「BOX in the past」(05)
極東――地下深く。
かつては黄金郷などと称されたその場所で、一人の男が虚空へと語り掛けた。
「我が主――鬼門が開かれました」
扉を隔てた向こう側はまさに生き地獄。
たった一枚の扉が極楽と地獄を分ける中、一人喧噪を逃れた男は、何事もなかったかのように能面のごとき笑みを携える。
一見不気味にも思えるが、人間から見た鶴もそのようなものか。
感情の機微を掴めぬ男――クレイン――否、カズラと呼ぶ方が正確か。
財団B・O・X――その極東の位置する支部を取りまとめる男が、懐から取り出した紙片へと視線を落とした。
淡い光を放つ和紙は、さしずめ式神といった風体だろうか。
人型にくり抜かれた紙はぼんやりとした光を纏い――やがて宙へと身を翻した。
『存外早かった気もするが……私たちの役目はここまでだ。喰われるも運命。守手を見つけるもまた運命。あの子が産出す奇跡を見届けようではないか』
聞こえるのは、しわがれたようにも、若々しくも聞こえる玲瓏な音。
財団の創設者――L.アゾートのその声に、カズラは固く閉じた扉にチラと目を向けた。
開かない――助けてくれ――そんな叫びが耳につくが、情けのない懇願を聞き届けるつもりはない。
煩わしそうに眉を顰めるのも束の間、神々しい光を放つ依り代に視線を戻す。
「ではこの施設は――……」
『不要になり次第、お前の手で自然に還しておいてくれ。くれぐれも彼ら《・・》に痕跡を掴まれぬように……そこだけ気を付けてくれれば良い』
「かしこまりました」
『最悪、気取られたところで問題はないが……月を読むに、新星が訪れ得る可能性が一番高い。未に手を焼くお前ではないが、新星が相手ではそうもいかぬだろう。無理をせず戻っておいで』
「御意に。ですが……」
財団は所詮、隠れ蓑に過ぎない。
ヴォクシーを餌に現世と幽世を繋ぐ――その目的が果たされた今、誰が死に絶えようと、施設が潰えようと、二人には興味のない事だった。
だがカズラにも、譲れない一線というものがある。
撤退を命じるL.アゾートに思わず噛み付いたのは、そのプライドからだろう。
カズラは笑みを消した。
「彼の星を継ぐ者は、そこまで警戒すべき相手なのでしょうか?仮にも私カズラはあなた様の式神。半世紀も生きていない小童一人に、遅れをとるつもりは毛頭ありません」
ヴォクシーたち研究員にとっては皮肉な話だが、未知とは存外近くに在るものだ。
式神――その名を溢し、カズラは眼光を鋭くする。
しかしカズラの気迫は、暖簾に腕を押すのと大差なく。
L.アゾートは穏やかな声で答えた。
『別段、交えても構わないがね。だが……新星。あれは箱の恩寵を受けた者だ。人の事は言えないが、実に誑かすのが上手いこと上手いこと。ふっくく……お前だけで出し抜ける相手ではない』
「箱の恩寵……ですか」
『それについては、今しがた目の当たりにしたばかりのはず。無意識の暗示――その強さには辟易したが、箍を外してしまえばこちらのものだ。後は……どんな怪物が生まれるか。結果を楽しみに待つとしよう』
どこまでいっても本懐は箱にある。
長閑に笑ったL.アゾートは遥か遠く――否、存外近い場所で薄っぺらい和紙を握りつぶした。
刹那、カズラの傍を舞う人型が崩れ、和やかな声も掻き消えるのだった。
燃え朽ちるように姿を消す依り代を見送って、カズラはもう一度、固く閉じた扉に目を向ける。
「さて……そろそろ出してあげましょうか」
不自然に張り付いた蔓によって閉ざされた扉。
その扉がひとりでに口を開く。
飛び出すのは人か怪物か。
開け放たれたそこに人影はなく――絶望に染まった声ばかりが、電灯一つ灯らぬ闇に響くのだった。
開け放たれた先は天国か地獄か。
実験室に閉じ込められていた職員たちが、ドアの向こうへと雪崩れ込む。
その波に研究員の姿は見えず。
逃げる事も、まして目覚めた異形に手を差し伸べる事も出来ずに、ヴォクシーは不浄の闇に目を開いた。
限りなく白に近い菫の瞳は、一体いつぶりに彼らの姿を捉えたのだろう。
願った再会とは程遠い喧騒に、淡い紫苑は切なく揺れるばかり。
かといって、目を閉じる事だけはしたくない。
どんな形であれ、ようやく彼らの姿を見つけるに至ったのだ。
二度は閉じるまいと紫苑を見開くヴォクシーに、一つ二つでは済まない異形の影が差し込んだ。
花を摘み取る――あるいは無慈悲に手折るのは誰の手か。
息を呑むのと同時――
「ヴォクシー……ッ!!」
何者かに腕を掴まれたヴォクシーは、力いっぱい後ろへと引っ張られた。
「ッ……エルファス!」
「無事ナようダネ」
ふらりと倒れ込んだ先には、汗を浮かべるエルファスの姿。
まとめ役だけあって、ヴォクシーが茫然自失としている内に、研究員たちを集めたらしい。
恰幅の良いエルファスの後ろには、ジェフとイースターとモウの姿もあった。
もっとも警備には見捨てられたようだ。
傍に控える者はなく、護衛や搬入に当たっていた職員たちの多くは、一足先に部屋の外へと飛び出していた。
およそ半数は部屋を出ようと藻掻き――残りは物言わぬ屍か。
靴底から伝わるズルリとした鈍い感触に、ヴォクシーは悲しいくらい熱くて短い吐息を溢した。
思えば誰かの死を目の当たりにするのは、これが初めてのこと。
(つくづく僕は……甘かった)
覚悟が決まっているのはつもりだけで。
納得しているのも上辺だけで。
恐ろしい存在と知りながら、優しい記憶を信じ続け。
百聞は一見にしかず――取り返しのつかない現実に、ヴォクシーは眩暈する。
その肩を抱いて、エルファスは悲壮に満ちようとする紫苑を覗き込んだ。
「この実験は……失敗だ。絶対に成功などと言ってはならナイ。我々は触れてはいけないモノに触れてしまったんダ。興味本位で開けてはいけナイ箱を……開イテしまった。ナラバ……分かるね。この箱を閉ざすノモ、我々の役割だ」
諭すような静かな声。
全員に言い聞かせる言葉は重く、それ以上に慈愛に満ちたものだった。
どこか頼りない本当の父親。
優しく、いつも気を遣ってくれたが、肝心なところで目を逸らす父に望んでいたのは、エルファスのような力強さだったのか。
黒々と丸い目を覗き返せば、エルファスは名前の通り象に似た顔で、酷く穏やかに微笑んだ。
「今カラ言う事を、良く聞いて欲シイ」
「……エルファス?」
場違いに和やかな表情に、嫌な予感が駆け巡る。
その疑念を遮って、エルファスは苦楽を共にした家族の顔に目を向けた。
「ジェフ。イースター。モウ――何があってもヴォクシーを守ってクレ。ヴォクシーにナラ出来る。必ず……我々の過ちを正シテくれる。コレは命令だ。私からの……最後の命令。後のことはジェフ。あなたにお願いシタイ」
「待ってくれよ。ヴォクシーを守れってのは構わないが、最後ってそりゃ……」
「最後は最後ダ。皆……今日マデついて来てくれて、アリガトウ」
ジェフ、イースター、モウと順に見つめ――終わりにヴォクシーへと視線を戻す。
その手にはカードケースが握られていた。
「……コレを。あなたの知りたい事はココに記されてイル。ソレを知ればあなたはキット苦しむだろう。自責の念に囚われるダロウ。ダガ今は……その可能性に賭けさせて欲シイ」
「何を言って……」
「財団はあなたを利用してイタ。私も……同罪だ。ずっと黙ってイテすまなかった。だからコレは……贖罪だ。せめてもの罪滅ボシだ」
エルファスの――研究棟責任者の権限が許諾された唯一の職員証。
カードケースに入ったままのカードを手渡し、エルファスはなお笑ってみせる。
「ヴォクシー……あなたダケは死んではいけない。何があっても生き残るんダ」
「エルファス……。エルファスもどうか……どうか無事で」
差し出された職員証が酷く重い。
無論、重いのは気持ちの問題だ。
だが鉛のようにすら感じる磁気カードを手に、ヴォクシーは息を震わせた。
カードケースに付けられた紐は、まるで手錠のようだ。
雁字搦めになったかのように手は伸ばせず、ヴォクシーは紫苑の目に大木の如き姿をひた映す。
「さあ……行くんダ。尻を拭うノハ上司の仕事と相場が決まってイル。ココも……任せなさい」
目尻に溜まる滴と、浮かぶ汗。
震える手が計り知れない恐怖を伝えるが、誰もその覚悟を無下にする事は出来そうにない。
「また会いましょうね、エルファス」
「待ってますからね……!」
「ヴォクシーは任せておけ」
別れを惜しむ時間もないまま、四人はエルファスに守られる形で扉の向こうに辿り着くのだった。
エルファスは一人、怪異の侵攻を止めようと言うのだろう。
彼らを別つ隙間が少しずつ、少しずつ狭まり――扉は固く閉ざされた。
「行くぞ、ヴォクシー」
「っ……エルファス……ごめん」
一等暗い闇の彼方に消える笑みに、ちゃんと笑い返せていたのかどうか。
自ら囮になろうというのか。
装置を正しく起動して、事態の収拾を図ろうというのか。
エルファスの覚悟が潰えぬ限り、この扉が開く事はないのだろう。
音すら遮断する扉を背に、ヴォクシーたちは後ろ髪を引かれながらも、地上への道を昇っていく。
だが安全な場所はもうないらしい。
すでに扉の外に溢れてしまったのか、現実へと至った怪物たちが、そこかしこで暴れ回っているのだった。
銃声と、断末魔の叫びと、頭が割れそうな獣声。
硝煙の匂いも鉄臭い異臭にかき消され、嫌が応にも吐き気が込み上げてくる。
「……酷すぎ」
「うぷっ……ここにも死体が。これ安全な場所なんてあるんですか……?」
「ある――とは言い難いね。とにかく上を目指そう。じゃないと……エルファスに合わせる顔がない」
「ただなぁ……こりゃ不味いかもしれねーぞ?」
血に慣れたイースターでさえ、胸を抑える程だ。
まだ若いモウには刺激が強く、顔面蒼白になったモウに足並みを合わせ、四人は血に染まった廊下を移動する。
だが顔色が良くないのはモウだけではない。
高い視界から辺りを見渡したジェフが、バツが悪そうに口を曲げた。
「クソッ……!やっぱり完全に落ちてやがる……!」
実験室だけの被害――もしくは一時的な停電を期待していたが、施設全体の電力が落ちてしまっているらしい。
非常用の赤いライトこそぼんやり光っているものの、辺り一面真っ暗なまま。
予備電力も作動していないのか。
扉の大半は開かず、このままでは地上に出る事はおろか、隠れる事すらままならない。
物資もなし、逃げ場もなし、扉が開かない以上エルファスが託してくれたデータを見る事も出来ない――となれば、やる事は一つ。
動かないエレベーターを見やり、ジェフはその場で足を止めた。
「……先に行ってくれ」
階段はあるが、それも非常用だ。
距離も遠く――どのみち施錠の事を考えても、電力の復旧をする必要があるだろう。
足を止めたジェフを、ヴォクシーとモウ、そして先を進んでいたイースターが一つ遅れて振り返る。
「ジェフ……ッ」
「俺は制御室に行く。お前らは先に行くでも……隠れるでもしててくれ」
「一人で行く気ですか!?」
「そうよ!行くにしたって全員で……っ」
「いいや、俺一人で良い。本当に慢心ってのは怖いよな。便利、便利って言って……いざ電力がなくなると、何も出来ないんだからよ」
「でも危険ですよ……!!」
電力の復旧をする――そう告げたジェフに、イースターたちは食い下がる。
しかしジェフの決心は固く。
エレベーターから目を離し、ジェフはモウ、イースター、そしてヴォクシーの顔をゆっくりと見渡した。
「危険?そんなの分かり切ってる事だろ?誰かが行かなきゃいけないなら……俺しかいない。それに俺はこの体だ。隠れるのなんざ向いてないし、エルファスも言ってただろ?」
見上げるしかない顔は、果たしてどんな表情を浮かべているのか。
投げやりに――正しくは悲しげに語るジェフの目がヴォクシーに視線を注ぐ。
「あー……不思議なもんだな。俺もさ、お前なら何とかしてくれるんじゃないかって正直期待してる。それがきっと……お前の普通じゃないところなんだろうな」
「ッ……ジェフ。どうして君までそんな……」
「今更言わなくたって分かるだろうが……ろくな人生じゃなかった。でも悪くなかったぜ?お前たちと過ごした日々は、走馬灯ってのになってくれそうだ。だから……少しくらいカッコつけさせてくれよ。何も死にに行くって言ってるんじゃないんだからよ」
道は二つ。
制御室や資料室のある右側と、会議室――引いては目指す宿泊棟のある左側。
数十メートル先に控えた岐路の前で、ジェフはそばかすの載った顔をにっと歪めてみせた。
「じゃあ、また後でな。終わったら……一服付き合えよ?」
効率と気持ちは伴わず――ジェフは一人、右の通路へと消えていく。
(子供の頃はヒーローに憧れてたなぁ)
二の足を踏み、けれど遠ざかっていく足音。
その音を背に、ジェフはミントの風味が香る煙草に火を着けた。
ここまで運よく怪物に遭遇しなかったが、今から行くのは電力の豊富な制御室だ。
これまでの仮定が合っているなら、施設の要であるそこに、幽霊たちも群がっている事だろう。
足元に広がるのは冷却水か、どこかから漏れてきた水か。
(ヒーローにはなれなかったけどな。お前らの兄貴分くらいにはなれただろ。俺には……それで充分だよ)
ジェフは靴底を濡らす水を踏んで、漏電の音響く制御室へと切り進んでいく。
滴る水が火を奪い――
「早く!二人とも遅いわよ!」
――ジェフとは逆の道、先導するイースターが狭い廊下を駆け抜ける。
野生動物たちと触れ合ってきたのは伊達ではないのだろう。
いち早く周囲の異変に目を向けるイースターの目と勘のおかげで、三人は怪物を掻い潜りながら移動を続けている。
立ち止まってやり過ごしたり、匍匐前進で進んだり、落ちていた瓦礫や道具で誘導したり――時間ばかりが悪戯に過ぎていくが、それでも怪異に見つかるよりは遥かにマシだ。
普段だったらエレベーターを数秒待つだけで辿り着く上の階に、三人はようやくといった様子で辿り着くのだった。
「はぁ……はぁっ……!」
「大丈夫かい、モウ」
「イースターはともかく……ヴォクシーも意外と……っ!体力あるんですね……!」
「山登り《ハイキング》なんかは結構やってたしね。現地調査に赴くには、それなりに体力が必要だから」
「ほら!喋ってないで!急ぐ!」
やはり普段なら何てことのない階段も、心身ともに擦り切れているからだろう。
いやに気力を奪われながらも上に六つ。
三人は地下三階――寝食のために用意された私室があるエリアへと戻ってきた。
「……部屋にあれば良いけどね」
「なくても研究室でしょ?すぐそこだし、大丈夫よ」
目的はエルファスのPC。
エルファスの私室か、個人研究室にあるデータに、知るべき何かがあるらしい。
唯一アクセス出来るカードを胸ポケットに、ヴォクシーは重い息を吐く。
施設はいまだ暗く。
ジェフが電力の復旧を終えるのを待つだけなのだが、そう簡単には進まないという事か。
「とにかく……移動しよう」
「そうね。休憩所まで行ければ水もあるし、休めるなら休んだ方が良いわ。モウは傷の手当てもした方が良いし」
「あ、ほんとだ。いつの間にあちこち怪我が。いやでもその前に……水。喉乾いた……」
遠くから聞こえる銃声と雄叫び。
心苦しい音に胸を抑えながら、三人はまた静かに、それでいて素早く移動を始めた。
実験室や会議室の多い下層の階と異なり、ここは居住や団欒のスペースといった風合いだ。
造りも吹き抜けになっており、一つ下の実験エリアが見渡せるようになっている。
もちろん強化硝子が貼られているのだが、怪物相手には力不足だったらしい。
罅割れた硝子を横目に、イースターが渡り廊下を通り抜ける。
その後をモウ、ヴォクシーと続くが――すでに亀裂が生じていたのだろう。
「ッ……へ!?」
「モウ……!!」
小柄なイースター一人分は耐えられても、成人男性二人分は支えきれなかったのか。
がむしゃらにモウの背中を押すが、ヴォクシーの腕力では重力に打ち勝てない。
抵抗虚しくモウを巻き込んで、ヴォクシーの足元は無惨に崩れ落ちていく。
「ヴォクシー!!モウ!!」
「ッ……マックス!!」
思わずイースターの本名を叫ぶも、指先はあと一歩のところで触れられない。
遠ざかっていく白に、ヴォクシーは必死に語り掛ける。
「君だけでも……っ!!」
「馬鹿言わないで!!絶対行くから死ぬんじゃないわよ!!死んだりなんかしたら……っ!!許さないから!!」
だが願いを託そうとするヴォクシーを振り切って、イースターは叫び返した。
マキシーン・ジョゼ。
通称マックス。
女性にその名を付ける事は珍しいが、先天的な遺伝子疾患をもって生まれたのが彼女だ。
強く逞しい子に育って欲しい――両親は壮健の願いを込めてマキシマムの名を与えたのだった。
かくしてその願いは果たされ、イースターはアルビノとは思えない屈強な肉体と精神を手に入れたのである。
無論、誰もゴリラに懸想するとまでは思わなかったわけだが、動物本来の強さと美しさに惚れ込んだイースターは、その世界にどっぷりとのめり込んでしまったのだった。
その憧れはかつて地球を支配した恐竜にまで及び、果ては架空の生物にまで興味を示すに至った。
そんな彼女が財団を訪れたのは、至極当然の事だったのかもしれない。
幸運なのは弟分――まるで実の姉弟のように気の置けない相手に出会えた事か。
「もしかして……ここ跳び越えるしかないわけ!?」
どこか放っておけない困った弟。
しっかりしているようでぼんやりとした、あの駄目な弟を、この程度の試練で見捨てるわけにはいかない。
「ヴォクシー!今行くわよ……!!」
エレベーターが使えない以上、抜け落ちた廊下を戻るしかない。
助走をつけたイースターは、崩れた道の上を跳んでいった。
その真下――地下五階。
怪物たちが暴れたせいだろうか。
四階を通り越し、五階にまで落ちてしまったらしい。
真っ暗な闇の底で、ヴォクシーは痛む体を揺り動かした。
「ッ……モウ?」
「ツツゥ……ボクは大丈夫。全身痛むけど……ヴォクシーのおかげ。その……下敷きにしてすみません」
重いと思えば、モウが上に乗っているらしい。
酷く近くに感じる呼吸音に、ヴォクシーはほっと胸を撫でおろした。
それも束の間、ヴォクシーはモウの体を押さえつける。
「ッ!!」
「むぐ……っ!?」
同時にモウの口を手で塞ぎ、音を立てるなと首を左右に振った。
(ヴォクシー!?)
(静かに……!あれは……駄目だ。やり過ごすしかない)
(あれ……?)
突然の事に動揺するのも僅か、モウの全身から血の気が引いていく。
闇に蠢くのは黒い塊。
微かな光が照らし出す姿は爬虫類のようにも見え、その巨大さと醜悪さを二人の目に焼き付けた。
(ヴォクシー!あ、あれっ!何あれ!?どうすれば……!?)
(うん。あれは……僕の記憶が間違ってないなら、やり過ごすしかない。音を立てずに……隙を見て逃げよう)
紫苑に映り込む黒い影。
それはヴォクシーの記憶に間違いがなければ、ある組織が記録する不死身の存在だ。
それこそ架空であって欲しい存在だが、もはや現実と空想に境はないのだろう。
毒を撒き散らす不滅の怪物に――ヴォクシーは乾ききった息を呑む。
気付かれたら最後、楽な終わりにならない事だけはたしか。
瓦礫と実験道具がクッションになったおかげで一命を取り留めた――しかして打撲と骨折で傷む体を懸命に堪え、ヴォクシーとモウはじりじりと不滅の怪物から距離を離していく。
ここを縄張り《テリトリー》にしているのか。
何かを探しているのか。
じっと動かない怪物から目を離さず、一歩、二歩、三歩。
ゆっくりと扉を目指す二人に、ふと明るい光が差し込んだ。
(これって……!ヴォクシー!ジェフがやってくれたんですよ!)
ジェフが上手くやったのだろうか。
表情を緩めた二人に注ぐのは――黄金の煌めき。
それが電灯ではないと気付くのに、どれだけの時間が必要だったか。
「え?」
「モウ……!」
振り返るのと、突き飛ばすのと、どちらが早かっただろう。
暗闇に灯った金は二つ。
鋭い罅が刻まれたそれが怪物の眼であると知った時には、モウの体が闇に呑み込まれていた。
「あっ!?わあああっ!?」
「モウ!!モウ……ッ!!」
暗闇に紛れ、近づいてきていたらしい。
巨大な口がモウを捉え、抵抗など意にも介さず、噛み付いた獲物を闇の奥へと引き摺り込んでいく。
確認できるのは叫び声と、床に残された血の跡だけ。
その痕は二人が目指していた方に続き――誘うかのような赤にヴォクシーは拳を握りしめた。
「……ッ」
今や悲しみよりも怒りが強い。
自らの不甲斐なさに憤りながら、ヴォクシーは瞬く間に消えたモウを探し、床に描かれた赤を追いかける。
たとえ罠だとしても、道はここ以外にないのだ。
連絡通路といった様子のとみに薄暗い道を進むこと幾許。
「あ……ヴォク……シ…………」
闇の底に響くしゃがれた声。
消え入りそうなその音を探して、ヴォクシーは血の滲む足を引き摺った。
だが――もうどうにも出来ない。
「…………モウ」
やっとの思いで見つけたモウは、すでに腰から下を失っていた。
引き摺られた内臓は千切れ、無事に見える上半身も、至る所から折れた骨が突き出ている。
もしヴォクシーが外科医だったとしても、この傷を治す事は出来なかっただろう。
変わり果てたモウの姿に、ヴォクシーは顔を引き攣らせた。
不幸中の幸い、モウ自身はその事に気付いていないらしい。
痛みすら感じていないのか。
虚ろな目がヴォクシーを捉え、虚ろなまま微笑んだ。
「良かっ……たぁ。無事で」
「……モウ。無事だよ。僕は……大丈夫。大丈……夫」
「あ、はは……安心したら眠く……。コレ……ボクのゲーム。まだ完成してないけど……ヴォクシーに遊んで欲しくて。感想……聞かせてよ」
「うん……」
何かを掴む力すら残っていないだろう
モウの胸ポケットからSSDが転がり落ちる。
実験中も持ち歩くくらい大切だったという事か。
モンスターのストラップが結ばれた細長い電子部品を握りしめ、ヴォクシーは震える体で頷いた。
必死に涙を堪えようとするヴォクシーに、モウは静かに笑いかける。
「ヴォクシーのこと……羨まし……かった。普通なのにって。普通に生きられたクセに……って。でも……ヴォクシー……優しいから。こんなボクにも……みんなにも……それこそ普通に接してくれて……嬉しかったんだ」
生まれついて右と左で様相の違うモウ。
苦難を強いられた青年が、東洋人とも西洋人ともつかぬ顔でヴォクシーを仰ぐ。
研究員モウ。
本名をサイフォン・キタミ・ドミトリー。
少しばかり特異に生まれた彼にとっては、ゲームやマンガの世界だけが救いだった。
ヴォクシーに託したのは、淘汰に苦しんできたモウが創りあげようとした理想の世界。
飽くなき夢を手渡されたヴォクシーは、熱を失いつつあるモウの手を握りしめた。
「おやすみ――モウ」
「……うん。おやすみ。ヴォクシーがお父さんだったら……ああでもお兄ちゃんか。イースターがお姉ちゃんで……エルファスが……。ジェフは……いっぱいお土産を持ってきてくれるおじさんで……」
「……うん。僕も同じこと考えてた」
「……そっか。そっかぁ……。ありがとう……ヴォクシー」
良い夢が見られそうなのかもしれない。
笑って逝ったモウの目に、ヴォクシーはそっと手を触れる。
左右で色の違う綺麗な瞳。
愛おしかったその目を閉ざし、ヴォクシーはゆっくりと立ち上がった。
(ごめん……モウ)
持っていけるのは骨が関の山。
こんな暗く寂しい場所に置き去りにするしかない事を謝って、ヴォクシーは血に濡れた骨を白衣にしまう。
その姿を見つめる――
『ヴォークシィー……ィ』
唄うような気味悪い声音。
ねっとりと響く呼びかけに、ヴォクシーはぞわりと体を震わせた。
聞き覚えのあるその声は、しかして今聞こえて良いはずのものではない。
ヴォクシーは酷くぎこちなく振り返り、闇に灯る金色に息を呑む。
「まさか……」
黒い――黒い爬虫類。
よくよく見ればその影はクロコダイルのような、鰐によく似た姿を描いている。
偶然――気のせい――幻覚――そう思いたくとも、問わずにはいられない。
ヴォクシーは怪物を相手にある名前を問いかける。
「っ……そんな――ダイン?」
それはひっそりと消えた男。
無情にも忘れられない傷痕。
震えた声を溢せば、品定めをするような黄金が弓なりに細まった。
『何を怯えてんだよ?お前の好きな怪物になったってのによ……ほら?喜べよ?笑えよ?なあ、ヴォクシー?』
忘れもしない声がヴォクシーに降り注ぐ。
その声にヴォクシーは絶句するしか出来なかった。
「な……んで」
『何でも何もお前の……あのクソ犬のせいだ!だが感謝してるんだぜ……?これが俺だ!これが俺の本当の姿だったんだ!!ひひっ!はっははは!』
一体何が起きたのか。
姿を消した後、どこにいたのか。
何があって怪物になったのか。
どれか一つを問う間もなく、ヴォクシーは自然後退る。
そして、恐怖に呑まれる前に、弾かれるように走り出した。
(実験室――酸――塩酸――……ッ!)
もっとも恐れおののきながらも、頭はしっかりと回っている。
不滅の爬虫類――そう形容するしかない怪物を抑え込む唯一の手段が塩酸だ。
無論、必要なのは塩酸のプールなのだが、今は僅かな希望に縋る他ない。
転げるように廊下へと飛び出し、薬品の並ぶ実験室を目指していく。
その背中を見つめ、ダインはベロリと舌をなめずった。
次の瞬間、ヴォクシーの前に大口を開けたダインが姿を見せる。
「なっ……!?」
『おいおい、どこ行くんだよ?』
下卑た笑みがヴォクシーを捉え――しかし視界は一点。
ガシャンと火花を散らす勢いで防火シャッターが落ち、黒い巨体を挟み込んだ。
『ぐえっ!?』
「ヴォクシー!!早く!!こっち!!」
「イースター……ッ!!」
背後で叫ぶのは、ダインとは対極的な真っ白のイースターの姿。
息を切らした彼女の手にはコードレスのチェンソーが握られ、防火シャッターを繋ぐ鋼紐を斬り落としただろう事が理解出来た。
悶えるダインには目もくれず、ヴォクシーはイースターの傍に走り寄る。
「助かったよ、イースター……!」
「まったく私がいないと何も出来ないんだから――っていうかアレ何!?喋ってなかった!?」
「……ダインって言ったら信じるかい?」
「は!?アレがダイン!?」
「モウは……ダインにやられた。僕がもっとしっかりしてれば……」
「ええ!?ちょっと情報追い付かないんだけど……とにかく!逃げるわよ!」
合流する間にもダインは――漆黒の怪物はシャッターを押しのけ追って来る。
かえって電力が戻っていないのが吉と出たか。
安全設計などないも同じ。
防火シャッターを力技で落としながら、ヴォクシーとイースターは再び鉄製の階段を駆け上がっていった。
血で濡れた足場は酷く滑るが、転びでもしたら一貫の終わり。
すでに真下につけた鰐の口に、自ら飛び込む羽目になるだろう。
「もう来た!!」
「イースターも早く……!!」
鋼紐を切れば済むシャッターと違い、階段はそう易々と落とせそうにない。
足止めに精を出していたイースターも、急かすヴォクシーの後を追って、数段飛ばしで階段を駆け上がる。
だが怪物の足は異常なほどに早く。
「ッ……ヴォクシー!ごめん!」
イースターは先を行くヴォクシーの背中を蹴り飛ばした。
「マックス……!!」
蹴り飛ばされたヴォクシーは扉を転がり抜け――鍵のかかる音に目を見開く。
「ッ……――――!!」
だが止まっている暇はない。
嘆く時間も、何故と扉に縋りつく時間も――イースターの覚悟を思えばこそ、無意味で無駄なものにしかならないのだ。
ヴォクシーは引き裂かれる想いで踵を返し、その場を走り出した。
ここは地下四階。
階段はたったの一つ。
もはや電力の復旧関係なしに、エレベーターの内部を伝って上に行くしかない。
ヴォクシーは呼吸が止まりそうになりながらも走り――
『追いかけっこは終わりかぁ……?』
――聞こえた声に息を止めた。
閉ざされたエレベーターの前、背後に迫る影にヴォクシーは動きを停止する。
否、時間が止まったかのようだった。
「マックス……ッ」
きっとイースターもモウと同じ末路を辿ってしまったのだろう。
怒りと悔しさと悲しみで感情がぐちゃぐちゃになる中、それでもヴォクシーは毅然とダインを睨みつけた。
「ダイン……!!」
『ははっ!良いな!その顔!俺を見ろ……!俺を認めろ……!お前は……俺のモノだ!!』
「っ……ふざけないでくれ!僕は誰のモノでもない!たとえ誰かのモノになるにしても、絶対に!絶対に君のモノにだけはならない!!」
じりじりと迫る黒い影。
悍ましい片鱗に臆する事なく、ヴォクシーはダインを拒絶する。
だがその拒絶が逆鱗に触れたらしい。
『……何でだよ。何が嫌だっていうんだ……おい!俺を拒むな!俺をぉ……拒絶してんじゃねえぞ!!餌の分際でよぉ!!』
猛々しく咆哮し、ダインがヴォクシーへと噛み付いた。
「ああ……っ!!」
逃げようとするが、体は思うように動かず、右足が漆黒の顎へと吸い込まれる。
次には激痛が奔り、ヴォクシーは堪らず声を絞り出した。
「あ゛っ……が、ああ……!!」
『あー……ふざけたこと抜かすから噛んじまった。折角大事に飼い殺してやろうと思ってるのによぉ』
噛み付かれた右足は瞬く間に青紫に染まり、ジクジクとした痛みが全身へと駆け巡る。
それが毒だと気付いたところで、意味はあるのだろうか。
「ふっ……うぅ……!!」
『意地張ったって良い事ないぜ?なあ、ヴォクシー。いい加減、俺を受け入れろ』
「っ……嫌だね」
仲間を、友を、家族を傷つけるような自称・怪物に身を委ねるつもりはない。
脂汗を浮かべながらも、ヴォクシーはダインを突き放した。
折れる事のないその意思に、ダインも問答が無意味だと察したのかもしれない。
『そうかよ――じゃあ喰うしかねぇな』
真っ暗闇の奈落が、ヴォクシーの前で大きく大きく口を開いた。
(……せめて君だけでも)
最後に思い出すのは本当の家族でも、蒼天に浮かぶ星でも、命を懸けてくれた仲間でもなく――あの子犬。
子犬と呼ぶにはふさわしくない、愛しい獣の姿が脳裏に浮かぶ。
無事に逃げていて欲しい――その祈りを捧げようという時、何故その声が聞こえてしまうのか。
「ガウルアアッ!!!!」
黒い犬が怪物へと飛び掛かる姿を、ヴォクシーはたしかに見たのだった。




