「BOX in the past」(03)
強姦事件の翌日。
目を覚ましたヴォクシーはパチクリと目を瞬いた。
「……あれ?」
恩人ならぬ恩犬。
殺処分されかねない犬を抱きしめて眠ったはずが、この重さは何だろうか。
記憶にない重圧と熱。
全身に圧し掛かる毛の感覚。
違和に気付いたヴォクシーは、ぼやけた視界で目を凝らす。
眼鏡はサイドテーブルの上。
普段なら手を伸ばせば届く距離だが、今は何かが邪魔して手が届かない。
目を細めたヴォクシーは、半ば手探りに覚えのない塊に手を触れた。
「んー……?うん?」
柔らかな毛質。
少し赤みがかった黒い毛皮。
尖った口から漏れる猫撫で――ではなく、犬撫で声の寝息。
見知った感触にヴォクシーは気合で眼鏡を掴み取った。
赤いフレームの眼鏡をかけ――
「これは……予想外だな」
ヴォクシーは苦笑にも似た声を溢す。
目の前に居るのは黒い犬。
たった一晩で一回りどころか三回りは大きくなった犬に、ヴォクシーは再度目を瞬くのだった。
大型犬の中にはかなりのサイズを誇るものもいるらしいが――だからといって、突然成長を遂げるものだろうか。
変なものがベッドに入り込んだわけではないと安堵する反面、ヴォクシーは呑み込みがたい事態に眉を下げる。
「おーい。起きてるかい?」
「……ギュプス」
「今のは寝言かな?ほら朝……朝?えーと……十一時は……ギリギリ朝みたいなものか。起きて。イースターのとこに行くよ」
「ンウゥ……ウルッ?」
ただでさえ巨大だった犬だ。
それが一晩で急成長したのだから――これを異常事態と言わずして何と呼ぶだろう。
バイソンやらヘラジカやらサイやら。
象までいかずとも巨大な動物たちと肩を並べる犬を揺り起こし、ヴォクシーはベッドから降りようとする。
ギシリ……と嫌な音がするのは、気のせいに違いない。
軋む音にいささか不安を覚えるのも束の間、ヴォクシーは柔らかな温もりに包み込まれた。
「クルルル……ッ」
「重っ……重いから!ああもう……君は本当に甘えん坊だね」
「クゥーン」
ずっしりと圧し掛かる熱。
イースターの手入れのおかげでふわふわになった毛皮の下、ヴォクシーは自ずとと声を転がした。
不思議と気分は悪くない。
否、どこまでいっても普通ではないモノに心惹かれる自分がいる事に気付き、毛皮を撫でる手に愛おしさを添えるのだった。
「実は怪物だったりして?」
「グルッ?」
「なんて……そんな事はないか」
「ングルルッ」
「ふふっ……あはは!くすぐったい!くすぐったいよ――……ああ、名前。名前、考えないといけないのに……――君はこの先も居てくれるんだろうか」
しかし、懸念は拭えぬものだ。
前にも増して大きくなった毛玉の背に腕を回し、ヴォクシーは切なく言ちた。
この温もりが愛おしいけれど。
怪物と見紛う姿に興味が尽きぬけれど。
成長を見届けたいけれど。
果たして――財団はそれを許してくれるだろうか。
逃れる事の出来ない判決を前に、ヴォクシーはただ紫苑の目を歪ませた。
「……ごめんね」
「ワフ?」
思わず溢した声はか細く。
反対に抱きしめる腕には力を込め、何も知らぬ獣に頬を寄せる。
「もし……もしこのまま研究が成功しなくても。もう一度彼らに会えなくても……君が怪物なら、それで僕の夢は叶うのにね」
「バッフルルルッ」
「もちろん君が怪物――化物だったら良いなんて、とんだ酷い話だよ。でも僕は……会いたい。会いたいんだ。おかしな話だけどね。ダインの言う通り……愛せないのかもしれない。いや……彼らしか愛せないんだよ、僕は」
いつからだろう。
只人に熱意を持てないと気付いたのは。
異質なモノに惹かれるあまり、普通のモノでは満足できなくなってしまったのは。
自分は怪物になりえないのか――そう囁いたダインの言葉がリフレインするのを振り払って、ヴォクシーは手を回すのもやっとの巨体を抱きしめる。
あまりに成長の早い犬は怪物じみていて――けれど求める異物には遥か遠い事もたしかなのだろう。
ヴォクシーはか細い声を呑み込んだ。
(でも君じゃ……駄目なんだ。まだ足りないんだ。異相の存在を――深淵の存在を――僕は求めてしまっているから)
食べられたいのか。
中に入って来て欲しいのか。
いずれにせよ、それは本能からくる欲求に他ならない。
長い間、空っぽだった胸の奥。
虚白を満たしてくれる何かを、ヴォクシーになった男は、今なお探し求めているのである。
悲願にほど近い獣を抱きしめながらも、心はどこか遠く。
「君が怪物だったら良かったのに」
哀愁に濡れた声を一つ。
ヴォクシーは来たる日を厭いながらも、愛おしくなりつつある獣に、複雑な愛情を注ぐのだった。
それから数日ほど。
ヴォクシーと犬に下された処遇は、何とも力の抜けるものとなった。
監視・報告と聞けば大層にも思えるが、言ってしまえばお咎めなしと同じこと。
良くも悪くも賑やかで話題の中心にいたダインが欠けた事を除いては、ヴォクシターたち研究員の日常は変わり映えなく過ぎていく事となったのである。
顔も見ぬ間に去ったダインはどこへ行ったのか。
異動の裏に隠れた真実を知る者がないままダインは姿を消し――やって来たのは背の高い男。
「俺はジェフ。よろしく」
そばかすなのか、シミなのか。
茶色の斑点を刻んだ男が、いささか大儀そうに長い背中を丸くする。
彼の呼び名は――ジェフ。
長い茶色の髪を一括りにした、巨人症の工学者だ。
幸か不幸か、幼い頃に疾患が発覚。
早期に対処できたとはいえ、それでもジェフの身長は2m近く、手や足も常人より遥かに大きく育ったようである。
加えて民族柄だろう。
燦々《さんさん》と注ぐ太陽の日差しを一身に浴びた体には、至るところにそばかすが広がり――ジラフ《キリン》の名を頂くのも納得か。
こんがりと焼けた茶色の肌に、それより一段暗い斑模様を浮かべる姿は、動物園でも人気のノッポそっくりだった。
もしくはスレンダーマンか。
目撃してはいけない――そんな〝くねくね〟にも似た性質を持つ都市伝説の怪人を思い起こすのは、やはり財団という場所のせいなのだろう。
実際にはスレンダーマンには似ても似つかないジェフを相手に、ヴォクシーはつい異形の姿を重ねてしまうのである。
もっとも、人の世に語られる怪異というものは、理解の得られない奇形や偶然に起因する場合がほとんどだ。
背の高い一本杉をスーツを着た男に見間違えただけかもしれないし、ジェフのように人より体の大きい者への畏怖が、怪人を生み出してしまったのかもしれない。
一体どこまでが真実で、どこまでが作り話なのかは分からないが――ヴォクシーは知っている。
――怪異が存在する事を。
幼き日に言葉を交わした彼らが、空想の存在だったとは思い難い。
しかして閉ざした箱の開け方が分からないのは何故なのか。
淡い初恋を引き摺るかのように、ヴォクシーは観測出来ずにいるそれらに思いを馳せる。
(夢だったとは思いたくない。頭がおかしいのは否定できないけど……彼らの存在は否定したくはない。会って……もう一度会って、何がしたいかは分からないけど。でも会いたい。会わない事には何も始まらないんだ)
愛していると伝えたいのか。
食べて欲しいと思ってしまうのか。
ただ好奇心を満たしたいだけなのか。
自分でも答えは見つけられていないが、怪異に出会う事こそが往年の願いである事に変わりはない。
「噂はかねがね。まさかこんなでかい犬?犬……だよな?まあ……犬がいるとは思わなかったが……よろしくな」
「こちらこそ。ほら……唸ってないで挨拶して」
「……バフッ」
民俗学者に始まり、工学者、生物学者、数学者と――あらゆる分野の専門家が集まる中、停滞ばかりの研究の日々は続いていくのだった。
衣食住を共にするだけに、新たに迎えたジェフとの親交が深まるのも早く。
「ここ良いな。邪魔じゃなけりゃ、俺も一本やっていって良いか?」
「どうぞ――と言っても、僕に権限がある部分ではないけどね」
「それ言ったら部屋以外そうだろ。でも意外だな。一番吸わなそうな面してるのに、お前しか吸ってないんだもんな」
「……幼く見えるって話なら、嬉しくはないね」
「悪い悪い。でも年齢は関係ないだろ。吸う奴なんて子供の内から吸うしなぁ。なんて言えば良いのか……ヴォクシーは真面目そうっていうかね?育ち良さそう?あんまし吸うイメージなかったのさ」
いささかダウナーの気はあれど、何と言っても前任があの粗暴なダインだ。
少しばかりお調子者の、いざという時には頼りになる親戚のおじさん――ヴォクシーから見て、そんな風に見えるジェフとの関係は悪くないものだった。
実年齢は一回り上といったところだろう。
齢50を過ぎたエルファスを最年長として、ジェフは40半ば。
ヴォクシーとイースターが30手前で、モウはそれよりも幾つか下で。
国籍も見た目も専門も何もかもが違いながら、彼らは同じ志のもと、研究の日々を送っていくのである。
「半分で良いから、その身長譲って欲しいわね」
「そりゃ取りすぎだろ。まあ俺もイースターの白さには憧れるな。ずっとは違和感あるだろうけど、一回くらい真っ白になりたいとは思うもんなぁ」
「じゃあ僕の半分どうぞ」
「理には適ってるのかな?僕としてはモウの個性がなくなるのは寂しいけどね」
「お喋りはソコまで。仲が良いのは素晴らしいが、談笑は休憩時間にしてクレたまえ」
彼らの多くは普通ではなかったが、奇しくも彼らの中に奇異の目はない。
形は違えど、同じ境遇に生きてきたのが研究員のほとんどだ。
目に見えるそれは全てただの個性に過ぎず、どこにいってものけ者にされた彼らは、ようやく見つけた安住の地で、何気のない普通を噛み締めるのだった。
もっとも、彼らが求めるものは普通には程遠い。
幻想がその垣根を越えて現れ出る日を、誰も彼もが待ち侘びるのである。
❖
白い箱――そう形容するのが相応しい建造物の頂き。
シェルターのように地下に作られた施設のその上、鬱蒼とした山林には似つかわしい碧の中に、その箱はポツンと佇んでいるようであった。
もっとも箱というのは正しい表現ではない。
目に見えぬ地下が箱だとしても、大地の上に突き出たそこは、古びた社といった趣だ。
中には何が祀られているのやら。
五畳ほどの大きさを誇る社の内で、一人の男が膝を折った。
「我が主――報告に参りました」
跪くのは――クレイン。
財団B・O・Xの専務理事にして、ヴォクシーの配属される極東支部では責任者および警護部隊の隊長――つまりはヴォクシーの護衛を務める要職。
財団のTOP2とも言うべき男が、和紙の載った祭壇へと祈りを捧ぐ。
深々と下げられた頭は、くすんだ地につきそうなほど。
祈りを込めた手を額に、静かな囁きが
森の静寂へと重なるのだった。
吹かぬ風がなければ葉擦れの音もなし。
鳥の声もなく――しかして、祈りに応えるものはあり。
祭壇に横たわる人形が薄ぼんやりと光を湛えるのも僅か、膜を張ったかのような声が狭い社を埋め尽くした。
『……――ご苦労』
低く穏やかな声は誰のものか。
現実的な者ならば、どこかに電話が隠されていると思うだろうが、その声はたしかに光を放つ人形から発せられている。
それを不思議に思う事もなく、不動の男は続く声を待った。
『ヴォクシーの様子は?』
「変わりありません。少し気が滅入っていたようですが、あの犬のおかげでしょう。恙なく過ごし――本日も無事、山に留まっていた霊魂を取り込みました。本人に自覚はないようですが……多少飢餓感は覚えているようです」
『ふむ……順調なようで何より。もっともヴォクシーの手に負えないのは、それこそ大神くらいだろう。信仰を失い、力も神格も失った神崩れ如きに、あの子をこじ開ける事は出来はしない。だが……油断は禁物。万一に備え、あの子の傍にいるように』
「仰せのままに」
声の主――それは財団の創設者にして支配者L.アゾート。
ヴォクシーをスカウトした張本人だ。
能面の如き笑顔が見据えるのは何なのか。
声だけを転がし、L.アゾートはその名を口にする。
研究員ヴォクシー。
本名を十八番珀。
その呼び名が意味するのは狐。
否――箱である。
狐とは名ばかりに箱の名を与えられた彼は、名実ともに箱の如き人間だった。
生きる霊脈とでも言うべきか。
生気――霊気――妖気――言い方は様々あれど、その内側に多大な気を抱いているのである。
もっとも過ぎた薬は毒と同じ。
強すぎる光の中で影が生まれ得ぬように、ヴォクシーの生気に魅了されたものは、あまりの陽の気の強さに吞み込まれてしまう場合がほとんどだった。
しかし、その程度では箱は満たされず。
箱は本能的に、本質的に己を満たし得る存在を求めるのだった。
『だがあの子は真価はそこではない』
しかして、それは性質の話。
箱の真価は、自らを喰らわせる事にこそあった。
それは蟲毒か、天然の龍脈か。
はたまた賢者の石などと呼ばれる鬼籍か。
織り上げられた糸を得るに至った者には、奇跡に等しき恩恵が与えられるという。
その恩寵は時に、空想すらも凌駕する事になるだろう。
『まだは糸を織るのみ。だがいずれ救済の糸を辿る者が現れる。空想が現実を超えるに至るか――今しばらく様子を見ようではないか』
「ではあの獣も――……」
『兆しがある限り、ヴォクシーの傍に置いておくべきだろうね。代わりに……ああ、何だったか』
楽しげなのも束の間、興味なく紡がれる声。
ヴォクシー以外には関心がないとばかりのその声音に、頭を下げたままのクレインは返事を溢す。
「ダイン――ゲイブ・ガードナーです」
『そうそう鮫――いや鰐か。あれにも少なからず兆候はあるのだろう?』
「僅かではありますが」
『可能性がある以上、好きに実験すると良い。真っ当な恩恵を与えられる者と、受け入れられる事もなく拒絶された者。果たしてどちらが現実を凌駕し、境界を超えるのか……。虚構と現実が交わる場所で待つとしよう』
もっとも、名を聞いたところでL.アゾートの興味を引く事はない。
告げるべき事を告げた相手は、結びの言葉を囁いた。
『この後も引き続き頼んだよ――私のカズラ』
「お任せください。必ずやご期待に沿う結果に導きましょう」
そして――声が消え、静寂が訪れる。
カズラ――その名を呼ばれたクレインは音の一切が止むまで頭を下げ続け、暫くしてから静かに立ち上がった。
カズラとは蔓のこと。
そしてクレインもまた鶴のこと。
主たる男に仕える異相の存在は、木々に覆われた空に目を向ける。
「木を隠すには森の中――彼らも自分たちの本拠地に我々が潜んでいるとは、そうそう考えないでしょう」
気掛かり――否、厄介なのは権力を持つ出資者でも、政府でも何でもない。
ただ一つ――陰陽省と呼ばれる怨敵だけだ。
境界に立ちながら、安寧とは名ばかりの停滞にしか目を留めない彼らは、何と愚かしい事か。
箱を開く事をやめた彼らを嘲笑うように、クレインは地下に隠された施設へと戻っていく。
その箱が開かれるのはいつになるのか。
Boxy――匣なる者の行き着く先を、彼らはただじっと見届けるのである。




