Orion is breaking
噛み付くほどの――キス。
終わりの瞬間を待つオリアに、アニが贈ったのはそれだけだった。
「――……んで」
「うるせぇ……お前なんかっ!お前なんか……誰が許してやるかよ」
一人納得――否、満足しようとしていた紫苑が、震える緋色を静かに仰ぐ。
訪れぬ最期を憂うべきなのか。
これだけの仕打ちをしてなお、恨んではくれない心根を喜ぶべきなのか。
酷く乱暴に――それでいて悲しいくらいささやかに触れ合った唇の感触に、オリアはつい泣きそうになった。
だが、ここで泣いてしまっては意味がない。
笑って――当たり前のように微笑って、決別を迎えなくては。
引き攣る口角を崩さず、オリアは燃える灼熱から目を逸らす。
「アニ――……僕はもう」
「っ……うるせぇ!うるせぇ!お前なんか一生……!一生……死んだって許してやんねえよ!だから……だから、ずっと!ずっと……一緒にいて。傍にいてくれよ」
「……――アニ」
肩を抱く腕を震わす感情は何れか。
逸らしてなお熱く突き刺さる真紅が、車椅子に腰かけるオリアを抱き留めた。
伝わるのは消えかける熱と、今にも壊れてしまいそうな脆弱さだけだ。
中身を失った箱は朽ちる他に道はなく――罅割れ、穴の空いた箱の軽さに、アニは砕けんばかりに歯を食いしばった。
その悔しさと、オリアへの恨みつらみを込めて喉を唸らせる。
「俺は馬鹿だけど……っ!何も知らねーけど!それでもっ……お前が泣いてる事くらい分かんだよ!最後の最後までお前の好きにさせてたまるか……!!」
勝手に死のうとする傲慢も。
一人で抱え込もうとする無謀も。
似合いもしない嘘も、アニの求めるものではない。
たとえそれが最期の願いだとしても、その望みを叶えるべきだと分かっていても――首を縦に振る事だけは出来なかった。
「頼れって言ったけど。お前の願いを聞き届けなきゃってのも……分かってる。でも……でも嫌だ。喰われても良いなんて……言うなよ」
怪物が溢す一滴の涙。
頬を濡らす滴が一筋の線を描く中、乾いた唇がそっと重なり合う。
錆びついた血の味はほろ苦く――それ以上に酷く甘やかで、アニはいっとう優しくオリアを抱きしめた。
(お前がくれたもの、全部返すから。それでお前が助かるなら……全部失ったって良いから……頼むよ。頼む。カミサマってのが、ボサツってのが本当にいるなら――……コイツを……オリアを救ってくれ)
意味の分からない事ばかりだった。
嫌な事もたくさんあった。
いまだ怪異の存在も呑み込み切れてはいないし、自分が怪異だと、かつては犬に過ぎなかったと言われても、冗談のように思えてしまう。
それでも、この想いだけは本物だ。
アニは本能に突き動かされるまま、事切れてしまいそうなオリアの唇へと噛み付いた。
触れるだけではない、たしかな口付け。
刹那、零れ落ちていた記憶が湧き上がる。
(――そうだ)
噛み付いた熱は冷たく。
手繰り寄せた糸は細く。
忘れていた残照をなぞるように、青白い頬に手を触れる。
(俺はずっとお前が――……好きだった。お前を愛してた。初めて会った日からずっと……ずっとお前だけを見てた。そうだよ――……俺は最初からお前を知ってたんだ)
止めどない執着の理由も。
気味の悪い忘失の正体も。
思い出せば何て事はない――全てオリアに繋がっていたものなのだ。
ジクジクと痛み続ける首の傷。
それさえオリアがくれた首輪だと思えば、愛おしく感じるのだから不思議なものだ。
しかと刻まれたケロイドを撫で、アニはかつてのようにオリアへと頬をすり寄せる。
(お前も……こんな気持ちだったのか?)
最期の瞬間――介錯のために斧を突き立てたオリアは、何を想い泣いてくれたのだろう。
寂しいと、悲しいと、本当は離れたくないと、もっと一緒にいたかったと。
同じ気持ちだったら、どれほど幸せか。
幼子が大人へと成長するように。
個を取り戻したアニは、いたく静かで穏やかな眼差しをオリアへと注いだ。
「全部……くれるんだろ?」
けして解けないように。
雪のように消えてしまわないように。
希った二本の腕で、しっかりと大切なものを抱き留める。
「頼むよ――オリア。俺と一緒に生きてくれ」
甘い、甘い香り。
甘い、何よりも甘い充足。
そっと――それでいて深く繋がった唇から、噎せ返るような甘さが伝わってくる。
「……――アニ」
「死ぬ時も一緒だ。もうお前を一人にはしねーよ――オリア」
緋と紫が交差する。
あるいは陽光が夜を連れ去ったのか。
星も月も見えぬ長い長い闇の終わり。
夜明けが訪れるのだった。




