、王家は駄目だと判じられたら。
菖蒲が蘇芳につくことは万が一にも無いだろうけれど。それでも。
摂政につく方が分のいい勝負と判断されたら。
榠樝はまた、頭を振った。
それだけは避けたい。
「榠樝さま?」
笹百合が心配そうに声を掛けてくれる。榠樝は目を開け、笑う。
大丈夫、と。
「余計なことを考えたわ。集中します」
睫毛を伏せ、一見冷たくすら見える表情になる榠樝は、十四の少女の顔ではなくて。
笹百合は少しだけ辛そうに睫毛を震わせる。
無理をしないで、と言いたいけれど。それを榠樝は望んでいない。
対局していてわかった。
榠樝は王になりたいのだ。
それも、亡き父王に匹敵するくらいの。比類なき王に。
「あなたは」
笹百合はそっと囁くように、言った。
「強くなりたいのですね」
榠樝が視線を上げる。
先程と打って変わって、星を宿したように強く輝く双眸。
「ええ。強くなりたいわ。強くなるわ」
そうでなければならないのだ。
ぱちん、と碁石が置かれる。
終盤。
細かい陣地の争い、不完全な陣地の補強。
気を抜くと進入されて陣地が減っていく。
後は細やかな目配りがものをいう。見落としが一つでもあってはならない。
「力み過ぎては、却って目に入らぬことが増えるものです」
穏やかな笹百合の言葉に、榠樝はふ、と笑った。
「笹百合には、敵わないわね」
すべて見透かされているような気がする。
少しだけ苦い思いを噛み締めて、榠樝は石を置いた。
「終わりね」
「終わりですね」
ぱちり、ぱちりとダメを詰めていく。
死石を除去し、整地。
笹百合が微笑む。
「黒の三目勝ち。やっぱりお強くなられていますよ、榠樝さま」
「そりゃあ、幼い頃よりは」
でも、と榠樝は笹百合を見る。
「笹百合、手加減したでしょう」
「おや、そのようなことは」
意外そうな笹百合の表情に、榠樝は眉を下げた。
「じゃあ無意識ね」
笹百合は怪訝そうに首を傾げている。全くの意識の外だったのだろう。
「笹百合に手加減してもらっているようでは、紫雲英には敵わないか」
悔しそうな榠樝に、笹百合は申し訳なさそうな表情で頭を下げる。
「ご不快にさせてしまい、お詫び致します。そのようなつもりは無かったのですが」
「謝ってもらう所じゃないわ。ただ、少し残念なだけ」
「残念、ですか」
榠樝は微妙な表情で笑った。
大人とも子供ともつかないような、曖昧な笑顔。
「私は、まだまだ子供で、一人前には程遠いのね」
笹百合が瞬く。
今一瞬、榠樝が眩く輝いて見えたのだ。
譬えるならば、霜の中に咲く白菊。
朝日が当たってきらきらと輝く一面の霜の中、その霜と見分けがつかないくらいに白い菊。
霜にも負けずと首を擡げて凛と立つ白菊は、なんと清らかで美しいことだろう。
「いいえ、榠樝さま。あなたは」
笹百合はゆっくりと、噛み締めるように目を細めた。
「素晴らしい大人におなりですよ」
蘇芳紅雨が一目で恋に落ちるくらいに。
幼い頃から知っている自分が、思わず見蕩れてしまうくらいに。
柔らかな表情の笹百合に少し照れて。
「だといいのだけど」
小首を傾げる姿は幼いあの日と変わらないのに。
纏う空気が煌きを増している。
それは決して自分の気持ちの所為だけでは無いだろう、と笹百合は胸を熱くさせた。
父王を亡くして、その細い両肩に否応なく重責を負って。
榠樝は強くなった。
そして強さに見合う程に、それ以上に。
美しくなった。
羽化したばかりの蝶のよう。
儚くも力強く、そしてこれからもっと輝いていく。
その日はきっとそれほど遠くはない。




