Q-T[File of Foxy](02)
「僕は十八番珀」
柔らかな笑みのまま、一等穏やかな声が名を溢す。
一聴してありきたりではないと判断できるその名に星を宿す青年は同じ音を繰り返した。
「コハク……さん」
いくらか間が空いたのは、久方ぶりに戻ってきた日本という国の風習を忘れていたからだ。
思い出したように敬称を付け加え、飴色に輝く石を冠した名を囁く。
しかし、間違いがあったらしい。
十八番珀と名乗った男は、僅かに片眉を下げた。
「コハクじゃなくて珀なんだけど……」
とはいえ、そこに怒りは感じない。
まして不満もなく――
「その方が言い易いのかな?まあ好きに呼んでくれて構わないよ」
「じゃあコハクさんで」
「うん。それで……君の名前は?」
ゆるりと笑うコハクにつられるまま、青年もまた口を開くのだった。
「オレはカイネ。カイネ・アルベノ……ペンタゴン……です」
尻すぼみになる声が示すものは単純。
星を宿す青年――カイネは〝ペンタゴン〟の名が嫌いだった。
きっかけは何て事はない。
幼き日の悪気のない子供のやり取りだっただろう。
それは日本でも、諸外国でも同じ。
響きが面白いやら、変な名前やら、かっこ悪いやら――からかわれた記憶ばかりの名前を、どうにも疎みたくなってしまうのである。
ある種、唯一の欠点とも言うべきか。
学業にしても、家業もにして、容姿にしても、優麗無比に生きてきたカイネにとって、〝ペンタゴン〟の響きは到底好きになれるものではなかった。
(……分かってるいるけど)
無論、〝ペンタゴン〟に込められた意味の重さも誉も理解はしているつもりだ。
だが順心を欠いた周囲の人間に馬鹿にされるだけの名を、どうして好きになれようか。
ならば〝アルベノ〟の名だけで良かったではないかと、不満を覚えてしまうのである。
その心など露も知らず。
響いた音を追うように、コハクはただ無垢に星を仰いだ。
「ああ……それで。名は体を表すって言うけど、ペンタゴンが浮かんでるみたいで綺麗だね」
青々とした蒼空に浮かぶ銀の星。
五芒星を象る銀光を宿す目が、淡く儚げな紫苑と絡み合う。
笑われるか、聞かなかった事にされるか、気まずさを察せられるか――あるいは矢鱈に由来を聞かれるか。
今までのどれとも違うコハクの反応に、つい面食らったのは何故だろう。
カイネは一つ瞬きをし、けれど透き通る紫苑からは目を逸らさず、ぽそりと呟いた。
「……笑わないんですね」
「うん?どこか笑うところあったかな?」
「…………いえ」
思わず尋ねたのは無意識か、その心が覗きたくなったからか。
だがコハクは無為に首を傾げるだけで。
「ないです」
皆が皆そうであれば良いのに。
表層だけで判断などしないでくれれば良いのに。
浮かびそうになった言葉を呑み込んで、カイネは好青年らしい笑みを作る。
「これからお願いしますね、コハクさん」
あくまで利用するだけの相手だ。
ほどほどに良好な関係を築き、後腐れなくさよならするのが一番良い。
(これも星の導き――ってとこか。婆さんが煩いから適当に進学だけはしたけど、こんな良いものが落ちてるなんて……やっぱオレついてるな)
いわば手付かずの霊脈。
二十年あまりを無事に過ごしてきたのが奇跡とも言える原石に、カイネは手を伸ばすのだった。
それが二人の始まり。
千年の時を超えるかのように、星と月は巡り会ったのである。
それからしばらく。
晴れてオカルト研究会に所属する事になったカイネは、後輩という立場を最大限活用してコハクに張り付いた。
それはもうベッタリと。
「コハクさんコハクさん。これ教えてください。日本語難しくて」
「どれどれ……ああ、これは牛鬼についての伝承だね。古い言葉だから、解読するには……ええっと、このへんかな。このあたりの辞書を使うと良いよ」
「そうなんですね。でもちょっとだけなんで、教えて貰って良いですか?」
「しょうがないなぁ。はいここ座って。自分で調べるのも醍醐味なんだけどね」
根本的に優しいのだろう。
何を知らないフリをすれば、コハクは優しく応えてくれた。
(事実は小説より奇なり――だっけ。結構違う風に伝わってんだな)
オカルト研究会の扱う題材は陰陽師の家系に生まれたカイネにとって本分も本分だったが、下手に詮索されるよりは無知を装う方が便利というもの。
誰よりも見知った怪異や妖怪の情報を尻目に、コハクの隣を陣取り続けるのだった。
事実、今一番興味深いのは妖怪でもUMAでもなくコハクの事だ。
(こんなポヤポヤでどう生きてきたんだろうって思ったけど……コハクさんより弱いのは無条件で喰われてんだろうな。その上で本人の気はほとんど外に漏れてない。オレですら顔見るまで気取れなかったし……一応?一応程度には自衛してるって事か?)
その本質は箱の如。
一見では分かり難いが、内包する気は大きく、並大抵の霊魂や妖程度ではコハクを支配する事は叶わないだろう。
その内に箱の中へと呑み込まれ――幸か不幸か、望んだ場所に溶け往くのである。
もっとも、その道を辿るつもりはない。
恩寵を受けるためにも、カイネは優しく優しくコハクに接するのだった。
(霊場しかり霊山しかり、受け入れられる事が第一前提。反発しちゃ疫が降ってくるだけだし、まずはコハクさんに気に入って貰わないと。気見ればだいたいの感情は分かるし……どうとでもなるだろ)
打算であれ、我欲であれ。
win-winの関係を築けるならば、何の問題もないはずだ。
ひとつ距離を詰めてしまえば後は早く。
カイネは次から次にコハクに手を尽くしていくのだった。
「これあげます。一人じゃ食べきれないので、良かったら食べてください」
「いつも悪いね」
「美味しかったら教えてください。また買って来るんで」
時に高級なお茶菓子を与え。
「コハクさん好きそうだな~と思って買っちゃいました!」
「君はまた……」
「オレとしてはシルバーやゴールド贈りたいんですけどね。ここはまあコハクさんの趣味優先で……ってことで、貰ってやってください」
「ありがとう。でもシルバーやゴールドは止めてね?普通に困るから」
趣味が良いとは言わないが、当人の嗜好を認めるのも良い男というもの。
自分も寛容になったと思いながら、時に仏具を思わせるデザインのアクセサリーをコハクに贈り。
「そのくらいにして、ご飯行きません?」
「あと少しね」
「駄目でーす。それ言ったら終わらないんで、また明日にしましょう?疲れたままやったって効率悪いだけですし、ちゃんとお腹に入れとかないと。あなたに倒れられたらオレだって困るんですから」
「分かった、分かったよ。本当に……面倒見が良すぎるんじゃないかい?」
「そうさせてるのはコハクさんですけどね。個包装ごとチョコ食べようとしたり、コーヒーのボトルに直接お湯注いだり、外泊してるわけでもないのに何日も同じ服着てきたり……ふわふわしてる自覚あります?」
「それは寝ぼけてたりとか……ね?うーん……そんなに危なっかしいかな?」
「まあまあ肝が冷えますね。オレが見てる間は大丈夫でしょうけど」
「これはまた過保護だねぇ」
時に寝ぼけ眼のコハクを諭し――幾許。
霊脈かくやという恩恵への義理を果たす内に、離れがたくなってしまったらしい。
(……可愛いな)
いつも穏やかな心音を、優しげな紫苑の眼差しを、自身を受け入れてくれる度量を。
ふと愛おしいと思ってしまった。
(え?可愛いなこの人……。甘やかしてるつもりだったけど、オレのが甘やかされてるんじゃ……?)
打算から始まった関係だろうと、それを知るのは自身だけ。
自覚とはかくも恐ろしく、己の感情に気付いたカイネは一層コハクに張り付いた。
望むものは何でも与えたかった。
あらゆるものを遠ざけたかった。
自分だけの〝コハクさん〟であって欲しかった。
だからこそ――か。
カイネはコハクを手離す事になる。
「コハクさんは……」
「何だい?」
「将来……どうするのかと思って。いつまでも研究ばっかしてらんないでしょ?そういう道もないとは言わないけど……現実的じゃないって言うか。コハクさんは研究者であって教えるのは下手クソっていうか……ね」
「ははっ、言うねぇ」
「そりゃ……よく見てますから。心配するこっちの身にもなって欲しいってやつですよ」
冷えた夜の道はいと静かに清々しく。
まるで騒がしい世の中から、切り離されたかのようだった。
星の標のない空に未来はあるのか。
特等席とも言うべき助手席に座るコハクに、読めぬ先を問いかける。
しかし、望む答えは胸の奥にだけ。
「まあ……普通に暮らすよ。趣味でくらいは続けるだろうけど、普通に働いて、普通に結婚して、普通に死んで……かな?流れに身を任せる内にそうなってれば良いかなとは思うよねぇ」
コハクは〝普通〟に生きる道を選んだようだった。
「……普通に」
思いがけず言葉に詰まるが、その惑いは届かなかったらしい。
「そう、普通に。僕みたいな変人には普通ってのもその実よく分からないけど……多くは望まないよ」
あなたは普通には生きられない。
そもそも普通とは何なのか。
問いたい言葉はいくつもあったけれど、開放的な空の下、静かに笑うコハクに、カイネはもう何も言い返せない。
(最初に描いた筋書きじゃないか。今更悲しんで……どうする)
何も知らなければ、傷つける事も厭わず閉じ込められたのか。
あるいは冷酷に切り捨てられたのか。
「……良いんじゃないですか?ちょっと危なっかしいだけで、言うほど変人でもないですしね。応援しますよ?」
何でもないように笑って。
どうでも良いように語り掛けて。
愛してしまったからこそ、〝普通〟を望む意思を尊重するまでのこと。
(でも……コハクさん。その名前だけは、この思い出だけは、オレだけのものにさせてよ)
たとえ二度と会う事がなかったとしても。
普通に生きる、そのささやかな望みが叶うように手解きだけは残し――星の標もないまま、二人はそれぞれの道へと進んでいくのである。
いつの世も星はただ見守るばかり。
煌々《こうこう》と照るだけで何も語らず――けれど、それは正しかったのか誤りだったのか。
欠けては満ちる月が空を見る。
「あの日もこんな空だった」
「あの日……例の審判でしょうか」
死滅したのは月か、星か。
揺蕩う以外にない葦船は、肯定も否定もせずに微笑んだ。
憂うとも懐かしむとも異なる笑みに、花の香りを放つ従者もそっと口を噤む他にはない。
黙って天を見上げれば、主に似た黒々とした空が世界を包み込む様が目に映る。
「まるであなた様のようです」
つい溢せば、月は笑ったのだろう。
先見えぬ闇を自らに重ね、クツリと喉を鳴らすのである。
自嘲を含んだ音はどこか悲しくもあり、須らく世を支配する天上に主を重ねた従者は、ほのかな虚しさを覚えるのだった。
(お労しい……何とお労しくお美しいのか。意味も意義もなく、流されるだけの葦船と成り果てようと、あなたは絶えず艶やかに……寄る辺なき者を狂わせる。さりとてあなたが求めるは、かの金星ひとつ。私では……あなたの望む星にはなれないのでしょう)
意義を見失っている事に、気が付いているのか否か。
星を探して彷徨う月に、丁寧に丁寧に織り込まれた葛の船はそっと寄り添った。
(あなた様の傍にいましょう。どこまでも、どこまでも……光年先であれ、あなた様をお連れしましょう。それがあなた様に与えられた私の意味。それでも……それでも願ってしまうのです)
星はいまだ光年先で燃えているのか。
それとも尽き果ててしまったのか。
標のない空を疎ましげに見上げながらも、月の輪郭を静かに撫でる。
(あなた様を照らす星になれたならば――……幼子のように昏闇を彷徨うあなたを救えるのではなかろうかと、愚かにもそう思ってしまうのです)
星は嫌いだ。
子供めいた言葉を呑み込み、星のない空から目を背く。
しかして言の葉は紡ぐもの。
紡がれざる音は無に等しく、花咲かせる事なく朽ちていくのである。
オリアは皆が思っている以上にポンコツ




