case.1「BOX the P-un」(03)
『……――■■■さん』
聞こえてきた声に振り返る。
果たして呼び止めてくる彼は誰だったか。
曖昧――というよりは寝ぼけた思考を揺り動かし、男は重い瞼をこじ開けた。
『んん……?』
『またこんなとこで寝て……。熱心なのは良いけど、体が資本だってこと忘れすぎじゃありません?』
どうにも焦点の合わない視界に映り込むのは、一人の青年だった。
どこか異人めいた顔立ちに、人好きのする――それでいて胡散臭さが微かに香る笑みに、年齢の割には随分と質の良い衣服に、見慣れたというにはまだ関係の浅い青年をぼんやりと見つめ、男は自分の置かれている状況を冷静に分析する。
(……また眠ってたのか)
熱中すれば眠気も忘れる――なんて言うが、現実はそう甘くはない。
いつまでもいつまでも研究に没頭していたいという自分の意識とは別に、いつの間にやら寝落ちていた男は、枕代わりにしていた袖の跡がついていそうな顔をぐりぐりと捏ね繰り回した。
(最近……疲れが取れないな)
疲れているのか。
あるいは憑かれているのか。
皺の寄った資料やら、特定のページで開き癖の付いた本やら、暗転してしまった電子画面やら。
記憶とは悪い意味で変化を遂げた目の前の景色を一望してから、男は苦笑気味に青年に話しかけた。
『一応……分かってるつもりなのだけどね。これが良くないって事は』
『一応も何も、それは分かってない人間の言い草ですけどね。まったく……どうせ食事も摂ってないんでしょう?ほら、立って!それは一旦後にして――食べに行きましょうよ。オレのが後輩ですけど……■■■さんには特別、奢ってあげますから!』
『……別に自分の分くらい自分で払うよ?』
『はあぁー……好き。オレ■■■さんのそういうとこ好きなんですよね。まあ奢りますけど』
『そうかい……君も何というか、一筋縄ではいかない人種だよねぇ。僕が言う事ではないだろうけど』
待っていたのか。
それとも別の何かを終えて来たのか。
早くと急かす青年を横目に、男は使い慣れた万年筆や、見分が中途半端になってしまった資料を鞄に詰め込んでいく。
その多くは古びた本で――図書館にもないようなそれらに費やした金額は、如何ほどまでに膨れ上がってしまったものか。
鞄の底に沈む薄ら寒い財布を思い出した男は、ついため息を溢した。
(……かといって後輩にたかるのも嬉しい事ではないのだけどね)
金がないのは自業自得。
何なら食事より資料が欲しい――などと宣ったら、浮足立った様子の青年は、笑いながら青筋を立てる事だろう。
(容易に想像つくのがまた……ね)
波風を立てかねない本音を飲み込み、所謂美丈夫ないし好男子と持て囃される青年の背中を追いかける。
躊躇いなく奢ると豪語するあたり、家が太いのかもしれない。
『助手席どーぞ』
『うん。少しお世話になるよ』
このやり取りも何度目か。
いかにも高級-さりとて興味のない男に車の良し悪しは分からない-なスポーツカーに乗り込んだ男は、既に真っ暗闇に染まった空を仰ぎ見た。
(雨の日はどうしてるんだろう)
オープンカーだけに、天井を阻むものは一つもない。
星も浮かない――だからこそ余計に吸い込まれそうな闇夜を見上げ、どこか冷たく頬を撫でる風に身を任せた。
雪もない場所だと忘れがちだが、季節はとうの昔に冬の盛り。
刻一刻と近付く別れの日を惜しむかのように、青年はゆっくりと車を走らせた。
『■■■さんは……』
『何だい?』
『将来……どうするのかと思って。いつまでも研究ばっかしてらんないでしょ?そういう道もないとは言わないけど……現実的じゃないって言うか。■■■さんは研究者であって教えるのは下手クソっていうか……ね』
『ははっ、言うねぇ』
『そりゃ……よく見てますから。心配するこっちの身にもなって欲しいってやつですよ』
星が見えない――そうは思ったが、青年の目には五芒星の煌めきが瞬いている。
その星を目に、男はただ平凡に何でもない未来を口にした。
『まあ……普通に暮らすよ。趣味でくらいは続けるだろうけど、普通に働いて、普通に結婚して、普通に死んで……かな?流れに身を任せる内にそうなってれば良いかなとは思うよねぇ』
『……普通に』
『そう、普通に。僕みたいな変人には普通ってのもその実よく分からないけど……多くは望まないよ』
そもそも普通とは何なのか。
哲学的な話を交えながら、二人は一本続きの道を進んでいく。
その道が分かれたのはいつの事か。
ザーザーと流れゆく水が足元で渦巻くのを感じながら――……
「……夢は所詮、夢というやつだね」
男――オリアはコックを捻った。
きゅっと水気を孕んだ音が甲高く響き――後はもう、溢れた水が排水溝目掛けて進んでいくだけだ。
底の見えない水の溜まり場には目もくれず、オリアはずぶ濡れの手で毛羽立ったタオルを一枚引っ掴んだ。
「さて――彼も目覚めた頃かな?」
ろくに頭を拭かないまま、掴んだタオルを腰に巻く。
その腕には大きな顎を開いた百足が絡み合い、蠢き合い――
「ッ――!!??」
バチリと目が合った青年――アニは水を滴らせるオリアの姿に悲鳴ともつかない声を飲み込んだ。
事実、驚くなという方が無理だろう。
気が付けば見知らぬベッドの上――しかも一糸纏わぬ状態で目覚めたとなれば、置かれた状況に狼狽こそすれ、冷静ではいられないはずだ。
飛び上がりそうになり――しかしてシーツに半身を埋めたままのアニが、声にならない声を上げて、今しがた汗を流してきたという風なオリアに震える指を向けるのだった。
「ッ……!!ッウ……!!」
「ああ、コレかい?」
だがそれをどう解釈したのか。
オリアは何て事なく吐息を溢し、自らの腕に這う百足をするりと撫でた。
「刺青だよ――刺青。昨晩もさんざ見ただろうに、今更驚く事でもないんじゃないかな?」
「ハッ……!?エ……ッ!?」
「ココも、コッチも……随分と熱心に見てたじゃないか。なかなかの出来栄えだろう?」
うなじから腕にかけて走る四匹の百足。尾で絡み合った二匹一対の黒は、赤々と燃える彼岸花を抱いて存外逞しい腕を守っている。
その先、黄金に輝く顎が指し示す前腕にはそれぞれ半分に掛けた円形の紋章が、割印のように白い腕を飾っていた。
「君は映画――映像記録は見る方かな?これはある作品のリスペクトなんだけど……ほら、カッコイイだろう?腕を合わせると一つの魔法陣になるんだ」
愕然としているのか、理解が追い付いていないのか。
どのみちアニには分からない話を嬉々として繰り広げながら、オリアは水滴の下がる背中を見せつける。
そこに鎮座――否、おわすのは開蓮華に乗った神々しい御姿。
「〝千手観音〟と言ってね――〝千手千眼観音〟に始まり〝十一面千手千眼観音〟だとか〝千眼千臂観音〟なんて呼ばれたりもする菩薩の一尊――つまりはこれも神様の一つと言えるだろうね。起源はかの叡知の神や破壊の神にあるとかないとか――……」
数多もの手に持物を携えた菩薩が背中一面を彩る様を、オリアはどこか恍惚にアニへと説き伏せる。
「宝戟や羂索、錫杖に金剛杵――千手には多様な持物が握られていてね。その一つ一つに意味や祈りが込められているわけだ。史実としては千臂が正しいのだろうけど、造像においては四十臂くらいかな。何にせよ……あまねく者を救わんとする慈悲と救済の象徴として知られているのがこの〝千手観音〟というモノなんだ。その在り様にいたく感銘を受けてね。僕もあらゆるモノに手を差し伸べたいと思って、この御姿を背負う事を決めたんだよ」
この間、僅か数秒。
ベッドから動けずにいるアニを置き去りに、オリアはやはり早口に自らの背負う存在についてを口にする。
無論、目覚めたばかりというのもあるが、アニには何が何だかサッパリのちんぷんかんな話である。
熱を孕んだオリアの勢いに圧倒されるばかりで、肝心の中身については何一つ頭に入ってこなかった。
実際問題――
自分も裸で、オリアも裸同然で。
(……マジか)
腰に残る甘さを伴う気だるさと、いやに乾いて擦り切れた喉の痛み。
何より揚々と語られる刺青に混じって花開く赤色に、アニは自らのしでかした過ちを突きつけられる。
(ヤった……んだよな、コレ)
ジクリと痛む背中にはきっと無数の爪痕が残されているのだろう。
見ずとも想像の付く状況が、より一層アニに現実を叩きつけた。
しかしながら、覚えているのは今なお燻ぶる痺れだけで。
(なんか……った。良かった……のは覚えて……覚え――……ッ!!)
それも束の間、アニの脳裏には耳に心地の良い吐息が蘇る。
貪り着くように噛み付いた青白い首。
組み敷いた時に生じた優越感。
痛みに耐える――それでいて甘さを帯びていく掠れた声。
抵抗もままならずに肢体を曝け出したオリアを思い出し――
(ッ~~~~!!)
アニは羞恥のあまり叫びそうになった。
恋仲でもない相手に手を出してしまったショックはもちろん――物凄く良かった――そう思ってしまった事実が、この上なく衝撃的だったと言うべきか。
電脳箱[K-hack]の指示もなしに行為に至った自分にも、その結論を導き出してしまった自分にも、アニは思い切り頭をかち割られたかのような気分に陥るのだった。
それ以上に――
(……なんかムカつく)
あまりに平然としたオリアに、行き場のない怒りが沸々と沸いてくる。
燃え盛る熱と、終わりのない渇望の果てがこれなのかと――酷く恨めしい気持ちが胸を支配するのだった。
悦楽の影で煮え滾るその感情に乗せ、アニは一人楽しげな相手に喰いかかる。
「つーかアレ!何なんだよ!」
「アレ……とは?どのアレの事かな?」
「全部だ!全部!全部に決まってんだろ!!」
怒りのまま声を荒げれば、わけの分からない話に興じていたオリアがベッドの脇へと腰を下ろす。
恐らくはオリアの家ないし研究所なのだろう。
電脳箱[K-hack]がそんな事を言っていた気がする――ふと冷静に昨日の事を思い起こしながら、アニはどうしたって艶めいて見えるオリアの体から目を逸らした。
衣服を着て欲しい気持ちが半分。
このまま余韻に浸っていたい気持ちがもう半分。
ぼやく事も出来ずにそわそわと視線を泳がせ――もっとも、その機微にいちいち反応するオリアではない。
気まずげな様子のアニを気にする素振りもなく、濡れそぼった髪を煩わしそうに掻き分けた。
「まずは……そうだね。分かってはいるだろうけど、ここは僕の研究所ってところかな。ほとんど倉庫みたいなものだけどね。覚えてるかはさておき……あの後、君をここへ運ばせて貰ったんだ」
「……おう」
「それで……君が退けてくれたアレ。アレに関してはさっき――いや、昨日だね。説明した通り〝怪異〟と呼ばれる――厳密にはもっと細かい区分があるのだけど、便宜上〝怪異〟と一括りにしている存在なんだ。起源は民話だったり神話だったり噂話だったり創作だったり……そも神という存在自体が信仰あってのものだからね。あまねく人々の記憶に残り、畏怖され、口伝される内に一つの形態を得たモノが〝怪異〟と呼ばれるに値する――と言えるのではないかな?そんなこんなで〝怪異〟と一色田にしているわけだけど……昨日のアレ。僕は〝災いの箱〟と呼ぶ事にしたのだけどね。アレもまた〝怪異〟の一つと言ったところなんだ」
相も変わらず早口で捲し立て、オリアはにこりと微笑んでみせる。
ここがオリアの研究所――というのは予想通りとして、やはり〝怪異〟についてはいまいち理解しがたい。
困惑を包み隠さず表に出せば、オリアはさらに難解な言葉の数々を、次から次へと溢していくのだった。
「カイイ……カイイ、なぁ」
「噛み砕いて言うと〝人知の及ばない超常現象〟――というのが〝怪異〟の本分だろうね。その多くは科学的に解決できるのだけど、例えば……誰も居ないのに扉が勝手に開くとか。生体反応がないのに生き物の声や気配がするとか。死んだはずの人間が干渉できない肉体を持って顕現するだとか。何もないところから金銀財宝、果ては珍妙な生物を産み出すとか――形態はまあ色々。とかく、電脳箱[K-hack]にも説明の出来ない奇々怪々な出来事や存在というのが――そう。〝怪異〟というわけだよ。Sir.アニ、ここまで理解出来たかな?」
「ううぅ……何となく?何となくは分かった気がする……?」
「それは結構!いやはや呑み込みが早くて嬉しいよ!それで次だね!君に渡した異装[I-sow]!アレは僕が〝怪異〟に対抗する手段として作り出したものなんだ!」
ヒートアップしていくオリアの話に頭痛を感じながらも、アニは懸命に説明される内容を噛み砕いていく。
わけの分からないモノ=怪異。
という猿にも分かりそうな事しか分からなかったとも言えるが、それ以上を知る必要もないだろう。
無理やり知識を詰め込む苦痛に耐えるアニを尻目に、オリアはそれはもう楽しそうに自分の研究成果を語るのである。
それこそ――子供のように。
「カリギュラ効果――要するに〝駄目だと言われるとかえってやりたくなる心理〟の事だね。それと同じで危険と分かっていても僕は〝怪異〟の魅力に抗えなかったんだ。でも何の策もなしに〝怪異〟を調べる事はまず不可能。中には好意的なモノもいるのだけど、基本的に〝怪異〟というのは、危険か意思疎通が出来ないかのどちらかだからね。〝怪異〟との対話を試みるそのために異装[I-sow]の開発を始めた――というわけなんだ」
「ああ……うん」
「ただ少し問題があってね。僕の肉体じゃ異装[I-sow]の装着に耐えられなかったんだよ。これは銃を筆頭にした武器とまるっきり同じ話だね。どれだけ武器が強く優れていても、それを持てるだけの筋力や体幹がなかったり、反動に耐えられず脱臼したり、そもそもセンスがなかったり――あはは!僕の場合、全部が理由な気がするけど……ともかく異装[I-sow]を扱う事が出来なくてね。適正の高そうな君に委ねざるを得なかった――という事なんだ」
笑い話じゃない――そうは思っても、休みなく矢継ぎ早に告げられる話に割り込む事は難しい。
止めどない話にげんなりしながらも、アニはとりあえず相槌を打っては半ば話を聞き流す。
そしてそれを気にも留めず、オリアはただただ自分の長話に興じ続けた。
「異装[I-sow]について詳しく話すと、肉体や感覚の活性化を促す装置――といったところになるかな。倫理観だったり意思や思考が邪魔する制限を取り払うのはもちろん、ある種の変質化というものだね。蛸が危機に瀕して体色を変じたり、多くの生物が発情期にのみ特定の部位に変異を兆したり、成長の過程で大きく姿を変えたり――疑似的――いや一時的にかな。生命に備わった能力を遺伝子レベルで再現するのが異装[I-sow]の特徴なんだ。あらゆる生物、元を正しに正せば同じ微生物だからね。客観視は難しいだろうけど、異装[I-sow]を使った君の姿が変じていたのも、この機能におけるもの――というわけだ!ついてこられているかい?」
「あー……たぶんな」
「それは宜しい。まあ理解出来なくても構わないのだけど。君が分からずとも僕が理解している――それで問題はないのだからね」
「…………」
ここまで聞かせておいて――今度はそう思うが、オリアという男には何を言っても無駄だろう。
そう直観したアニは口を閉ざし、傍目にだけなら情緒を宿すオリアの背中をチラと見た。
物言わぬ菩薩が語るのは憐憫か。
噛み付いた跡の残る背中が後ろを向き――悪びれた様子なく目を細めるオリアと鼻先が触れ合った。
「それで――だけどね。君には悪いと――本当に悪いと思っているよ?でもあの場には僕と君の二人だけ。少しでも可能性のある君に異装[I-sow]を託した――というのも、ここまで聞いてくれた君になら分かって貰える話だと思うんだ。どうかな?」
「悪いと思ってねーだろ」
「いやいや本当に悪いと思っているんだよ?だからこそ君をここに入れてあげたんじゃないか」
溢し―― 一拍だけ溜めた吐息。
その吐息がアニの耳を静かに撫でる。
「――僕の中にもね」
その言葉が意味するのは一つで。
アニはヒュッと息を呑んで、弧を描く紫を睨みつけた。
「ッ……それは!」
「あー……別に良いんだよ?僕くらいの年齢にもなればね。それくらいで動じないというか、一つの経験として受け流せるというか。こんな体で満足して貰えたなら何より――というだけの話だね」
だが焦るアニとは逆に、オリアの方は冷静そのもの。
物憂げに微笑みこそすれど、アニを咎める事も、まして悲観に暮れる事もなかった。
それが余計にアニの怒りに火を灯すわけだが――ここで怒っては、オリアに気があると言っているようもの。
必死に怒声を飲み込んで、アニはシーツを腰にベッドを飛び上がる。
「ッ……帰る!!」
「おや、何だかご立腹のようだねぇ」
「誰のせいだと思ってんだ!!俺の服どこだよ!?まさかこのまま帰れとか言わねーよな!?」
「服を着ないくらいで死にはしないだろうけど……ああでも防寒性や防護性は下がるのかな。君の服は生憎破れてしまったから、そこにあるのを着ていくと良い。もちろん返却は不要だよ」
「頼まれても誰がこんなとこ来るか!!手前も依頼すんなよ!?」
「それは……どうだろうね?」
「以来きても断らせ――あっ!!電脳箱[K-hack]!!電脳箱[K-hack]はどうなったんだよ!?」
どすどすとベッドルームを出て行った先には、こじんまりとした居間が一つ。
テーブルの上に乗ったボロボロと衣服と、用意されていた衣服とを見比べ、アニは不満げに後者を身に纏う。
白のボタンシャツにグレーのスラックスと、あまりに趣味ではない格好だったが、裸よりは遥かにマシだろう。
少しばかり窮屈な服に袖を通したアニは、依頼の話ついで、電脳箱[K-hack]の存在を思い出した。
「んー……そこに置いてないかい?」
その声に、オリアがひょこりと顔を出す。
ドアの取っ払われた穴から身を乗り出したオリアはタオル一枚のまま。
ぺたぺたと素足で床を歩き――申し訳程度に置かれたテーブルではなく、壁とくっ付いた大型の作業台の上に載っていた小さな箱に手を伸ばした。
「――こっちだったっけか。はい。回収は出来たけど、機能の方はどうだろうね」
「あー……やっぱ壊れてんのか?」
「さあ?起動確認したわけでもなし。気になるならサポートセンターに見て貰えば良いんじゃないかな?」
静かになった黒い小箱。
それを手に、アニはため息を溢す。
煩わしいと感じる時もあれど、電脳箱[K-hack]がいなければ、その日の生活も危ぶまれる程だ。
電脳箱[K-hack]の指示もなしによく生き延びる事が出来たと感慨に耽り――
「いや、待て」
「うん?どうかしたのかい?」
ここに来て初めて、アニは目の前の男が電脳箱[K-hack]を連れていない事に気が付いた。
「お前……電脳箱[K-hack]が居なくて何で平気なんだよ?」
電脳箱[K-hack]の導きをなくして、どうやって生きているのか。
〝怪異〟にも似た気味悪さに、アニはぎょっとした顔でオリアを見る。
もっとも、オリアは飄々としたまま。
ようやく羽織ったガウンを整えながら、アニへと微笑んだ。
「案外どうとでもなるものだよ。単純に電脳箱[K-hack]が傍に居なかった――というだけの話ではあるのだけどね。それでも僕はこの生き方を気に入ってるんだ。電脳箱[K-hack]が居ては辿り着けなかった場所にいる――というのも、なかなかに面白い話だとは思わないかい?」
穏やかな笑みに肯定しそうになり――アニはふいと目を逸らす。
「俺には理解できねーな」
そして、捨て台詞を吐くように研究所と言うには小さな家を後にした。
一夜明けた空は青々と美しく。
(……夢だ。全部夢で良いじゃねーか)
あまりに子供じみた出来事を夢の一言で一蹴し、アニはオンボロの車に乗り込んだ。
オリアがここまで運んでくれたのか。
それとも、やはり全てが夢で、自分でここまで乗って来たのか。
研究所の前に停まった車にエンジンを掛け、アニは山奥にぽつんと佇むそこを離れていく。
「…………」
電脳箱[K-hack]が寝静まった車内は恐ろしいくらいに静かで。
かといって、昨晩見たものを現実だと認める気も起きず。
「…………ッ……」
体に残るいやに現実的な甘さにだけは戸惑いながらも、運びの仕事を一つ終えるのだった。
報酬は四割増し――
後日振り込まれた金額に、アニは良くも悪くも酷く頭痛を覚えるのである。