十
虹霓国女王榠樝は、その日、神に逢った。
眩く白い空間、彼方此方が星屑を撒いたように輝いている。
蓮の花の香りだろうか、どこか清しい芳香が漂っていて。
目の前に龍が居た。
大きい。顔だけで一抱えはあるのではないだろうか。
呆然と、榠樝は龍を見つめていた。
“人の子よ。神子であり、御子である者よ”
頭の中に直接に響いてくるような声に語り掛けられ、榠樝は大いに驚いた。
“驚くことは無い。そなたは鴗鳥の血筋。我らが選んだ者の末裔である”
「我ら…?」
“龍は我のみに非ず。そして龍もまた代替わりする。人の子と変わらぬ”
「………」
“そなた、雨を願うたな。それも異国の地の苦境に、心を痛めたが故に”
榠樝はハッとなって頭を垂れる。
「過分な願いを抱きましたこと、お許しくださいませ」
龍は尾を震わせた。
“違う。好ましいと思ったのだ。王は慈悲深く在らねばならない”
「畏れ入ります」
龍は目を細め、言葉を続ける。
“だが、そなたの願いは聞き入れられない。管轄が違う”
突然役所のようなことを言いだしたな、と榠樝は思った。
“我ら神にもいろいろある。領域侵犯は宜しくない。そも、そなたらが五雲国と呼ばれる地に於いて、我ら神の力は及び難い。我ら神は人の祈りや思い、願いに拠って立つ。彼の地にはそれが著しく少ない”
「祈れば、彼の地であっても思いは届きましょうか」
“届く。が易くは無い。彼の地は人の血が流れ過ぎた。穢れが幾重にも淀んで留まっている”
そして、と静かに龍は続けた。
“これから更に血は流れるだろう。もはや神は降り立つこと叶わぬ地になろう”
「どうにかならぬのでしょうか」
“どうにかするのは人の役目である”
龍は淡々と言葉を紡ぐ。
“我らは見守るのみ。人が存続するに能うか否か、見届けるのみ”
龍は笑ったようにみえた。
榠樝がそう感じただけなのかもしれないが。
“人の子よ、足掻け。藻掻け。そなたらが抗う様は美しく、愛おしい”
榠樝は目を覚ました。夢だったようだ。
抑えようとしても笑いが込み上げる。
足掻けと言われた。藻掻けと言われた。
抗う様が美しく愛おしいと。
易々と手を差し伸べてはくれない。
人の世のことは人が何とかすべきだ。当然のことだ。
ならば精々抗ってみせよう。
人の身で、能う限りのことをしてみせよう。
見守るに能うと、存続するに相応しいと、思わせてみせよう。
「できることからコツコツと。まずは大晦日と新年の祭祀を滞りなく遂行しなくては」
「地道な努力こそ、最重要と存じます」
関白蘇芳深雪には神との邂逅のことを告げた。
公式にではなく私的な雑談のひとつとしてだ。
これでまた大仰な祭祀が増えては困る。
「ますますの激務になるな。頼りにしている」
「御意」
虹霓国さえよければそれでよい。
都さえ無事ならそれでよい。
貴族さえ無事なら。
王さえ無事なら。
己のみの安寧を、突き詰めていけばそこに行き着いてしまう。
それでは駄目なのだ。
榠樝は王なのだから。
「ですがどうか、思い詰めないでくださいまし」
堅香子に言われ、榠樝は振り返る。
「そう見える?」
「はい。このところ、以前にも増して硬いお顔をなさっておいでですわ」
榠樝は自分の頬を摘まんでふにふにと動かしてみた。
確かに凝り固まっているようだ。
「わたくしでは頼りになりませぬが、どうか、不平不満をお口に出してくださいませ。聴くことならばわたくしでもできます。他言は致しませぬ。溜め込むばかりではお身体に悪うございますわ」
榠樝は堅香子に寄り掛かった。
堅香子はしっかりと支えてくれる。
身体の力を抜いて、凭れ掛かって。
深く息をする。
「一世一代の大仕事は終えた。後は通常業務よ。女東宮の時からしてきたことよ。大丈夫。私はやれる」
薄く目を開いて、榠樝は吐息を零した。
「これから加わるのが、五雲国の不穏な動きに気を配ること、蜃の要望に応えるか否かの返事、それらの決断」
堅香子が眉を寄せた。
「大変なこと、増えておられません?」
「増えた。それはもう、たんと。神々も見て居られるらしいから、気を抜いてる場合じゃないのよ」
「五雲国と蜃国は異国。放って置く訳には参りませんの?いえ、わかってはおりますけれど……放って置きませんか」
榠樝が苦笑を深める。
「気持ちとしては放って置きたい。でも余波が来る。尋常でなく大きな波が虹霓国に降り掛かる。それを防ぐ為には小さな波を一つ一つ潰していかねばならないわね」
「困った時の神頼みは」
「見守ってる、って仰せよ」
「見守るだけでございますか」
「そう」
「それは、随分……なんと申しましょうか、腹が立ちますわね」
堅香子の複雑な表情に笑いが込み上げた。
「そうね。精々頑張って、人間も捨てたもんじゃないって、見せ付けて差し上げないとね」
堅香子はこっそりと願う。
榠樝の負担が減りますように、と。
神々のくせにわたくしの大事な榠樝さまに余計な負担を掛けるなと、いっそ啖呵を切ってやりたい気持ちだ。
だからこそ早く王配を得てほしい。
榠樝が背負うものを、せめて半分背負えと言いたくて。
けれど、複雑になり過ぎている現状だからこそ、それが叶わぬのであって。
堅香子はぎりぎりと歯を噛み締めた。
「腹立たしいことこの上なく思いますわ」
「不敬よ、堅香子」
「わたくしがお仕えするのは榠樝さまで、神々ではございませぬので」
榠樝は笑っているような、泣いているような、どちらともいえない表情をしてみせた。
多くの者は神を感じられはしない。
だが、見えぬからと言って存在していないわけでは無い。
見えなくとも、居るのだ。
天に、地に。ありとあらゆる場所に。
神は存在する。
神のみならず、人ならざる存在が、多数。
そして人を見ている。
けれどそれを感じられる者は一握り。
榠樝とて霊威や怪異、そういったことに敏感であるとは言えない。
心の中にある気持ちを上手に言葉に落とし込めなくて。
榠樝は唇を曲げた。
「難しいなあ」
神の意に諾々と沿うのが正しいわけでは無い。
神と人では理が違う。
だが、お互いがお互いに、補い合っている部分もあるわけで。
「難しいなあ……」
榠樝はまた、呟いた。