case.2「BOX the T-rz」(03)
――幽霊船。
それは海に纏わる奇妙な話、あるいは怪異そのものとして語られる怪奇現象だ。
深く濃い白霧がたちまちの内に立ち込めたかと思えば、ぼんやりと霞むその白の中に、朽ち果てた巨体を浮かばせると伝えられている。
突如現れた船に慄き舵を切ったが最後、岩礁にぶつかり座礁するなどと言われもするが――果たしてそれは悪意があっての事なのか。
海に沈んだ魂が怨念となり、生ける者を道連れにしようとしているやら。
生者への憎しみが船幽霊――つまりは船頭や海坊主の姿となって、のうのうと海を渡る者の前に現れるやら。
先に語ったように、とても浮かべるとは思えない船がただ姿を見せただけやら。
幽霊船が危険か否か――それは語られる物語によりけりとも言えるだろう。
だがアニの嗅覚は、目の前に浮かぶ船からこの上ない危険を感じ取った。
海底に沈んでいたが故の、深く暗い磯の香り。
そこに紛れて漂う、吐き気をもたらす腐肉とカビの嫌な匂い。
胃に放り込んだのは、オリアに渡されたカフェオレと、運転の片手間に食べた惣菜パンだったか。
悪い意味で込み上げる熱を喉のところで押し返し、アニは重い霧の向こうで待つ船を仰ぎ見た。
「……乗れってか?」
近付けば近づくほど臭気が増していく沈没船――否、浮上船か。
下手なところを踏み抜けば、即刻海に落ちてしまいそうな踏板を降ろす船を見上げ、アニは先の見えない暗闇をきつく睨みつけた。
浜と船とを繋ぐボロ板を見るに、アニが乗り込むのを待っているのだろう。
大口を開けるかのような船を前に唾をひと飲み。
アニは恐る恐る――しかして豪快な一歩で、墓穴の如き深淵へと足を踏み入れた。
(連れて来なくて正解だったな)
もし電脳箱[K-hack]がいたなら、この前のように気味の悪い声をあげてショートしていたに違いない。
誰に指示されるでもなく船に降り立ったアニは、これまた誰に指示されたでもない自身の判断を妙々と思いながら、歩く度にギィギィと軋む湿った板を踏み歩いた。
ぬかるむのは海藻か苔か――はたまたカビか。
黒ずみ濡れそぼった床板を、一歩一歩転ばないよう踏みしめる。
「オリア――いるんだろ?」
暗く湿った闇は迷路さながら。
外から見たより遥かに広い船内を突き進めど、肝心のオリアの姿は見つからない。
オリアが居なければ、この船が本当は何なのかすら分からないというのに――どうやら鼻も麻痺してしまったらしい。
「……なあ。いるなら返事しろよ」
感じるのは鼻の曲がる腐臭ばかり。
長閑な日差しの中に燻ぶる紫煙の香りは酷く遠く――アニはどこが穴で、どこが汚れで、どこが安全かも分からない船内を彷徨い歩く他になかった。
「…………オリア」
汚らしい壁はどうにも触る気が起きず、足元はどうしたって心許ない。
奈落の底へ引きずり込もうとする、いやに滑る足場をしっかりと踏みしめながら、アニは消え入りそうな声で探し求める相手の名を呼んだ。
思えば、ちゃんと名前を呼ぶのは初めての事だ。
それすら本人のいない状態での事だが、気が付けば目で追ってしまう薄紫を追い求める。
煩わしいのに、意味が分からないのに、これ以上踏み込んで欲しくないのに――結局はそれも方便か。
電脳箱[K-hack]の声をも霞ませる存在に、アニは黙って待っている事だけは選べなかった。
だからこそ幽霊船を彷徨い――
「――アニ」
腐臭の中でその声を聞く。
か細い音はどこから響いたのだろう。
「ッ……オリア!」
アニはバッと顔を上げ、ビチャビチャと騒がしい水滴が奏でる狂騒の中にその声を探し始める。
「オリア……!」
「――こっち」
「こっちってどっちだよ!?」
「――ここ――もっと奥」
「奥だな!?分かったから動くなよ!!」
「――早く――来て」
掠れた声があの日の情事を彷彿とさせるのは敵わないが、オリアが生きていると分かったからだろう。
以前に見た怪異――〝災いの箱〟と違い、わけも分らず襲ってこない安堵も含め、アニは幾分落ち着いた胸中で声の出所に近付いていく。
ワインでも貯蔵していたのか。
自分よりも大きな古びた酒樽を越え、扉の無くなった船室を越え、元は食卓だっただろう崩れたテーブルと椅子の山を越え――そこから少し。
衣裳部屋だったのか、宝部屋だったのか。
光の届かない部屋へと辿り着いたアニは、部屋の隅に置かれた巨大な箱に目を留める。
「…………箱」
もはや箱に良い思い出はない。
思わず怪訝な声を吐き出した刹那――薄汚れた箱が、か細い声でアニへと語り掛けた。
「――アニ」
「…………いや、嘘だろ」
「――中――……」
「…………」
聞こえてきたのは人の声。
自分の名を呼ぶその声に、アニはどっと緊張感を削がれてしまう。
たしかにひと一人が入ってしまえそうな大きさの箱だ。
だからといって、こんな汚い箱に閉じ込められるなんて馬鹿な話が――
「……アイツならあり得るか」
普通はなくても、あのオリアならあり得てしまうのだろう。
「はぁ……ちょっと待ってろ」
「――早く……」
見るからに腐った箱に触りたくはないが、これも人命救助もとい報酬のためだ。
呆れて声も出ないといった表情を浮かべながらも、アニは固く閉ざされた箱に手を伸ばす。
浅黒い指先がどこが蓋かも分からない箱に触れ――
「アニ?」
――ようとしたその時、アニの背後にそれは現れた。
「オリア……?」
「君も来てたんだね。てっきり外で待ってるものかとばかり思っていたけれど……流石の君も幽霊船には興味があったのかな?」
「は……?え?オリア……?」
飄々と語り出すその人物に、アニは目をパチクリと瞬かせる。
巨大な箱と後ろに立つ相手とを見比べ――何度も見比べるが、アニにはこの状況がまったくもって理解出来ない。
箱から聞こえたのはオリアの声のはずで、目の前にいるのもオリアで――煩わしいかな。
鼻は利かないまま、アニは顔を出した相手を睨みつける。
「お前……本当にオリアか?」
「状況が掴めないものの……随分と心外な発言だね。まるで僕の偽物を見たよう――いや、見たのかな?怪異が相手なら不思議な話じゃないだろうけど、そうなると同じ質問を返さなくてはいけなくなるね。アニ――君は自分が本物だと証明できるかい?」
「えっ!?俺!?」
しかし、相手はあのオリアだ。
驚くでも惑うでもなく言葉を紡ぎ、かえって自己証明を求められたアニの方が狼狽える。
「証明っても何を証明すんだよ!?」
「僕たちしか知らない事だとか――あるだろう?」
「んなこと言われてもな。例えば……何だよ?」
「例えば……そう、例えば…………何だろう?イースター……は違うな。蟒蛇……も今は良いか。ええっと……ごめん。自分で言っておいて申し訳ないけど――何だろうね?」
その狼狽も僅か――悪びれなく小首を傾げるオリアに、アニは困惑も吹き飛ぶ呆れと苛立ちを込み上がらせるのだった。
「あー……そうかよ。けどよーく分かった。お前がオリアだって事はよ」
ここまで人を怒らせる天才はいない――続く言葉を飲み込み、アニは閉ざされた箱に伸ばし掛けていた手を引っ込める。
箱から聞こえたと思った声――否、音は気のせいだったのだろう。
一夜を共にした仲なのに。
もしくは一夜を共にしただけの他人に過ぎないのか。
何にせよ、自分に興味がないと言わんばかりのオリアの物言いに、アニはこの失礼な男がオリア本人なのだと確信を抱く。
そうとなれば、こんな不気味な場所に長居する理由はない。
(幽霊船か何か知らねーが、見ただけ十分だろ)
この前のように襲われるのだけは勘弁だ。
船が襲って来る――というのも変な話だが、緊張感のないオリアを見やり、アニは深いため息をつく。
その視界がぞわりと揺らぎ、アニは目を大きく見開いた。
「っ……!」
ぬるりと飛び出したのは血の気のない白色で。
「オリ――」
「動くな。動けば折るぞ」
名を呼ぶ間もなく、闇から溢れ出た白い腕がオリアの首を絡め取る。
皮と骨だけになった腕は微かな花の香りをもたらし――
「ッ……テメェ」
アニはしわがれた老人――ワギリへと鋭い眼光を叩きつけた。
いつの間に――否、初めから失踪事件の犯人は地主であるワギリ本人だったのだろう。
オリアを押さえつけた老人は、アニから目を離さず、淡い桜色の髪に乾いた唇を押し当てる。
その行為がアニの精神を逆撫でするのはさておき、老人は光の灯らない目をギョロリと動かした。
片目はやはりアニを捉えたまま、左目だけがカメレオンのようにオリアの姿を映し出す。
「憎い。憎い――……それでいて眩い事よ。お前など喰らうてやる。喰らうて喰らうて……いや、餌にしてやろう。お前の心臓を飾らば――そうだ。そこの犬畜生のやうに、餌が群がりよる」
「……それは、どうかな?」
ぞろり……とざらつく舌で頬をなぞられ、オリアは鈍く呻く。
羽交い絞めにされる形で首を鷲掴みにされたその顔に笑みが浮かぶのは、余裕ぶっての事なのか。
ただ単に苦し紛れの挑発か。
何にせよ――未知の恐怖にばかり警戒していたアニは、もう一人の依頼人の出現に足を踏み切る事が出来なかった。
それでも口だけは逞しく、唾を飛ばして叫び散らす。
「何でここに!?つーか、誰が犬畜生だよ!?」
「犬畜生は犬畜生。情けなく尾っぽを振る番犬気取りの負け犬よ」
「犬じゃねえ!!わざわざ小難しいこと言いやがって……!!どいつもこいつも何なんだよ!?」
「ふふ……言い得て妙、だけどね」
「てめーも笑ってんじゃねぇよ!!」
怪異じゃなかった事を喜ぶべきか。
それともオリアを人質に取られた事を嘆くべきなのか。
苛立ちを募らせながら、アニはその場で拳を握りしめる。
力が入れば入るほど足が滑りそうになり、気持ちは急くばかり。
はくはくと口を上下させるオリアの姿に、アニはただ全身の毛を逆立てるほかなかった。
その様子がよほど愉快だったのか、哀れだったのか。
「ああ――そうだ」
殺気立つアニを黒ずんだ目に映し、老人は蝋めいた唇をにぃ……と持ち上げた。
「哀れな犬畜生――そんなにこれが大切なら、お前に喰らわせてやろうか?」
放たれた一言は、テレビの向こうの出来事のようにアニの耳を撫で。
アニはわけも分らず老人を見つめ返した。
「は……?」
「何を驚く。お前にこやつを守る道理も、こやつを生かす理由もあるまい。どうだ?こやつを喰らうて……彼岸に来い。儂とお前とでこの忌まわしい檻を壊そうではないか」
「何言って……」
「分かるぞ。分かるぞ。これは旨そうだものなぁ。無垢なふりをして……喰らう隙を伺っていたのだろう?」
「違う、俺は――」
果たして、どうなのか。
下卑た笑みを浮かべるワギリに、アニは萎んでいく一方の声を詰まらせた。
巡る思考は鈍く。
(俺は……アイツをどうしたいんだ?)
柔らかそうな髪が。
煙が香辛料となって香る甘い匂いが。
血管がハッキリ浮き立つ白い腕が。
薄い皮を守るかのような刺青が。
いつも遠くを見つめる紫の瞳が。
息を呑む程に美しく、忘れられない程に頭に残り――旨そうという意味を理解しかけてしまう。
(旨そう……って何だよ)
思いがけず――本当に思いがけずゴクリと喉を鳴らせば、それすら老翁の思う壺なのだろう。
ワギリは浅い呼吸を繰り返すオリアの顎を押さえつけ、赤黒い舌をピアスの下がるオリアの耳に這わせた。
「儂に喰われるか、犬畜生に喰われるか――それとも見せしめとなるか。さあさあ、どうしてくれようぞ」
「っ……どれも、御免だね」
囁かれるのは悪魔の宣告に他ならず。
しかしてその問いに笑い――オリアは絞められた首に手を伸ばす。
抵抗するかのように見えた手は宙を泳ぎ――
「アニ……――行け」
「……!」
何かを引き抜くかのように――否、首を斬り落とせと言わんばかりに、立てられた親指が空を切った。
それが意味する事を悟り、アニは自らチョーカーに手を触れる。
垂れ下がった銀のチャームを掴み――一瞬惑い。
「ッ……やりゃ良いんだろ!!」
壊れんばかりの力で、チャームに付けられたスイッチを強く押し込んだ。
その背に、黒い箱が飛び掛かる。
「愚かな選択をしたな、小僧」
アニが動くのと、その箱が動くのはどちらが早かったのか。
ガバリと口を開いた箱が、忠告を無視したアニの腕に齧りつき――お気に入りの革ジャンごとアニの右腕を毟り取る。
「ガッ――アアッ!!」
溢れる咆哮は、痛みがもたらすものなのか。
鮮血が箱を濡らす最中にも、バチバチと電撃が奔り――アニはその姿を狼とも人狼ともつかぬ漆黒の塊へと変貌させた。
『グルルルルッ!!』
空気をも揺らす唸りが鳴り響くのも刹那、赤い脈を奔らせる黒が飛び上がる。
狙うは一点。
腕を取り戻した獸は大きく宙を舞い、オリアの元へと降り立った。
「動くなと――」
『ガルルアァ!!』
本能を剥き出しにする獣に交渉など虚しく、アニだった獸はワギリの腕を躊躇いなくへし折った――つもりだったのだろう。
オリアから引き剥がされた腕は千切れ、勢いのままワギリの体は汚れた床に叩きつけられる。
だが今のアニにそれをどうこう思う心はない。
ボロ雑巾のように転がるワギリに見向きもせず、オリアの体を抱きしめた。
『クルルルッ』
「君は随分と甘えん坊なのだね」
グリグリと長い顔をこすり付け、アニは喉から高い声を溢れさせる。
歓びを現すのは声だけでなく、長く伸びた尾もブンブン揺れ、その存在を主張していた。
細められた目が真紅の線と化し、それも束の間バチリと赤が目を開く。
『――!』
全身に開いた赤は余すことなく暗い船内を一望し、自身とは異なる赤を捉えた瞬間、軋む床を蹴り飛ばした。
『ガルルッ!!』
『寄越セ――ソレヲ寄越セ』
聞こえた声はしわがれたワギリのものだったのか。
それとも若い男のものだったのか、女のものだったのか。
幾重にも重なった声が、顎を開いた箱から溢れ出る。
文字通りの顎から覗くのは鋭く尖った牙と――赤黒い舌先。
老人を象った長い舌が、這いずるようにオリアへと手を伸ばす。
『儂ノダ――ソレモオ前モ全部――私ガ喰ラウテヤル――俺ガ喰ッテ儂ガ喰ッテ吾ガ喰ッテヤル』
よくよく見れば、老人には足が無かった。
それは幽霊船で出会ってからに限った話ではなく、花に隠れた腰の下は端からここに繋がっていたのだろう。
その事実に気付く事もなく、アニは左手にオリアを抱え、飛び付いて来る老人を切り伏せる。
老人の体は千切れてなお花開くように襲ってきたが、怒りに燃える獸の前には成す術なし。
爪が四肢を引き裂き、狼の足がのたうつ赤を踏み潰し――ガチガチと歯を鳴らす箱へと噛み付いた。
腐食した板は呆気なく砕け、パラパラとその破片を黒ずんだ床へと落としていく。
それを見下ろす影は人の二倍か、三倍か。
丸まった背中の内側――毛と言うには奇妙な触り心地の黒に抱かれたオリアは口のごとき箱――宝箱だった残骸を見つめ、小さく囁いた。
「幽霊船――その正体、擬態と見たり……なんてね」
擬態――見たままのその現象を今のアニが理解しているかはさておき、オリアは相対した怪異の本質が船にはない事を音にする。
その音までもが穴の開いた船底に飲み込まれ――次の瞬間、静寂を掻き破って船がドロリと溶けだした。
『寄越セ――ソレダケデモ――……』
響くのは地響きか。
グラグラと揺れる胃の脈動か。
腐った木目が肉の壁へと変貌し、申し訳程度に二本の足で立つアニの足に纏わり付く。
生々しい桃色が触れた先からジュワリと肉が溶け、膨らんだ背中を丸めたアニは腕に抱えたオリアを落とさないよう飛び上がった。
ぐんと引っ張られる――あるいはぶつかる風の感触に身を固くしながら、オリアもまたその頬を撫でてやる。
「アニ――この前と同じだ。怪異にも必ず核がある。それを探して君の糧にするんだ」
『グルアッ!』
「良い子だ――理解出来たようだね」
喉を鳴らすのも一瞬のこと。
肉の壁が迫る中を、アニはオリアを抱えて走り抜けていく。
足の裏が焼ける痛みにも、焦げた肉の香りにも、もはや老人のものとも判断のつかない声にも振り向かず、ただひたすら傾き続ける船の底へと降りていった。
塞がろうとする穴を間一髪で滑り抜け、時には肉の壁ごと突き破り――最も醜悪な匂いを放つ底を目指していく。
黒い水を張った最奥には朽ちたテーブルと、大粒の宝石を抱いていたかのような小ぶりの箱が一つ。
『来ルナ――来ルナ――……ッ!!』
『グルルッ……アアッ!!』
もはや虚勢を張る事も出来なかったのだろう。
怯える声をも飲み込んで、赤を奔らせる漆黒の獣はその〝宝箱〟を噛み砕くのだった。
バグンッ――と闇の中に箱が消え、結果を見届けたオリアは片手間にアニの顎を撫でながら、目を瞬く。
「さしずめ〝宝食の箱〟といったところかな」
瞳孔を囲う光輪が収縮したり元に戻ったり。
一つの終幕をじっと見つめ――一息つく間もなしに、再びの激しい地響きが二人へと襲い掛かる。
『グルル?』
「これは……困ったね。犬は往々にして泳げるものらしいが、君は泳げる――……」
そしてオリアの言葉が終わるのを待たず、二人の体は暗い海へと放りだされる事になるのだった。
『グルアッ!!』
「ぷはっ……!」
核を失った船は泡となって海に消え、残された二人はややあって海面へと躍り出る。
揺れる波に身を任せれば、一人と一匹は程なくしてゴツゴツとした岩ばかりが並ぶ海岸へと辿り着くのだった。
なおも抱きかかえられる形のオリアは黒い腕から脱出しようと身をよじり――強い力に引き戻される。
「……ここでする気かい?」
『クゥーン……』
恐らく誰の目もないだろう。
それでも望ましいとは言い難いロケーションにオリアは苦悶の意思表示を顔に出す。
しかして今のアニに理解が出来るのか。
「…………まあ良いけどね。どうせ……いや、君に言うだけ無駄か。好きにすると良いよ」
『クルルルッ』
のっしりと覆い被さる――否、獲物が逃げないよう押さえつける獸に触れ、オリアは嘆息を一つ。
本能のまま行動する獣の衝動を受け入れるのだった。
「さて、今の内に……」
小さな吐息がアニの耳に届く事はあったのか。
長い舌がしつこいくらいに左頬を舐め回し――ようやく怪異の匂いがとれたのだろう。
オリアの体をすっぽりと自分の体で包んだ獸は、褒美と言わんばかりに目の前の据え膳に手を伸ばした。
――それから幾許。
アニ――正しく青年の姿に戻ったアニをコンテナに放り投げたオリアは、海水のせいでガサガサになった髪を掻き毟りながら煙草に火を灯した。
煙がふわりと舞い、咽るような心地よいような香りが鼻をくすぐる感傷と余韻。
それに浸かる間もなく、菩薩を抱いた背中に無機質な声が忍び寄る。
『Sir.オリア――健康を損ねます』
「……たまの一本だ。どうせ残りも少ないんだし、これくらい許してくれよ」
オリアが戻って来た事で、スリープモードから目覚めたのだろう。
口煩い電脳箱[K-hack]には振り向かず、オリアは紫煙を吐き出した。
ゆらゆらと揺らめく白を、この電脳箱はどう認識しているのか。
『宜しいのですか――?』
「……君に言われる筋合いはないんだ。あまり話し掛けないでくれ」
不安を拭い切れないといった風に再度音を紡ぐ電脳箱[K-hack]をどこか冷たくあしらい、オリアは肺一杯に煙草の煙を溜めていく。
「次は……何が出るだろうね」
煙の中に言葉を乗せて。
気持ち良さそうに寝入るアニの顔に煙を散らす。
「ムニャ……オリア……」
「…………」
涎を垂らす顔は幼く、赤く燃えるかのような首の傷は痛ましく――逞しい体つきは大人の男そのもので。
「…………良い夢を見るんだよ」
ソファに転がったアニを見つめ、オリアは声にならない声を溢した。
その感情を電脳箱[K-hack]が知る由もなく――――外には紫とも黄金ともつかぬ朝が訪れる。
二人にとっての長い夜が明けるその瞬間を、オリアは一人、紫煙に抱かれながら眺めていた。
04に続く。
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