Q-T[File of Boxy]
その赤ん坊はいつも遠くを見つめていた。
ぼんやりと。
それでいてハッキリと。
猫が何もない場所を見るかのような光景に父親は苦笑を一つ。
『またやってるね』
『ほんと。ゴミでも飛んでるのかな』
母親もクスリと笑って、のんびり屋に生まれた息子の成長に寄り添った。
だがそれも数年のこと。
誰が言ったか、言わないか。
七つまでは神の子だとか、小さい内は不思議なものが見える――だとか、そんな根も葉もない話が実しやかに囁かれるも、物事には限度があるというものだ。
一年の時を重ね、赤子は遠くを見つめたまま。
二年の時を積み、子供は得体の知れない何かと語らい始め。
三年の時を過ぎ、少年はそれとばかり触れ合っては微笑んだ。
一体そこには何があるというのだろう。
何もない場所を見つめる目が、誰も居ない先へと語らう声が、それにばかり心を砕く姿が――母親には酷く気味の悪いものに見えて仕方がなかった。
最初こそ気のせいで済ませられても、何度となく続けば悍ましい事この上なく。
自分の子供は何かおかしいのではないか――そう思い至った母親は、縋るような気持ちで病院に駆け込んだのだった。
『あの……病気なんでしょうか?』
『うーん……至って健康ですね。変なところは見られませんし、発育もしっかりしてますからね』
『でもっ!何もない所に話しかけたり、友達と遊ぶって……一人で遊んでるのに、友達がいるって言って……っ!』
『……幼い子には稀にある事ですよ。もしかしたら寂しがっているのかも。お母様がしっかり傍にいてあげてください』
『あ……はい。そう……そうですよね』
しかし、異常という異常はない。
問題がなかった事を喜ぶべきなのに、母親は素直に現実を受け止められなかった。
その衝動はさらに母親を走らせ――名のある神社や寺社にまで足を運ばせた。
しかし、どこに行っても答えは同じ。
『原因は分かりません。念のためお祓いをしておきましょう』
意味のないお祓い。
効果の得られない札や数珠。
明らかにおかしいのに、異常はないと告げられるだけの繰り返しに、母親の心はどんどん鬱屈としていった。
『大丈夫。大丈夫よ。大きくなればきっと……この子も普通になる』
呪詛のように繰り返す言葉は、自分に言い聞かせていたのか。
それとも息子に言い聞かせていたものか。
時間は等しく流れ――幼稚園にも保育所にもやれない息子も、ついに小学校へと行く日が近づいて来た。
もっとも悪癖が止まる兆候は見えず――……
『んー……あそこ』
『やめて。何もないでしょ』
『一緒に遊びたいって……だめ?』
『……っダメ!!ダメだって言ってんの!!もうやめて……もう散々!!何で……何でこんな子に……もうイヤ。もう無理……無理よ』
……—―母親はとうとう崩れ落ちた。
何度訪ねても異常がないとしか言わない病院にも。
様子を見ようと言い続ける父親にも。
虐待してるのではないかと疑う周囲にも。
息子に奇人のレッテルを張られる苦痛にも。
そんな息子を気味悪いと思ってしまう自分にも。
何も知らず澄んだ目を向ける息子にも――とてもではないが耐え切れなかった。
耐えられるものではなかった。
母親の心は壊れてしまっていた。
そして――彼女は去った。
残された父親。
残された息子。
穏やかな父親は離れていった母親を恨むことも、息子を責める事もしなかった。
それでも気付くものだ。
悲しげに笑う父親の表情に、物言いたげに見つめる眼差しに、広くなった部屋に――少年はふと自らの影を振り返る。
『こっち……こっちだよ』
『入れてくれ』
『坊やの中に入れておくれよ』
『ずっと一緒にいて』
紫を抱く瞳に映るのは、他の誰にも見えないらしい者たち。
自分を呼ぶその声は絶えず聞こえ――しかして、ふとした拍子に消えるらしい。
また別の呼び声が囁いては、少年の後ろ髪を揺らすのだった。
その姿は様々。
おじさんだったり、女の子だったり、猫だったり、物語に出てくるような河童や首だけの怪物だったり――人らしいものから、人非ざるものまで、無数の手が少年を掴もうとする。
話し相手であり、友達であり、どこかに招こうとする彼らだったが――それが見えるのは普通ではないらしい。
その不和が母親を苦しめた事を、少年は母を失ってようやく悟ったのだった。
きっと、このままでは父親も嫌な思いをしてしまう。
否、辛い思いを続けるのだろう。
知らず知らずとはいえ、自分が両親を傷つけていた事を理解した少年は、少しずつ彼らを遠ざけていった。
たとえ彼らの存在が嘘でなくとも、母親の望む普通になろうと努力した。
その果てに――少年は目を閉ざす。
彼らを視る事を。
その声を聞く事を。
彼らに語り掛ける事の一切をやめたのだ。
それが普通なのだと。
普通であるべきなのだと、少年はいつしか彼らの存在に蓋をした。
『……――やっぱり子供だったからかな』
そんな息子に父親は安堵を一つ。
奇行から遠のいた息子の変化に、ほっと胸を撫で下ろした。
代わりに息子はどうにも他人行儀になってしまったが――それは母親がいないせいだろうか。
やがて父親は新たな愛を手に入れた。
新しい母親。
唐突に出来た年の離れた兄。
大きな一軒家に、自分だけの個室。
少年を取り巻く環境はガラリと変化を見せ――さりとて少年が失った穴を埋める事はない。
どう接すれば良いのかも掴み切れぬまま月日は流れ、数年。
新しい母親を〝母さん〟と呼ぶ事も、兄を〝兄さん〟と呼ぶ事もないまま大人になり――成人を目前にした彼は、一人家を離れたのだった。
けして嫌っていたわけではない。
嫌われていたわけでもない。
少し苦い思い出があるだけで、それ以外は普通だった――はずだった。
仲睦まじい幸せな家庭のはずだった。
それでも、心は空っぽのまま。
普通に生きる事も。
罪悪感を覚えずに過ごす方法も。
憧憬を捨てる手立ても分からぬまま、一度は蓋をした匣に目を向ける。
『オカルト……研究会?』
『おっ!興味ある?』
『興味は……一応。詳しいわけじゃないですけど』
『いーじゃん、いーじゃん!こっから知ってけば良いんだし、とりあえず部室見てかね?二人捕まえてんだけど、今俺一人だけだからさぁ。えーっと……名前は?』
『十八番――数字の十八番で、オオバコって読みます』
『はーっ、すげぇ名前。じゃハコやんだな。俺は比本。比本伸彦。ヒモ先輩でいいぜ~?マジで彼女のヒモやってっからな!』
親元を離れて入学した大学。
そこで出会ったのは、〝オカルト研究会〟というサークルだった。
『お前ら朗報だー!新入部員三人目ゲットしたぞー!』
『十八番珀です。どうぞよろしく』
『あだ名はハコやんな。オカルトの事はそんな知らんて。自分らが詳しいからってハコやんのことハブんなよー?』
気が良いのか。
押しが強いのか。
たった一人の先輩の勢いもあって、珀は〝オカルト研究会〟に身を置く事になる。
もちろん研究とは言っても趣味の領域だ。
それでも再び目の前に飛び込んで来た超常現象や怪異、怪談、幽霊といった不可思議な存在は彼――十八番珀の心を揺らすに十分なものがあった。
最初こそ、オカルト界隈に身を置いて長い同期の二人とは折が悪かったが、それもほんの初めの内のこと。
瞬く間に知識をつけ、オカルトへの熱意を見せる珀に、二人も程なく心を開いていった。
そうしてヒモ先輩を見送り、二人の知り合いだという後輩を迎え、さらに翌年。
二人目の後輩――五芒星を抱く青年と出会う頃には、珀はすっかりオカルトに詳しくなっていた。
だが――願いは叶わぬまま。
一度閉ざした匣が開かれる事はなく、紫苑の目が異次元の存在を捉える事は、一度としてなかった。
その蓄積が余計に想いを募らせるのだろう。
未知の存在への興味は尽きる事がなく。
情欲にも似た切なさに、絶えず身を焦がすのである。
きっと幼心に魅入られてしまったのだろう。
普通にならなければ――頭ではそう理解しながら、珀は異相の存在を探し求めるのだった。
『普通に生きるよ』
『普通……ですか』
心配を掛けたくなかったのか。
どこかで決断を迷ったのか。
別れの際、一等懐いてくれた後輩にはそんな事を嘯いたが、二度失う真似は出来なかったようだ。
大学卒業後、普通の出版社に勤めるのも束の間、珀はすぐにオカルト雑誌の記者へと転身したのである。
『いつかまた……会えるのかな』
あの影を追い続ければ。
その存在を求め続ければ。
いつの日か、この悲願は果たされるのだろうか。
ぽっかりと開いた空白の埋め方も知らぬまま、珀は何もない場所に手を伸ばす。
そこにあの奇妙な隣人たちが居る事を願って、珀は珀にとっての普通へと向かっていくのだった。
その果てに、彼は出会ってしまう。
『あなたが――Sir.十八番?』
『そうですが……そちらは?』
『これは失礼。私はL.アゾート。とある財団を運営しておりましてね』
『はぁ……財団』
『そう。掻い摘んで言えば、非科学的な事象の研究をしてまして。怪異や幽霊、怪奇現象と言った方が分かりやすいでしょうか?あなたの書いた記事――それを見て是非会いたいと思ったのです。ミステリーマガジン〝ロトス〟の十八番珀さん?』
男の名はL.アゾート。
財団の名はB・O・X。
|現実と非現実が交差する場所《バンダースナッチズ・オーバー・ザ・クロスワールド》――その箱になら、願うものが息づいているのかもしれない。
眠るのは災禍か希望か。
匣は――たしかに開けられた。




