「BOX in the past」(06)
ずっと探してくれていたのだろう。
漆黒の怪物に喰われんという刹那、低く唸った犬が、大口を開く怪物へと飛び掛かった。
「グァアルル!!」
『あ゛!?今度は何だ!?』
突如横から襲い来る衝撃は凄まじく、四つ足の怪物の体が僅かながら宙に浮く。
地に着くのは左側の二足。
巨体が傾くのを見逃さず、黒い毛並みの犬は後ろ足で地面を蹴った。
首元に喰らい付いた牙はけして離さず。
自分よりも巨大な怪物を、血に濡れた床の上で引き摺り回す。
『てめえ……!!あの時の!!』
「ガウルアッ!!」
牙を剥く犬に漆黒の怪物――ダインも合点がいったらしい。
くんずほぐれつ床を転がり、自らの体ごと張り付く犬をコンクリートに叩きつける。
ガゴンッ――と生身がぶつかったとは思えない音と衝撃が響くが、犬は一瞬早く身を翻したようだ。
砂煙に包まれる怪物から距離を置くと、頽れたヴォクシーの前に舞い降りた。
「バフッ」
「何でここに……?」
犬にしては大きな背中と尾が、ヴォクシーへと語り掛ける。
任せろ――そう言わんばかりの凛々《りり》しい眼差しに、さりとてヴォクシーはぐしゃりと顔を歪めるのだった。
「どうして……。君は……逃げられたはずなのに。何で君まで……っ」
素直に喜べないのは、奇跡が起きない事を知っているからか。
不死身の爬虫類。
それは呼び名の通り、驚異的な再生能力と適応能力を有する不倶戴天の怪物である。
諸説や根源は――あえて語るべきではないだろう。
とかく、もはやあの時とは状況が違う。
何が起きたのか、ダインはもう人間ではなくなってしまったのだ。
目の前に君臨するのは、憎悪の象徴に他ならず。
覆らない死を悟ったヴォクシーは、震える腕を犬へと伸ばす。
「駄目……駄目だ。頼むから逃げてくれ。僕は……僕はもうどうなっても良いから……っ」
だが――激痛に軋む腕は届かない。
這いずろうにも体はまるで動かず、噛み付かれた右足に至っては青紫に変色してしまっているのだった。
ズキリと差し込む痛みと共に、毒々しい変色が広がる始末。
いつの間に触れてしまったのか。
指先にも毒が滲み、熱いのか寒いのかすら分からなくなりつつあった。
呼吸まで忘れてしまったかのようだ。
全身が震え、視界までが揺れる中、それでもヴォクシーは手を伸ばす。
その手をすり抜け、犬は今一度怪物へと飛び掛かった。
「ガルルッ!!」
「っ……やめ――……」
何故、助けに来たのだろう。
捨て置いてくれなかったのだろう。
制止も聞かず、犬は罅割れた床を駆る。
砕けたのか、腐食しているのか。
崩壊を辿る廊下を一息に駆け抜け、泰然と構える怪物の喉に飛び込んだ。
だがいかに大きかろうと、いかに逞しかろうと――所詮はただの獣だ。
影が揺らいだと思った時には、黒い毛玉がゴムボールのように廊下を跳ねるのだった。
「ギャインッ!?」
『このクソ犬が。てめーだけは絶対に許さねえ……ここで踏み潰してやる』
飛び付いた犬を払った尾が、これ見よがしにゆらゆらと宙を泳ぐ。
目にも止まらぬ速度で打ち込まれた一撃は重く、ひたすらに重く。
床や壁に叩きつけられる度に聞こえてくる轟音に、ヴォクシーはヒュッと息を呑んだ。
瞬きすら出来ぬ間に、内臓が潰れる音と骨が砕ける音が響き――目の前にはボロ雑巾のような黒い塊。
「……あ」
「ガフッ……フグゥ」
ただの一撃で変わり果てた犬を、ヴォクシーは震えの止まらない腕で抱き寄せる。
「っ……ごめん。ごめんね」
「ング……ガゥ……ゥ」
無慈悲にも熱い血の温度。
ぬるりと気味悪い肉と内臓の重み。
血で張り付いた毛の間から伝わる、ザリザリと鋭い骨の感触。
間近に迫った死の匂いに、ヴォクシーは吸っているのか吐いているのかも分からない吐息を溢す。
笑うのはただ一人――否、一匹。
身も心も怪物と成り果てたダインだけだ。
絶句するヴォクシーをにやにやと愉悦に眺めること数秒、獲物への距離を詰めていく。
爛々《らんらん》と光る眼は捕食者のそれに等しく。
下卑た色はヴォクシーを値踏みするかのようだった。
『全部お前のせいだ』
「……っ」
『そのクソ犬が死ぬのも、イースターたちが死んだのも――全部お前が悪い』
クツクツと喉を鳴らし、怪物はやはり真っ黒の舌をヴォクシーへと伸ばす。
かろうじて解けずにいる髪を撫で――それだけ。
毒が回る事に意識がいったのか。
無理に触れる事はせず、代わりに穏やかな声が語り掛けた。
『でも俺は許すぜ。お前が俺にした仕打ちも、クソ犬の事も全部なかった事にしても良い』
「……今更何を……っ」
『ヴォクシー……もう意地を張るのはやめようぜ?お互い水に流して、やり直そうじゃねーか。悪い話じゃないだろ?これから俺が……お前の傍にいてやるよ』
甘い、甘い――胸やけがするくらい甘ったるい囁き。
ヴォクシーを気遣う、優しく愛おしげな言葉が、酷く場違いな地獄に響き渡った。
闇に浮かぶ黄金は星の如く。
突然の告白に、ヴォクシーは力強い黄金と視線を交わす。
「…………」
その手を取れば、嫌な事を全て忘れられるのだろうか。
都合よく笑う事が出来るのだろうか。
望んだ場所で生きられるのだろうか。
「――|mather fucker《クソ喰らえ》」
甘言に逡巡する間もなく、ヴォクシーは傷ついた獣を抱きしめる。
全ては仮定に過ぎないが、あの事件がなければ、ここまでダインを軽蔑する事はなかったかもしれない。
だが事件は起きて、ダインは仲間を殺す事も厭わない怪物と化してしまったのだ。
君にだけは許しなど問われたくない――その想いを言外に込め、ヴォクシーはイースターが常々使っていた悪態をそのまま借りる。
当然、怪物は怒りを沸騰させ――
『折角チャンスを与えてやったってのに……残念だぜ、ヴォクシー』
巨大な顎をこじ開けた。
犬ごとヴォクシーを呑み込み――チン!
間抜けに響いた音は二人の背後。
エレベーターが口を開ける。
そのまま、もたれかかっていたヴォクシーを呑み込んで、白い扉を閉ざすのだった。
細くなる隙間から見えるのは、白い電灯が廊下を照らし始める光景だ。
目を晦ませるダインが怒り狂う中、エレベーターに守られたヴォクシーは、かろうじて呼吸を続ける犬を抱きしめた。
「……ジェフ」
口を零れるのは――歓喜の震え。
制御室に向かったジェフが、その役目を果たしてくれたのだろう。
ジェフがまだ生きているかもしれない。
再び友に救われる形となったヴォクシーは、灯った希望を胸に、紫苑の目尻に雫を溜めた。
だが泣いている暇はない。
涙を堪え、ヴォクシーは上昇を続けるエレベーターの文字盤を見る。
(まずは外に出ないと……。ダインがいる以上、データは後にするしかない。早く……この子の治療を…………)
エレベーター地下三階を越え、目指すは地下一階。
エルファスの残したデータは気になるが、今はダインの手を逃れ、施設から脱出するのが先決だろう。
相手は無力化はおろか捕縛すら困難を極める不滅の怪物だ。
唯一、塩酸の海で動きを封じる事が出来ると伝えられるが、それすら試すまでは分からぬこと。
結局は命あっての物種。
解毒のためにも、治療のためにも、施設に留まるべきではないと判断する。
気持ちが急く中、エレベーターはゆっくりと停止し――ヴォクシーは静まり返った廊下へと進み出た。
ここまで到達出来た者はいないのか。
避難アナウンスによって職員たちが逃げた後なのか。
怪異が暴れた痕跡はいくつか確認出来るものの、比較的被害は少ないようだ。
半ば引き摺る形で犬を背負い、ヴォクシーは光の戻った道を歩き出す。
「少しの辛抱だからね」
「……キュゥン」
ジェフが生きているのなら合流したい。
しかし不死身の怪物の――ダインの狙いはあくまでヴォクシーだ。
合流を待てば、かえってジェフを巻き込んでしまうだろう。
ヴォクシーはずり落ちそうになるボロボロの眼鏡と、荒い呼吸を繰り返す犬に気を揉みながら、人のいない道を往く。
「あと少し……」
いやに長く感じる廊下。
止まらない汗。
熱さと寒さは絶えず繰り返し、引き摺る右足には激痛以外の感覚がない。
それでも止まる事だけはせず――両脇に階段を構えたスロープ。
地上へ繋がるたった一つの出口へと、ヴォクシーは遂に辿り着いた。
――――だが。
「……そんな」
扉を覆う異常なまでの蔓と蔦。
まるで100年の時間が過ぎ去ってしまったかのように、鉄の扉は植物に浸食されている。
「ッ……駄目だ。何で……ここまできて……っ!」
力の入らない手で蔓を毟るが、覆い隠された扉にはてんで届かない。
カチッ……カチッとオイルの減ったライターを灯すが、それすら無力に等しく。
震える手がやっとの事で灯した火は、地面から水気を吸った植物たちの前で儚く散っていった。
これも怪異の仕業なのか、本当に時間に置き去りにされてしまったのか。
閉じ込められたヴォクシーは血に濡れた手でドアを叩き――踵を返す。
「排気口……排気口なら外に……」
ノコギリやチェンソーといった工具があれば、植物を片付ける事は可能かもしれない。
しかし悠長に伐採している猶予はない。
頭を切り替え――
「…………ダイン」
そこでヴォクシーは唇を噛んだ。
振り返ったエントランスには漆黒の怪物。
ヴォクシーに追いついた不死身の怪物が、長い尾を揺らしてニタニタと笑っている。
きっとではなく、チェシャ猫の方がまだ可愛いだろう。
可愛げの欠片もないその怪物が、金の目を細め、わざとらしく口を開いた。
『お――悪ぃな』
その音が耳に届くのと、どちらが早かったか。
横凪ぎに叩きつけられたヴォクシーは、エントランスを転がった。
「あ゛――がっ……うぅ!!」
「ンギャ……フ!!」
破れた白衣――その下から現れるのは、財団に来る前に彫った菩薩の御姿だ。
だが神は救ってくれなどはしない。
千手の祈りも届かなければ意味はなく、現実に出でた怪異は、仏を背負うヴォクシーを嘲笑う。
『涙ぐましいなぁ?』
犬を庇う事を馬鹿にしているのか。
救いがない事を揶揄しているのか。
もっとも、言い返す力は残っていない。
ヴォクシーは懸命に犬を手繰り寄せ――ダインの前に立ち塞がった。
否――懇願した。
「ダイン――……頼む。この子だけは……見逃してくれ」
『おいおい、勘弁してくれよ』
「頼む……いや、お願いします。僕は……良い。僕の事は好きにして良い。でもこの子だけは……っ」
これ以上失いたくない。
その一心で頭を下げるヴォクシーに、捕食者の視線が注がれる。
そのまま数秒、もしくは数分が過ぎたのか。
頭を下げ続けるヴォクシーに、どこか軽い声が語り掛けた。
『はーあーあぁ……そいつには恨みがあるが……まあ、良いぜ。お前が素直に俺のものになるっていうなら見逃してやる。俺も鬼じゃねーからな』
「っ……ダイン」
かつて苦楽を共にした飄々《ひょうひょう》とした声音。
奔放すぎるという欠点さえなければ、気のいいムードメーカーだったダインを思い出し、ヴォクシーは顔を上げる。
眼前には愉悦に満ちた月が二つ。
『なんて――言うわけねーだろ?』
怪物の腕が、ヴォクシーの腕に抱かれた犬を薙ぎ払った。
「……――ダイン!!」
『はっ――はははっ!!ざまぁねーなぁ!犬の分際で俺を馬鹿にしやがってって……!ヴォクシーを喰ったら、次はお前の番だ……。嬲り殺してやる!!』
床を跳ねる犬はもはやボロ雑巾の如。
高笑いする怪物に、ヴォクシーは血が溢れるほど歯を噛み締める。
「君は……君という奴は……!!」
『くはは!そんなそそる顔すんなよ、ヴォクシー?悪いのはお前だ。俺を選ばなかったお前が悪いんだ』
「誰が君なんか……っ」
『おーおー、凄んだとこで怖くねーなぁ。お前怒っても怖くねーんだよ。ろくな悪口も言えやしねーし、すぐ騙されやがる。そんなんでよく生きてこられたな?』
怒りに震えるヴォクシーを嘲り、ダインは減らず口を紡ぐ。
だが事実、ヴォクシーは言い返せない。
怒る事も、嘘を言う事も、他人を疑うという事も、ヴォクシーにとってはたしかに苦手なものだった。
思いがけず怯んだその隙に付け入るように、ダインはさらに畳みかける。
『ああでもしかたねーか。お前は――そうなんだもんなぁ?誰かに守られて、誰かに可愛がられて、誰かに大切にされて――それでやっと生きていけるんだ』
「何の……話を」
『なのに――なのにだ。お前は俺を拒絶した。俺を選ばなかった。ああ……ヴォクシー。俺は悲しいんだ。お前を喰うしかねえ事がよ、悲しいんだよ。この気持ちが分かるか?』
「だから……何を言って」
『だから――……?そう、だから――あのクソ犬は殺す。お前に会った事を後悔させてから殺してやる。全部……全部お前が悪いんだぜ、ヴォクシー……?』
悍ましいほどの執着。
言葉は通じるのに話が通じない恐ろしさ。
気味の悪さに当てられたヴォクシーは身を竦ませる。
そこに――怪物の舌がずるりと伸び。
そして――赤黒い犬が飛び掛かった。
「グルァ……――ガアアアッ!!!!」
『まだ動くのかよ……!!』
煌々《こうこう》と血走る鮮血の瞳。
血が巡るように全身を濡らす赤い線。
毛という毛を逆立て、怪物にほど近くなった形相の犬が、最後の力を振り絞って化物へと喰らい付く。
もはや目の前の敵を殺す事しか頭にないのだろう。
鬼の形相を浮かべた犬は、怪物の頭を噛み千切った。
ブヅリ……ッと剥がれた肉から飛び散った血潮が犬の顔面を溶かすが、犬は一切怯みはしない。
全身に毒液を浴びても止まらず、威嚇と怨嗟の咆哮だけを吠え続ける。
「グギャアアアァウ!!!!」
『こいつ……!!まさか……っ!!』
金の目が捉えるのは、愕然と座り尽くすヴォクシーの姿だ。
その間にも犬の顎が肉を引き千切り、爪が胴を裂き、毒素に覆われた漆黒の体は体積を減らしていった。
(再生が間に合ってねえ……!!)
不死身――とは謳われるが、正確には不死ではない。
異常なまでの再生能力と適応能力によって、限りなく死から遠いところにいるのがこの怪物だ。
当然死を恐れる心を持ち――決死の猛攻の激しさに、さしものダインも後退った。
ただの攻撃では適応するものもなし。
回復も間に合わず、このままでは死にかねないだろう。
『クソ……ッ!!クソが!!お前だけは……お前だけは絶対に!!』
「ガルルオオッ!!!!」
『ヴォクシー……!!お前が!!お前が俺を選ばねえからっ……!!』
自らに迫った死の匂い。
絶対に訪れないと思っていた終わりの足音。
対局にあるそれが眼前にぶら下がり、ダインは酷く恐怖する。
もしかしたら、ただの人間だった時の方が、死への畏れは少なかったのかもしれない。
焦燥に駆られたダインは大口を開け――ヴォクシーの前で、今まさに境界を超えんとする獣を呑み込んだ。
『ゲフッ……びびらせやがって』
うっかり丸呑みにしてしまったが、相手は手負いの獣。
体表とは比べものにならない猛毒に溶け、すぐにでも消化されるだろう。
『お前もすぐ同じとこに送ってやるよ……ヴォクシー』
順番は狂ったが、次はヴォクシーの番だ。
ドラゴンとも鰐ともつかない怪物が涎を垂らし――
「ガルルッ……オオォーン!!!!」
巨大な腹を爆発させた。
飛び出して来たのは一寸法師――ではなく、体の大半が焼けただれた一匹の犬だ。
全身を食い破られたのか。
中という中に致命傷を負わされたのか。
『ガッ……んで!?このっ……クソ犬……がっ――……』
内側から爆ぜた怪物は体をびくつかせ――最後には溶けるように消えていく。
残ったのは黒い毒の沼が一つ。
「ガフッ……フ……ウルァ」
「っ……!!」
先程までの気迫はどこへやら。
ふらりと倒れ込んだ犬に、ヴォクシーはようやく我に返り――見るに堪えない姿の犬を抱きしめた。
「ギュプ……グルッ……ガフフ」
「喋らないで……喋らなくて良い。良くやった。君は……君は凄いよ。今……今助けるから……あと少しだけ。もう少しだけ……頑張ってくれ」
「ンギュ……ルァ」
何故ここまでして傍にいてくれるのか。
溢れそうになる涙を拭い、ヴォクシーはすっかり小さくなってしまった犬を優しく抱き上げる。
「……イースター。お願いだ……力を貸してくれ」
目指すは地下三階。
研究員には寝食のための個室だけでなく、個人の研究室も割り当てられている。
財団に来る以前、動物医として働いていた事もあるイースターの研究室ならば、毒の資料や血清もあるだろう。
ヴォクシーは来た道を戻り――暮らし慣れた自分の部屋のベッドに傷ついた犬を横たえた。
「……フグッ」
「大丈夫。すぐに戻ってくるから……良い子で待っていて」
「ワ……フ」
一番落ち着く場所が良い。
犬を置いたヴォクシーは、足を引き摺ってイースターの研究室を踏み荒らす。
(……エルファスのカードがあって良かった)
本来は施錠されているが、エルファスの職員証があれば問題ない。
研究棟のマスターキーとも言えるカードを片手に、棚に収まった薬品と、デスクに置かれたPCに目を向ける。
「PCは……駄目か。パスワードが分からない。どうせゴリラにまつわる言葉だろうけど――gorilla-gorilla-gorilla――そんなわけないか」
電力は問題なく届いているらしい。
だがパスワードが分からない。
当てずっぽうに入れても聞こえるのはエラー音だけで、しかたなく印刷された資料と、本棚に収められて久しい埃の被った医療本。
そしてラベルの付いた薬品の瓶に手を伸ばす。
「爬虫類と仮定して――性質的にはpoisonよりはvenomか。両方の特質がある気もするけど……ひとまず蛇や蠍に近しい毒腺型のものと考えよう」
毒は大きく分けて三つ。
ポイズンとヴェノムとトキシンがある。
ポイズンは主に吸引や皮膚からの吸収――食べたり触れたり、植物や蛙、フグなどから侵入するものだ。
ヴェノムは毒腺――つまりは蛇などの噛傷によって侵入するもの。
そしてトキシンは毒素――物質的な毒を意味する言葉となる。
触れただけでも危険だったが、あの怪物が持つ毒素はヴェノムに類するものだろう。
資料と血清、そして自身に現れた症状をを冷静に分析し――その末にヴォクシーはいくつかの血清を注射器に入れていった。
「容姿・情報・症状から考えるに……一番近いのはコモドオオトカゲ……かな。だとしたらかなりキツい……切断も考えないと……」
ブツブツと呟き、まずは自分の体で効果を確かめる。
何が一番効くか、短期的に問題となる副作用はないか、量に間違いはないか。
輪切りにでもするように一定間隔で紐で縛った足に、用意した血清を打ちこんだ。
本当はこんな荒療治をしてはいけない。
一気に投与するのはもちろん、経過を一切見ないのは藪も良いところだろう。
それでもヴォクシーに出来るのはこれが関の山だ。
イースターがいれば正しい用法・容量で解毒が出来ただろうが――そのイースターはもう居ないのだ。
「副作用がないよう量を控えて……あと麻酔と痛み止め。大型犬でこれなら……ああでも今はだいぶ弱って……」
もっとイースターの話を聞いておけばよかった。
知識が足りない事を悔やみながらも、ヴォクシーは手を尽くそうと努力する。
「今……楽になるからね」
「…………バ、フ」
エルファスの託したカード。
ジェフが灯してくれた希望。
イースターが与えてくれた救い。
モウの残した夢。
それらはヴォクシーの命を繋いでくれたが――
「ガフッ……グ、ウルァ……」
「っ……!!」
最後に残った犬までは助けてくれないらしい。
傷はあまりに深く。
全身に回った毒は拭いきれず。
燃えるような熱とは裏腹に犬の体温は下がり、寒さか毒のせいかも分からない震えがヴォクシーにまで伝わってくる。
「…………ワふ」
「…………」
もう助ける事は出来ないのだろう。
もう痛み止めも血清も効かないのだろう。
苦しみに呻く犬にヴォクシーがしてやれる事はあと一つだけ。
「………………ごめん」
看病の傍ら、護身のために掻き集めた工具や武器。
その中から斧を掴み、ヴォクシーは自然熱を孕む吐息を呑む。
「ごめん――ごめんね――でももう……こうするしかないんだ」
このまま苦しみ続けるよりも。
治まらぬ痛みに苦悶し続ける姿を見るよりも。
ここで終わらせてしまう方が、ずっと、ずっと幸せだろう。
ボロボロと涙を溢すヴォクシーが斧を振り被り――犬は赤く染まった目にその姿を映した。
大切な――自分の命よりも大切な相手になら最期を委ねられる。
自身を想うが故の決断に、犬はただ穏やかに笑ってみせた。
「……――――おやすみ」
最期まで声は優しく。
迷いの拭いきれない刃が、それでも真っ直ぐに犬の首を斬り落とす。
ヴォクシーはたった一人きり。
穏やかに眠る首を抱きしめ、大粒の涙を溢すのだった。




