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傷だらけのゼロハリバートン

作者: 植原 一騎


 波座間一平はその日の業務を日報にまとめると課長の席に提出に行った。

「なんだ波座間、今日はずいぶん早いな」

 まだ五十歳なのにすっかり白髪頭の課長は意外そうな顔で日報を受けとった。

「いつもは、退勤するのがほぼ最後なのに」

「今日、結婚記念日でして」

 一平は恥ずかしそうに頭をかいた。

 なるほどね、と納得した様子の課長は日報に目を通し「オーケー。今日も一日ご苦労だった」と日報を返した。

「そういう日こそ、奥さんを大事にしないとな」

 はあ、と頭をかきながら一平は席に戻る。少年じみた仕草をするが、身の丈は優に一八〇センチを超える堂々たる体躯をしている。自転車くらい軽々と片手で持ち上げてしまう腕力をしていて、社では自然と力仕事担当にされている。

 定刻に帰るのが気が引けるこの会社の文化には疑問を感じる。しかし体力以外に誇るべきもののない自分を拾ってくれた大恩ある会社なので、いつも社の方針に沿って退勤時間が過ぎてもあたりまえのように仕事を続けた。家に帰り、晴海から「もう、ごはん冷めちゃったわよ」と言われることが何度となく、それこそ数えきれないくらいあった。晴海には申し訳ないと常に思っている。しかし晴海はそれ以上うるさく言うことはない。黙って食事を温め直して「はい」と一平の前に出してくれる。よくできた妻だと思う。だからこそ、結婚記念日くらいは早く帰って驚かせてやりたい。

「おう、波座間、もう帰りか? 早いな」

 廊下ですれ違った同期の薮田が大げさに驚く。それほど普段の一平は仕事人間と思われている。やれやれ、と思いながら一平は「結婚記念日なんだよ」と釈明する。ああ、と薮田も納得する。

「それにしても、お前のカバン、ものすごい傷だらけだな」

 薮田が指さしたのは一平が提げている銀色のアタッシュケースだった。ゼロハリバートン社製のスタイリッシュなケースで、四桁の番号を合わせないと開かない仕組みになっている代物だ。

「買い換えないのか?」

 薮田が聞く。

「こいつは、五年前の結婚記念日に晴海が贈ってくれたものなんだよ」

 なるほどそいつは換えられないよな、と薮田は笑った。

「早く帰って、ゆっくりしろよ」

 すまん、と頭を下げて一平は社のエントランスを出た。なぜ謝る必要があるのか自分でもわからない。

 勤務先の保険会社のビルを出るとまだわずかながら明るさが残っていた。林立する東京のビル群の合間から、藍色の空がだんだん夜へと深まっていく。首が痛くなる角度まで見上げないと頭上の空の様子は見えない。自分がとてつもない谷間の底にいることを実感する。

 普段なら八丁堀から八重洲通りを通ってまっすぐ東京駅に向かう。そこから始発の中央特快に乗り自宅のある立川まで仮眠をとったり読書したりして過ごす。中央線の窓から見える東京駅周辺の夕景は格別に美しい。学生時代に一度だけ行ったことのあるニューヨークを思わせる。何度見ても飽きない光景だった。

 その日の一平は東京駅に向かわず、昭和通りを銀座に向かって歩いた。歌舞伎座のあたりを右に曲がるとお目あての貴金属店がある。ジュエリーの品ぞろえも豊富で、新婚当初、晴海と訪れたことがある。その頃の一平は野球選手だった。都内の私大を出た後、パシフィックリーグの球団にドラフト四位で迎えてもらった。長打と肩のある外野手として期待されたが、一軍と二軍を行ったり来たりというポジションで、なかなか定位置をつかむことができなかった。そうこうするうちに怪我に泣かされることが多くなり、一軍で出場する機会は目に見えて減っていった。プロとして八年目のシーズンを迎えた年に晴海と結婚した。晴海は二軍の試合をたびたび見に来ていた友人の知り合いで、何度か会ううちに意気投合して結婚にいたった。

「すごい。これ、きれいね」

 結婚して十か月を過ぎたあたりで、晴海と銀座の貴金属店を訪れたことがある。宝石の類は欲しがらない女だったが、最初の結婚記念日に何か贈りたいからと一平が誘ったのだ。時計やネックレスが美を競うガラスケースの中で、晴海が目を留めたのはエメラルドの指輪だった。マヤの階段ピラミッドのように丁寧に面どりされたエメラルドがプラチナの台座に鎮座しており、値札を見ると三十万円ほど。居並ぶダイヤやサファイアに比べると見た目も値段も控えめで、いいのかそれで? と一平が二回訊き返したほどだった。その日は現金の持ち合わせがなかったので店主に取り置きを依頼して店を出た。記念日が近づいてきたら、また二人で訪れる予定で。

 それから一か月後のことだった。球団から戦力外通告を受けたのは。


 貴金属店に向かう前に銀行に寄り、ATMで現金を下ろす。ちょっとした大金なので、ゼロハリバートンのアタッシュケースを開けて扉側のポケットにつめこむ。四桁の番号は忘れないよう晴海の誕生日を逆さにしたものにした。これなら、親族以外にばれる気づかいはない。

 その日の朝、一平は銀座の貴金属店に入って例の指輪があることを確認した。七年近く前に見たものだが、今でも形は覚えている。戦力外通告というアクシデントがあり、最初の結婚記念日にはとうとうエメラルドを贈ることはできなかった。七年越しのプレゼントというわけだが、晴海には内緒だ。

 早く帰ることを伝えようと思って、ATMコーナーの明かりの下で一平はスマートフォンを取り出した。すると晴海からメッセージが入っていたことに気づいた。五時半ごろのものだ。

「急にお母さんから呼ばれて、ちょっと外出することになった。帰りが遅くなったら、夕飯の支度が遅れるかもしれない」

 鼻でため息をついてスマートフォンを懐にしまう。よりによって結婚記念日の夕方に妻を呼び出すとはどういうつもりだ。晴海の母は一平のことを日ごろから良く思っていない人間だが、年に一度の記念日くらい気を遣ってくれてもよさそうなものだ。晴海の方はまさか記念日を忘れているわけではあるまい。それほど遅くならないうちに帰ってくるだろう。

 面白くない気持ちを抱えて昭和通りを歩く。妻は食事を用意して夫の帰りを待つものだ、などという時代遅れの考えを持っているわけではなかったが、特別な日に妻が不在というのは一般人の感覚として腹立たしいものがあるのではないだろうか。別に晴海が悪いわけではないが、晴海も晴海だ。事情を説明して、断ることくらいできなかったのかよ。

 晴海の母と折り合いが悪くなったのは戦力外通告を受けたあたりの時期からだ。結婚当初は「そのうちスタープレーヤーになるかもしれないわね」と歯が浮くくらい持ち上げてくれたものだが、球団から見放されると手のひらを返したように冷淡になった。波座間選手はこのまま引退かしら? それともまだどこかの球団が声をかけてくれる可能性があるのかしら?

 しばらく待ったがどの球団からも声はかからなかった。年齢もあるし、一軍経験は少ないし、何より慢性的な故障者だ。よほど人気のある選手なら顔役として置いてくれることもあるかもしれないが、波座間は無名に近かった。やむなく、トライアウトを受けることにした。自分より十歳ほど若い元気な選手たちに混じって、観客のいないグラウンドで走力測定や実技試験に挑む。中には自分と同年輩くらいのくたびれた感じの選手もいて、おなじ境遇なのかな、と親近感を抱いたりした。しかしトライアウトではみなライバルだ。傷のなめ合いなどしている場合ではない。

「十二球団にこだわる必要なんてないんじゃないの」

 晴海に背中を押されて地方の独立系リーグのテストも受けた。自分ではまだそこそこやれているつもりだったが、そこそこでは通用しないのがプロの世界だ。野球で給料をもらうためにはその辺の草野球と同じレベルではだめなのだ。好きなことだけやって生きていくのがどれほど険しい道なのか、三十にして遅まきながらようやく悟った。

 半年にわたる努力はひとつも実らず、波座間一平を必要とするチームは現れなかった。

 また、来年、チャレンジしてみれば? 晴海が笑顔で後押ししてくれたが、当の一平にその気力は残されていなかった。野球の世界からは必要のない人間という評価を受けた。別の道に進まざるを得ないと観念した。

 就職活動はトライアウト以上に散々だった。

「波座間一平さん? 前職は何を――ほう、野球選手?」

 そこまではみんな興味を持ってくれる。しかし一平が何の実務能力も備えていないことが明らかになってくると急速に潮が引くように関心を失う。今回は、貴殿のご希望には添いかねる結果となりましたことを、ご報告いたします――。英語もできない。簿記も知らない。ビジネスメールすら打ったことがない。三十でこの条件だと、オフィスワークはまず無理と判断される。頑張りますから、すぐ仕事覚えますから、と本気の気合いを見せたところで未来とポテンシャルのある若者たちにはかなわない。野球の世界だけでなく、実社会からさえも不要な人間という烙印を押されたような気がしてくる。借金して、居酒屋でも開くしかないかなあ。そんなあきらめにも似た気持ちが、たびたび頭をもたげるようになる。

 飲酒量が増えた。ひとりで部屋にこもる時間が長くなり、おなじ屋根の下に暮らしながら晴海を避けるようになってきた。この頃から、晴海の母はいっそう一平を嫌悪するようになった。ある夜、晴海が入浴中に何気なくスマートフォンのメッセージを盗み見したことがある。

「あなた、いつまでそんな人と一緒にいるつもり? このあいだ母さんがした話、真剣に検討してくれないかしら」

 ざわざわと全身の毛が逆立つのを感じる。俺の知らないところで、二人して何を話しているのだろう?


 歌舞伎座を左手に見て、右に曲がる。

 晴海通りを皇居に向かって歩く。ビルの谷間から見上げると、アヤメ色に暮れなずんでいる透明な夕空が広がっている。クールビズ姿でせわしなく行き交うビジネスマンに混じり、三越や松坂屋あたりで買い物してきたらしい初老のご婦人たちの姿もちらほら目にする。池袋や渋谷のような若者の街ではないが、このどこか落ち着きのある独特のにぎやかさに、近ごろの一平は気が惹かれる。ビルの上にひしめく奇抜なデザインの広告、人の目を引く毒々しい電光掲示板、そういったものとは無縁の、ゆったりと消費と街歩きを愉しむことのできる、上品なたたずまいだ。

 目標の貴金属店に入る。一平のようなサラリーマン風の男がひとりで入店しても店員はうるさく声をかけてきたりはしない。飴色の照明は控えめで、客がゆっくり品定めをするのに適した落ち着いた空間になっている。目的のショーケースの前に立ち止まる。指輪の上のエメラルドは、一平に買われるのを待ち焦がれているかのように、ライトの下で可憐な輝きを放っている。値段は三十万円。これに間違いないはずだ。

 店員を呼ぼうとしてふと不安がよぎった。

 自分はこのエメラルドの指輪をよく覚えている。しかし晴海の方はどうだ? 彼女がこの指輪に惹かれたのは七年も前の話だ。気が変わっていて、別のものが欲しくなっていたらどうする?

 晴海に内緒で計画を進めていた一平だったが、驚かそうなどと気障なことをせず、直接晴海に欲しいものを訊いた方が正解かもしれない。何も今日むりに渡さなくても、後日ふたりでまた店に来て一緒に選べばいいだけの話ではないだろうか。

 急に現実的になった一平は、心の声に素直に従うことにした。

 店を出て東京駅へ向かう。少し距離があるが、体力に自信のある一平にとってはたいしたことのない長さだ。

 重そうな銀色のアタッシュケースを提げて銀座の街を歩く。外堀通りに出て東京駅へ向かうつもりだった。華やかな夕刻の東京を眺めていると、自分がここにいることが不思議に思えてくる。五年前は自分がこんなふうになるとは想像もしていなかった。バットをカバンに持ち替えて、グラウンドではなく都心のアスファルトの上を闊歩する。チャンスを与えてくれた球団関係者に、あらためて感謝の思いが募る。

 就職活動に挫折した後、一平は恥をしのんで自分に戦力外通告をした球団に何か仕事はないものか尋ねてみた。掃除や荷物運びのスタッフでもいい、何か自分にできそうなことを与えてほしい。球団事務所に呼ばれると、そこに今の会社の役員がひとり座っていた。球団のオーナーが経営する保険会社の重役であり、一平のことを聞いてわざわざ来てくれたのだそうだ。ひたすら恐縮しきる一平に「ガッツはありそうだな」と役員は言った。

「ガッツはあります。ガッツだけは負けません。ただ年に勝てなかっただけです」

 大真面目で一平が自己アピールすると役員と球団スタッフは声をあげて大笑いした。面白いことを言ったつもりはなく、一平がぽかんとしていると「人柄はいい。営業向きだな」とその場で採用が決まってしまった。

 家に帰って報告すると晴海は大喜びしてくれた。

「すごい。一流企業じゃない」

 ふたりでささやかな祝いのパーティーを開いて喜びを分かちあった。保険の営業など初めてだったが、一平は気が大きくなっていて、何でもできそうな気持ちになっていた。髪を切り、ひげを剃り、スーツを買って、靴も新調した。

 初出勤の前日になって、晴海がカバンをプレゼントしてくれた。番号式ロックのついた、銀色のスマートなアタッシュケース。

「ビジネスマンは見た目が大事よ。お客様の信頼を勝ちとらないと」

 その日は二回目の結婚記念日でもあった。


 東京駅の下り線ホームに立ち、もう一度スマホを出す。晴海からもう一つ、メッセージが届いていた。

「お母さんとの話が長引いているの。まだ帰れそうもない。遅くなるかもしれないから、おなか空いているようだったら外で夕食済ませてきて」

 何てことだ! 一平は線路にスマートフォンを投げつけそうになった。結婚記念日に夫がひとりで外食なんて聞いたことがない。晴海のやつ、まさか今日が記念日だってこと、忘れてやがるんじゃないのか? 俺は晴海を信用しすぎなのかもしれない。今ごろ母親とグルになって、俺を捨てる相談でもしているんじゃなかろうか。

 電車が来た。長い座席の一番隅に陣どり、胸のもやもやを鎮めようとする。が、一度芽生えた疑念は夏空の入道雲のように急速に成長して消え去る気配がない。電車が走りはじめる。見慣れた東京の美しい夕景が、今日は暗く沈んだ灰色に見える。窓に映った自分の形相に慄然とする。恨みがましい般若の面のような顔つきをしている。

 夕食はどこでとろう、と一平はぼんやり考えた。安くあげるために牛丼屋でも構わないが、特別な日にそれはあまりに寂しすぎる。新宿あたりでいったん降りて、にぎやかな店で夕食をとったっていいんじゃなかろうか。奇遇にも、カバンの中に金はある。銀色のアタッシュケースを膝に抱き、一平はその日のディナーの計画を練った。電車は御茶ノ水、四谷を過ぎて、新宿に停まった。列車が走り去った後、ホームには一平の姿があった。さてと、どこでめしにしよう?

 きらびやかなネオンの光に誘われて、一平の足は東口に向かった。スタジオアルタを左に見て、涼やかな街路樹の並ぶモア四番街をそぞろに歩く。道端にテーブルが出され、コーヒーを飲みながら楽しげに談笑する人々の間を通り抜ける。靖国通りをわたり、ふだんは近づくことのない歌舞伎町方面へ足を延ばす。どぎつい原色の光があちこちにひらめき、怒りと失望に燃える一平の心をさかんにたきつける。

「お兄さん、ちょっと寄っていきませんか」

 黒いお仕着せをまとった客引き風の男が一平の隣を寄り添うようについてきた。

「女の子のいる、お酒が飲める店ですよ。二時間定額制で、追加料金とかはなし」

 男についていくと青とピンクのネオンがまぶしいバーの入り口に通された。細長い通路を進んでいくと急に開けたホールに出て、テーブルと革張りのソファが所狭しとひしめいている。

「あの席でお待ちください」

 指示されたボックス席に一平は身を沈める。晴海と結婚して以来、この手の店に足を踏み入れたことは一度もない。七年ぶりに味わう雰囲気だが、不思議と罪悪感はわいてこない。晴海が悪い、と子どもじみた心で一平は思った。飯を食って酒を飲むだけだ。文句を言われる筋合いはないだろう。

 しばらくするとミニスカートの女の子がオーダーを訊きに来た。肩を出し、やたら背中の開いた服を着ていて、あからさまに男を煽るような媚態をつくっている。一平が軽い食事とハイボールを注文すると女の子が二人がかりで運んできた。まだ宵の口で客が少ないせいか、総勢四人の女の子が一平のまわりを囲んでにぎやかな夕食になった。

「あたしたちも何か頼んでいい?」

 一平はカバンをたたいて気前よく言った。

「何でも好きなもの頼んでいいよ。金はある」

 女の子たちは客あしらいが上手かった。下手に出しゃばってしゃべりすぎることもなく、客の男に話させては「すごいわね」「大変ねえ」と持ち上げたり同情したりして相手を気分よくさせる。そうやって滞在時間を引き延ばして、客にどんどん注文させる。定額制は嘘だろうな、と一平はぼんやり思ったがたいした問題とは感じられなかった。何しろ今日は金がある。それは嘘じゃない。信じられるのは現金だけだ。

 一平がもとプロ野球選手だと明かすと場が異常に盛り上がった。すごーい、という声がお世辞ではなく本音から漏れたものに聞こえて久しぶりに優越感に浸ることができた。でも怪我で引退してね、とグラスを傾けて寂しげに語るとああ、残念、可哀そうと一斉に同情が集まった。気分のいい食事の時間だ。

「ねえ、波座間さんのカバンって、すごい傷だらけよね。どうしてこんなに傷がついてるの?」

 カバンの傷は営業で外回りに行ったときについたものだ。ふだんは店頭で営業している一平だが、電話での勧誘や、昔ながらの飛び込み営業も頻繁に行っている。近ごろはネットを通じた販売が主流になり、飛び込み営業など時代遅れも甚だしいが、パソコンに疎い隠れた顧客層を開拓するためには、そういう地道な努力も閑却することはできない。

 入社してからの一平は新卒社員にまじって厳しく鍛えられた。一から保険を勉強し、そらで商品を説明できるようになるまで徹底的に頭に叩き込んだ。競合他社の商品と何が違うのかまで暗記し、アピールポイントがどこにあるのか骨の髄までしみこませた。営業先ではもとプロ野球選手という経歴が話のきっかけとなり、玄関先で会話がはずむこともしばしばあった。しかしいざ契約という段になると、急に相手が現実に戻って「帰れ!」と声を荒らげることも少なくなかった。カバンを蹴られたりしたことも一度や二度ではない。そうやって、傷が増えた。

「買い換えればいいのに」

 女の子たちがもっともな感想を口にする。毎年バッグを買い替えている女の子たちからすれば五年も使えば十分なもので、これだけ傷がついて買い換えないのはかえって不思議でしようがないようだ。

「まだ十分使えるから」

 一平はつとめてさりげなく答えた。

「特別な品物だしね」

 二時間があっという間に過ぎ、先ほどの男とは違うお仕着せの店員が「お時間です」と伝えに来た。

 気持ちよく酔った一平はふらつく足どりで入り口に向かい、会計に立って驚いた。

「三十万?」

 どうやら性質の良くない店に入ってしまったようだ。

 それだけの金はカバンにある。しかし自分と女の子四人が飲み食いした量はどう考えても十万円を超えるものではない。場所代にしたって高すぎる。一平は抗議した。こんな法外な要求は受け入れられない。

「お客さん、飲み食いした分は払ってもらわないと困るんですけどね」

 気がつけば一平は三人のヤクザ風の男に取り囲まれていた。体格は一平とおなじくらいで、どいつもこいつも腕っぷしが強そうだ。それでも一平が素直に金を出さないでいると「こちらへどうぞ」と店の裏手に連れていかれた。交番まで走って逃げようかとも考えたが前後がふさがれていてどうしようもなかった。

 誰か、助けてくれ――。叫びたかったが、声にならない。

 代わりに出たのは震えを押さえた強気な言葉だった。

「俺はもとプロ野球選手だぞ」

「あんたなんか、見たことねえな」

「長打のある、レフトだった。いちばん深いところに来た球でも、ホームを狙うランナーを刺せた」

 さりげなく強肩をアピールしたつもりだが男たちはまるで意に介さない。

「だから何?」

 強烈な一発が一平の左に入る。かっとなった一平は目の前の一人の鼻っ柱に力任せにストレートを打ち込んだ。しかし足もとがおぼつかなくて十分な力は出し切れなかった。

「こいつ、やるってのか」

 殴られた男が鼻血を拭きながら凄んだ。

「酔っぱらってるくせに。こっちは三人だぞ」

 三十分後、一平は靴あとだらけでアスファルトにうつぶせになっていた。

 男たちは街灯の下にかがみこみ、一平の提げていたゼロハリバートンのケースを開けようと試みていた。カバンを開けるには四桁の数字を合わせなければいけない。その数字は自分しか知らない。やみくもに数字の組み合わせを一つずつ試していっても、四桁なら一万通りもの組み合わせを確かめなければならない。ムリムリ、お前たちには開けられっこないよ――血まみれで突っ伏した一平は心の中で冷たく笑った。

「開かねえな」

「どうします? こいつ起こして、訊いてみますか?」

「無駄だろ。気絶してるし、強情な奴だから起こしても言わねえだろ」

 一人の男がどこからか工具セットの箱を持ってきた。ドライバーの先端をアタッシュケースの口につっこみ、梃子の要領で無理やりこじ開ける作戦らしい。しかしカバンが開く前にドライバーの先端が折れた。何しろ晴海が頑丈なやつを買ってきたから通常の人間の腕力ではびくともしない。そのうち男たちは先端が細くなったバールのような工具を取り出し二人がかりでこじ開けはじめた。嘘だろ、と一平が思う間もなく、バキッと不吉な音を立ててアタッシュケースの鍵が壊れた。力尽きたように、カバンはゆっくり口を開いた。

 三十万円の入った封筒をもって男たちが立ち去ると、一平は肘をついて起き上がり、壁にすがって立ち上がった。めちゃくちゃに蹴られたので腹も脛も腰も痛む。どこか折られたところはないか恐る恐る確かめたが、幸い骨は折れていないようだった。醜く変形して口が閉まらなくなったカバンを抱えて、一平は新宿駅に向かった。

 息も絶え絶えで自宅に帰り着いた時、晴海はすでに戻ってきていた。

「どうしたの、その格好」

 とりあえず氷、と頼むと晴海は冷凍庫からロックアイスをあるだけ取り出してビニールに詰めて氷嚢をつくった。腫れた頬や膝にあてて、痛みが鎮まるのをしばらく待つ。

「誰にやられたの? 警察には届けた?」

 警察にはまだ行っていない。届け出れば、詳しく事情を聴かれて怪しげな店に入ったことも知られてしまうだろう。警官に知られるのはいい。晴海に知られるのが嫌なのだ。

 氷嚢をあててだんまりを決め込む一平に晴海の方が折れた。救急箱をもってきて、応急処置を施す。傷口を洗い、消毒し、絆創膏をはり、包帯を巻く。明日になったらちゃんとお医者さんに行くのよ、と晴海が念を押しても一平は目を合わせようとしない。どうしちゃったのかしら、と晴海はいぶかしく思った。

「あらあら、カバンも使い物にならなくなっちゃって」

 晴海は馬鹿になってしまったカバンの口をパカパカ合わせながら諦めたように言った。

「買い換え時ね。ちょうどよかったかもしれない。じつはね、今日、結婚記念日だったから、新しいカバンを贈ろうと思っていたのよ。あなたのカバン、傷だらけだったから、そろそろ交換した方がいいかなって思って」

 晴海は隣の部屋から大きな段ボールの包みを運んできた。ハサミで梱包をとくと真新しい銀色のアタッシュケースが姿を見せた。きらきらと鈍い光を放って、五年前のあのときと同じような輝きを見せている。一平の目のはしから、ぽろっと涙がこぼれた。

「どうしたの? 痛むの?」

 なお黙り込む一平の肩を抱いて晴海は寝室へ向かった。

 スーツを脱がせ、興奮気味の一平を寝かしつけると、晴海はリビングに戻って後片付けをした。救急箱をしまい、広げられたままの段ボールを折りたたんで、血の滴る床を拭いた。

 醜く変形して使い物にならなくなったゼロハリバートンを、彼女はやわらかい布をあてて丁寧に拭いた。二度と仕事には持っていけないだろうが、それでもお構いなく時間をかけて丹念に磨いた。表面から泥が落ち、カバンが鈍い光をとり戻すと、彼女はリビングのクローゼットの扉を開いて一番上の棚にしまった。クローゼットの片隅には、一平が現役時代に使っていた木製のバットが立てかけてあった。使われなくなってから十年近く経つというのに、バットは埃をかぶることもなく艶やかな光沢を保って、今にも快音を響かせそうな雰囲気を漂わせている。晴海が毎日こっそり磨いて、時おりニスをかけていたのである。ぼろぼろにくたびれ果て使い物にならなくなった物たちを、彼女はなかなか捨てることのできない性質だった。片づけの出来ない女。妻失格なのかもしれない、と心の中で自嘲気味に笑った。

 晴海は母に会いに行ったことを後悔した。一平はきっと、今日が結婚記念日であることを覚えていて、土産でも買って帰ろうと思っていたかもしれない。そういう可能性はわかっていたが、久しぶりに母から連絡があり、つい母を優先してしまった。自分は何も悪くないことを彼女はわかっていた。しかしそれでも、自分を責めずにいられなかった。

 数か月ぶりに会ったカフェの片隅で、母は声をひそめて、もうあんな男とは別れたら、という趣旨の話をくりかえした。あなたはまだ若い、今ならまだ他の男をつかまえられる、そのチャンスももうあと何年もないだろう、子どもがない今のうちにこそ動くべきよ、と娘の身を案じる母の真剣さで、だけど押しつけがましくならないような控えめさで、数時間にわたって熱心に説得を重ねた。晴海は困り果て、曖昧な笑みを浮かべて聞き流すことしかできなかった。正直、そういう空想が頭の片隅をかすめたことは何度かある。しかし不思議と、それらの空想は、彼女の心の内で具体的な計画に成長することはなかった。彼が幸せにならないままで自分が幸せになるという姿が、どうしても現実的にイメージすることができなかったのだ。

 もう八年も前、まだ独身だった晴海は、友人に連れられて行ったスタジアムで、一平が躍動する姿を見た。一平は少年のような懸命さで外野に飛んできた打球を追い、フェンスに体当たりせんばかりの勢いで自分の持ち場を守っていた。そんなちっぽけな球のために、何でそこまで必死になれるの? と当初はあきれていた晴海だったが、そんな愚直なところも含めて、いつしか一平を素敵だと感じるようになっていった。ヒーローだとか王子様みたいだなどと思ったことは一度もない。ただ泥だらけになって、全力でプレーする姿に惹かれたのだ。

 ひととおり片付けが済むと、晴海は紅茶を入れてベランダに出た。

 初夏の夜風が髪を揺らし、爽やかに吹き抜けていった。見上げると満天の星空。東京でも、こんなに素敵な星々を望むことができるなんて、彼女は何かに感謝したい気持ちでいっぱいになった。

 吸い込まれそうな深い夜空を見つめていると、視界の隅に星が流れるのを感じた。

 彼女は反射的に指を組んだ。

 そして目をつむり、自分のためでなく、夫のために祈った。

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