Recall the BOX(07)
『――活動再開されるんですね?』
ほんの僅かくぐもった声。
電子を介した音が、声高らかに暗い部屋へと響き渡る。
幼い頃は親に怒られたものだが、その注意は特別意味を成さず。
大人になったばかり――そう形容するのがふさわしい娘は、齧りつくように光る画面へと意識を向けた。
目当ては一人の男性。
歳を刻んだとは思えない若々しい男が、薄いテレビの向こうで微笑んでいる。
『随分お待たせしてしまいましたが』
『そんなこと……!私もですが皆さん、必ず帰って来てくれると信じていましたから。ただ……お聞きしても?何故、活動を休止されようと思ったんですか?』
『自己研鑽……というよりは自己分析ですかね。瞑想じゃないですけど、自分と向き合ってみようと思って。何せずっとこの道を歩んできたわけじゃないですか。もしも――それを考えてみたくなったんです。違う道があったとしたら、自分はどこで何をしていたんだろう?誰だって一度は考えますよね?』
『そうですね。私もアナウンサーをやっていなかったら、どんな大人になっていたのか。小さい頃はパティシエになりたかったんですけど、本当にパティシエになってたら、どんな感じだったのかな……って、私の話はいいですね。それで、やはりこの仕事が向いていると?』
『まあ、そんなところです。他に生き様がないというか。誰にでも成れる自分――それが一番らしいというか。声援に応えたくなった……なんて言うと、少し気恥ずかしいですが』
きっと彼の姿を見ぬ日はないだろう。
それくらい名声と活躍を欲しいままにする男が、初めて恋を知った少年かのように眉を下げる。
照れ臭そうな笑みは、インタビュアーであるアナウンサーの頬を上気させるが、それは観客のみたいものではない。
ギリ……と歯軋りを一つ。
テレビに齧りついていた娘は、すぐさま小型の端末を手に取った。
端末いっぱいの画面を素早くタップし――けれど、最後の一押しで踏み止まる。
果たして、彼はこんな罵詈雑言を望んでいるのだろうか。
ブスやら、調子に乗るなやら、全身整形やら、枕営業やら。
画面にしたためた悪口を見返し、娘はそれを削除する。
「…………チチッ」
こんなドブ臭い事をしなくても、彼の心はもう自分の元にあるのだ。
ほくそ笑み、インタビューに答える男に視線を戻す。
だが、至福の時間はあっという間に終わってしまったらしい。
映画にドラマにモデルにと――三人くらいに分身しているのではないかという仕事量をこなす男が多忙を極めるのは当然のこと。
ニュース番組のひとコーナーに割く時間など米粒にも等しく、彼は笑顔のまま去っていくのだった。
そうなれば続くのはもう誰も興味のないアナウンサーの感想だけ。
娘もまたテレビの電源を消し、余韻に浸るのである。
「はあ~……かっこい~……」
吐息は熱く、そして甘く。
理想がそのまま現実に飛び出して来た――そう言っても過言ではない、何から何まで自分好みの男に、娘はただただ熱の籠った息をこぼす。
「かっこ良すぎて死んじゃいそぅ……。こんな理想ピッタリの人が存在するなんて、それこそ運命じゃなきゃありえないよ~!」
世界中のどこを探しても、あんなに素晴らしい人間はまたといない。
熱をもった頬に手を当て、娘は一人キャーキャーと歓喜の声を出す。
そこに――
「何だ。またそれか」
「ナッ……!ナナナナナナナル君っ!」
焦がれて止まない男が顔を見せた。
不機嫌そうに見えるのは、自分に気を許してくれているからに他ならない。
あるいは件の邪魔者のせいか。
暗がりに灯った眩い光に娘――丙子は転げるように駆け寄った。
「ナ、ナル君……いいい忙しいんじゃないの?」
「顔を見る余裕くらいはある」
「はひ……っ!うれ、うれしい……!でもでもホントに大丈夫?無理してない?活動まで再会したのに……大変でしょ?」
「……ああ。だからお前が必要なんだ。計画は……上手くいっているな?」
「うん!うん!ナル君のためならボク頑張る!計画も順調だよ。狙い通りに来てるから先に接触できるはず。ただ……えっと、その……チチッ」
「何だ?」
「庚戌氏……何考えるか全然読めなくて。ボクの探査網から抜けてるわけじゃない……とは思うけど、コッチと連携する気はない……みたい、かなー……って」
この上ないサプライズに喜ぶのも束の間、丙子はしどろもどろに相手を仰ぐ。
案の定、男は眉を顰め――
「……チッ」
大きな舌打ちをひとつ。
続けて長いため息をひとつ。
「まあ良い。それも予想通りだ。動きがあったらすぐに知らせろ。それが無理なら……お前が出ろ。良いな?」
言い捨てるように踵を返した。
交わした会話はインタビューとどちらが多いものか。
しかしてそれも多忙が故のこと。
「怒った顔もかっこいい……」
恋は盲目。
丙子はご機嫌斜めな背中を、吐息混じりに見送るのだった。
その間にも波は満ち引き――満月の夜。
白い影は京都の郊外へと現れた。
懐かしい風の音。
どこか物寂しい松の香り。
第二の故郷とも言うべき風景の中に佇み、オリアは薄っすらと目を細める。
「……不思議な気分だよ」
二度と見る事のないと思っていた場所。
まるでその場所を避けるかのように、遠回りの旅路を繰り返した気もするが、いつかは訪れなければと思っていたのかもしれない。
たった七年――されど七年。
否、財団が根を下ろした場所もこの地となれば、もっとだろう。
長い時間を過ごした大地に、オリアは得も言えぬ思いを抱くのだった。
その中でもとりわけ眩いのは――青い星。
だからこそ、ここ《・・》に戻って来てしまった。
星が降るかのような丘の上。
銀河に包まれたその場所で、オリアは遠くへと指を向ける。
「あそこ」
「んー……どれ?」
「あのあたり。青い屋根のアパートがあるだろう?あそこの二階。203号室に暮らしてたんだ」
隣に立つのは黒く――そして赤い青年。
あどけなさの抜け切らないアニに、かつて過ごした棲家を指し示す。
以前の視力では到底見えなかったものだが、これも怪異と化した利点だろう。
何となしに外せぬままになっている眼鏡の影響すら受けない眼で、古びたアパートをじっと見た。
「あれか。なんつーか、俺が住んでた部屋に似てんな?」
「そりゃ……ね?前にも言っただろう。知らないものは想像出来ないって」
「俺からすりゃ、お前に知らないものがあるって事のが驚きだけどな」
「ふふっ。それは買い被りすぎだよ。僕の知ってる事なんて、それこそこれっぽっちさ。この景色の中の明かり一つより小さいかもしれないね?」
「お前でそれなら、俺なんかノミじゃねーか」
「それは……どうだろう?君は可能性の塊だ。呑み込みも早いし、すぐに教授レベルになってしまうかも」
煌びやかな光の群れ。
人々が灯す平和の証を遠巻きにしながらも思い出す。
8畳ほどの居間と小さなクローゼット。
出しっぱなしの壁面収納ベッド。
風呂場とトイレこそ別々だったが、玄関と台所と洗濯機置き場はひとまとめ。
ベランダはなく、洗濯物はいつも部屋の中。
ノートPCと資料の乗ったテーブルは小さく、ケトルは常に稼働したまま。
今なおありありと思い出せる記憶は懐かしく――されど他人事のようにも思えてくるのだから不思議なものだ。
興味深げに街を見下ろすアニの横、オリアは過去になってしまった日々を振り返る。
「……財団に入る前は出版社に勤めてたんだ。電気の点いてるあの建物。最初は観光スポットやグルメの取材が多かったけど、いつの間にオカルト記事専任になってて。大学時代、オカルト研究会に入ってたんだけど……寺社に行ったり、UMAを追いかけたり、その時と変わらない事をやっていたよ。大学は……流石に明かりは着いてないか」
「お前の人生、オカルトばっかだな。怖いとか……思わなかったのか?」
「恐れより興味が勝った結果だね。思えば……最初からずっと人非ざるモノを愛していたんだ。それが僕の性だったとしても」
誰にも見えない――けれど、たしかにそこに存在した隣人。
かつて触れ合ったそれらは、けして悪いだけのものではなかった。
一人の寂しさを紛らわせてくれた者。
危険な植物を知らせてくれた者。
歴史を説いてくれる者もいれば、書物にすら載っていない事を教えてくれる者もいて――たとえそれが『箱』に引き寄せられただけの結果だとしても、オリアにとっては大切な隣人たちだった。
けれど普通を求めた心も否定は出来ず。
優しい家族と、愛しい隣人との間で葛藤し、箱を閉ざす事を選んだのである。
(でも僕は忘れられなかった)
どこか空っぽの日々。
箱を閉ざしたところで、家を出ていった母が帰ってくる事はなく、オリアはただ多くのものを失くしただけだった。
だからこそ手放した事を後悔し、再びその存在を知った時、未知の世界へとのめり込んでしまったのだ。
新しい母と、朗らかな兄。
一度だって責めてこなかった父。
彼らを遠巻きにしたつもりはなかったが、渇望と探求心は平穏を凌ぐほどで。
心霊現象やUMA、寺社や民話といったものに心血を注いでいった。
その中で出会った眩い星の輝き。
愛しい隣人と同じだけ興味深く魅力的だった青年は、今どこで何をしているのか。
オリアはつい、忘れられぬ面影を夜景の中に探してしまう。
(この場所も君が教えてくれた場所だったね)
後輩とは思えぬスマートさ。
そして普通とは一線を画した経済力と頭の回転の速さ。
オープンカーに乗るのも、後にも先にもあの瞬間だけだろう。
どうにも現実からかけ離れたあの記憶は、果たして本当のものだったのか。
「オリア?」
「……ごめん。少し感傷に浸り過ぎたみたいだ」
「何ともないなら良いけどよ。移動しっぱなしだし、無理すんなよ?」
アニが隣にいるにも関わらず、他の男の事を考えてしまうなんて。
苦笑を一つ、オリアは夜風に身を委ねた。
冷たい風は心地よく、それでいて何ともつれないものだ。
時折吹き付けるつむじ風は鋭く、オリアは僅かに目を細めた。
その刹那、一等鋭利な風が空気を裂いた。
「危ねえ!!」
「っ……!」
音すら切り捨てる風を視認するのと、体が動くのはどちらが早かっただろう。
アニはオリアの体を突き飛ばす。
『ゴーゴー!』
『もいっちょゴーゴー!』
『とどめにもいっちょゴーゴゴー!』
見えたのはイタチかテンか。
先陣を切った白がアニの腕を斬り付け、続く二匹もまたアニに襲い掛かった。
「アニッ!」
「クソ!何だコイツら!?」
「恐らくだけど、かまいた――……」
するり、するりと腕を抜ける白い怪物。
翻弄されるアニに手を伸ばすが、最後の一音が出てこない。
掻き消された音は突風の果て。
ぶわりと目の前を走る風が、瞬く間にオリアとアニを引き離すのだった。
「こんのウネウネ!!オリアに何しやがる!?」
『ウネウネじゃない!』
『でもウネウネかも?』
『ウネウネでもいーんじゃない?』
「ゴチャゴチャうるせえ!!さっさとオリアから離れろ!!」
『無理』
『ムリだね』
『むりなんだよね』
『こういう時なんて言うんだっけ?』
『何だっけ?』
『あれだよあれ――善処します』
「だからうるせえ……って増えてる?」
いつの間にやら三匹の獣は六匹に。
オリアに群がる分も含めれば九匹もの獣がわちゃわちゃと空を泳いでいる。
その姿は長く、糸のようにぬるりと長く。
「かまいたちじゃない――……管狐だ!」
判断を誤ったオリアは小さく息を呑んだ。
だが時すでに遅く。
管狐たちはこちょこちょと弄ぶようにアニを押しやり、どっこいしょと場外。
茂みに隠れた陣の上へと、アニを放り捨てた。
「え?何だコレ……って、は!?体が透け……っ!?オリア!!」
「っ……アニ!!」
それも束の間、陣が光を放ったと同時にアニの体が消えていく。
「オリア――……ッ!!」
そして残響だけを残して、光の粒子へと溶けていった。
滲む汗は何に対する恐れなのか。
(これは……まずったな)
何もオリアとて考えなかったわけではない。
自分たちを遠目に見る彼ら。
退魔を生業とするだろう彼らが接触してくる可能性は織り込み済みだった。
だが慢心していた。
話し合える余地があるだろうと。
それが無理でも、アニと二人ならば容易に逃げられるだろうと。
その甘心を嘲笑うように、狐を操る影はゆっくりと近付いて来る。
(まさか本当に存在するなんてね)
管狐――それは狐の妖怪。
正確には術者に使役される憑き物の一種である。
古来より山伏や飯綱が使役したとの伝承があるが、彼らを繰るのは何も山伏たちだけではない。
――陰陽師。
平安の世より語られるその存在と、1000年を経た地で見える事になろうとは。
オリアは星空の下に現れた影に目を向けた。
そこには――銀に輝く一対の星。
満天の星空よりも凛然と力強い光が、ただまっすぐに見つめている。
澄んだ青は今なお鮮やかで。
「君は――……」
「遅くなってすみません」
忘れられぬ声が、優しく耳を撫でる。
その声が誘うのは深い深い眠りの底。
「あ……れ?」
霞みゆく意識の中、星の煌めきだけが紫苑の瞳を支配する。
ゆるやかにくずれ落ちる花を手に、星は微笑むばかり。
「もう大丈夫ですよ――……コハクさん」
柔らかな口付けが額へと落とされる。
懐かしい呼び声はもはや遠く。
オリアは――かつて〝コハク〟と呼ばれた男は星の胸に抱かれるのだった。




