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虹霓国の女東宮  作者: 浮田葉子
第二章 無知の知
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 蹴鞠会(けまりえ)、当日。仁寿殿(じじゅうでん)の庭に(かかり)が設けられる。


 本日鞠足(まりあし)を務める六家の婿がねたちはそれぞれ麗しやかな水干(すいかん)を身にまとい、思い思いに出番を待っている。


 当然のようにそれぞれの家の色の水干である。


 布地も選び抜いたものだろう。一目で良いものだとわかる色艶だ。




 榠樝(かりん)はこっそりと柱の影から様子を伺う。


 女東宮(にょとうぐう)の入場があれば場が引き締まる。

 その前の様子を見たかったのだ。



「榠樝さま、そろそろご準備を」


 堅香子(かたかご)もひっそりと囁くように促す。


「もうちょっと素の様子を見たかったんだけどな」


「既に若君たちは戦場にいらっしゃるようなもの。素の様子など見られますまい」


「まあ、そうね」


 少し残念そうに榠樝は唇を尖らせると肩を竦めた。


「あまり待たせるのも酷ね。行きましょうか」






「女東宮のお出ましでございます」


 東宮坊大夫(とうぐうぼうだいふ)の声に、場にびりりと緊張が走ったのがわかった。

 御前定(ごぜんさだめ)に慣れている者ばかりではなく、若君たちの殆どが初お目見え。


 それぞれに畏まり(こうべ)を垂れている。

 若草のかさねをゆるりと翻し、榠樝は言う。



「よい。楽にせよ」



 高く澄んだ榠樝の声に、固まっていた場が、皆がゆっくりと動き出す。

 ちらりとこちらを窺う者の多いことに苦笑し、榠樝は小首を傾げた。


「まるで珍獣」


 こっそりと囁けば堅香子に窘められる。


「榠樝さま」


 それでも笑みは顔に貼り付けたまま。

 榠樝は殊更ゆっくりと六家の婿がねの姿を眺めていく。


 蘇芳紅雨(すおうのこうう)菖蒲紫雲英(あやめのげんげ)縹笹百合(はなだのささゆり)藤黄茅花(とうおうのつばな)月白虎杖(つきしろのいたどり)、そして黒鳶花時(くろとびのはなどき)


 笹百合と目が合って。彼は柔らかく微笑んで会釈する。


 榠樝は目を細めて頷く。

 見知った顔は心安い。緊張が解けていく。



 鮮やかな縹の水干、生成りの袴を身につけて、背筋を伸ばし。笹百合は一際(ひときわ)美しかった。


 話がしたい。他愛のない話。


 庭木の花が咲いたとか、小雨が霧のように曇っていたとか、昨日の甘葛煮が美味しかったとか。


 そういうなんでもない話がしたい。


 けれど。




 目に見える距離なのに。こんなにも遠い。




 そっと吐息を零して、榠樝は深い蘇芳の衣に目を遣った。


 こちらを見向きもせず、紫紺の袴の裾を整えて。紅雨は凛と立っていた。


 紅雨の射抜くような視線の先には菖蒲の水干の紫雲英。苗色(なえいろ)の袴が瑞々しい。名前の様に紫雲英のような若者だ。可憐だが意志の強そうな横顔。


 我関せずと身体を温めているのが藤黄の水干の茅花。菜の花の様な、或いは蒲公英(たんぽぽ)のような力強さを感じる。


 目が合って、にこりと笑って手を振って見せる茅花に堅香子が目を覆った。


「なんてみっともない」


 兄であり当主である藤黄橘(とうおうのたちばな)が頭を抱えている。


「いや、元気でいい」


 手を振り返せば場が(ざわ)めいた。


「榠樝さま。過剰な歓待(サービス)はお控えを」


「ちょっとなら」


「婿がねにとってそのちょっとが一喜一憂のもとですよ」


 わかってはいるけれど。



 榠樝は月白と黒鳶の水干を探した。


 気配を消している訳でもないだろうに。目立たない二人の若君。


 いや、花時は本当に気配を消そうと頑張っているのかもしれないが、虎杖は何とも普通の、本当に凡庸な印象である。


「緊張しているようだね」


 縹苧環(はなだのおだまき)が煽る意図では無いのだろうけれど月白凍星(つきしろのいてぼし)を挑発し、凍星が目の下に皺を刻み。


 黒鳶夕菅(くろとびのゆうすげ)は息子花時の覇気の無さに怒りを覚え。


 菖蒲紫苑(あやめのしおん)は紫雲英の動じなさにこっそり胸を撫で下ろしている。




 ひとしきり眺めた頃、小鞠(こまり)(試し蹴り)が始まった。


 親たちが、また六家の長たちが見守る中である。

 まだ緊張しているのだろう。ぎこちない。



 そんな中でも紅雨の動きは軽快で目を惹いた。


「ほう」


 そして、上鞠(あげまり)。開始だ。


 軽やかな掛け声と心地よい鞠の音。


 序盤こそ堅くなっていた若君たちだが、回を重ねるごとに楽しそうに笑みを深くしていく。


「いいな。楽しそう」


 榠樝の呟きが聞こえたわけでも無いだろうが、紅雨がふとこちらを見た。


 目が合って。



 一瞬紅雨の動きが止まった。



 眼を見開いたまま固まってしまった紅雨に、不審そうに紫雲英が鞠を渡した。


「アリヤ」


 落ちるか、と誰もが思ったが、紅雨は鞠を綺麗に受け、高く蹴り上げた。


「オウ!」


「見事」


 流れるような見事な動作に、榠樝は思わず口に出していた。


 場が(ざわ)めく。


 摂政(せっしょう)蘇芳深雪(すおうのみゆき)躑躅(つつじ)を見遣り、にやりと笑う。


 躑躅は息子の晴れ姿に泣きそうになっていた。


 儀式の蹴鞠の場は声を発していいのは掛け声だけで厳かなのだが、今回はお目見えの蹴鞠会。雑談程度なら許容されている。


 だが、と榠樝は思う。

 皆が魅了され始めている。


 楽し気に、軽やかに、踊るような鞠足。高く低く、強く弱く。


 鞠が飛び交う。


 優雅な紫雲英の動きも素晴らしいが、やはり紅雨が頭一つ抜きん出ている。


 どんな鞠も受け、返す。


 機敏だが少しばかり雑な茅花。隙の無い笹百合。平凡な虎杖。目立ちたくない花時。


 それぞれがそれぞれに、楽しみ始めている。

 皆が心を一つにしていく感覚。



 なるほど、こういうものか、と榠樝は独り()ちる。



 亡き父王がよく言っていた。


 皆が心を一つにする時の空気が、とても心地よいのだと。



 呼吸が合っていくとでも表現したらよいのだろうか。

 鞠を蹴っているわけでも無いのに、榠樝もまた懸の中にいるような感覚さえして。


「堅香子」


「はい」


「楽しいな」


 堅香子は榠樝を見た。

 久方振りの、心からの笑顔。堅香子は目を潤ませて頷く。


「はい。……はい、榠樝さま」


 ぽーんと鞠が高く上がり、太陽と重なる。

 榠樝は目を細めた。


 吸い込まれるように紅雨の足に納まり、そして。



「ヤア」



 高く舞い上がる。

 声が響く。


「見事、見事」


 ぱちぱちと手を叩いて榠樝は楽しそうに笑った。


 ちらりと視線を寄越した笹百合がそれを見、ほっとしたように表情を綻ばせる。


 ずっと心配していたけれど、笑えるようになったのだと。


 よかった、と唇だけで呟いて。


 笹百合は鞠を受ける。



「アリ」



 とん、と短く飛ぶ鞠を紫雲英がまた高く上げた。


 普段澄ました顔の多い紫雲英が、珍しく唇を綻ばせている。

 紫苑はそれだけで感慨深く涙ぐみそうだ。


 茅花が(かかと)で鞠を蹴り上げ、歓声が上がる。








「皆、見事であったぞ。楽しかった」


 榠樝が柔らかな笑みで皆を称えた。


「蘇芳紅雨。そなたに特に褒美を取らせる。近う寄れ」


「は」


 途端にぎこちなくなった紅雨。

 榠樝は衣を一枚脱ぐと畏まる紅雨の肩に掛けた。


「期待以上であった。見事ぞ」



 紅雨が弾かれたように顔を上げ、榠樝と目が合う。

 榠樝が何度か目を瞬いた。


 一気に紅雨の頬が紅潮し、震えだす。


「あ、あの、その!勿体なきことにございますれば!」


 勢いよく頭を下げ、転びそうになりながら戻って行った。


「……うん?」


 小首を傾げる榠樝に、堅香子がそっと囁いた。


「榠樝さま、流石でございますわ」


 榠樝はわかっていないが、一目瞭然であった。




 ときめきどころか心臓が早鐘のような蘇芳紅雨。


 (かず)け物に指先を触れ、頬を寄せ、そっと溜め息。目は潤んでいる。




 いわゆる一目惚れというやつであった。



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