Recall the BOX(03)
「――これより会合を執り行う」
寝殿造りの御所。
その正殿で、上座に腰を下ろした老女が朗々《ろうろう》と口を開いた。
彼女の呼び名は壬辰。
平安より帝に抱えられ、1000年を過ぎてなお重用される政府の暗部『陰陽省』の頭目である。
政権下にある事を思えば、陰陽大臣などと呼ぶ方が適切だろうが――何はともあれ、国中に散る陰陽師を統べる老女は、とても一世紀の人生を間近にしたとは思えないピンと伸びた背筋で、740畳にも上ろうかという和室に集った面々《めんめん》を見渡すのだった。
一段上がった上座は壇上の如。
壬辰を和室の中央奥に、まるで花道を作るかのように二つの列が並んでいる。
片や東の陰陽師。
片や西の陰陽師。
それぞれ〝名〟を貰うに至った猛者たちが、頭だけを壬辰に送る形で向かい合っていた。
その数、部屋の広さを裏切り十人ほど。
中には付き人や弟子の姿もあるが、この会合に立ち入る事を許された精鋭には違いない。
東と西――東京という都を境に鎬を削る彼らは、どこか剣呑な雰囲気で壬辰の声に耳を傾けるのだった。
その空気を感じ取ったのだろう。
「まずは招集に馳せ参じてくれたこと感謝する。定期会合とはいえ、礼に欠けるのは陰陽師あるまじき――だからね。神さんや精霊に気持ちよくあってもらうためにも、一に礼、二に礼、三に礼ってね」
高さのある座布団に座った壬辰は、近所のお婆ちゃんといった風に破顔する。
もちろん、それにドッと笑いが起きるわけではないが、少しなりとは空気も綻んだらしい。
壬辰から見て右側――方角にして〝東〟に位置する列から手が伸びた。
「壬辰様の性分には敵いませんな。ついつい西――ああいや南を見下ろしてしまいがちですが、いや上と下だけに。たまには目線を合わせるのも興というもの。このような場を設けて頂き、いやはや頭が上がりません」
挙手というよりは祈りだろうか。
額に右手を添える形で、東の列の先頭に座る男がにこりと笑う。
彼は癸酉。
最も参拝客が多いと謳われる神社の宮司であり、陰陽師としても経歴が長いのだろう。
壬辰までいかずとも、和服に身を包んだその顔には無数の皺が刻まれ、笑いながらにして並々ならぬ威圧を放っていた。
無論、小言に屈する西陣ではない。
「おやまぁ……癸酉のおじいさん。下ばかり見てると首を痛めますよ?それとも下を見ないと安心できないのですかねぇ?後進が育つのはまこと良い事でしょうに……いやはや反面教師でタメになりますなぁ。勉強の機会をくださる壬辰様には本当に感謝感謝ですわ」
応えるは打って変わってスーツ姿の己巳。
西の列の最前列に座る彼は、にんまりと笑ってその目を糸のように細くする。
癸酉に比べれば幾分若くも見えるが、化粧水に美顔マッサージに整骨にスポーツジムにと、並々ならぬ努力をしているだけで実年齢は癸酉とさして変わらぬ50程。
美魔女ならぬ美陰陽師として、化粧品会社の開発部長を務める己巳が、関西人らしい微笑みと共に悪口を跳ね除けるのだった。
もはや互いに隠す気のない応酬なわけだが――ある意味では、それも仲が良いからこそ出来得る事か。
笑顔の下に侮辱と怒りを隠す二人にため息を一つ。
手に持つ扇で畳を叩いた壬辰が、いやに若々しい声を響かせる。
「挨拶はそれくらいにして……今日伝えたいのは例の龍脈についてだよ」
言霊を乗せた――というのが分かりやすいかもしれない。
魂にまで響く声に、いつもの小競り合いは押し潰され、代わりにざらついた声が零れ落ちる。
「龍脈……というと京の?」
思わず漏れたのだろう。
彼にとっての正装――寺社を守る僧侶然とした、袈裟に身を包んだ男が小さな声を溢しすのだった。
彼の名は丁未。
麦藁色を思わせる、少しくすんだ落ち着きある黄色の法衣は僧正の証である。
スキンヘッドの頭が眩しい、齢四十ほどの男のその声に、扇を手元に戻した壬辰は深く頷いてみせた。
「うむ。およそ三月前に起きた〝怪異の氾濫〟。その元凶ともなった金色岳に動きがあった。伴い発生した怪現象……その事を皆に共有しておきたい」
小柄な体には不釣り合いの研ぎ澄まされた声が部屋の中を通り抜けていく。
荒波に呑まれ育った彼女の放つ畏怖が、粛々《しゅくしゅく》たる声音に違和を持たせる事はなく、老いを感じさせない凛然とした声が響けば、後はもう口を開く者はいなかった。
――――怪異の氾濫。
この場にその出来事を知らぬ者はいないわけだが、さてはて、発端は数か月前。
もっと言えば数年前――京都と奈良の県境に位置する金色岳の気が高まり始めたのが事の始まりだった。
ここで言う〝気〟とは、生きとし生ける者の持つ生気や、神や精霊が持つ神気や霊気といった自然の源のこと。
その気が集まる場所が霊脈――または龍脈と呼ばれ、特に霊的な素質を持つ者に恩寵を与えるとされている。
もっとも劇的な変化を促すものではなく、集中力を高めるやら、修行の効率が良いやら、浄化の力が強いやら――元より持つ力を補助してくれるという側面が強いだろう。
その霊山――あるいは霊場か。
気の吹き溜まりとも言える気脈は、余程の何かがない限り、別の地に移ろう事も、まして増える事も起きはしないはずなのだが、どうしてだろう。
いつの間にか金色岳からは、霊山と呼ぶに相応しい気が漂うようになっていたのだった。
何者かが怪しい儀式を行ったのか。
はたまた急激に自殺者が増加したのか。
棲家を追われた神様が移り住んだのか。
通常ではありえない何かが起きたと考えるのが当然の話。
変化に気付いた壬辰たち『陰陽省』は、すぐさま金色岳の調査に乗り出したのである。
しかし――
「過去の通達の通り、西陣を中心に監視を強めるのと同時、調査を開始。けど政府の協力が得られず、上手くは進まなかった」
肝心の金色岳は、ある財団が保有する私有地で。
いかに『陰陽省』が公務員の端くれとはいえ、お上を説得しきれない以上、強制的に視察や調査に入る事は難しい。
何の因果か偶然か。
諜報員を送ろうにも、粉をかけた者は一様に不採用となり、その上で採用基準も判断のつかぬチグハグ具合。
献金やら何やらまで絡んで来るのか、政府の首は一向に固いまま、思うように調査が出来ずにいたのだった。
一度は強行突破を考えるも――それは諸刃の剣に他ならない。
というのも、陰陽師の全てが『陰陽省』に属しているわけではないからである。
フリーの祓い屋や拝み屋なら問題はないのだが、中には力を持つ自分たちこそが特別だと信じ込む思想家や、力をもって悪行を働く犯罪者も出る始末。
政府には従えないと謀反を起こした者の数も少なくはなく――いつしか、同じ思想の者たちで集まるようになったらしい。
起源は数百年ほど前だったか。
1000年も昔、陰陽師の到達点とも囁かれる安倍晴明の怨敵――蘆屋道満。
朝廷に牙を剥いたその陰陽師の背中を追うかのように、彼らは自らを『蛭子導士』と呼び、何かにつけ『陰陽省』に敵対するようになったのである。
もし『蛭子導士』が裏で糸を引いているのだとしたら、下手に藪を突いて警戒されるわけにはいかない。
先んじて逃げられるだけならまだしも、刺激をした結果、道連れを狙った自爆をされる可能性もあるわけで――腹立たしくも、表立って動けないのが現実なのだった。
しかし時の流れは待ってはくれず。
手をこまねく間にも霊脈は大きくなり――遂には弾け飛んだ。
結果、霊脈に集まっていた幽霊や妖怪の力が増し、更には巨大な力が爆発したのが原因だろう。
あの世へと繋がる鬼門が開いてしまったらしく、本来なら日本という国には現れないはずの怪物や魔物まで国中に散っていったのだった。
本来、普通の人間にそれら怪異が見える事はないのだが、これも爆発的に増幅した霊脈の影響か。
金色岳の近隣では障りを受ける者も多く、怪異の存在は一つのトレンドとして、一時世の中を賑わせるに至ったのである。
だがそれも盛者必衰の如。
結局のところ見えるようになった者の数は少なく、財団施設の不運な倒壊の報と、危険なガスの蔓延による注意勧告に塗り替えられるように、不可思議な声明は電子の波に消えたのだった。
とはいえ、事態は変わらない。
力を蓄えた妖たちは、これまで以上に日常に干渉し、見えようが見えまいが関係なしに着実に被害を広げ――まさに陰陽師にとっては前代未聞、阿鼻叫喚の失態。
東も西もなく、総動員で事態の回収に努める羽目になったわけだった。
その未曾有の事件を――〝怪異の氾濫〟――彼らはそう呼ぶこととする。
そして事件はまだ終わらず仕舞い。
現実には財団施設の研究中に起きた爆発事故とされるわけだが――実際には霊脈の暴発によって崩壊を迎えたのが、金色岳に施設を抱えていた財団だ。
生々しい傷を残す施設には怪異がもたらしただろう毒霧が立ち込め、怪異の氾濫がある程度の収束を迎えてなお『陰陽省』は件の山に入れずにいたのだった。
――というところで此度の報告。
金色岳に動きがあった――そう語った壬辰が、事の次第を切り結ぶ。
「今日まで収拾に努めて貰ったわけだが――……ここにきて、施設が完全に倒壊したとの報が入った。政府は土砂崩れによって施設が潰れた報道する予定のようだが、現場にいた乙丑からは爆発が見えたと報告が届いている。十月末の夜、突如として毒霧が晴れたため本部に連絡。突入準備が整うのを待つ間に、十一月一日も未明――施設が爆発するように土砂に呑まれたそうだ。相違ないね、乙丑?」
「はぁーい――壬辰様がお話されたとーりでーす。命を受け〝怪異の氾濫〟後も現場の監視・祓魔を続けていたら霧が晴れたので、安全確保と突入準備を遂行。本部の合図を待って調査開始ーというところで施設が崩落しました。調査を続けるのは厳しーかなーと判断して、一度本部へと戻ってきた感じです。その際いくつかの気の動きを感知しましたがー……その気の持ち主が原因かは現状不明。怪異の類は常日頃散見されましたので、怪しーとは言い切れない感じですねー」
壬辰に続くのは、いささか間の抜けた声――乙丑と呼ばれる女性のものだ。
ふくよかな彼女の周りには花が散っていてもおかしくないくらいで。
どこか場にそぐわない、若いお母さんといった風な、のほほんとした空気を溢れさせる乙丑が、丁未の左隣から身を乗り出すのだった。
しかし乙丑の説明に納得がいかないらしい。
和服に袖を通した癸酉が、渋い顔をする。
「いくつかの気と言っていたが……確認しなかったのか?どう考えても怪しいではないか!」
「そー言われましてもー……。わたしの部隊、護術が専門なので追いかけるのとか、戦うのって向いてないんですよー。安全確認出来てたわけでもないですし、部隊を預かる身としても、無理な特攻は出来ませんよー?」
「言い訳を。結界術が得意なら殊更無理をしてでも、確認すべきではなかったのか?」
苦労人なのか単に老け顔なのか。
険しく皺を寄せた癸酉が乙丑を睨み――
「ちょっと、うちの乙丑いじめるの止めてもらえます?それパワハラ言うんですよ?」
「また貴殿か……己巳」
「またも何も、乙丑の判断はなーんも間違うてません。施設内にはまだ毒霧が残ってたかもしれませんし、すぐ爆発があったんでしょ?目先の事だけ考えてたら、貴重な人材を何人失おた事やら……癸酉のおじいさんは怖いこと仰りますなぁ」
仰々《ぎょうぎょう》しく割って入ったのは、当然の如く西側のまとめ役である己巳だった。
相も変わらず火花を散らそうとする二人に、これまたやはり吐息を一つ。
子供の喧嘩を諫めるかのように、壬辰が口を開いた。
「場を任せたのは私だ。乙丑の判断に誤りはなかったと思うが……癸酉が懸念する事も間違いではない。問題が生じたなら私が責任を取る――それで良いかい?」
「……壬辰様を責めようというわけでは」
「ええ、ええ。ワタクシも少々口が過ぎました。乙丑の判断は西陣総括であるワタクシの責任。どうぞ………お話をお続けください」
年齢から言っても子供同然。
壬辰に睨まれた二人は蛙さながら、すごすごと身を引いていく。
無論、どちらが良い悪いでない事は、壬辰も承知の上のこと。
何かにつけて鎬を削ろうとする東部と西部、そのどちらかに肩入れするでもなく、すべき事を示すのだった。
「適材適所じゃないけどね。乙丑が察知したという気配――これについては乙丑に調査・追跡を続けさせる。世に害を為す魍魎であれば即刻祓い、交渉の余地があれば施設で起きた事象を聞き出すこと」
「はーい、引き受けました」
「現場の調査並びに祓魔――これは東から癸酉、西からは己巳。お前たちに任せたいと思う。仲良く……やれるね?」
「……お任せください」
「癸酉殿に同じく。心配せずとも仲良うやりますよ?」
責任を取らせる――その意味でも乙丑に倒壊時に観測出来た何者かの追跡を求め、同じく刑罰の意味を込め、二人に現場の本格的な調査を任命する。
壬辰の指示ともなれば口を挟む者はいないが、どこか悩ましい様子の青年が一人。
「…………」
前に渡された財団の資料。
その中に名前を連ねる相手を思い出し、まだ若い男は視線を落とす。
(……反動はなかった。今日までもずっと。けどお守りを身に着けてなかったとしたら…………)
財団職員――その中でも重要な立ち位置にいたのだろう。
研究員として登録されていた男。
――――Haku Obako。
全文が英語で記された資料の中にあった名前に、青年は嫌でも眉間に皺を生む。
(あの人の事だ。お守りがなければ……っ……きっと)
認められない言葉はあえて思い浮かべず、けれど頭ではいやに冷静に最悪の結果を呑み込む自分がいる事にも気付く。
それもそのはず、Haku Obako――十八番珀という人間は、怪異というものを惹き付ける男だったからである。
普通の人間には分からずとも、陰陽師である青年には、珀の特異性も魅力も一目で理解出来てしまったのだった。
だからこそ、分かる。
我先にと手を出したくなるような極上の食事に群がらない怪物はいないと。
(どうしてあの時あなたを見送ってしまったんだろう)
珠のピアスや数珠の首輪。
趣味が悪い――そう思ったのはともかく、相手の好みを把握し許容する事もまた出来る男の嗜みというものだろう。
何もいらないと言う彼に、誕生日だ何だとかこつけて贈った装飾品には、身を守るための術を施していた。
ある程度は自分が呪いを肩代わりするはずだったのに、離れる内に効力が弱まったのか、そもそも捨てられてしまったのか。
事態に対し、訪れぬ痛み。
人生最大とも言うべき失態に、青年は話もそぞろに拳を握りしめる。
(こんな事になるなら、無理やりにでも手を離すべきじゃなかった。せめて年に一度……年越しの挨拶だけでも良いから、あなたに連絡すれば良かった)
最初はただ体質が魅力的なだけだった。
霊脈に等しき存在が自分の手の内にある――それだけで気は研ぎ澄まされ、わざわざ修験を積まずとも、力が増していくのを便利に思っていた。
だがいつからか――
『――たしかに、星が浮かんでる』
『笑わないんですか?』
『どうして?とても綺麗なのに。名は体を表すって、こういう事なんだね。僕は……君の名前、好きだよ?』
十八番珀という人間そのものに惹かれるようになっていった。
穏やかな気質。
柔らかな笑顔。
自分で嫌いだった自分の一部を躊躇いなく肯定してくれる歓び。
下賤な心を認め、許す事への気付き。
そこには十八番珀の特異性がもたらす執着もあったが、それもまた十八番珀という人間の要素に過ぎないものだ。
いつしか彼の世界は十八番珀を中心に回るようになっていた。
『一緒にご飯行きましょ♪』
『一昨日にも聞いた台詞だね』
『もう二人分で予約しちゃったんで。オレを助けると思って行きましょうよ』
『それも聞いた台詞だね。怒るわけでもないんだから、先に相談してくれれば良いのに』
『え?じゃあ明日も行きましょう?今日は寿司なんで中華あたりどうです?』
『……怒らないとは言ったけど、呆れてもは良いかな?』
傍目には甘やかしているようで、ただ自分が甘えるばかりの優しい日々。
一つ可愛いと思ってしまえば全部が可愛く思え、ほっぺいっぱいに寿司を頬張る姿も、存外逞しい体つきも、左目の下で行儀よく並んだ黒子も全部が愛おしかった。
溢れ出る気も甘く、拒絶していないどころか、温かく包んでくれている事を感じ取ればひどく嬉しくなった。
二席しかない車の座席も、彼のためだけの特等席だった。
それでも、いつか終わりはくるものだ。
普通を望んだ彼。
普通ではない自分。
人生の岐路ともなれば、強引に食事に誘うのとはわけが違う。
共に居るべきではないと察してしまえば、後はもう別れに向かって進むだけの事だった。
想いを告げる事も、仕事のパートナーになってくれと頼む事もなく、二人の道は別れ――だがそれは正しい選択だったのか。
(結局あなたは普通には生きられなかった。こっち側に来てしまった)
普通を望んだからこそ手放した。
ありふれた平穏の中で生きられるよう、恐ろしい悪夢に連れ去られぬよう、陰陽師としての務めに明け暮れた。
そのはずだったのに――結局それは、独りよがりの恋慕でしかなかったのだろう。
言霊にしなかった言葉が届くわけなく、悪戯に過ぎた時間ばかりが圧し掛かる。
(あなたを責める気はないけど……だったら。だったら最初から、あなたを一人にしなかったのに。相談くらいしてくれたって……良かったじゃないですか)
あの日々の中、陰陽師だと打ち明けていれば、何かが変わっていたのだろうか。
悪びれもせず食事に誘っていれば、変わらず傍に居られたのか。
(……あなたがいない。それだけでなんて退屈なんだろう。あなたが幸せに生きていてくれると思ったから、ずっと頑張れていたのに)
これは献身か。
それとも十八番珀――『箱』という特異が引き起こす精神への働きかけか。
何にせよ、彼の者がいた財団施設は怪異の手に落ち、今やその形すら失ってしまったのだ。
振り払えない死の気配は気味が悪いほどに濃く、青年は黙したまま目を伏せる。
星は落ちるのか、なお輝くのか。
青年の呼び名は――庚戌。
青き瞳に五芒星を宿した男は、飛び交う声をどこか虚ろに聞いていた。
よもや財団施設の調査も、鬼門から散っていった怪異の追跡も、『陰陽省』や国のメンツを保つための多端な日々もどうでも良い。
(これからどうすっかな)
命懸けの公務員だけに給料は良いが、そうまでして退魔に身をやつす意味はあるのかどうか。
目的を失った庚戌は、やはり話を右から左に聞き流し、先の事を考える。
(婆さんには世話なったけど、帰るのもありだよな。ここいても思い出すだけだし……いっそ世界一周でもするか?)
生まれ故郷であるアメリカ合衆国に戻るのも悪くはない。
品種改良――そう言うと聞こえは悪いが、アメリカにフランスにフィンランドに
メキシコにエチオピアに中国に日本にと、多様な人種の血と才能を掛け合わせた末に生まれた陰陽師が庚戌だ。
幼い頃こそ、扱い切れない強大な能力と高慢な性格から、壬辰に預けられていたが、それだってもう昔の話。
実の祖母といっても過言ではない壬辰への恩こそあれど、やる気もなく日本に残る意味はないだろう。
癸酉と己巳がやかましく囀るのを横目に、庚戌はどこでもない遠くを見る。
(良い出会いとか……あるわけないか)
良くも悪くも、自然そのものを内包するような相手に恋をしてしまったのだ。
それこそ神や精霊に出会う事に等しく、二度は訪れまい奇跡に、ため息をつきそうになる。
(……――っと、まずいまずい)
だが下手に吐息は溢せない。
癸酉の睨みが自分に向くのも、話を聞いているのかと壬辰に怒られるのも、隣にいる丁未にグチグチと小言を貰うのも正直勘弁だ。
欠伸を噛み殺すように重い息を飲み下し、報告を続ける壬辰へと視線を戻した。
幸い、新しい役目を割り振られはしなかったらしい。
爆発しただか、土砂に呑まれただか。
崩壊を遂げた財団施設に感慨を覚える事もなしに時が過ぎるのを待つが――会合はまだ終わらない。
足を崩さぬままの壬辰が、皆の前で腕を振った。
「――さて、次で最後だよ」
庚戌を筆頭に幾人かが飽き始めているのを揶揄してか。
壬辰の動きに合わせて紙が舞い、並び立つ陰陽師たちの元へと舞い降りた。
ふわり……と飛んできた用紙には、PCで作られたらしい文書と似顔絵が一つ。
手配書めいたスケッチに、庚戌は思わず銀の星を揺らがせた。
「怪異――――……虚白」
不確かながら、その輪郭は見知ったもの。
手渡された〝怪異の報告書〟に、庚戌はごくりと唾を呑み込んだ。
僅かな機微に気付く――否、見逃さないのは丁未だけか。
ピクリと口角を歪めた丁未の姿を誰が知る間もなく、皆と同じく用紙を持った壬辰が声を張った。
「報告書は渡ったね。その怪異は財団施設の崩壊――その後から存在が確認されるようになったものだ。乙丑が気取った存在かは現在確認中だが……何にしても〝怪異の氾濫〟によって顕現したとみるのが妥当だろう」
これまでに前例のない異形。
民話や伝承、都市伝説――そのどれにも類さない新たな怪異の存在が、壬辰の口から語られる。
「特筆すべき点は人を襲わないこと。それどころか情報だけ見るなら、私ら陰陽師に近いとさえ言えるね。〝怪異の氾濫〟で現れた魑魅魍魎と戦っている姿が確認されているそうだ」
「それは……縄張り争いをしているだけでは?」
「いや、一所に定住している痕跡はない。それどころか、霊現象に苦しむ人を助けているのではないか……というのが現場の見解だ。報告を受けて向かった時にはもう、その怪異が事を終えた後だった――なんて話も上がってる程だ。その絵も現場の陰陽師や、助けられた人たちから聞いて作ったものだよ」
報告書に描かれる男性の姿。
それは所謂モンタージュというものだ。
白かっただの、20歳から30歳ほどの男性に見えただの、優しそうな顔立ちだっただの、煙のように姿を消しただの――口を同じくして伝えられる姿を描き留めたものである。
それが庚戌のよく知る姿であった事を、果たして誰が知るというのか。
誰からともなく、紙に記された名前が溢された。
「煙のように消え、どこにでも姿を現す――故に虚白」
煙の如く不確かな存在。
白く虚ろな怪異に与えられた名前すら胸を震わせ、庚戌は手に持った用紙を握りしめる。
(あの人なら……あり得なくはない)
希望か、絶望か。
眷属という形であったり、感染という方法であったり、婚姻という手段であったり――術は実に多様だが、人非ざる者たちは時に、気に入った人間を同胞へと抱き上げる事がある。
事実、十八番珀は特異な人間だ。
甘く心地よい気を持った彼ならば、神にさえ召し抱えられたとしても不思議な話ではないだろう。
蜘蛛の糸にも等しき――けれどたしかな想望を見た庚戌は、星を宿した視線を上げた。
その最中にも話はいくらか進み――
「今のところ害がないというだけで、本当に害がない保障もないのでは?」
「目的もなしに人助けか……。そういった妖怪がいないとは言わないが、不可解である事はたしかだな」
不安の声も漏れる中、壬辰が扇を叩く。
「知らねば何も分からぬこと――まずは交渉の余地があるとして、この怪異の動向を調査したい」
凛と張った声は室内に響き――
「その調査――自分に任せて貰えませんか?」
誰が言うより早く、青眼に五芒星を宿す庚戌が唇を開いた。
「金色岳はオレの活動エリアです。真に責任を取るならばオレでしょう。まあ……騙すのはオレの本分みたいなものですし、たとえ相手が人の姿をしていても、うまーく化かし合ってみせますよ」
笑みの裏には本音を隠し。
あくまで普段通りフランクに、そして気だるげに身を乗り出す。
狐めいた顔が語るその胡散臭さ――否、信憑性か。
若くして才覚を見せる事も手伝って、庚戌のいち早い自薦に、西陣のまとめ役とも言える己巳も大いに頷くのだった。
「庚戌クンの実力はたしかなもの!彼に任せておけば心配はないでしょう。そのぉ……虚白でしたっけねぇ?今のところ被害も出てないようですし、ここはまあ、西の庚戌がちゃちゃっと片付けてみせましょ!ねえ!」
「ええ、任せてください」
「本人も珍しくやる気みたいですし……わざわざ止める人もおらんでしょう?東の皆さんはなーんも心配しないで、さっさと村――おっと、街にお帰りくださいな」
煽り文句は忘れずに。
だがそれが癸酉に火を点けるのか。
「実力があるのは認めるが……件の妖が狡猾な可能性もあるのだろう?かの葛の葉狐のように。なれば庚戌殿一人に任せるわけにはいかぬというもの。〝怪異の氾濫〟はここ数百年でも類を見ない大事で、我ら陰陽師全てに関わる問題なのだから……ここは東からも一人出すのが礼儀であり責務というもの。商売人の己巳殿なら……その必要性と効率、重々分かってくださりますな?」
「おやぁー……?たしかに表の顔は商人ですけれどねぇ。今のワタクシは陰陽師の己巳に過ぎませんが?やはり癸酉のおじいさんはボケていらっしゃるので?」
「誰がお爺さんだ。貴殿とは十も離れてないわ」
「えぇ~?それは初知り!随分と老け込んでいらっしゃるのですねぇ!」
「貴殿こそボケているのではないか?その問答も聞き飽きたものだぞ?」
「ああ、これは失礼!癸酉殿が老けているのではなく、ワタクシが若々しいだけでしたね!癸酉殿もぜひぜひ我が社の製品、使ってみてくださいな!」
癸酉と己巳がまたも懲りずに火花を散らし――咳払いが一つ。
「庚戌ひとりに任せるほど落ちぶれてはおりません。私も参りましょう」
袈裟に袖を通す丁未が、すっ……と、どこか控えめに手を上げた。
『陰陽省』においては、ツーマンセルが基本の基本。
日常から庚戌と行動を共にする丁未の名乗りに、己巳を始めに誰もが首を縦に振る。
当の本人である庚戌が〝げえっ〟と顔を顰めるのは、出世願望の強い丁未の癖の悪さを如実に理解しているからか。
一人で十分と、これまた丁未が怒りそうな声を出し掛けたところで、小柄な女がおずおずと足を踏み出した。
「あ、あのー……。ボク……ボクがご一緒で大丈夫でしょうか……?」
彼女は丙子。
隣の誰かにせっつかれたのか、それとも埒が明かないとでも思ったのか。
癸酉率いる東側から名乗りを挙げたのは、随分とおどおどした女性だった。
彼女もまた若いのだろう。
白いシャツにジーンズ、黒い羽織といったラフな格好の庚戌に負けず劣らず、丙メンズライクの黒いパーカーに柄物のスキニーパンツという、陰陽師らしからぬ出で立ちで会合の場に並んでいる。
「ボ、ボクでしたら、探索とか……あの皆さんに連絡送るの得意でちゅ……あっ噛んだ、すみません……。えっと、そう……得意ですし……その、お二人のサポートできると思いますです」
地に足が着かない風にも見えるが、曲がりなりにも〝名〟を与えられるだけの実力者だ。
バックアップが得意という丙子の言葉を遮る者はなく、口煩い癸酉もうんうんと頷いていた。
やはり庚戌だけは〝余計だ〟という顔をしているが、相手はどこに現れるか分からないような怪異である。
東日本に足を踏み入れる可能性もある以上、丙子の協力を断る意味はないだろう。
庚戌の納得は二の次、三の次。
東側を立てる意味も含め、未知なる怪異の調査はこの三人に任される事となる。
「丁未だ。噂はかねがね。よろしく頼む」
「チチッ……よろしくお願いします」
「……よろしく」
ニヤリと笑う丁未に、愛想笑いといった様子の丙子に、不愛想な庚戌。
見るからに不格好な並びだが、実力は申し分ない面々とも言えるだろう。
「――では今日の会合はここまで。皆それぞれの任に励むように。事があれば至急連絡を!」
その後、二三確認を終えた末、彼ら陰陽師の集まりは一先ずの解散となるのだった。
帰るべき場所に人は散り――……
「珍しいね。調査がしたいだなんて」
「別に。気分が乗っただけ」
人が去ったそこで、壬辰はようやく足を崩した。
傍に立つのは庚戌で。
ある種の家族水入らずだろうか。
育ての親と、手の掛かる子供は、肩肘を張らずに声を交わす。
「普段は祓魔しかやりたがらないくせに。少しは大人になったって事かねぇ」
「婆さんからしたら、いつまで経っても子供だろ?もう100年生きるって言うなら、オレの方が爺さんになってるかもしれないけど」
「どうだかね。自分がもう100年生きる姿は思い描けても、お前の老いた姿は想像出来ないよ」
「そっちは想像出来るんだ?」
ささやかな笑いと、それとは逆に冷たい冬の空気。
暖房を消したのか、隙間から押し寄せる冷気が二人を包み――壬辰は息を吐いた。
「大丈夫なのかい?」
「何が?」
「丁未とは折が悪いだろう?そこに初めて組む丙子だ。丙子は悪い子じゃないが……いかんせんお前とは違う人嫌いだからね。それに丁未は……いや、心配しすぎても駄目か。上手くやるんだよ?」
「……老婆心ってやつ?いざとなったら力でねじ伏せるだけだし、そう心配しなくて良いんだけど」
「それが問題だって――」
「はいはい。あとオレ行くから。婆さんこそ風邪には気を付けなよ」
もっとも長閑な時間に浸る時間はない。
否、惜しい。
会いたい人の影を見つけた庚戌は、挨拶もそこそこに壬辰の元を去っていく。
その背を見送って、ため息をまた一つ。
壬辰は視線を落とす。
「……何もなきゃ良いんだけどね」
類稀な才能を持ったが故か。
幼い頃よりは随分と丸くなったとはいえ、自信家で生意気で高慢なのが庚戌の悪いところだった。
根っからの悪人ではないにせよ、高圧的な性格のせいで衝突することも数知れず、それで何度、育ての親である壬辰の手を焼いた事か。
その庚戌が珍しくやる気を出したのだから、素直に喜びたいところ――なのだが、不安が過るのは何故だろう。
(間違ったかねぇ……?)
時の首相にも、歴戦の陰陽師にも、異形の怪物にも――それこそ〝怪異の氾濫〟にだって、頭を抱える素振りを見せなかった鉄壁の老女。
その壬辰が今まさに人生最大の唸りをあげていようとは、誰が思おうか。
変わらず耽る闇の中を――
「今度こそ思い知らせてやる」
誰かが画策すれば。
「もうあの姿にはならないのかい?」
「あの姿って……あの?」
「僕は好きだったけどね。あっちの君に抱かれるのも悪くないと思っているよ」
「――ッ!!ぐぬ、うぐぐぐっ!!そこまで言うなら、しかたねーなあ!!」
誰かが笑い合い。
「今迎えに行きます――■■■さん」
そしてまた誰かが歩き出す。
それぞれの思惑を胸に、季節は神楽月。
神座への道を辿るべく、星日月が交錯し始めるのである。




