Recall the BOX(02)
「――なあ、オリア」
腕に抱いた白は焦がれた雪のようで。
アニはどこか遠慮がちに、けれど絶対に手放すまいと強い意思をもって、血の気の戻って来た頬に自らの顔をすり寄せる。
きっと逆の立場――アニが狼犬だった時には、こうして柔らかな毛の感触を楽しんでいた事になるのだろう。
物理的にか、精神的にか。
妙なこそばゆさを胸に、オリアは自分を抱きかかえるアニの頭を優しく撫でる。
「何だい、アニ?」
「んー……カイイを戻してくれ――っつってたけど、どうすんだ?外に出たは良いけどよ。宛てはあんのか?」
いつの間に、随分と大人になったらしい。
落ち着いたと言うべきか。
自らの頭で考えられるようになったと言うべきか。
何をするにも分からないを連呼していた姿が遠い過去に思えるくらい、アニも成長を遂げたようだ。
もっとも、生まれたての子供が、十数歳の若者になった――程度だろうか。
未成熟さを残すアニの眼差しを微笑ましく思いながらも、オリアは小さく唸った。
「うーん……そうだね。やる事自体は、『箱』の中にいた時とさほど変わらないんじゃないかな?」
「『箱』の中……って、またアイツらと戦うのかよ!?」
無論、アニの反応は芳しくない。
というのは当然、アニにとって苦い記憶の方こそが多いのが、怪異との遭遇というものだったからだ。
『箱』――またの名を『M・O・W』。
あの仮想空間で怪異と相見えた青春を美化する事は難しいだろう。
ちなみにだが、『箱』の基盤となったのは研究員モウが作ったゲームである。
コツコツと積み上げられた世界を、アニが命を繋ぎ止め、怪異として成長する『檻』へと構築し直したものが、オリアが『箱』と呼ぶ仮想空間だった。
何でもオリア曰く、大抵のものは電子で、ほとんどのモノは認識によるものなのだという。
美しさも知らなければ無と同じ。
他人さえ認識しなければ居ないと同じ。
神も怪異も幽霊も、全ては認識して初めて存在が生じ、また信ずるからこそ形を成し、閉じ込める事も可能となる――という、ある種の根性論のようなものが『箱』の起源なのだった。
それをいくらか科学的に説明すると、人間の目には本来視認出来ないエネルギーを電子に置換し、滞留を可能にしたもの――と言えるだろうか。
もちろん『箱』が成り立ったのは偶然ではない。
アニを守ろうとするオリアの想いが、仮想空間という『箱』を織り上げたのだった。
そんなアニを守り育てるための『箱』での出来事はともかく――話はその前、『箱』が創られる前に、現実へと至った怪物たちの事である。
形を得てしまった彼ら異形を、ただの物語に、ただの人形に、ただの芸術に戻すのが、オリアの新たな――否、アニに託すはずの願いだった。
とはいえ、彼らを戻す事もまた容易な話ではない。
「皆が皆、素直に戻ってくれるわけではないだろうからね。既に血肉の味を覚えてしまったもの、何かに取り憑いたもの、ただ単純に虚像に戻りたくないもの。自由を知った彼らが、二つ返事で存在を手離してくれるわけはないだろうし……君にはまた頑張って貰うしかないかな」
「げえっ」
「でも君だって無関係の誰かが巻き込まれるのは嫌だろう?」
「それはそうだけどよ。骨が折れるな……って思っただけだよ」
美しさも知らなければ無と同じ。
それと同じく、知ってしまえば元に戻る事は忍ばれるもの。
一筋縄ではいかないだろう相手の存在に、アニは表情を渋らせる。
だがオリアの頼みを断ろうという気は起きない。
まして『箱』の中で見たように、怪異に苦しめられる誰かがいるのなら、放ってはおけないというのが心情だった。
何より――だ。
(コイツにはもう……あんな光景は見て欲しくない)
仮に『箱』での出来事が夢に過ぎずとも、財団で起きた事は真実に他ならない。
死してなお力を貸してくれた研究員たちの最期を想えばこそ、世に溢れ出した怪異をそのままにしておく事は出来ないだろう。
(傍にいてやれれば……いや、あの時の俺じゃきっと何も出来なかった。ダインの奴から守れただけ良かった――って事だよな)
記憶の傍らで閉じる防衛機能によって降ろされた扉。
怪異が崩していった通路。
オリアの所在を見失うほど溢れ返った血と奇妙な匂い。
すぐに駆け付ける事が出来なかった過去を悔やみ――けれど無駄に消耗をしなかったからこそ、怪物と化したダインと渡り合えたともいえるだろう。
道すがらというのも変だが、今は深い森の中。
ザクザクと森を切り分けるアニは、オリアの体をぎゅっと抱き寄せた。
「今度は……絶対守るからな」
「うん?」
「いや……それも悪くねえかなって。お前と一緒なら、カイイを追いかけるのも少しは楽しめるのかもな」
「……心配しなくても、これからはちゃんとサポートするよ」
小さな決意は胸の内に。
優しく微笑むオリアにつられるように笑い、二人は静けさを取り戻しつつある山を下りていく。
一足で越えらる道ではあったが、オリアはまだ病み上がり。
そしてアニも現実で体を動かすのは初めてとなれば、ゆっくりと山を下る方が最適だろう。
人前で話せない内容なのも手伝って、オリアを抱くアニの足はそう早くない。
久方ぶりに――あるいは初めて見るに等しい外の世界を楽しむように、ぴったりと寄り添う二人は先を行く。
しかし、その姿は貧相そのもの。
皺だらけの草臥れたボタンシャツに、サイズの合っていないスラックス。
その上に薄汚れた白衣を引っかけるのがオリアなら、アニはアニでやはりサイズの合ってない少し窮屈そうなTシャツに、丈の足りてないスウェットを身に着けているのだった。
職員たちの部屋から集めたものだが、財団支部の置かれた場所が日本という国だっただけに、面白半分で〝日本語しゃべれます〟と書かれたTシャツを購入する職員がいたのだろう。
アニの胸にはデカデカと変な文字が記されているのだった。
日本語を扱うアニにしてみれば恥ずかしい事この上ないが、サイズを考えると致し方なし。
とはいえ、早く着替えたいのは当然のこと。
二人は思わず顔を見合わせ――
「まずは物資の確保かな」
「おう。このまま出歩くのだけは俺も勘弁……っても、金あんのかよ?」
「多少はね。その鞄の中身――君が困らないよう腕時計やアクセサリーを集めておいたんだ。それを売ればそれなりの額にはなるんじゃないかな」
「あー、重いと思えばそういう事か」
「僕だって準備なしに君を放り出したりはしないさ。まあ、売れなくても働けば良いだけだしね。日雇いの仕事ならどうにでもなるだろうし……僕の戸籍自体は残ってるだろうからね」
これからの生き方を語らって笑い合う。
もはや人間ではないにせよ、無体を働くつもりはない。
郷に入っては――という通り、新しい生涯に思いを馳せる二人は、どこか和やかに財団だった場所を後にするのだった。
朽ちた檻は墓場となりて。
「イースター……いやマックス。君はどこでも良いと言ってたけどね。やっぱり故郷に帰すのが一番だと思うんだ。時間は掛かるだろうけど……ここまで待っててくれたんだ。もう少しだけ待たせても、許してくれるね?」
オリアは一度だけ振り返って、胸に抱えた小さなトランクを静かに撫でる。
それはアニに持たせた鞄とは別の宝物。
エルファスたち研究員の一部と、彼らが大切にしていた遺品が丁重に保管してあった。
骨だけでも外に連れて行って欲しい――そう笑ったイースターの願いを叶えるためにも掻き集めたのがこの箱の中身で。
(結局、自分で持ち出す事になったけど……これで良かったんだろうね)
オリアは滲みそうになる涙を堪えて、崩れた山から目を逸らす。
アニに――電脳箱[k-hack]に託すはずだったが、幸運にもオリアは生き残り、アニが傍に居てくれるのだ。
「行って来るよ、皆」
「あ――……だな。コイツの事は任せとけよ。無茶はさせねーからさ」
オリアの心情に気付いたのか。
ただ慰めようとしたのか。
眉を下げて笑うアニの腕の中、オリアは大切だった人たちに、ひとまずの別れを告げる。
気付くのは遅くとも、気付けただけ良かったのだろう。
もう二度と大切なものを履き違えるまいと、オリアもまたアニに身を寄せるのだった。
さてはて、二人の目的は二つ。
現実と化した怪異を鎮めること。
そしてエルファスたちの故郷を巡ることだ。
崩壊に呑まれたのか、土煙と共に空に昇ったのか。
山を覆っていた毒霧が晴れる中、二人はその姿を消していく。
次に聞こえるのは狐につままれた男が正気に戻ったやら、怪談を模しただろう不審者が捕まったやら、悪夢に怯える子供が解放されたやら。
ひっそりと、それでいてじっとりと人々を脅かし始めた事件の終幕だった。
もっとも撒かれた種は幾百にも上り。
「――やっぱ増えてんな」
「ん?ああ、背中かい?」
「怪異を喰う度に、埋まってる?生えてる?分かんねーけど、それっぽいのが増えてんだよな」
「うーん……四十くらいで終われば良いけど、やっぱり千までいっちゃうのかな?」
「そういや言ってたな。必ずしも千本あるわけじゃないって」
「よく覚えてたね。基本的には四十本前後が多いけど、仏像を造る上では物理的に難しいというか……。でも1041本の腕を持つ観音像も実在するし、千で終わらない可能性もあるんだよね」
千手の掴む業は歯止めを知らず。
アニが怪異を喰らう度に、オリアの背にはその痕跡が刻まれていった。
背に抱く観音が数多ある手に掴みしは龍玉、三足烏を模した金剛杵、細工の施された箱と、アニにとっても覚えのあるものばかり。
絹の羽衣を纏う姿は神々しく、その傍ら、オリアの腕には物々しい百足と火虫が控えているのだった。
見れば菩薩の顔は狼のようでもあり――これが魂を繋げた証でもあるのだろう。
箱の中に戻った怪異たちを清々しさと妬ましさの混じった瞳で見つめ、アニは自身だけが許された体を抱きしめる。
「千だろうが万だろうが良いけどよ。無理だけはすんなよ?」
「それは君もね――アニ」
それは獣の見つけたねぐらか。
獣を閉じ込める檻か。
箱の中に繋がれた獣は、ただ一つの宝を腕に抱く。
二人――否、二人で一つの異形を見下ろす夜空は、果たして何を思うのか。
青々とした星の瞬き。
怪しく輝く月光。
どこか不気味で妖艶な光が、夜の闇を照らすのだった。
❖
崩落した財団施設。
土砂に呑まれた残骸とも呼べぬ沈殿の上、男は小さく声を溢した。
その声は唸りと言うには軽く、かといって吐息と言うには重く、何か悩みを秘めたるようでもあった。
もしくは得心か。
神無月かく在りき――神はおろか物ノ怪の気配一つしない崩落を眺めるのも束の間、男は帳を下す空に目を向ける。
人の手を離れた森だけに、空気は澄んだもの。
天駆ける星の煌めきも殊更美しく、だからこそ腹立たしい。
「星は来ず――か」
望む逢瀬を果たせなかった事が口惜しいのか。
何事もなく役目を果たせた事に安堵する己の浅ましさが憎たらしいのか。
暗緑の輝きを返す髪を揺らす男は、どうにも緩慢な動きで、自身の胸に手を伸ばす。
慣れたつもりで、洋装というものに、まだ違和を感じているらしい。
中央に手を滑らせ――間違いに気付くや否や、胸ポケットのホックを開いた。
「……――我が主」
取り出すのは一枚の和紙。
人型にくり抜かれた紙を宙に浮かべれば、薄い和紙は風にでも乗るように、落ちる事なく光を放つ。
悲しいかな、祭壇は施設と共に土砂の下に呑まれてしまったようだが――もっとも、祭壇は信者の心を満たすもの。
気を込めた紙は問題なく輝きを増し、ゆったりとした声が闇に響いた。
『――カズラか』
「は――カズラでございます。被験体BOXYの監視を終了。結果を報告いたします」
理事クレイン。
真の姿を――式神・蔓螺。
財団B・O・Xの創設者L.アゾートの腹心にして、忠誠を誓う鬼神の一柱である。
ここまで語れば、L.アゾートが何者なのかを測るのも難しくないだろう。
鬼神を調伏する者。
それすなわち――陰陽師。
満ちながらにして欠ける男は、カズラの報告にクツリと喉を鳴らしたようだった。
『……――なるほど。箱そのものが境界を超えるに至った――というわけか。しかし――……あえて見逃したのか。それとも……』
「どちらも――です」
『ほう?』
「あなた様が居て下さるのなら、膝を折る事もありませんが……相手は無尽蔵に等しき核を得た外なる獣。それを抜きにしても、あなた様が生み出した箱です。私とて呑まれかねないというもの。独力では納める事が不可能と判断しました」
見えているのか、いないのか。
傍目には判断がつかないが、カズラはまるで主人がそこにいるかのように、光る紙に向かって頭を垂れる。
抑揚がないながら、信仰心は随一らしい。
深い謝罪の後、カズラは静かに口を開く。
「加えて――あの箱は取り込んだモノをそのまま取り出す事が出来るようです」
その声に月は何を思うのだろう。
ゆるりと時が流れたのは一瞬か、半瞬か。
L.アゾートが言葉を返す。
『所詮、あの獣は犬蟲に過ぎぬという事か。たしかに……あの子がしたのは犬蟲の造り方そのものだ。檻に閉じ込めた犬の前に自らという餌を置き――けして餌は与えず、最後の最後も本当の意味で餌をあげなんだ』
犬が望んだのは喰らう事ではない。
真に満たされる事なく飢え続けたのだから、犬蟲となって然るべきだろう。
あるいは、首を落とした時にはもう犬蟲と化していたのか。
『力を喰らうは犬蟲に非ず。与えた血によって箱の力が移っていたと考えれば……道理は通るか』
蟲毒に似て非なる物ノ怪――犬蟲。
その逸話をぼそりと呟き、L.アゾートは自然と声を転がした。
『さすれば……お前が引くのも頷ける。力任せの犬には扱い切れずとも、あの子は怪異の扱いを心得ている――否、怪異の方があの子を守らんと死力を尽くすだろうな。我ながら……愛しいものを造ったものだ』
納めた物をそのまま取り出しているのか。
取り込んだモノと溶け合っているのか。
誘い込んだ気を孕んでいるのか。
喰らった怪異を取り込む力――それは犬蟲ではなく箱の持つ特質だろう。
中を満たせば満たすほど力を増す箱に吐息を一つ。
L.アゾートはぼそりと嘯いた。
『いやはやしかし……個にして全――なかなか上手くはいかぬものだな』
怪異と心を通わせるだけかと思えば、よもや怪異を喰らうとは想定外も想定外。
非常に興味深いが――あくまで望みは、かの星の再来。
個にして群とも言うべき匣では、希う形に程遠い。
財団の一施設から生まれた成果と思えば、この上なく面白い結実ではあるが――星が待つのは億年先だ。
大袈裟に息を吐き出し、浮かんだ笑みを引っ込めた。
途端に冷めた声色はカズラにも伝わったのだろう。
頭を下げたままのカズラが視線を上げる。
「……では、いかがされますか?」
『ふむ……羽化した蛾を愛でるほど、私も酔狂ではなくてな。もう千年は好きにさせておけば良い』
千年前に撒いた種を、千年後に芽吹かせたように。
また千年後にその実を収穫すれば良い。
その時に見るのは神虫の荘厳さか。
嵌合体と化した歪さか。
たっぷりと肥えた暁には、手ずから標本にするのも面白いだろう。
糸月の宿った黒曜が、うっそりと細くなり――閉じる程に細められた目がパチリと開く。
そこに浮かぶのは銀の満月。
白銀の瞳孔を見開いて、男は溢した。
『……――星が見える』
「星……という事は」
『新星――灼々《しゃくしゃく》と燃ゆる蒼星に紡績の糸が絡まる姿が見える――……』
月が見るのは未来か過去か。
あまりに果てなき億年先か。
『……――近く星が訪れる。あの子が新星を呼ぶ餌となるだろう。くくっ……もう暫し楽しませて貰うとしようではないか』
かつて路満と呼ばれた男――あらゆる道の先に待つ者は満ちた月を静かに閉ざすのだった。




