Recall the BOX(06)
この国に生きていて、その顔を見ぬ日はないだろう。
テレビ、雑誌、SNS、ポスター、看板――人々が生活する上で最低一度は目にするであろうそれらに、その顔はいつでも並んでいた。
所謂、芸能人というものだが、さてはて、人智を越えれば俗世への興味も失せるということか。
「うまっ!」
「うん、美味しいねぇ」
ふわりと広がる香ばしい匂い。
重厚な豚肉の香りと、ほかほかの湯気を広げる中華まんに齧りつき、二人はほくほくと頬を緩ませる。
その目は具材を覗かせる中華まんに注がれ、街中の広告などにはとんと興味がないようだった。
「ピザまんも旨いな!」
「んー……僕はちょっと苦手かな。豚まんと、あとはあんまん。こっちの方が好きだね」
「お前、結構より好みするよな」
「そう……なのかな?自分ではそのつもりはなかったけど……うーん。言われるとそうなのかも?」
今日日、中華まんはそこらのコンビニエンストアで手軽に買えるものだ。
本格的な中華店や、行列の出来る専門店に行く――なんて事はせず、観光客といった風な二人はいくつもの半円を口に放り込む。
事実、道行く人々には旅行に訪れた外国人にでも見えている事だろう。
片や色の抜けた髪に紫の瞳。
片や浅黒い肌の大柄な体格。
とても日本人らしからぬ風体の二人に投げ掛けられるのは、どこか温かな眼差しがほとんどだった。
「俺にも一口」
「はい、あーん」
「あー……んむ。甘いのもいけんな」
「主食というか、おやつだけどね」
今日日、同性同士のパートナーもけして少なくはない。
まして外国人-実際には日本人と犬だが-ともなれば殊更のこと。
微笑ましい光景にあえて口を尖らせる者はなく、いやに日本語が流暢な二人組は、そのまま雑踏の中へと紛れていった。
そんな二人の旅も今や八分目。
出会いを遡るように〝見るなの禁止〟を追いかけるに始まり、白磁の虫を尊ぶ社の一つを巡って後、〝鴉の巣食う雪山〟に足を運びて――ようやくの龍のお膝元。
二匹の龍にまつわる伝承が残る盆地を抜けたその後は、まことしやかに龍宮ありと囁かれる海岸線を目指して、大百足が猛威を振るったとされる湖に訪れたり、やはり糸紡ぎの虫への感謝を伝えるべく、名高き神社を詣でたりと、時に二足、時に四足の足はゆるやかに、しかして着実に旅の始まりの場所へと近付いているのだった。
そして今は参拝の帰り道。
養蚕発祥の地とも謳われる街を抜け、雑木林へと差し掛かったあたりで、オリアは道程を懐かしむように声を溢した。
「パンドラ――三足烏――龍神――大百足――神虫――……縁深い場所を訪れるだけでも骨が折れるものだね」
本来は存在しえない怪異。
肉を成してしまった怪物たちを追う最中、オリアとアニはもう帰る事のない『街』に思いを馳せる。
幻のまま消えたあの場所は、怪物を閉じ込める檻だったのか。
それとも愛を育む箱庭だったのか。
多角的な意味を持つその箱を、簡単に忘れ去る事は出来ないのだろう。
思わずといった風に苦笑するオリアに、アニもまた眉を下げた。
「マジでな。でも神社に行けたのは良かったよな。他の神社はあんま好きじゃねーけど……カイコまつってるとこは、お前に似た匂いがして好きだぞ」
「本質的には同じようなモノだろうからね。僕も居心地が良かったし……とは言っても、自分が蚕や神虫に通じているっていうのも不思議な感じだけど」
自らの起源がそこにあるのか。
偶発的に生まれてしまっただけなのか。
オリア自身にそれを知る術はないが、富をもたらす何かである事に違いはないのかもしれない。
いつの間にやら人込みから遠ざかった砂利道の上、オリアはこしあんの詰まった中華まんを小さな口に詰め込み、むぐむぐと糖分を咀嚼する。
口いっぱいに頬張る姿が、懸命に桑にありつく芋虫に似ているのは、アニだけが知っていれば良い事か。
すっかり緩み切ったオリアの横で、アニはぐっと喉を詰まらせた。
(……っとに、ぽやぽやし過ぎだろ。あの怪しさはどこに置いて来たんだよ)
見放すための覚悟だとしても。
死を厭わない決意だったとしても。
素がこれで、よく最後まで演じ切れると思ったものだ。
(ボロ出まくってたけどな)
勢い余って喋ったり、嘘がつけずに誤魔化したり、笑顔の能面を被り続ける事が出来なかったり――よくよく見れば、オリアの行動は綻びばかりだったわけだが、半ば騙されていた自分も自分か。
アニは苦虫を噛み潰し、仕返しとでもいう風に、オリアの口元についたあんこを舐め取った。
「ん――……」
啄むような、愛撫するようなその感触に、オリアは一瞬目を瞑る。
それも束の間、すぐに不満気な紫をアニに向けた。
「そこまでしなくて良いのに」
「これくらい良いだろ?」
「これくらい……って、何でもしたがるだろう?最初はまだしも……ほら!もう怪我もないし、元気もいっぱいなんだ!いつまでもこれは少し度が過ぎるというか……僕だって気にはするものだよ。自分の気質のせいで、無理やり庇護欲を抱かせているんじゃないかって」
キスをしたわけでもないのに――つい嘯くが、オリアの苦悩は別にあるらしい。
泣きそうに目を細めるオリアに、アニは堪え性もなく抱き着いた。
幸い、人通りを過ぎただけに拒絶はない。
オリアにそっと身を寄せて、アニはどうにも寂しげな紫を覗き込む。
「だとして何だよ?全部ひっくるめてのお前じゃ駄目なのかよ」
初めて会った日、匂いを好きだと思った。
穏やかな声を心地よいと思った。
家族とはぐれ、死んでしまうのだと恐ろしくなったあの時、たしかにオリアが救い上げてくれたのだ。
あの瞬間からオリアは特別眩しくて――
「信じろなんて言わねーけど、そんなもんなくても、俺はお前のこと好きになったよ。傍に居たくて追いかけてた。尽くしたいのだって、お前がそうさせてるんじゃなくて俺の……気質ってやつ?認めたかねーけど……まあ、俺犬だし」
自身の生涯を捧げたいと願った、たった一人の片割れになったのだ。
それは箱なる者への懸想ではない。
ただ一匹の犬としての性と言えるだろう。
アニは真っ直ぐな瞳で、陰りそうになる紫苑を繋ぎ止める。
「俺はもともと尽くしたいタイプだよ。守ってやりたいし、何だって叶えてやりたい。めんどくせーとか、可愛くねーとか思ったりする時もあるけどよ。むしろそれが俺の意思だからって感じ――するだろ?」
「うん……でも少しだけ怖くなるんだ。君の心を捻じ曲げているんじゃないかって。こんな風に誰かを大切に想うのは初めてだから……ついね」
迷いないアニの言葉にオリアは頷き――さりとて惑いは拭いきれず。
一方アニは、困ったように微笑うオリアに、燃える真紅を細くした。
「初めて……――へへっ!初めてか!ならいくらでも悩めば良いじゃねーか。お前がどんなに迷っても、俺はここにいる。お前のこと待ってるし、お前がどっか行くなら探しに行くからよ。今更信頼ないなんて言わねーよな?」
耳と尻尾をブンブン揺らし――て見えるのは、きっとオリアだけだろう。
だが好意を隠さないアニの様子に、オリアはふっと笑みを戻す。
「それを甘やかしてるって言うんだけど……そうだね。君はどこだって迎えに来てくれる。それだけは間違いないね」
「おう!つーか、お前も好きだろ?尽くされるの」
「まあ…………うん。好き」
「じゃあ良いじゃねーか。ちまちましたこと気にすんなよ」
これはこれで箱の気質か。
単に誰しも愛情を注がれる事を好ましいと感じるからか。
ニカッと上機嫌に笑うアニに、オリアは酷く照れ臭そうに首肯する。
「他でんな顔すんなよ?」
「そんな酷い顔してる?」
「はあーあーあぁー……。そんなだからすぐ襲われかけんだよ。お前はもっと自分が可愛いのを自覚しろ!いくら何でも隙あり過ぎだっつーの!俺が守ってやるけどよ!」
「うーん……?可愛くはないと思うけどなぁ……?」
どこで攻守が逆転したのやら。
あるいはアニが成長しただけなのか。
もしくはオリアがぽやぽやしているだけだったのか。
ぴったりと寄り添い合った二人は、古都への道をひた進む。
そこには人の目はおろかポスターや看板の影もなし。
にこやかな表情の広告は、どこでもない虚空を見つめていた。
事実、印刷された紙が誰かを見止める事はありえない。
あくまで見る者の思い込みに過ぎず――けれど、その思い込みこそが大事と言えるだろう。
活気に満ちた街の中、一人の女が広告の前で足を止めた。
「…………チチッ」
零れた笑みは何を意味するのか。
目深に被ったフードの下で、少女と言うには大人びた、しかして女というには若い娘が人知れず口角を持ち上げる。
日本という国に住むだけあって、彼女もまた日本人なのだろう。
薄っすら灰色がかった海松茶の双眸に、誰しもが熱を上げてやまない芸能人の姿を映し出した。
もはや惚れるなという方が無理だろう。
時に美しく、時に勇ましく、時に儚い千変万化の奇才は、薄っぺらい用紙の中にあっても、その輝きを如何なく発揮する。
恍惚と笑んだ娘は、どこか興奮した素振りで、大ぶりのポケットから薄い電子機器を取り出した。
周りには聞こえぬ呼び出し音が一回、二回――数えるのも忘れて数度目。
『……――どうした?』
「あっ!えと、ボボボボッボク!ボクだよ……っ!マーキングしたから!あ、あとはいつでも……うん。いつでも大丈夫!」
『そうか――よくやった――当然、あやつには――……』
「もちもち!もちろん!言ってないよ!です!」
スピーカー越しに聞こえる男の声に、興奮しきった女は声を引っくり返す。
それ自体はいつものこと。
言葉をつっかえる女をいちいち揶揄する事もせず、男は離れた場所でほくそ笑む。
あとは獲物が罠にかかるのを待つだけ。
糸を手繰る男は、クツクツと喉を鳴らしてみせた。
『事が終われば――……』
「うんっ!うん!任せて……っ!ボク、ボクッ!頑張るからっ……!」
『ああ――期待してるぞ――……丙子』
「はひっ!んふふーっ!任せて……――ナル君」
切れた通話。
甘く響く渋い声。
合わないサイズのパーカーを着た娘――丙子は今一度にんまり笑う。
(ナル君のためなら……ボク何でもするね?)
情報は全て自分のもの。
人海戦術と称して名のある陰陽師はみな北南に追いやり、古都にいるのは数名だけ。
現場に近付きさえしなければ、反りの合わない東西の頭と出くわす事もないだろう。
あとはただ一人――たった一人を出し抜く事に注力すれば良い。
(ナル君、ナル君、ボク頑張るね)
狂喜を孕んだ眼差しは何を見つめるのか。
ポスターはやはり誰かを見やる事はなく――夕闇が全てを呑み込んでいく中、それぞれの足は金色岳を遥か彼方に臨む海岸線へと向かっていく。
月は眩く。
さりとて金色に照るものはなし。
冬枯れの山は侘しく、夜風の冷たさばかりが身に染みる。
木枯らしが吹き荒ぶのは人の心にもか。
さる財団施設が朽ち果てた山間。
金色岳の調査にあたる二人の陰陽師にも、凍えた風が突き刺さる。
「……――癸酉殿」
「また無駄口を叩きに来たか――己巳」
『陰陽省』の抱えし一角。
東西の頭を張る二人がいがみ合うのは偶然か、はたまた必然か。
頭目たる老女――壬辰。
彼女に命じられた二人は信のおける者を募って調査に訪れたわけだが、そこで見つけたのは地下に繋がる小さな亀裂。
毒と瘴気に満ちた闇が、まるで彼らを誘わんばかりに、醜悪な気を放っていた。
それは罠か、それともただの残滓か。
一人進もうとする癸酉を見兼ねたのか、己巳は地下へ繋がる穴――ひいては癸酉の目を覗き込む。
「無駄口ちゃいますて。本当に……降りるつもりで?」
「無論。誰かがやらねばならないのなら、私が行くべきだ。貴殿は指を咥えて待っている事だな」
きっと癸酉の言葉は間違っていない。
不可解に満ちた穴に降りるならば、実力の伴う癸酉か己巳のいずれかだろう。
だが――だからこそ、癸酉の部下は己巳へと泣きついたのだ。
頑固な癸酉を前に、いささか疲れた様子の己巳がため息を溢した。
「仕事熱心なのはええですけどね。無理して呪われでもしたら、目も当てられまへんよ?」
「貴殿こそ無理な物言いを止める事だな。虫唾が走ってしかたない」
もっとも、犬猿なのは周知のこと。
視線を交わすや否や、トゲトゲとした言葉が行き来する。
だが己巳とて、面倒な気持ちを引き摺ってまで喧嘩をしにきたわけではない。
心配や不安を宿した眼差しが背中に注がれる中、癸酉にしか聞こえぬ程度の声で口を開く。
「ま!酷い言い草!折角人が心配しとるっちゅーに……コホン!心配しとるさかい……ん?いや?とにかく!一人で無理すんのだけはナシや!どこまで毒残っとるか分からんし、浄化の腕はウチのが上なんやから!せめてウチと一緒に行動して貰わんと!」
普段は取り繕ってるらしい。
上品ぶっていた己巳が早口気味に捲し立てれば、仏頂面を守っていた癸酉がふっ……と唇を緩めるのだった。
「何だ。出来るではないか」
しかし――否、当然のこと、己巳は口を曲げる。
「……はあ?なに言うてますの?」
「直ったそばから……癇に障る喋り方をやめろと言っている。聞くに堪えん」
「癸酉殿こそ随分かっこつけた喋り方しはって……ええ大人になりましたな~!あまりにかっこつけはるから、こうしてウチが駆り出されてるって……分かってます?」
「…………は?」
「…………はい?」
こうなればもう、二人の間に飛び散るのはバチバチと燃え盛る火花だけだ。
応援を求めた者たちはすぐさま顔色を変えるが――どうやら、今宵の焔は何かが違ったらしい。
音が出るほどの眼光を散らしながらも、振り返った己巳がにこりと微笑んだ。
それはもう満面に。
「皆さん待機――いえ、こちらで外部の調査と警戒をお願いしますわ。ワタクシと癸酉殿で下の調査しますから……絶っ対について来ないようお願いします。皆さんには危険すぎる思いますので」
有無を言わさぬ語気と、笑顔では隠し切れない青筋。
その表情はどう見えも怒りに満ちていたが、触らぬ神に祟りなし。
癸酉を追って地下に降りる己巳を止められるわけもなく、双方の部下たちは亀裂に消えていく背中を見送るのだった。
いがみ合う上司に反し、部下たちはもう親交を深めているのだが、それをどう思うのか。
「……――ほな行きましょか」
「フン。俺が先を行く。お前は三歩あとでもついて来い」
「いちいち面倒やねぇ……。今どき亭主関白なんて流行りませんて」
人目がないだけにいくらか口調を崩し――土砂に呑まれた施設に降り立った二人は、土と瓦礫を掻い潜って奥を見る。
想像以上に強固な造りだったのか、はたまた不自然に伸びる蔓が上手い具合に崩壊を防いだのか、それなりに形を保つ施設跡が陰気な顎を開けていた。
手招く闇は重く、じっとりと気味悪い空気が手足に絡みつく。
「毒は薄そうやけど……嫌な気で満ちてますな。三歩より先行かんでください」
「だったら遅れずついて来い」
「いや……なにガシガシ進もうとしてますの。調査の意味考えてくれます?」
意外にも付かず離れず。
悪態こそ絶えないが、反目するだけではなさそうな二人が朽ちた闇をひた進む。
施設は地下5階まであるらしい。
割れた案内板を信じるならば――だが、何の標がないよりはマシだろう。
「まだか?」
「もうちょい」
癸酉が急かす――否、警戒を払う中、己巳は館内図を頭に叩き込む。
「普通に考えて、ここの実験室のあたりですわな。階段もエレベーターも駄目そうやし……降りれそうな穴、探すしかありまへんな」
「穴くらい作れば良いだろう?」
「はあ?アホちゃいます?現状維持に努めなあかん言われましたやろ。それに下手に穴なんか増やしたら最悪生き埋めですわ。もうちょい考えてもの言うてくだはります?」
「……もしもの話だ。いちいち突っかからなくても、それくらい理解している。あともう一度言うが……その気持ちの悪い喋り方をやめろ。鳥肌が立つ」
「勝手に立てといてください」
一の小言が十の文句になるのも、もはや様式美なのかもしれない。
闇を照らす事のない火花を散らしながら、二人の足取りは奥へ奥へ、下へ下へ。
導かれるように。
誘われるように。
瓦礫と蔦が作り出す糸のごとき導線を、ゆっくりと下っていく。
よもや怪異の領域か。
色濃くなっていく毒の香りと、深まる瘴気。
反して空気は薄くなり、それだけで人間の体は重く、ここに居るべきではないと悲鳴を上げそうになる。
並の精神力では直立する事すらままならないが――そこは流石に手練れの陰陽師。
「んー……にしても不気味ですわな」
「今更怖気づいたか?」
「誰が。ただ……あまりに片付いとると思いまへん?無造作に食い荒らしたわけでもなし、無作為に消し飛ばしたわけでもなし……不思議な話、人が人を弔ったって感じしますやろ」
「生存者がいるという事か?」
「それは……どやろ?毒の痕跡は中にもあるさかい、難しいんとちゃいます?数日はともかく数カ月やもの。電気が生きとったなら分かりまへんけど、だとして期待は薄いですわな。ウチらみたいな術師でもなきゃ、毒で一発おじゃんですわ」
「そうか。生存者がいれば楽だったが……お前がそう言うなら期待はしないでおこう」
涼しげ――とまではいかずとも、慣れた様子で仄暗い先を行く。
しかし、あまりに綺麗過ぎるのもかえって奇妙なもの。
血痕こそ見られるが、食い散らかした残骸はおろか、遺留品らしき物まで見当たらないのは、いかに倒壊した施設跡とはいえ、いささか奇妙な光景だった。
首を傾げる己巳に、ここにきて癸酉は素直に頷き――それが琴線に触れたのかもしれない。
己巳が物憂げな息を溢した。
「はー……昔から変わりまへんな」
「お前は変わった」
だが目敏く――正確には耳敏く。
癸酉は眉間に皺を刻む。
その返しがまた己巳を苛むのだろう。
「……前言撤回。変わり過ぎて可愛くありまへんわ。昔はあんな可愛かったんに……どこでこんなイケズになってまったんやろ。そんなやから振られたんとちゃいます?誰に――とは言わへんけど」
「振ってやったの間違いだ。お前こそすっかり摺れて――……」
再びの再び。
あるいは絶える事がなく、二人はなお喧しくいがみ合う。
探すのは毒と、鬼門の発生源の二つ。
すでに目の慣れてきた暗闇の底、尽きぬ応酬を繰り返しながら、今が何階かも分からぬ地底を掘り進む。
ここが冥府ならば一方通行に他ならず。
とはいえ、死に分かれた恋人を探しにきたわけではない。
(お前は――……)
事実、三歩先を歩く癸酉は、どこか疎むように己巳に目を向けた。
(……――変わってないな。あの時のまま輝いている)
つい盗み見てしまうのは、本音と建て前の齟齬ゆえだろう。
色の白い肌に、真っ黒な髪。
歳を感じさせない艶やかな肌。
日本人形を思わせる細い目は、朱の似合う艶やかさを持ち、東洋人らしい美しさを放っている。
シャツにスラックス、その上には和袖の羽織とケープを引っ掛ける、とても御年50とは思えない己巳の出で立ちに、何度唾を呑み込めば良いものか。
自分ばかりが老いてしまった癸酉は、悔しさか、それとも肉欲か、ぐぐぐっと喉を唸らせた。
「………っ」
改めて見ても酷いものだ。
動きやすさだけを優先したシャツにジーンズという、いかにも休日のおじさんな姿に始まり、鍛えているおかげでビール腹にこそなっていないが、腰痛や乾燥、体重の増加に悩む日々。
白髪と抜け毛と後退は怪異以上の厄介さで、皺とクマも増えはしても減りはしない。
いつまでも美しい己巳との差は、埋まるどころか開く一方だった。
(いつだってそうだ。お前の隣に立つのは恥ずかしい。自分が馬鹿で、情けなくて、お前に見合うものなんかないんだと……そう気付かされる)
結局、意地を張ったのも自分の方だ。
長年の蟠りは固く、そして重く積み重なり――今はもう反目するばかり。
随分と久方ぶりに二人きりになったとて、素直な本心は出てこなかった。
そもそも、この状況が想定外と言うべきか。
(……危険に晒したくないから、一人で行こうとしたのにな)
やはり出てこない本心を渦巻かせ、癸酉は大股で先を行く。
せめて身を挺そうという腹積もりが伝わるかはさておき、二人の足はさらに深い闇の底へと下りていくのだった。
外からの火急の知らせはなし。
瘴気に集まるのも、手を下すまでもない低級の霊魂がほとんどで、場は落ち着いたもの。
それが嵐の前の静けさでない事を願い、己巳は薄っすらと浮かんできた汗を指先でそっと撫でた。
「濃うなってきましたな」
「……ああ」
「けど何ですやろ?変な感じやね?なんちゅーか、外のが一番濃くて……閉じ込めたかった?そんな感じしまへん?」
「それが財団の実験――とやらか?」
「有毒物質あるいは毒性生物の研究――……その線もありますわな。極限化での実験やったら趣味悪うて嫌ですわ」
一段と深くなる瘴気と毒の残滓。
空気の薄さ以上にべっとりと張り付く気味悪さに、己巳は大袈裟に体を震わせる。
事実、広がる光景も凄惨なもの。
怪異がもたらしたのか、土砂に呑まれた崩壊か。
足場もなければ、目に付くのは何かが暴れたような痕跡だけ。
エレベーターらしき空洞は奈落への口を開き、血と腐敗した匂いばかりが狭い空間を包み込んでいた。
それでも、張り巡らされた蔓が建物の倒壊を防ぎきったのだろう。
それがかえって不気味でもあるのだが、腰痛に悩まされる腰を曲げる事なく、二人は未開の闇に視線を注ぐ。
「……――下がれ!」
刹那、癸酉は己巳を押しのけると同時に激しく吠えた。
「水々《すいすい》――背盗怜漸!!」
暗がりの先に見えるのが虚空であれば、どんなに良かったか。
印を結んだ先には妖しい人影。
それが何かを確かめる間もなく、先手必勝――癸酉はすかさず術を放つ。
瞬間、空気中の水分が集まり、人影へと高圧水流を浴びせかけた。
たかが水流、されど水流。
背後から迫る水の勢いは凄まじく、ゆらりと現れた影を容赦なく一刀に伏す。
相手が人間ならば勝負あり――だが、彼らが戦うのは人非ざる者たちだ。
一歩遅れて己巳が、印を結んだ指の隙間から、倒れようとしない影を覗き見る。
「ほな――蛇眼邪眼。簡単には逃がさへんで?」
それは蛇に睨まれた蛙。
それは見る者を石に変える魔眼。
蛟の寵愛を持つ己巳に掛かれば、相手の動きを封じるなど造作もないこと。
切断できない怪物とて、自由を奪ってしまえばこちらのものだ。
闇に蠢く影はピタリと動きを止め――なかった。
それどころか、癸酉の術をもってしても傷一つ負っていないらしい。
「っ……嘘やろ?」
「己巳……ッ!」
無駄に終わった癸酉はまだしも、呪いに近い己巳の術は諸刃と同じ。
術者へと跳ね返された呪詛が体を蝕み――己巳は目から血を流す。
暫く左目は使いものにならないだろう。
真っ赤に染まった目は真っ赤に染まり、ズキズキと鈍い痛みが突き刺さるのだった。
久しい痛みが思い起こすのは、死への恐怖か。
「……っ……舐めとったわ」
強張り始めた体を抑え、己巳は闇の向こうに睨みを利かす。
立ちはだかるのは大柄な男。
能面のごとき顔を貼りつけたその男に、癸酉も己巳も冷や汗を浮かばせた。
「ハズレ――でしたか」
額を伝う汗が流れるのを待たず――いやに静かに響く男の声。
その余韻が消え去る前に、己巳の前に立つ癸酉の体が跳ね上がった。
「ケイちゃん……っ!!」
「っ……これくらい何ともない。何ともないが……まずいな。逃げられそうか――……時臣」
「……今その名前で呼ぶのはナシやろ」
何故人は窮地に立ってようやく素直になれるのか。
名を呼ばれた己巳は、這い上がる癸酉の姿にくしゃりと表情を歪めた。
だが――それはもう観測し尽くしたこと。
一転、狩られる側に回った二人の前で、能面めいた男はどこか呑気に嘯いた。
「ここで待てば星が見れるかもと思ったのですが……残念。上手くは運ばぬものですね」
星――とは何を意味するのやら。
問いかけが訪れる前に、男はなおも声を紡ぐ。
「ふむ……あなた方を排せば星は現れるでしょうか。それとも彼が戻ってくるか。試してみるのも一興――……壊すのは、その後でも遅くはありませんので」
崩れぬ笑みが語るは、越えられぬ力量の差。
否、術を返された時点で、相手の力量は分かっていた。
あれは自分たちと似て非なる者。
蛭子童子を名乗る、禁忌さえ厭わぬ無法者だろう。
芦屋道満に憧れたか何か知らないが、悪事に力を使う彼らを、果たして人と呼んで良いものなのか。
あるいは――神に近い何か。
人間の形をしているが、人ではない異形の存在。
いっそ才がなければ、その壁に気付かずにいられただろうか。
曲がりなりにも秀でた才を持つ二人は、男の眼中にない事を悟る。
同時に逃げられないだろう事も感じ取り、ただ互いを見つめるのだった。
先に口を開いたのは――癸酉の方。
「逃げろ、時臣」
口から出る血を拭い、今一度己巳の前に一歩出た。
だが当然、己巳はそれを拒む。
「お断りや。逃げるも死ぬも一蓮托生。ウチのこと逃がす気概があんなら、最期くらい素直になりぃや。全部許したるさかい」
誰に頼まれたからではない。
初めから先走ろうとする癸酉が心配でついてきたのだ。
一人残す気はないと笑えば、癸酉は一瞬目を丸くする。
それも束の間、子供のようにニッと口角を持ち上げた。
「分かった。全部水に流すそう。生き延びたらな」
「フラグ建てんで欲しいけど……ええわ。離さへんから覚悟しい?」
「…………もう良いおじさんだぞ」
「それでもケイちゃんが良い言うとんの。ちゅーか30年やで、30年!ちゃーんと責任取って貰わへんと!」
「それを言ったらお前が……っ!!」
「ウチが……何?」
「っ……お前こそ!!責任取ってくれるんだろうな!?」
「当~然!死ぬまで面倒みたる!」
足りないのはきっかけだったのか。
ただ一言の勇気だったのか。
見つめ合い、二人は逆境の中で破顔する。
「ほな――コカトリス復活や!」
「おう!」
空気の変わった二人が掴むのは勝ち星か、爆笑か。
「ど~も~!コカトリス緊急復活!」
「なんと30年ぶりやで!星もええけど、ウチらも覚えたってな!そんで仰山笑ってお帰り頂くとしましょか!」
「はいお帰りはあちら」
「あちらも何も、まだ何も喋っとらんわ!いくら何でも気ぃ早過ぎや!」
差し込める青い春光は夢現。
突如として幕を開けた演目に、さしもの異形も目を見張る。
「おや――おやおや、これは…………」
彼らの名前はコカトリス。
およそ30年前に解散した、知る人ぞ知るお笑い芸人である。




