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匣ノ中ノ獸  作者: yura.
匣ノ中ノ獸
45/65

「BOX in the past」(05)

極東――地下深く。

かつては黄金郷などと称されたその場所で、一人の男が虚空へと語り掛けた。

「我が主――鬼門きもんが開かれました」

扉を隔てた向こう側はまさに生き地獄。

たった一枚の扉が極楽と地獄を分ける中、一人喧噪を逃れた男は、何事もなかったかのように能面のごとき笑みを携える。

一見不気味にも思えるが、人間から見たとりもそのようなものか。

感情の機微きびを掴めぬ男――クレイン――否、カズラと呼ぶ方が正確か。

財団B・O・X(ビー・オー・エックス)――その極東の位置する支部を取りまとめる男が、ふところから取り出した紙片しへんへと視線を落とした。

淡い光を放つ和紙は、さしずめ式神しきがみといった風体ふうていだろうか。

人型にくり抜かれた紙はぼんやりとした光を纏い――やがてちゅうへと身をひるがえした。

『存外早かった気もするが……私たちの役目はここまでだ。喰われるも運命。守手もりてを見つけるもまた運命。あの子が産出す奇跡を見届けようではないか』

聞こえるのは、しわがれたようにも、若々しくも聞こえる玲瓏れいろうな音。

財団の創設者――Lエル.アゾートのその声に、カズラは固く閉じた扉にチラと目を向けた。

開かない――助けてくれ――そんな叫びが耳につくが、情けのない懇願こんがんを聞き届けるつもりはない。

わずらわしそうに眉をひそめるのも束の間、神々しい光を放つ依り代に視線を戻す。

「ではこの施設は――……」

『不要になり次第、お前の手で自然に還しておいてくれ。くれぐれも彼ら《・・》に痕跡こんせきを掴まれぬように……そこだけ気を付けてくれれば良い』

「かしこまりました」

『最悪、気取けどられたところで問題はないが……つきを読むに、新星(あらほし)が訪れる可能性が一番高い。ひつじに手を焼くお前ではないが、新星(あらほし)が相手ではそうもいかぬだろう。無理をせず戻っておいで』

御意ぎょいに。ですが……」

財団は所詮、隠れみのに過ぎない。

ヴォクシーをえさ現世うつしよ幽世かくりよを繋ぐ――その目的が果たされた今、誰が死に絶えようと、施設がついえようと、二人には興味のない事だった。

だがカズラにも、譲れない一線というものがある。

撤退を命じるLエル.アゾートに思わず噛み付いたのは、そのプライドからだろう。

カズラは笑みを消した。

の星を継ぐ者は、そこまで警戒すべき相手なのでしょうか?仮にも私カズラはあなた様の式神(・・)。半世紀も生きていない小童こわっぱ一人に、遅れをとるつもりは毛頭もうとうありません」

ヴォクシーたち研究員にとっては皮肉な話だが、未知とは存外近くに在るものだ。

式神――その名を溢し、カズラは眼光を鋭くする。

しかしカズラの気迫は、暖簾のれんに腕を押すのと大差なく。

Lエル.アゾートは穏やかな声で答えた。

『別段、交えても構わないがね。だが……新星(あらほし)。あれは恩寵おんちょうを受けた者だ。人の事は言えないが、実にたぶらかすのが上手いこと上手いこと。ふっくく……お前だけで出し抜ける相手ではない』

「箱の恩寵……ですか」

『それについては、今しがたの当たりにしたばかりのはず。無意識の暗示――その強さには辟易へぉえぉしたが、たがを外してしまえばこちらのものだ。後は……どんな怪物が生まれるか。結果を楽しみに待つとしよう』

どこまでいっても本懐ほんかいは箱にある。

長閑のどかに笑ったLエル.アゾートは遥か遠く――否、存外近い場所で薄っぺらい和紙を握りつぶした。

刹那、カズラの傍を舞う人型ひとがたが崩れ、なごやかな声も掻き消えるのだった。

燃え朽ちるように姿を消す依り代を見送って、カズラはもう一度、固く閉じた扉に目を向ける。

「さて……そろそろ出してあげましょうか」

不自然に張り付いたつるによって閉ざされた扉。

その扉がひとりでに口を開く。

飛び出すのは人か怪物けものか。

開け放たれたそこに人影はなく――絶望に染まった声ばかりが、電灯一つ灯らぬ闇に響くのだった。


開け放たれた先は天国か地獄か。

実験室に閉じ込められていた職員たちが、ドアの向こうへと雪崩なだれ込む。


その波に研究員の姿は見えず。

逃げる事も、まして目覚めた異形いぎょうに手を差し伸べる事も出来ずに、ヴォクシーは不浄の闇に目を開いた。

限りなく白に近いすみれの瞳は、一体いつぶりに彼らの姿を捉えたのだろう。

願った再会とは程遠い喧騒けんそうに、淡い紫苑しおんは切なく揺れるばかり。

かといって、目を閉じる事だけはしたくない。

どんな形であれ、ようやく彼らの姿を見つけるに至ったのだ。

二度は閉じるまいと紫苑を見開くヴォクシーに、一つ二つでは済まない異形の影が差し込んだ。

花を摘み取る――あるいは無慈悲に手折たおるのは誰の手か。

息を呑むのと同時――

「ヴォクシー……ッ!!」

何者かに腕を掴まれたヴォクシーは、力いっぱい後ろへと引っ張られた。

「ッ……エルファス!」

「無事ナようダネ」

ふらりと倒れ込んだ先には、汗を浮かべるエルファスの姿。

まとめ役だけあって、ヴォクシーが茫然自失ぼうぜんじしつとしている内に、研究員たちを集めたらしい。

恰幅の良いエルファスの後ろには、ジェフとイースターとモウの姿もあった。

もっとも警備には見捨てられたようだ。

傍に控える者はなく、護衛や搬入に当たっていた職員たちの多くは、一足先に部屋の外へと飛び出していた。

およそ半数は部屋を出ようと藻掻もがき――残りは物言わぬしかばねか。

靴底から伝わるズルリとした鈍い感触に、ヴォクシーは悲しいくらい熱くて短い吐息といきを溢した。

思えば誰かの死をの当たりにするのは、これが初めてのこと。

(つくづく僕は……甘かった)

覚悟が決まっているのはつもりだけで。

納得しているのも上辺だけで。

恐ろしい存在と知りながら、優しい記憶を信じ続け。

百聞ひゃくぶんは一見にしかず――取り返しのつかない現実に、ヴォクシーは眩暈めまいする。

その肩を抱いて、エルファスは悲壮に満ちようとする紫苑を覗き込んだ。

「この実験は……失敗だ。絶対に成功などと言ってはならナイ。我々は触れてはいけないモノに触れてしまったんダ。興味本位で開けてはいけナイ箱を……開イテしまった。ナラバ……分かるね。この箱を閉ざすノモ、我々の役割だ」

諭すような静かな声。

全員に言い聞かせる言葉は重く、それ以上に慈愛に満ちたものだった。

どこか頼りない本当の父親。

優しく、いつも気を遣ってくれたが、肝心なところで目を逸らす父に望んでいたのは、エルファスのような力強さだったのか。

黒々と丸い目を覗き返せば、エルファスは名前の通り象に似た顔で、酷く穏やかに微笑んだ。

「今カラ言う事を、良く聞いて欲シイ」

「……エルファス?」

場違いに和やかな表情に、嫌な予感が駆け巡る。

その疑念を遮って、エルファスは苦楽を共にした家族の顔に目を向けた。

「ジェフ。イースター。モウ――何があってもヴォクシーを守ってクレ。ヴォクシーにナラ出来る。必ず……我々の過ちを正シテくれる。コレは命令だ。私からの……最後の命令。後のことはジェフ。あなたにお願いシタイ」

「待ってくれよ。ヴォクシーを守れってのは構わないが、最後ってそりゃ……」

「最後は最後ダ。皆……今日マデついて来てくれて、アリガトウ」

ジェフ、イースター、モウと順に見つめ――終わりにヴォクシーへと視線を戻す。

その手にはカードケースが握られていた。

「……コレを。あなたの知りたい事はココに記されてイル。ソレを知ればあなたはキット苦しむだろう。自責の念に囚われるダロウ。ダガ今は……その可能性に賭けさせて欲シイ」

「何を言って……」

「財団はあなたを利用してイタ。私も……同罪だ。ずっと黙ってイテすまなかった。だからコレは……贖罪だ。せめてもの罪滅ボシだ」

エルファスの――研究棟責任者の権限が許諾された唯一の職員証(カード)

カードケースに入ったままのカードを手渡し、エルファスはなお笑ってみせる。

「ヴォクシー……あなたダケは死んではいけない。何があっても生き残るんダ」

「エルファス……。エルファスもどうか……どうか無事で」

差し出された職員証が酷く重い。

無論、重いのは気持ちの問題だ。

だが鉛のようにすら感じる磁気カードを手に、ヴォクシーは息を震わせた。

カードケースに付けられた紐は、まるで手錠のようだ。

雁字搦がんじがらめになったかのように手は伸ばせず、ヴォクシーは紫苑の目に大木の如き姿をひた映す。

「さあ……行くんダ。尻を拭うノハ上司の仕事と相場が決まってイル。ココも……任せなさい」

目尻に溜まる滴と、浮かぶ汗。

震える手が計り知れない恐怖を伝えるが、誰もその覚悟を無下むげにする事は出来そうにない。

「また会いましょうね、エルファス」

「待ってますからね……!」

「ヴォクシーは任せておけ」

別れを惜しむ時間もないまま、四人はエルファスに守られる形で扉の向こうに辿り着くのだった。

エルファスは一人、怪異の侵攻を止めようと言うのだろう。

彼らを別つ隙間が少しずつ、少しずつ狭まり――扉は固く閉ざされた。

「行くぞ、ヴォクシー」

「っ……エルファス……ごめん」

一等暗い闇の彼方かなたに消える笑みに、ちゃんと笑い返せていたのかどうか。

自ら囮になろうというのか。

装置を正しく起動して、事態の収拾を図ろうというのか。

エルファスの覚悟がついえぬ限り、この扉が開く事はないのだろう。

音すら遮断しゃだんする扉を背に、ヴォクシーたちは後ろ髪を引かれながらも、地上への道を昇っていく。

だが安全な場所はもうないらしい。

すでに扉の外に溢れてしまったのか、現実へと至った怪物たちが、そこかしこで暴れ回っているのだった。

銃声と、断末魔の叫びと、頭が割れそうな獣声じゅうせい

硝煙しょうえんの匂いも鉄臭い異臭にかき消され、嫌が応にも吐き気が込み上げてくる。

「……酷すぎ」

「うぷっ……ここにも死体が。これ安全な場所なんてあるんですか……?」

「ある――とは言い難いね。とにかく上を目指そう。じゃないと……エルファスに合わせる顔がない」

「ただなぁ……こりゃ不味いかもしれねーぞ?」

血に慣れたイースターでさえ、胸を抑える程だ。

まだ若いモウには刺激が強く、顔面蒼白がんめんそうはくになったモウに足並みを合わせ、四人は血に染まった廊下を移動する。

だが顔色が良くないのはモウだけではない。

高い視界から辺りを見渡したジェフが、バツが悪そうに口を曲げた。

「クソッ……!やっぱり完全に落ちてやがる……!」

実験室だけの被害――もしくは一時的な停電を期待していたが、施設全体の電力が落ちてしまっているらしい。

非常用の赤いライトこそぼんやり光っているものの、辺り一面真っ暗なまま。

予備電力も作動していないのか。

扉の大半は開かず、このままでは地上に出る事はおろか、隠れる事すらままならない。

物資もなし、逃げ場もなし、扉が開かない以上エルファスが託してくれたデータを見る事も出来ない――となれば、やる事は一つ。

動かないエレベーターを見やり、ジェフはその場で足を止めた。

「……先に行ってくれ」

階段はあるが、それも非常用だ。

距離も遠く――どのみち施錠ロックの事を考えても、電力の復旧をする必要があるだろう。

足を止めたジェフを、ヴォクシーとモウ、そして先を進んでいたイースターが一つ遅れて振り返る。

「ジェフ……ッ」

「俺は制御室に行く。お前らは先に行くでも……隠れるでもしててくれ」

「一人で行く気ですか!?」

「そうよ!行くにしたって全員で……っ」

「いいや、俺一人で良い。本当に慢心ってのは怖いよな。便利、便利って言って……いざ電力がなくなると、何も出来ないんだからよ」

「でも危険ですよ……!!」

電力の復旧をする――そう告げたジェフに、イースターたちは食い下がる。

しかしジェフの決心は固く。

エレベーターから目を離し、ジェフはモウ、イースター、そしてヴォクシーの顔をゆっくりと見渡した。

「危険?そんなの分かり切ってる事だろ?誰かが行かなきゃいけないなら……俺しかいない。それに俺はこの体だ。隠れるのなんざ向いてないし、エルファスも言ってただろ?」

見上げるしかない顔は、果たしてどんな表情を浮かべているのか。

投げやりに――正しくは悲しげに語るジェフの目がヴォクシーに視線を注ぐ。

「あー……不思議なもんだな。俺もさ、お前なら何とかしてくれるんじゃないかって正直期待してる。それがきっと……お前の普通じゃない(・・・・・・)ところなんだろうな」

「ッ……ジェフ。どうして君までそんな……」

「今更言わなくたって分かるだろうが……ろくな人生じゃなかった。でも悪くなかったぜ?お前たちと過ごした日々は、走馬灯そうまとうってのになってくれそうだ。だから……少しくらいカッコつけさせてくれよ。何も死にに行くって言ってるんじゃないんだからよ」

道は二つ。

制御室や資料室のある右側と、会議室――引いては目指す宿泊棟のある左側。

数十メートル先に控えた岐路きろの前で、ジェフはそばかすの載った顔をにっと歪めてみせた。

「じゃあ、また後でな。終わったら……一服付き合えよ?」

効率と気持ちは伴わず――ジェフは一人、右の通路へと消えていく。

子供ガキの頃はヒーローに憧れてたなぁ)

二の足を踏み、けれど遠ざかっていく足音。

その音を背に、ジェフはミントの風味が香る煙草に火を着けた。

ここまで運よく怪物に遭遇そうぐうしなかったが、今から行くのは電力の豊富な制御室だ。

これまでの仮定(・・・・・・・)が合っているなら、施設のかなめであるそこに、幽霊たちも群がっている事だろう。

足元に広がるのは冷却水か、どこかから漏れてきた水か。

(ヒーローにはなれなかったけどな。お前らの兄貴分くらいにはなれただろ。俺には……それで充分だよ)

ジェフは靴底を濡らす水を踏んで、漏電の音響く制御室へと切り進んでいく。

滴る水が火を奪い――


「早く!二人とも遅いわよ!」


――ジェフとは逆の道、先導するイースターが狭い廊下を駆け抜ける。

野生動物たちと触れ合ってきたのは伊達だてではないのだろう。

いち早く周囲の異変に目を向けるイースターの目と勘のおかげで、三人は怪物を掻い潜りながら移動を続けている。

立ち止まってやり過ごしたり、匍匐前進で進んだり、落ちていた瓦礫や道具で誘導したり――時間ばかりが悪戯に過ぎていくが、それでも怪異に見つかるよりは遥かにマシだ。

普段だったらエレベーターを数秒待つだけで辿り着く上の階に、三人はようやくといった様子で辿り着くのだった。

「はぁ……はぁっ……!」

「大丈夫かい、モウ」

「イースターはともかく……ヴォクシーも意外と……っ!体力あるんですね……!」

「山登り《ハイキング》なんかは結構やってたしね。現地調査におもむくには、それなりに体力が必要だから」

「ほら!喋ってないで!急ぐ!」

やはり普段なら何てことのない階段も、心身ともに擦り切れているからだろう。

いやに気力を奪われながらも上に六つ。

三人は地下三階――寝食のために用意された私室があるエリアへと戻ってきた。

「……部屋にあれば良いけどね」

「なくても研究室でしょ?すぐそこだし、大丈夫よ」

目的はエルファスのPCパソコン

エルファスの私室か、個人研究室にあるデータに、知るべき何かがあるらしい。

唯一アクセス出来るカードを胸ポケットに、ヴォクシーは重い息を吐く。

施設はいまだ暗く。

ジェフが電力の復旧を終えるのを待つだけなのだが、そう簡単には進まないという事か。

「とにかく……移動しよう」

「そうね。休憩所まで行ければ水もあるし、休めるなら休んだ方が良いわ。モウは傷の手当てもした方が良いし」

「あ、ほんとだ。いつの間にあちこち怪我が。いやでもその前に……水。喉乾いた……」

遠くから聞こえる銃声と雄叫び。

心苦しい音に胸を抑えながら、三人はまた静かに、それでいて素早く移動を始めた。

実験室や会議室の多い下層の階と異なり、ここは居住や団欒だんらんのスペースといった風合いだ。

造りも吹き抜けになっており、一つ下の実験エリアが見渡せるようになっている。

もちろん強化硝子きょうかがらすが貼られているのだが、怪物相手には力不足だったらしい。

罅割ひびわれた硝子を横目に、イースターが渡り廊下を通り抜ける。

その後をモウ、ヴォクシーと続くが――すでに亀裂きれつが生じていたのだろう。

「ッ……へ!?」

「モウ……!!」

小柄なイースター一人分は耐えられても、成人男性二人分は支えきれなかったのか。

がむしゃらにモウの背中を押すが、ヴォクシーの腕力では重力に打ち勝てない。

抵抗虚しくモウを巻き込んで、ヴォクシーの足元は無惨むざんに崩れ落ちていく。

「ヴォクシー!!モウ!!」

「ッ……マックス!!」

思わずイースターの本名を叫ぶも、指先はあと一歩のところで触れられない。

遠ざかっていく白に、ヴォクシーは必死に語り掛ける。

「君だけでも……っ!!」

「馬鹿言わないで!!絶対行くから死ぬんじゃないわよ!!死んだりなんかしたら……っ!!許さないから!!」

だが願いを託そうとするヴォクシーを振り切って、イースターは叫び返した。


マキシーン・ジョゼ。

通称マックス。


女性にその名を付ける事は珍しいが、先天的な遺伝子疾患をもって生まれたのが彼女だ。

強く逞しい子に育って欲しい――両親は壮健そうけんの願いを込めてマキシマムの名を与えたのだった。

かくしてその願いは果たされ、イースターはアルビノとは思えない屈強な肉体と精神を手に入れたのである。

無論、誰もゴリラに懸想けそうするとまでは思わなかったわけだが、動物本来の強さと美しさに惚れ込んだイースターは、その世界にどっぷりとのめり込んでしまったのだった。

その憧れはかつて地球を支配した恐竜にまで及び、果ては架空の生物にまで興味を示すに至った。

そんな彼女が財団を訪れたのは、至極当然の事だったのかもしれない。

幸運なのは弟分――まるで実の姉弟きょうだいのように気の置けない相手に出会えた事か。

「もしかして……ここ跳び越えるしかないわけ!?」

どこか放っておけない困った弟。

しっかりしているようでぼんやりとした、あの駄目な弟を、この程度の試練で見捨てるわけにはいかない。

「ヴォクシー!今行くわよ……!!」

エレベーターが使えない以上、抜け落ちた廊下を戻るしかない。

助走をつけたイースターは、崩れた道の上を跳んでいった。


その真下――地下五階。


怪物たちが暴れたせいだろうか。

四階を通り越し、五階にまで落ちてしまったらしい。

真っ暗な闇の底で、ヴォクシーは痛む体を揺り動かした。

「ッ……モウ?」

「ツツゥ……ボクは大丈夫。全身痛むけど……ヴォクシーのおかげ。その……下敷きにしてすみません」

重いと思えば、モウが上に乗っているらしい。

酷く近くに感じる呼吸音に、ヴォクシーはほっと胸を撫でおろした。

それも束の間、ヴォクシーはモウの体を押さえつける。

「ッ!!」

「むぐ……っ!?」

同時にモウの口を手で塞ぎ、音を立てるなと首を左右に振った。

(ヴォクシー!?)

(静かに……!あれは……駄目だ。やり過ごすしかない)

(あれ……?)

突然の事に動揺するのも僅か、モウの全身から血の気が引いていく。

闇にうごめくのは黒い塊。

微かな光が照らし出す姿は爬虫類のようにも見え、その巨大さと醜悪さを二人の目に焼き付けた。

(ヴォクシー!あ、あれっ!何あれ!?どうすれば……!?)

(うん。あれは……僕の記憶が間違ってないなら、やり過ごすしかない。音を立てずに……隙を見て逃げよう)

紫苑に映り込む黒い影。

それはヴォクシーの記憶に間違いがなければ、ある組織が記録する不死身の存在だ。

それこそ架空であって欲しい存在だが、もはや現実と空想にさかいはないのだろう。

毒を撒き散らす不滅の怪物に――ヴォクシーは乾ききった息を呑む。

気付かれたら最後、楽な終わりにならない事だけはたしか。

瓦礫と実験道具がクッションになったおかげで一命を取り留めた――しかして打撲だぼくと骨折で傷む体を懸命にこらえ、ヴォクシーとモウはじりじりと不滅の怪物から距離を離していく。

ここを縄張り《テリトリー》にしているのか。

何かを探しているのか。

じっと動かない怪物から目を離さず、一歩、二歩、三歩。

ゆっくりと扉を目指す二人に、ふと明るい光が差し込んだ。

(これって……!ヴォクシー!ジェフがやってくれたんですよ!)

ジェフが上手くやったのだろうか。

表情を緩めた二人に注ぐのは――黄金の煌めき。

それが電灯ではないと気付くのに、どれだけの時間が必要だったか。

「え?」

「モウ……!」

振り返るのと、突き飛ばすのと、どちらが早かっただろう。

暗闇に灯った金は二つ。

鋭いひびが刻まれたそれが怪物のまなこであると知った時には、モウの体が闇に呑み込まれていた。

「あっ!?わあああっ!?」

「モウ!!モウ……ッ!!」

暗闇に紛れ、近づいてきていたらしい。

巨大な口がモウを捉え、抵抗など意にも介さず、噛み付いた獲物を闇の奥へと引き摺り込んでいく。

確認できるのは叫び声と、床に残された血の跡だけ。

その痕は二人が目指していた方に続き――誘うかのような赤にヴォクシーは拳を握りしめた。

「……ッ」

今や悲しみよりも怒りが強い。

自らの不甲斐なさにいきどおりながら、ヴォクシーは瞬く間に消えたモウを探し、床に描かれた赤を追いかける。

たとえ罠だとしても、道はここ以外にないのだ。

連絡通路といった様子のとみに薄暗い道を進むこと幾許。

「あ……ヴォク……シ…………」

闇の底に響くしゃがれた声。

消え入りそうなその音を探して、ヴォクシーは血の滲む足を引き摺った。

だが――もうどうにも出来ない。

「…………モウ」

やっとの思いで見つけたモウは、すでに腰から下を失っていた。

引き摺られた内臓は千切れ、無事に見える上半身も、至る所から折れた骨が突き出ている。

もしヴォクシーが外科医だったとしても、この傷を治す事は出来なかっただろう。

変わり果てたモウの姿に、ヴォクシーは顔を引き攣らせた。

不幸中の幸い、モウ自身はその事に気付いていないらしい。

痛みすら感じていないのか。

虚ろな目がヴォクシーを捉え、うつろなまま微笑んだ。

「良かっ……たぁ。無事で」

「……モウ。無事だよ。僕は……大丈夫。大丈……夫」

「あ、はは……安心したら眠く……。コレ……ボクのゲーム。まだ完成してないけど……ヴォクシーに遊んで欲しくて。感想……聞かせてよ」

「うん……」

何かを掴む力すら残っていないだろう

モウの胸ポケットからSSDエスエスディーが転がり落ちる。

実験中も持ち歩くくらい大切だったという事か。

モンスターのストラップが結ばれた細長い電子部品を握りしめ、ヴォクシーは震える体で頷いた。

必死に涙を堪えようとするヴォクシーに、モウは静かに笑いかける。

「ヴォクシーのこと……羨まし……かった。普通なのにって。普通に生きられたクセに……って。でも……ヴォクシー……優しいから。こんなボクにも……みんなにも……それこそ普通に接してくれて……嬉しかったんだ」

生まれついて右と左で様相の違うモウ。

苦難を強いられた青年が、東洋人とも西洋人ともつかぬ顔でヴォクシーを仰ぐ。


研究員モウ。

本名をサイフォン・キタミ・ドミトリー。


少しばかり特異に生まれた彼にとっては、ゲームやマンガの世界だけが救いだった。

ヴォクシーに託したのは、淘汰とうたに苦しんできたモウが創りあげようとした理想の世界。

飽くなき夢を手渡されたヴォクシーは、熱を失いつつあるモウの手を握りしめた。

「おやすみ――モウ」

「……うん。おやすみ。ヴォクシーがお父さんだったら……ああでもお兄ちゃんか。イースターがお姉ちゃんで……エルファスが……。ジェフは……いっぱいお土産を持ってきてくれるおじさんで……」

「……うん。僕も同じこと考えてた」

「……そっか。そっかぁ……。ありがとう……ヴォクシー」

良い夢が見られそうなのかもしれない。

笑って逝ったモウの目に、ヴォクシーはそっと手を触れる。

左右で色の違う綺麗な瞳。

愛おしかったその目を閉ざし、ヴォクシーはゆっくりと立ち上がった。

(ごめん……モウ)

持っていけるのは骨が関の山。

こんな暗く寂しい場所に置き去りにするしかない事を謝って、ヴォクシーは血に濡れた骨を白衣にしまう。

その姿を見つめる――

『ヴォークシィー……ィ』

唄うような気味悪い声音。

ねっとりと響く呼びかけに、ヴォクシーはぞわりと体を震わせた。

聞き覚えのあるその声は、しかして今聞こえて良いはずのものではない。

ヴォクシーは酷くぎこちなく振り返り、闇に灯る金色に息を呑む。

「まさか……」

黒い――黒い爬虫類。

よくよく見ればその影はクロコダイルのような、わにによく似た姿を描いている。

偶然――気のせい――幻覚――そう思いたくとも、問わずにはいられない。

ヴォクシーは怪物を相手にある名前を問いかける。

「っ……そんな――ダイン?」

それはひっそりと消えた男。

無情にも忘れられない傷痕きずあと

震えた声を溢せば、品定めをするような黄金が弓なりに細まった。

『何を怯えてんだよ?お前の好きな怪物になったってのによ……ほら?喜べよ?笑えよ?なあ、ヴォクシー?』

忘れもしない声がヴォクシーに降り注ぐ。

その声にヴォクシーは絶句するしか出来なかった。

「な……んで」

『何でも何もお前の……あのクソ犬のせいだ!だが感謝してるんだぜ……?これが俺だ!これが俺の本当の姿だったんだ!!ひひっ!はっははは!』

一体何が起きたのか。

姿を消した後、どこにいたのか。

何があって怪物になったのか。

どれか一つを問う間もなく、ヴォクシーは自然後退(あとずさ)る。

そして、恐怖に呑まれる前に、弾かれるように走り出した。

(実験室――酸――塩酸――……ッ!)

もっとも恐れおののきながらも、頭はしっかりと回っている。

不滅の爬虫類――そう形容するしかない怪物を抑え込む唯一の手段が塩酸だ。

無論、必要なのは塩酸のプールなのだが、今は僅かな希望に縋る他ない。

転げるように廊下へと飛び出し、薬品の並ぶ実験室を目指していく。

その背中を見つめ、ダインはベロリと舌をなめずった。

次の瞬間、ヴォクシーの前に大口を開けたダインが姿を見せる。

「なっ……!?」

『おいおい、どこ行くんだよ?』

下卑た笑みがヴォクシーを捉え――しかし視界は一点。

ガシャンと火花を散らす勢いで防火シャッターが落ち、黒い巨体を挟み込んだ。

『ぐえっ!?』

「ヴォクシー!!早く!!こっち!!」

「イースター……ッ!!」

背後で叫ぶのは、ダインとは対極的な真っ白のイースターの姿。

息を切らした彼女の手にはコードレスのチェンソーが握られ、防火シャッターを繋ぐ鋼紐ロープを斬り落としただろう事が理解出来た。

もだえるダインには目もくれず、ヴォクシーはイースターの傍に走り寄る。

「助かったよ、イースター……!」

「まったく私がいないと何も出来ないんだから――っていうかアレ何!?喋ってなかった!?」

「……ダインって言ったら信じるかい?」

「は!?アレがダイン!?」

「モウは……ダインにやられた。僕がもっとしっかりしてれば……」

「ええ!?ちょっと情報追い付かないんだけど……とにかく!逃げるわよ!」

合流する間にもダインは――漆黒の怪物はシャッターを押しのけ追って来る。

かえって電力が戻っていないのが吉と出たか。

安全設計などないも同じ。

防火シャッターを力技で落としながら、ヴォクシーとイースターは再び鉄製の階段を駆け上がっていった。

血で濡れた足場は酷く滑るが、転びでもしたら一貫の終わり。

すでに真下につけた鰐の口に、自ら飛び込む羽目になるだろう。

「もう来た!!」

「イースターも早く……!!」

鋼紐ロープを切れば済むシャッターと違い、階段はそう易々と落とせそうにない。

足止めに精を出していたイースターも、急かすヴォクシーの後を追って、数段飛ばしで階段を駆け上がる。

だが怪物の足は異常なほどに早く。

「ッ……ヴォクシー!ごめん!」

イースターは先を行くヴォクシーの背中を蹴り飛ばした。

「マックス……!!」

蹴り飛ばされたヴォクシーは扉を転がり抜け――鍵のかかる音に目を見開く。

「ッ……――――!!」

だが止まっている暇はない。

嘆く時間も、何故と扉に縋りつく時間も――イースターの覚悟を思えばこそ、無意味で無駄なものにしかならないのだ。

ヴォクシーは引き裂かれる想いできびすを返し、その場を走り出した。

ここは地下四階。

階段はたったの一つ。

もはや電力の復旧関係なしに、エレベーターの内部を伝って上に行くしかない。

ヴォクシーは呼吸が止まりそうになりながらも走り――


『追いかけっこは終わりかぁ……?』


――聞こえた声に息を止めた。

閉ざされたエレベーターの前、背後に迫る影にヴォクシーは動きを停止する。

否、時間が止まったかのようだった。

「マックス……ッ」

きっとイースターもモウと同じ末路まつろを辿ってしまったのだろう。

怒りと悔しさと悲しみで感情がぐちゃぐちゃになる中、それでもヴォクシーは毅然とダインを睨みつけた。

「ダイン……!!」

『ははっ!良いな!その顔!俺を見ろ……!俺を認めろ……!お前は……俺のモノだ!!』

「っ……ふざけないでくれ!僕は誰のモノでもない!たとえ誰かのモノになるにしても、絶対に!絶対に君のモノにだけはならない!!」

じりじりと迫る黒い影。

悍ましい片鱗に臆する事なく、ヴォクシーはダインを拒絶する。

だがその拒絶が逆鱗に触れたらしい。

『……何でだよ。何が嫌だっていうんだ……おい!俺を拒むな!俺をぉ……拒絶してんじゃねえぞ!!えさの分際でよぉ!!』

猛々しく咆哮し、ダインがヴォクシーへと噛み付いた。

「ああ……っ!!」

逃げようとするが、体は思うように動かず、右足が漆黒の顎へと吸い込まれる。

次には激痛が奔り、ヴォクシーはたまらず声を絞り出した。

「あ゛っ……が、ああ……!!」

『あー……ふざけたこと抜かすから噛んじまった。折角大事に飼い殺してやろうと思ってるのによぉ』

噛み付かれた右足は瞬く間に青紫に染まり、ジクジクとした痛みが全身へと駆け巡る。

それが毒だと気付いたところで、意味はあるのだろうか。

「ふっ……うぅ……!!」

『意地張ったって良い事ないぜ?なあ、ヴォクシー。いい加減、俺を受け入れろ』

「っ……嫌だね」

仲間を、友を、家族を傷つけるような自称・怪物に身を委ねるつもりはない。

脂汗あぶらあせを浮かべながらも、ヴォクシーはダインを突き放した。

折れる事のないその意思に、ダインも問答が無意味だと察したのかもしれない。

『そうかよ――じゃあ喰うしかねぇな』

真っ暗闇の奈落が、ヴォクシーの前で大きく大きく口を開いた。

(……せめて君だけでも)

最後に思い出すのは本当の家族でも、蒼天に浮かぶ星でも、命を懸けてくれた仲間でもなく――あの子犬。

子犬と呼ぶにはふさわしくない、愛しい獣の姿が脳裏に浮かぶ。

無事に逃げていて欲しい――その祈りを捧げようという時、何故その声が聞こえてしまうのか。

「ガウルアアッ!!!!」

黒い犬が怪物へと飛び掛かる姿を、ヴォクシーはたしかに見たのだった。

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