きくはきくでも
「あー、きく食べたい」
「あら急ね。菊のりあったかしら」
だるそうにカーペットの上で溶けていた母が、ゆっくり体を起こす。茶箪笥の戸に人差し指を引っ掛けて開けた。普段は料理もお茶汲みもろくにしない人間が、茶箪笥をがさごそとやっている姿は不気味だな、なんて思った。
そんな母が、ぬっと振り向き、「失礼なこと考えてないでしょうね~?」なんて言ってきた。ちっ、勘のいいやつめ。
と、話を戻そう。
「菊のりないわよ? おばあちゃんに頼む?」
「そっちじゃないよ。私が食いたいのはたらきくの方」
「そっち? 先に言ってよ」
私の訂正に母が少し甲高い声を出しつつ、短く息を吐いた。引っ掛けられた、とでも思っているのか、唇を尖らせている。
そして、その目がふい、と上を向き、母の指向により設置されている日めくりカレンダーに留まった。
十月十四日。
目を据わらせた母が、今一度私を見る。
「愛美? 寒鱈にはまだ早すぎるわよ?」
たらきく、もしくはきく。調べてみたところ、この名は局所的な呼び方らしく、他では通じないらしい、と知ったときのショックたるや、筆舌に尽くしがたい。
それはさておき、何のことかというと、「白子」のことである。寒鱈の精巣だ。
日本人って、魚に限らず肝臓とか心臓とか目玉とか、わりとなんでも食い物にするよな、とは認識していたし、それを気持ち悪いと思ったことはない。レバニラは美味しいし、焼き鳥のハツの食感たまらんし、あら汁に入ったとろける目玉の味わいを知らないとか、人生における損失以外の何物でもない。
が、さすがに精巣はちょっと……と思った。精巣って、生殖器である。内臓を食べるはまだOKでも、目玉を食べるの時点でわりとサイコっぽいのに「生殖器を食べる」はグレーゾーンを余裕で突っ切ってブラックなサイコパスなんよ。響きがよろしくない上に怖い。
そんなことを宣った私に、食に関する見識だけは確かな母は諭した。
「鱈子やいくらを食っといて、今更何言ってんの? あれは卵巣よ」
あまりものド正論に、雷に打たれたような心地になった。卵巣とは女性器。私や母の体内にある「生殖器」に他ならない。鱈子やいくらは美味しい。焼き鱈子は好きだし、おにぎりの具に鱈子が許されない世界なんてあり得てはいけないと思っている。いくらは軍艦もいいが、私のおすすめははらこ飯である。はらこ飯よ、全国区になれ。
で、鱈子やいくらが卵巣と聞いて、それは果たして「気持ち悪い」のか? 「気持ち悪い」から食べたくなくなるか? と聞かれたなら、答えはもちろんNOである。
それなら「生殖器」という括りでならイコールで結べる白子を「気持ち悪い」という理由で食べないのは、あまりにもナンセンスだ。っていうか、卵巣が美味くて、精巣が美味くないわけなくない?
そんなこんなで母にあっさり論破された私は初めて白子を食べ、見事にはまった。冬は一度でいいから白子を食べないと生きていけない体にされてしまった。いや、生きるけど。
ここでワンモア。白子の時期は「冬」である。寒鱈の獲れる時期が冬だからね。具体的には一月から二月の間らしい。
カレンダーを確認しよう。今は十月。十四日で月も半ばとはいえ、十月である。確かに肌寒さを感じるようになってきたが、十月とは秋である。冬はどんなに早くても、十一月からの換算だし、第一、寒鱈の季節は年明けて一月からだ。気が早い云々レベルで済むのかすら怪しい。
つまり私の「白子食べたい」は圧倒的無い物ねだり。冬を待てとしか言い様がない。
「まあ、きく美味しいわよね」
「うん。生もよし、シンプルにポン酢もよし、天ぷらも大好き」
「わかってるじゃない。あ、じゃあ、久しぶりにお母さんが天ぷら揚げてあげよっか?」
「きくによる悲しみはきくでしか癒せねえんだよおおおおおおお!!」
「うわあ、情緒崩壊」
へらへら笑いよる母の襟首を掴まえて、私はがくんがくんと揺すり、吠える。食への悲哀により溢れ出した雄叫びは、最近部屋を暖め始めたエアコンの駆動音に吸い込まれた。
あまりにも虚しすぎる。
「というか、菊のりじゃなくても、食用菊はワンチャン売ってるわね、時期的に」
「わしが食いたいんはたらきくなんじゃあ!!」
「はいはい。じゃあ、回転寿司でも行く?」
私はがばっと飛び起きた。
是非もない。
「行く!!」
休日なので、混んでいるかと思いきや、意外とすんなり入れた。母とは隣同士のカウンター席だけれど。
「回転寿司に入るコツは混む時間帯を外すことと、少人数ならカウンター席を希望すること。カウンターは回転が早いからね。あと、開店から昼時までは激混みだけど、その時間をちょっと外した二時から三時は意外と待ち時間が少なくて済む。平日は案外おやつの時間とかティータイムで混んでたりするんだけど」
「なんか詳しいね」
「短い休憩時間でいかに美味いもんを食うか、考え続けて間もなく二十年の人間よ。舐めんな」
母は女手一つで私をここまで育ててきた。私が高校三年生に至るまで、逃げた父を追いかけるより、ちゃんと私を選んでくれた辺り、しっかり母親だ。
ただ、私を育てるために仕事一筋に生きるより他なくて、趣味嗜好が食事に集約されてしまった。そのことは「見聞を広げる」機会を失わせてしまったような気もする。
まあ、私が美味しい料理を作れるようになったので、とんとんだと思いますけどね。
案内されたカウンター席に座り、注文用のタッチパネルに手を伸ばす。
「回転寿司で最初に頼むとしたら?」
「あおさの味噌汁よね~!」
わかってらっしゃる。
不思議なんだけど、あおさの味噌汁からしか得られない満足があるのよ。そしてあおさの味噌汁、案外と寿司屋くらいでしか置いていない。鮮度が大事という話を聞くから、あおさを手に入れるのが大変なのかもしれない。
よく聞くしじみ汁なんかより、個人的に「染みる」って感じがする。おいそこ、「おっさんみたい」とでも言いたげな憐れみの表情を向けるな。
「茶碗蒸し頼む?」
「茶碗蒸しって秋が美味しいのよ」
本当か? 初耳だが……まあ、寿司屋で食う茶碗蒸しもそれはそれで乙というか。
と、茶碗蒸しの一覧を見たら、季節メニューがある。かにあんかけ茶碗蒸しと、松茸入り茶碗蒸しとな?
「普通のでいいよ、普通ので」
「本心は?」
「ぶっちゃけ違いがわからん」
まあ、私もそうなので、黙って普通のを頼んだ。
母の手元には既に三皿。くっ、抜け目のないやつめ。王道の赤身にさっぱり系のオニオンレモンが乗ったサーモン、軍艦の山かけまぐろ。さすがは歴戦の猛者、手堅いチョイスだ。
ならば私も本気を見せねばならぬ……
「さんま、あじ、こはだ!! 青魚で攻めてきたわね」
「この時期の旬は青魚、光り物に集まっている……そちらがオーソドックスで勝負するのなら、私は旬を楽しむ変わり種でいくまで」
「ふふふ、いい輝きの刃ね。かかってきなさい!」
声高に二人でゴングを鳴らす。
「「いただきます」」
……周囲から見たら、何してんだ? って話だろうけど。
はまち美味い。もう少ししたら、ぶりの季節だよね。寒ぶりは脂が乗ってて美味いんだ。そこそこの照りだったはまちを咀嚼し、飲み込むと、お茶で口直し。母が馬鹿みたいな量を入れた抹茶粉も、きちんとお湯に溶けば味があり、美味しい。いいリセットになる。
母は三皿目くらいのガリをつまみながら、回転レーンに目を走らせていた。既に十皿近くが積まれているが、まだ食欲が衰えを見せることはない。
「ガリをいちいち注文しなきゃならなくなったのはだるいわよね」
「お母さんガリ好きだもんね。私には良さがわかんないけど。あ、あん肝軍艦」
「はい。なんであん肝がイケて、ガリが駄目なのよ。かに取って」
「あいよ」
まあ、さんまやあじはまだしも、こはだやあん肝は花の女子高生が頼むような代物ではないのは確か。美味しいんだからいいじゃん、とは思うけど。
ガリはわからない。大人になったら良さがわかると言われたものたちのほとんどを食せるようになった自負はあるが、まだガリがいいと思える領域には辿り着いていない。
たくあんは美味しいんだけどなあ。
「天ぷら盛り合わせがあったわよね? あれ季節ものじゃない。愛美、頼まないの?」
「それで煽ってるつもり?」
「いや、愛美が食べないんなら、私がたーのもっと」
「正しく煽ってやがる」
タッチパネルを手中に収めた母が、ぽちぽちと操作をしながら告げる。
「やぁねぇ、お母さんはたった一人の娘との憩いの時間を精一杯楽しんでいるだけよ?」
「食い意地張ってるだけでしょ」
「それは愛美もでしょ」
あ、否定はしないんだ。
母が少しお高めの皿に手を伸ばす。鯛の皿だ。お、いい感じの厚さじゃん。食に関しては本当に目敏いよ、この人。
私はお茶のおかわりを入れ、ちみりと飲む。母は味噌汁の入っていたおわんににぎりを移し、シャリを軽くほぐして、ネタをそれっぽく乗せる。その上から湯飲みに汲んだお湯をさあっとかけ、鯛茶漬け。アレンジレシピも楽しむとは、やはり母は侮れない。
「きくによる悲しみはきくでしか癒せねえんだよおおおおおおおってさ、普段は澄まし顔してるのに」
「ここで言うなここで」
「ははっ。——でも、愛美がそういうわがままを素直に口にできるようになって、よかった」
母の言葉に、私は目を見開く。
一所懸命だけど、おっちょこちょいで、猪突猛進で、向こう見ずなところのある母。私のことをそれなりに大事にしてくれているのは、わかっているつもりだった。だから、わざわざ愛を求めることはしなかった。
それが、思いやりの言葉を形にして……少し、狐につままれたような気分になる。
「どったの、急に」
「急じゃないわよ、失礼ね。お母さんは常に娘思いのいいお母さんですー」
言わなきゃ完璧。
でもまあ、母がそう思ってくれていたことは、ちょっとくすぐったいけど、嬉しかった。
店員が、天ぷらの盛り合わせを持ってくる。千円くらいするだけあって、大皿で豪勢だ。
「きくの天ぷらはないけど、一緒に食べましょ。時期になったら、きく買って、天ぷらなりポン酢和えなりにしましょう」
調理すんの、私だけどな。
「いいやつ見つけてよ」
「実家に問い合わせてあげる」
母の実家は山だが、海産物も有名な地方だ。期待できる。
きくのとろとろでふわふわの感触には似ても似つかないけれど、私はいかの天ぷらを箸でつまみ、かぶりついた。さくさくの衣の向こうにあるいかの身からじゅわりと旨味が溢れ出す。
なんでもないようでいて、とても味わい深かった。