一
女東宮榠樝は頭を抱えていた。
「結構、知らなかったことがあるものだな。あと誤解していたものの何と多いことよ」
過去から現在の虹霓国について。周辺の異国とその立ち位置。
今、国では何が問題とされているのか。
朝廷と地方。統治、税収、警衛。
貴族は、民は、王に何を望んでいるのか。
女東宮として、今何をせねばならないのか。
連日連夜、学士、博士を招聘し、講義を受けた。
浮き上がったのは己の未熟さだった。
東宮学士は微笑んだ。
「当たり前でございますよ、女東宮。知らないことというのは、私の専門においてもございますれば」
「先生でも知らないことがあるのか」
「はい。己の知る所はとても少ないものでございます。ですから、王は色々な者を用いて、それぞれが足る所、足らぬ所を補い合わせるのです」
ふむ、と榠樝は老齢に達したような表情を浮かべ、東宮学士をぎょっとさせた。
「足らぬ。私は色々足らな過ぎる。摂政にすべて任せた方が、国の為になるのではないだろうかとも思う」
東宮学士は少し考えて、言葉を選びながら言う。
「それは、傀儡になっても良いと仰せなのですか?」
榠樝は底の見えない眸で真っ直ぐに東宮学士を見据える。
「それは、違うな」
言葉を選びながら、慎重に。
「何でもすべて、摂政の言う通りが正しいとは思わない。だが、私よりは正しいことが多いのだろう。経験も知識も、遠く及ばない」
だが、と榠樝は続ける。
「私はこの国の女東宮だ。いずれ王たる者。王は、すべての民の生活の責任を負わねばならないと、父上に教えられた。頼ってもいい。任せてもいい。だが、何をして何をしないか、選ぶのは私でなくてはならない。選んだことの責任を取るのも、私だ」
それが王家に生まれた者の務め。他者が変わることのできない役目。
東宮学士は丁寧に頭を垂れる。
「その通りでございます。女東宮はお役目をよく理解しておられます」
「もう十年は欲しかった。だが、父上は身罷られた。惑っている暇は無いということだな」
「御意」
筆を置き、榠樝は顔を顰める。
「早くもっと強く賢くなる術はないのだろうか」
「お励みになることが一番の近道にございます」
尤もすぎて何も言えない榠樝である。
吐息を零し、今日の授業を反芻する。
「ええと、先々代、御祖父さまの代から大きな飢饉は起こっていない。疫病も災害も小規模で収束。……官が優秀だということか。労わなくては」
その言葉に東宮学士が優しく目を細めた。
「税は国司の下にそれぞれ集められ、そこから朝廷へ献上される。税の配分は国司にほぼ一任されている……?」
「左様でございます」
「朝廷から命を出すのは飢饉や疫病、災害時に税の減免を通達する際、或いは国庫に不足が生じた分を徴収する際」
「王家の直轄地、王領と呼ばれますが、そこからの税は王家に直接納入されます。そしてそれぞれの貴族の管理する荘園の分もございますね。それぞれの家に納められた後、国庫へ税の分を申告、納入。そして神事の際の奉幣はまた別にございます」
「ややこしい……」
「主に陣定で話し合われ、それから王へ報告がなされます」
「そしてそれを分配し、禄とする、のだな。……その分配方法がまたややこしい」
「大蔵省か、内蔵寮の説明上手な者を呼び寄せましょうか?」
「いや、その者らの仕事の邪魔をしたくはない。それにおそらく細かいことを聞いても私はまだ理解はできぬだろう。その座に相応しき者かどうかを見極めるが肝要だ」
榠樝は付箋を作り、書き付けたことをぺたぺたと貼り付けていく。
「ああ、それも摂政の意見を求めねばならんな。蘇芳深雪はきっと把握している。有能なのだと父上が生前仰っておられたが、今やっとその意味がわかってきた。知らぬことばかりで、腑抜けていた己が憎らしい」
別に榠樝は気を抜いていたわけではなく、しっかりと東宮としての勉強はしていたのだが、父王の崩御があまりにも早過ぎたのだ。
榠樝の手元に割と厚い草子が幾つも出来上がりつつある。
それぞれの授業で学んだことを纏め、記し、補足を書き入れる。
それらも一通りならば頭に入れているという。
わからぬ所は見直しつつ、だがどの辺りに記してあるかも記憶していて。
東宮学士は内心舌を巻いていた。
榠樝の父、亡き前王も勉学に熱心だったが、榠樝はそれ以上かもしれない。
そして現状に甘えず、よりよいものを求める気概がある。
良い王になられる。
確信めいた思いが東宮学士の胸を過った。
「すべてを覚えなくとも、必ずお役に立つ官がお傍におります。それらを見極め任せるのも女東宮の大切なお役目ですよ」
榠樝は頷いた。
「何を知り、何を知らぬのか。まずは自分の知識の領域を測らねばならぬな。そしてその次に、相応しいものを選び任せる。その判断をするにもその人となりを知らねばならぬか。何においてもまずは知ること」
「女東宮は賢明であらせられる」
ふっと榠樝の視線が遠くへ流れた。
「そうでなくては王座につく資格は無いからな」
人生に疲れた老人のような色をしていた。
「そんなにも、思い詰めないで宜しいのですよ。とてもよく、なさっておいでです」
榠樝は深い双眸を東宮学士に向ける。
呑まれる、と思った。深く、昏い。
「きっと、摂政にすべて任せて、皆が望む者を王配に選び、皆の意見を諾々と聞き……そういう御し易い王が望まれている。だが、それでは私が私である意味は、なくなってしまう」
だから、と榠樝は呟くように続けた。
「私が王たるに相応しいと、従うに能うと思って貰えるようにならねばならぬ」
その為の時間は少ないが、できることをすべて。全力で。
「認められたいというのは、過ぎた望みだろうか」
だとしても、それでも。
「私は私として、精一杯やるだけだな」
「御意」
東宮学士は敬意を込めてゆっくりと頭を垂れた。




