九
榠樝は何度か瞬きし、口を開け閉めし、もう一度目を瞬いて。
溜め息を吐いた。
月白凍星を雨乞い機関の副官に置くと。
何の冗談だ。
同盟国ではあるとはいえ、虹霓国の者を重役に付けるなどと。
反発は必至だ。
「月白凍星は神の加護は得て無いと思うぞ。そちらが期待するような異能は無い」
「それでも神秘の国からの遣使の長だろう。神祇官やら陰陽師やら不可思議な術を使う者たちの頂点に居る」
頂点では無いと思う。
そう言いたかったが榠樝は堪えた。
指摘する場面でも無いし、秋霜の言わんとするところはわかる。
「確かに彼は遣使大傅の位に在る。だが良いのか。長官にそなたの妹、王族を任じ、副官に虹霓国の遣使大傅を置くなど。虹霓国を更に厚遇すると示したようなものだぞ」
「そこが問題だ」
「大問題だろう。虹霓国は五雲国の属国ではない」
「だからこそ、とても困っている」
榠樝はがしがしと髪を掻きむしった。
「止めろ。髪が痛む」
「良い考えが浮かばぬ。いやしかし、月白凍星の任官はともかく雨乞いはしなくてはならぬ。必ず致せ。とにかく祈れ。祈りが、思いが無くば神々は力を揮えぬ」
虹霓国でも既に薄まっている認識ではある。
神々は人の祈りや願い、思いに拠って立つ存在だ。
祈りが無ければ神威は顕れない。
神代は既に遠い存在だ。
今は人の時代であるからして。
「榠樝が五雲国に来てくれていたらな。虹霓国では王族が祈れば必ず雨が降るのだろう?」
「まあ、そうだな」
榠樝は少し考える。
「行くことはできないが、こちらで五雲国の雨乞いをしてみるのはどうだろう。国が違うし、離れているし、効果があるかはわからんが、何もせぬよりは良かろう」
秋霜が顔を輝かせた。
「いや、本当に全然何も助けにならぬで、落胆するだけかもしれんぞ?」
榠樝は口にした後で少し思う。
手を差し伸べずにいれば、五雲国は衰亡の一途を辿ることになる。
……かもしれない。
幸運の前触れか、はたまた不幸の前兆か。
榠樝はぎゅっと目を瞑った。
判断がつかない以上、手出しは控えるべきだ。
どんな問題ごとが起こるかわかったものではない。
だが榠樝は、苦しんでいる者を前に、手を拱いているような気質では無かった。
何もせずに傍観?
冗談ではない。
「それでも助かる。感謝する、榠樝」
秋霜が榠樝の手を取りぎゅっと握り締めた。
榠樝が小さく吐息し、秋霜の肩を叩く。
「お互い大変だな。だが、やるしかないな。私たちは王なのだから」
榠樝は忙しい合間を縫って、陰陽頭朱鷺尾花と面会する。
「異国の雨乞いと仰せになられましても、例がございませぬ故」
「で、あろうな。うん。そうは思ったのだ」
反応は芳しくなかった。
「そも、龍神はどうやって雨を降らせるのだ?」
陰陽頭はふわふわの眉毛を揺らし、頷く。
「天には無数の水が御座います。目に見えぬほど小さな水で御座います。それらが集まり雲となります。雲は水の集まり。雲に収まり切らなくなった水が、雨や雪となり、地に降って参ります。龍神はその雲を操られるのです」
「ほぉ」
「この世には無数の神が居られます。雨の神も風の神も数多居られ、龍神のみに非ず。雨乞いをするのは主に龍神でございますが、それは龍神が風の神の気質をもお持ちであるが故。風にて雲は運ばれますので」
「なるほど」
「五雲国に雨を降らせたいのであれば、主上御自ら龍神と会話なさるのが宜しいでしょう」
「……簡単に言うが容易くは出来まい」
「御意。ただ、強く願う者のもとへ、神は夢を通して度々お越しになられます。強く願われませ。さすればお声も掛かりましょう。ただし」
陰陽頭は眉毛の合間から鋭い眼光を覗かせた。
「気に入られ過ぎると、帰ってこられなくなる恐れが御座います故、お気を付けなさいませ」
神隠しの例は数多い。
榠樝は半眼になった。
どう気を付けろというのだ。
「お心を強く持たれませ。己は虹霓国女王、鴗鳥榠樝であると、強く強く、ご自覚をお持ちください。大嘗祭も控えて御座いますれば、主上の御身は一際強く、神に近付かれまする」
「そなた、また心を読んだな」
「いいえ、お顔に書いてございますれば」
榠樝は思い切り苦笑した。
御簾越しの面会で、顔に書いてあるも何も無い。
「御簾越しでも、見えるものにございます」
声に出さぬ呟きに応えを返され、榠樝は溜め息を吐いた。
笑うしかない。
「そうか。もはやそなたに関しては驚くのは止める。キリがない」
「畏れ入りまする」
「陰陽頭、朱鷺尾花。忠告感謝する。よく、覚えておく」
陰陽頭は小さく可愛らしい身体を曲げ、そっと平伏した。
「ははっ」
日々はあっという間に過ぎ去さって。
田には短く切り揃えられた稲株が整然と並んでいる。
黄金色に揺れる稲穂とは対照的に、しっとりとした土の色が広がって。
そこに雀や鷺が餌を求めて舞い降りる。
風は冷たく物寂しい。
大嘗祭は滞りなく行われ、神威が顕現。皆、畏れ敬って。
五雲国の大使らを招いての豊明節会は初めての試みだったが、大使を始めとして五雲国の者たちは、ほぼ皆が感激に酔いしれていた。
気持ちが、極端に虹霓国贔屓に傾いたのが傍目にも明らかだった。
良いことなのだろうが、関白蘇芳深雪は眉を寄せる。
こんなに簡単に篭絡出来て良いのだろうか。
何か裏があるのではないか、と疑いたくなるほどだ。
だが。
「虹霓国に赴任されて初めて、私は神の力というものを感じました。本当に実在するのですな。いや、畏れ多いことです。無下に扱ってはならぬものと心から思いましたぞ」
大使が涙ながらに語るような神威は、豊明節会では無かったと思うのだが。
不審に思って陰陽頭に問い掛けたほどだ。
幻覚の術でもかけたのか、と。
答えは否。
虹霓国の普通は五雲国の異常。
榠樝の言葉と共に小雨が降り、すぐ止んだ。そして虹が差した。
瑞兆。
大嘗祭ではよくあることだ。
代々の王がほぼ例外なく虹に祝福されている。
だが、そんな少しばかりの異能の片鱗にさえ、五雲国の者からすれば腰を抜かすほどの驚きなのだそうだ。
さて置き、すべては上手く運んでいる。
これで何もかもが順調に進めばいうことは無いのだが。
「花発いて風雨多し。よく云ったものだな」
深雪は苦々しく首を振った。
南の大宰府では蜃州の使者が居座っているという。
色よい返事を貰うまで帰らぬつもりらしい。
そして再び遣使大傅、月白凍星より密書が届いた。
そこにあったのは、五雲国にて反乱の兆しあり、の文字。
支援すべきか、静観すべきか。
榠樝はがりがりと髪を掻き乱した。
「まず何処を、という所からだな、関白」
「御意。虹霓国がどの位置に立つか、とても重要な局面にございます」