七
五雲国に天変地異あり。
虹霓国への第一報は、当然の如く夢渡りの法だった。
「正式な使者はもう発たせたが、いつ着くかわからん。だが虹霓国の力が要る」
玄秋霜は榠樝の手を取り頭を下げる。
「どうか助けて欲しい」
「すぐ諮らせる」
榠樝の返答は間髪入れぬ速さで、却って秋霜は狼狽した。
これまで無理難題ばかりを押し付けている五雲国であるのに。
虹霓国は、榠樝は。
それでも躊躇いも無く、助けてくれるという。
「とにかく祈れ。毎日毎晩ひたすら祈れ。それが一番大切だからな。荒ぶる魂よ、どうか鎮まり給えと心から祈れ」
あれこれと考えを巡らせているのだろう。
榠樝は一人百面相である。
秋霜は思わず榠樝を抱き寄せていた。
「ん、どうした。大丈夫だ。できる限りの手は打つ」
榠樝は秋霜の想いなど知らぬげに、励ますように背を叩いてくれる。
体格はまるで逆だが、子供を抱く母親のようだった。
肩に額を埋めて、秋霜は深く深く榠樝の薫りを吸い込む。
「前にも言っただろう。神は人の祈りや思い、願いに拠って立つ。だが五雲国に於いて、それが著しく少ない。とにかく祈れ。それが第一歩だ」
榠樝は秋霜の背をとんとんと叩きながら、あやすように呟く。
「取り敢えずは待て。すぐにも万端整えて、神職をそちらに派遣しよう。それまでは持ち堪えるのだぞ」
「持ち堪えられるだろうか」
気弱な秋霜の呟きに、榠樝は力一杯秋霜の背中を叩いた。
衣の下には手形がついているかもしれない程の力だった。
「痛い」
「当たり前だ。持ち堪えなくてどうする。そなたは王だ。五雲国を背負って立て。それが役目だ」
榠樝は自分で叩いた背中をそっと擦りながら、深く溜息を吐いた。
「この場に関白が居てくれたら、諸々すぐにも手配ができるのだがな」
「他の男など呼びたくない」
多少拗ねた響きに苦笑する。
そういうことを言っている場合ではなかろう。
「呼びたくないってことは呼べるのか?」
「いや、できないが……」
「できないのなら仕方ない。できることをするまでだ。取り敢えず、今夜もまた術を使ってくれ。会議の結果を教えるから」
「わかった」
「……というわけでな」
状況を手短にまとめ、関白蘇芳深雪に説明したところ、物凄い渋面になった。
然もありなん。
「人道に反することを申し上げますが」
「うん」
「のらりくらりと引き延ばせば、五雲国は滅びましょう」
「だろうな」
榠樝と深雪は顔を見合わせて、二人揃って溜め息を吐いた。
「ですが見捨ててはおけませぬな。罪なき民草が数多死ぬ」
「そういうことだ。月白凍星らを見捨てるわけにもいかぬ」
深雪は少し目を眇めた。
「斬り捨てるならとうに遣って居られた」
榠樝は微かに唇の端を引き攣らせる。
五雲国のことか。それとも月白凍星のことか。
「なんのことだかわからんな」
神祇伯、天藍木蓮子に陰陽頭、朱鷺尾花は、既に声を掛けられることを予期していたのだろう。
呼ぶ前に控えていた。
相変わらずの異能ぶりである。
「神祇伯より申し上げます。此度のことは嘗てなき災厄。従って神職の数がまるで足りぬと存じます」
「陰陽頭より申し上げます。五雲国より人を招き、彼の国の神職を増やすことをお勧め致します」
関白が眉を寄せた。
「それは神職の留学、育成を行うという意味で良いのか?」
「御意」
「長丁場となりましょう。一年、二年、あるいはもっと掛かるやもしれませぬ。ですが全国隈なく祭祀を行わねば、五雲国の鎮魂慰撫は成りますまい」
「というような話になっている。そちらの都合はどうだ?」
ざっくばらんな榠樝の話しぶりに、秋霜は唖然とするしかない。
同盟国とは言え、こちらのツケを虹霓国が一時的にせよ払うということだ。
「ひとつ貸しだ。後々返してもらう。だが、とにかく早急にそちらの足場を整えよ。こちらの人員はすぐに着くとは言えぬ。距離があり過ぎるのだ。海も越えねばならぬし。ええい、面倒くさい。漠の糸があれば……。いや、無いものねだりしても仕方ないのだが、歯がゆいな」
そうだ、と榠樝は袖を探った。
もしかしたらと持って来たのだ。
「明の御統という神器がある」
榠樝は、赤々と燃えるように輝く玉の首飾りを袖から取り出した。
「謂れは色々あるが、世を照らす力を秘めている。陽の力と火の力とがある。そなたに貸そう。期限は決めぬが貸すだけだ。後で返せよ。何年経っても構わんから」
秋霜の目が、零れ落ちんばかりに見開かれた。
榠樝は御統を差し出したまま、待っている。
「そんなに簡単に渡して良いものでは無いだろう。神器だぞ。他国の王においそれと貸すか?というか、そもそも現のものを持って来れたのだな。どうやったのだ?」
「物は試しだ。袖に入れて寝た。あとものすごく祈った」
秋霜は流石に唖然とした。
「ぞんざい過ぎるぞ」
「傷付けぬよう絹で巻いた」
榠樝は得意げに胸を反らせたが、そういう問題では無いと思う。
秋霜は手を伸ばすのを躊躇う。
それはそうだ。
溢れる神威に身が震えている。
「王たる者の覚悟を見せよ」
榠樝は無情にも言い放った。
「虹霓国からの神職が到着するまで、そなたが場を鎮めねばならんのだぞ。これを使え。使いこなして見せよ」
秋霜は震える手を伸ばし、御統に指先を触れる。
ぱちりと火花が散った気がした。
痛みに一瞬目の下を引き攣らせはしたが、秋霜は確かに明の御統をその手に取った。
榠樝から秋霜へ。
神器は確かに手渡された。
「何年かかるかわからんが、とにかく全国行脚して回れ。祭祀をせよ。鎮魂慰撫を心掛けよ。五雲国は神の声が届きにくいと仰せだったぞ」
秋霜は少し、首を傾げた。
仰せ。
榠樝が敬語を使う相手が、虹霓国に居ただろうか。
「誰が」
「神が」
しばらくの沈黙が落ちた。
「……………神が?」
「うん。夢に出て来てな。五雲国は祈りが足らぬと嘆いておられた」
「……………………」
神とはそう簡単に夢に出て来るものだろうか。
胡乱な眼差しになってしまったが、榠樝が嘘を吐く理由が無い。益も無い。
「……………………」
口を開け、閉じ、また開けて。
結局何も言えずに唇を引き結んだ。
秋霜は手にした明の御統に視線を落とす。
煌々と輝くその神器は、脈打つように煌めいていて。
「やれるだけ、やってみる」
うんうんと頷き、榠樝はぽんと手を叩く。
忘れていた。
「五雲国から才のある者たちを虹霓国へ留学させぬか?神職の養成をしてはどうかという意見があってな」
「なるほど、借りるだけではなく増やせということか」
「使える手は多い方がいい。異能もコツを掴めば使いこなせる者も居よう」
「ありがたい」
榠樝は秋霜を真っ直ぐに見つめた。
視線が、まるで射抜くように秋霜を貫く。
「余計なことと思うが、敢えて言うぞ。神の声と同じくらい、人の声も聞け。此度の厄災は、神と人との嘆きが呼んだ。誰もが苦しみ悲しんでいる。声を聞き届けよ。王の役目を果たせ」
秋霜は泣きそうに顔を歪めた。
「やはり、そなたしか居ない」
声が震えた。
心が震えた。
后に迎えるなら、榠樝を措いて居ない。
こんなにも有能な相棒は居ない。
他の誰がこれほどに秋霜を支えてくれるだろう。
だが榠樝は気付かぬふりで視線を流す。
「今は鎮魂慰撫のことだけ考えていろ。あと、月白凍星を頼れ。あれは有能だ」
「……わかった。榠樝」
秋霜は榠樝の頬に優しく触れる。
指先でなぞるように、そっと。
「うん?」
「口付けていいか?」
榠樝は半眼になった。
「駄目だ」




