Q-T[Tale of Boxy]
昔々の話。
千年もの時を遡る遠い昔の物語。
山間の小さな村。
桑の葉に守られた緑溢れる山の麓に一人の娘がいた。
彼女は謂わば箱入り娘。
月光に愛された青白い肌。
雪化粧のように色の抜け落ちた髪。
死を抱く瞳は鬼の醜草の如。
薄ら気味悪いその出で立ちは到底受け入れられるものではなく、彼女は実の両親の手で、座敷牢へと繋がれたのだった。
幸か――不幸か。
村には古くから伝わる習わしがあった。
山に住まう産土神。
100年に一度――村を守護してくれている神様に、巫女を捧げなければならないのである。
偶然にも祭事まで、あと十五年。
娘の両親は、我が子が忌み子に生まれた意味を、その祭事に見出した。
誰も望んで子を生贄にしたい親はいない。
この子は神に捧げられる供物なのだと。
皆に代わり、贄になるために生まれ落ちたのだと。
特異に生まれたその子を、自ら手に掛ける事もなく、暗く狭い箱の中に閉じ込めたのだった。
与えたのはたったの四つ。
最低限の衣。
最低限の食。
最低限の住。
そして――痛みすら知る前に奪った手と足の感覚。
贄として喰われるだけの娘だ。
言葉を教える事も、礼儀を学ばせる事も、まして逃げる手段も与えず――ただ生きているだけの肉塊を育んだ。
それを人と呼べるかはさて知らず。
自ら思考する事はおろか、食事を摂る事も歩く事も出来ない娘は、それを疑問に思うという事すら知らぬまま無為の日々を過ごしていった。
やがて月日は流れ――十五夜の歳月を積み重ねれば、その日はやって来た。
何も知らぬ娘。
何を思うでもない娘。
空っぽの贄は山神へと捧げられ――体よく厄介払いが出来た両親は、誰も傷つかずに村の豊穣を約束された村人たちは、酒を手に大いに盛り上がる。
何と素晴らしい祭なのか。
宴は三日三晩で終わらず――さらに三日三晩――もうさらに三日三晩。
九日が過ぎて、誰も彼もが寝静まった頃、それは村へと降り立った。
『――心を改めよ』
酔いの覚めぬ村人たちの前に現れたるは、美しい青年だった。
顔はよく分からない。
あまりの神々しさに、誰もその尊顔を拝む事が叶わなかったからだ。
ただ一つ、ハッキリと分かるのは――彼の者が怒っているという事だろう。
凍てつく空気の重さに、酔いなんてものは一瞬で冷め、村人たちは気が付けば地面に頭を擦りつけていた。
「な……何か粗相が……っ?」
『――……粗相。粗相か。たしかに娘は受け取った。だが悔い改めるべきはお主らだ。理由など……語らずとも知っていよう?』
「そ、それは……!その……巫女としてふさわしいようにと……っ」
『それを決めるのは我だ。お主らが囀る事ではない』
長い歳月によって千々《ちぢ》となる伝聞。
神の求めたるものが伴侶とも知らず、粗雑に扱ってきた娘を供物に捧げたのが運の尽きか。
事の重大さに気付こうとも、時を戻す事は誰にも出来はしない。
一生分の汗水を垂らす村人たちに――山神はただ踵を返した。
『彼女が無垢に育った事に感謝せよ。僅かでも憎悪の心あらば、我はお主らを許さなかった。これより心を改め、誠心誠意を尽くすが良い』
「あ……――は、はい。感謝致します」
『努々《ゆめゆめ》忘れるな。我はいつでも――見ているぞ』
それは酒が魅せた夢だったのか。
霧が招いた幻だったのか。
何にせよ、神の怒りに触れた村人たちは心を入れ替えると、巫女となった娘を称え――オシラ様と呼ぶようになった。
以来、村では養蚕業が盛んとなる。
神の育む潤沢な桑の恩恵あってのこと。
娘と同じ、白く美しい絹糸をもたらす蚕が大切にされ、絹布が織られるようになったのだ。
時に絹の価値は金に等しいとも謳われるほど。
村は豊かになり、人々は山の恵みとオシラ様への感謝を忘れず、いつまでもいつまでも幸せに暮らしたのだった。
めでたし、めでたし――……
……――などと終わるわけもなく。
時代は平安。
オシラの噂を小耳に挟みたるは、月に狂いし陰陽師だった。
「……――実に面白い話ですな。異形を飼い慣らすとは……興味のそそられること、そそられること」
小さな盃に映る真ん丸の月。
その月ごと呑み込んで、光も通さぬ黒々とした髪と目の男は薄く笑む。
だが一本の酒瓶を挟んで相対する男。
見た目には貴族といったところか。
整った身なりの男は、自ら話を振っておきながら、理解出来ないというように小首を傾げた。
「そうだろうか?私はそうは思わないがね。結局はただの色恋沙汰だろう?そんな話は、昔からありふれているものだよ」
「例えば……兄の真不思議な生い立ちのように?」
「……さてなぁ?私は私。母は母だ。証明できぬ事をいつまでも掘り起こすものではないよ。それより……帝に誘われていてね。君もどうだい?私と君……随分と不仲な噂が流れているが、ここは一つ、私たちが存外仲が良い事を見せつけに行ってみないかい?」
透明な酒が揺らめく盃を手に語らう二人の男。
言軽い男の方は、のらりくらり。
茶化しているのか、誤魔化しているのか、朗らかに微笑んだ。
その目には黄金に輝く五芒星。
火に照らすと薄っすら青みがかって見える紺碧の眼に、凛と眩い星が浮かんでいる。
その星を煩わしく見やり――
「丁重にお断り致します」
もう一人の男が無造作に酒を煽る。
黒々とした目を彩る銀輪は三日月の如く。
浮かぶ月以外の光全てを吸収する黒が、どこか忌々《いまいま》しげに揺れるのも束の間、酒を飲み干した器を置いて立ち上がった。
「存外も何も……我々の関係は噂以上でも以下でもないでしょうに。こうして酒の相手をしているだけ、有難いと思って欲しいくらいですがね」
情報交換という名の酒の席。
用意されるのは土産話と一本の酒瓶だけで――男が言う通り、それ以上もそれ以下もない。
今にも闇に紛れてしまいそうな黒衣の男に、もう一人はパチパチと星を瞬いた。
「えー?もう終わりかい?」
「酒瓶一本――下らぬ話をすれば終わり。所詮我らの関係はその程度。長話がしたいのなら、ぜひとも有意義な土産話を用意して頂きたい」
「いつもだけど、つれないねぇ……。私に流されずにいてくれるのが君の魅力でもあるんだが、ほとほと寂しくもなってしまうよ。私には少し……君たちが遠すぎる」
「……嫌味ですかな?」
談笑と呼ぶにはぎこちない席の終わり――月を抱いた男は、思わず顔を歪めてみせる。
己が自ら光る事も出来ない月ならば、相手はどこまでも先に光を届ける満天の煌めきだ。
相手にその意図があろうか、あるまいが。
どれだけ望んでも至れぬ領域から直に揶揄された気分になって、男は苛立ちのまま床を引き摺るほどの衣を翻す。
「――ではまた」
「ああ――おやすみ」
無言で去らないのは、せめてもの矜持か。
瞬く間に消える背中を見送って、残された男は空の盃を天へと向ける。
「伝わらずとも……私はただ君が心配なんだ。私たち友だろう?友じゃないにしても仲間なり……同士なり……悪友やら悪縁でも良い。少なからず他人ではないはずだ。心配の一つくらい、させておくれよ」
夜空には華々しい星の煌めき。
その中でもいっとう存在感を放つのは、満ち満ちた月光だ。
金にも銀にも色を変える満月の下、星を抱いた男は一人言ちる。
もっとも、哀愁に耽るのは僅かな時間。
「あー……寂しい。寂しいなぁ。私の友になってくれるのなんて、君くらいのものなのに……どうして君はつれないのか。くーん……ハルアキ泣いちゃう」
へんへん泣き始めるこの情けのない男、稀代の陰陽師として名を残す事になるのだが――それは1000年を過ぎた後の話。
夜が明け星が消えれば――薄らと存在を残す月の時間だ。
光あればこその闇。
オシラの噂が流れて数余年――養蚕で栄え始めたとある村は、人知れず消え去った。
神の怒りに触れてしまったのか。
山崩れに呑まれ、家も人も残さず、自然に還ったのである。
ただ一つ残ったのは、怪物を魅了する生ける箱。
オシラと呼ばれた娘の因子と、神の加護を受けた蚕と、山が内包していた霊気とを混ぜ合わせた――人の形をした箱が創られたのである。
「賛同したくはないが……魔を呼び寄せるだけなら龍脈と同じ。存外つまらぬものになったな」
闇は深く――その箱を生み出したのは、月に狂いし陰陽師だった。
月の満ち欠けと、波の満ち引きはよく似たもので。
在るものを混ぜ合わせたり、取り除いたり――生まれ持った知識と才を悪しき方向に用いた男は、好奇のまま品種改良を重ね、箱なる者を創りあげた。
その箱は謂わば金と同じ。
どんな厄介な異形であれ、その箱の魅力には抗えず、箱もまた空っぽの内を満たし得る相手を求め、互いに惹かれ合うのである。
本人の評価はさておき――恐ろしい異形を血を流さずに封じ込める箱ともなれば、欲する者も絶えないというもの。
才能ある孤児として朝廷に送った箱は、すぐさま権力者や陰陽師たちの庇護を得る事となった。
その喜びようといったら実に愚かなこと。
ただ一人を除いては――だが。
「……君がやったのか」
「はて?何の話ですかな?」
招かれた御所の帰り道、怒りを宿した五芒星が煌々《こうこう》と燃えている。
大方、山が死んだ原因に気付いているのだろうが、直接問い質さないのは彼なりの優しさか弱さか。
わざとらしくとぼける男に、星が絶える事なく突き刺さる。
「こんなこと言いたくはないが……君はまるで憑かれているかのようだ。何のために理を捻じ曲げようというんだい?」
健康的な肌。
濡羽色の艶やかな黒髪。
くっきりと整った目鼻立ち。
光の下では青みがかって見える、げに美しき黒曜に刻まれた金の輝き。
届かぬ星は際限なく身を焦がし――月は静かに微笑んだ。
「そこに力があるから。術があるから。ただそれだけのこと。強いて意味を見出すならば……ふむ。変化というものは実に面白い。生命は絶えず変容と進化を続け、気の遠くなる時間を生き抜き――これからも知略を巡らし足掻いていく事でしょう。その手が星に届くのなら、それ以上に愉快な事はない。兄には度し難くとも……果てなき手引きをするのも、一興とは思いませぬか?」
潮が満ちるように。
浪が引くように。
揺らめき揺蕩う変化こそが、海に揉まれる船の神髄。
運びしものが吉祥であろうと、災禍であろうと、世に変化を刻み続ける事こそが男の本懐――否、持って生まれた宿命に他ならなかった。
そこに現れてしまった綺羅星。
ささやかな嫉みと、たしかな憧憬の先に目指すべき完成形を見てしまえば、後はその一点に突き進むのみ。
天上に座す星さえ創りあげる――そう言わんばかりに、男は星を射抜いた。
奇しくも、船を導くのは星の標だ。
迷いなき眼差しに、五芒星は微かな震えを滲ませる。
「変化は……間違いなく必要だ。だがそれは自ら掴み取るもの。私たちは……命はそうやって繋がれてきた。君が与えるものでは――まして己の好奇を満たすために語るようなものではない」
「否――私は運ぶだけ。変化を生み出すもまた自然の道理に違いなく。私はただ……神さえ捨てたものを拾い上げているに過ぎませぬ」
「それが道理に反すると――……」
「なれば――兄もまた節理に反する存在。ふふ……くだらぬ弁で自らを否定なされるな。調停の星は――光年先で燃ゆるが宿命。生まれ落ちた以上、果てより見届けていればよいのです」
本来なら存在しえない形。
狐の子と揶揄される星の言葉を遮り、満たされる事も尽きる事もない男はゆっくりと歩を進める。
「兄が星ならば、私はあてどなき一隻の船。星がいかに調停を望もうと、流るる波は止められない。屑星の道を天に拓き、今は果てなき星を地に墜とすまで――どうか光年先で待たれよ」
毒気なく笑う稚児の不気味さと。過ぎた憧憬に囚われる大人の苦楽。
寄る辺なく掴みどころのない波を、どう抄えば良かったのだろう。
「――ではまた」
掴めぬ水の如、通り過ぎていく三日月。
動けぬ星を置いて、狂気に魅入られた月は静かに去っていった。
次に月が巡る時、星はまだ輝いているのか、燃え尽きてしまっているのか。
星は振り返る事も出来ずに立ち尽くす。
(……――路満)
生まれ持った性質はかくも惨く。
御仏の心は人間などには理解し難く。
あれではまるで人の皮を被った災禍のようだ。
芯なき悪意ほど残酷なものはなく――理解を示す事はおろか同じ道を征けなかった男は視線を落とす。
(……こんな星いらなかった)
気の許せる友一人出来ないのなら。
喝采の裏、化物と誹られるだけなら。
狐の子と気味悪がられるだけなら。
ようやく出会えたと思った理解者にさえ拒まれ道を別つしかないのなら、何も欲しくはなかった。
決定的な差を、相容れる事のない違いを突きつけられた男は俯く他になく――けれど、どれだけ下を覗こうと、その星が願いを託す流星になる事はない。
それを知る男は、五芒星に光を灯す。
「次に会う時はどちらかの最期だ。路満――君が葦船だと言うのなら、その臓腑に抱えるのは水蛭子なのだろうね。せめて……私にとっての勇魚となる事を願うばかりだよ」
古来、不具の神を流したとされる葦船。
波に揺れる水子は凶兆の印であり――一方で富を運ぶ寄神として祀られる事もあった。
吉祥はどちらにもたらされ、どちらが災禍の海に沈むのか。
結末は疾く、平安の世のただ中。
月に狂った陰陽師――名を葦鹿萱路満。
正式な記録はどこにも残されていないが、1000年後であればローマなりロマンと呼ばれるだろう男は、禁忌に触れた呪術を繰り返し、帝に仇なしたとして歴史の舞台から消え去った。
満ち引きに踊らされし男を打ち取ったのは星を宿した陰陽師――綾倍晴明。
名は諸説あり。
安倍晴明とも清明とも伝えられる事になる稀代の陰陽師が、これまた諸説あり芦屋道満とも称される悪鬼を屠ったのである。
だが命を燃やし過ぎたのだろう。
月を砕いて間もなく、星もまた死滅したのだった。
もっとも、歴史にとっては些事に過ぎず。
星を宿した陰陽師の没後も、朝廷は陰陽師を傍に置いたのだった。
その中には彼の箱の姿もあり。
怪異を手懐ける才に富んだ彼らは、御々箱の名を与えられ国に尽くした。
だが時の流れは残酷で。
時代が移ろい、世が陰陽術を不要とした時――化生と心を通わせ合う御々箱の者たちはいの一番に恐れられた。
それは蜜を吸ってきた朝廷も変わらず。
星詠みの恩恵捨てられぬ御上が秘密裏に陰陽師を匿うも、怪物に等しき彼らだけは見放されたのだった。
そして箱なる者は淘汰されたのである。
時代は巫女や生贄という習わしをも厭い――居場所を失った箱は、生き延びるために国中に散っていった。
都を追われた彼らの末路は想像に易く。
時代が彼らを忘れ去ってようやく、僅かに生き残った箱の一族は安寧を得た。
その頃には彼ら自身、自らの起源も本流も忘れ、只人として日々を過ごすようになっていたのだった。
長い時の中で、血が薄まっていった事もあるだろう。
時折――本当に時折、原因不明の死や失踪を遂げる者がいる以外、不可思議な何かに見舞われる事はなかった。
それから1000年――……時は現代。
再び箱なる者が生まれ出づる。
偶然――否、運命か。
忌まわしくも眩い綺羅星。
あの輝きに似て非なるアスター《星》の花が、男の目に留まったのだった。
「嗚呼……懐かしい」
それは死を見つめる菫の色。
金に等しき糸を織る幼虫。
羽化を待つ白く美しい無垢。
かつて自ら創りあげた箱を見つけた男は、遠い時代を慮るように薄く笑んだ。
「あの時はくだらぬと捨て置いたが……くく。早計だったな。あの子にならば、私でも触れられぬ存在しえぬものに干渉出来るかもしれない」
星が落ちようとも、生命が息づく限り、思考も流れ《・・》というものも止まりはしない。
自ら変化を受け入れ進化を続けてきた男は、星が散るのを見届けて――1000年。
名を変え、姿を変え、世に吉祥とも災禍ともつかぬ箱を運び続けた。
きっと常人には理解しえぬだろう。
だが、それこそが彼の意味。
結局はただの悦楽で、ただの好奇で、ただの自己満足に留まるものだが――あの星を創り、壊した時、どれほどの感慨深さがあるのだろう。
「カズラ――あの人間を調べておいてくれ」
「かしこまりました――我が主」
いまだ色褪せぬ五芒星の瞬き。
波間に揺れる葦舟は、その標を目指すように果てなき道を行く。
彼の名はロード・アゾート。
路を統べる者。
いつか星が落ちる時――あの星が只人へと成る時。
それは退屈だろうか。
それとも歓喜に震えるものだろうか。
――――かくして箱は開けられた。




