「BOX in the past」(02)
番――伴侶――宝物。
言い表す言葉が分からないが、犬にとって、ヴォクシーと呼ばれる男はかけがえない存在だった。
自身と似て非なる淡い黒色の毛。
夜明けを宿したこれまた淡い紫苑の瞳。
大好きな雪によく似た、ふわふわと美しさとと儚さを併せ持つ微笑み。
ほんのりと甘い穏やかな香り。
そして――魂にまで染み渡るかのような、甘い甘い充足感。
(んへへっ)
キュウキュウと喉を鳴らすのも、自分の匂いをしっかりマーキングするのも、見つけた物を貢ぐのも、千切れんばかりに尻尾を振るのもその相手にだけ。
黒い毛並みの犬は、換気エリアで紙煙草をふかすヴォクシーの隣に座ると、物憂げな顔をじっと見た。
(オレがずっとそばにいるからな)
一向に名前は分からない。
何を喋っているかも理解出来ない。
後ろ足だけで歩く理由も知れなければ、頭にしか毛がない姿も珍妙そのもの。
狩りをするでも、寝床を探すでもなく、日々わけの分からない事を繰り返すのも完全に理解の外だったが――美しい事だけは感じ取れる。
美味しい事だけはハッキリ分かる。
その傾倒が心配を奮い立たせるのだろう。
(オレがいるから……いてやるから泣くなよ。悲しい顔するなよ。ほら!おれがいっしょだろ!な!)
風通しの良さとは裏腹な憂鬱な空気。
煙草-犬には煙の出る枝にしか見えない-を吸う時には決まって一人になりたがるヴォクシーを見上げ、犬は壁の出っ張りに下ろされた腰に頭を擦りつける。
「……君も飽きないね」
「クゥーン」
出会ってから早一カ月。
犬には人間の事などてんで分からないが、ヴォクシーの事は多少理解しているつもりだ。
だからこそ、物思いに耽る手をペロペロと舌で舐め、自分の存在を示しては、ヴォクシーが笑ってくれるのを待ち望んだ。
(な!な?元気だせよ!オレがいるだろ?今度は何があったんだよ?)
思い悩む事があるのか。
難しい顔で取り組む何かに躓いてしまっているのか。
煙草を咥える時、例外なく疲れた様子なのが気に掛かって堪らない。
それでも、こうして隣にいれば、最後には笑ってくれるものだ。
その予想通り――
「ダインには本当に困ったものだよ」
「ン……?」
「君に言っても分からないね。でも……それで良いんだ。分かったところで気持ちの良いものでもないし、傍にいてくれるだけで心強いよ」
「クゥン」
「まあ……すぐに追いかけてくる君にも、困ってはいるんだけどね」
ささやかな笑顔が犬へと降り注ぐ。
それを嬉しそうに眺め、犬は長い尾を左右に振り回した。
辺り一面は、真雪の如き白一色。
換気扇に囲まれた、いささか寒い空間ではあったが、一人と一匹は凍える事なく時間を過ごすのである。
もっとも、この状況を手離しに喜べるほどヴォクシーも単純ではない。
だらしなく表情を緩める犬を横目に、灰色の煙を吐き出した。
(……許可が下りるとはね)
嘆願虚しく殺処分――それを免れても、施設の外に放り出されるだけだと思っていた犬の処遇。
しかし、何の意図があってか、まだ幼い犬は研究棟で飼われる事になったのである。
(普通に考えれば実験のためだろうけど、そんな様子もないしな。褒美のつもりだとして飼育の許可――いや、命令か。飼って良いじゃなくて、面倒を看ろ――なのが引っ掛かるんだよね)
元より奇々怪々な事に取り組む場所だ。
いちいち答えを求めるのも野暮なのかもしれないが、飼い犬のように扱われるのは、どういう事なのだろう。
専務理事――財団B・O・Xの事実上の取締役である彼の更に上層。
財団の設立者にして会長――L.アゾート。
ヴォクシーを財団にスカウトした張本人でもある男の考えは、一研究員ごときにはまるで読めそうになかった。
(隊長――ああ、施設では専務か。彼に聞いたとこで意味ないしな。エルファスにも許可が下りたって話しかいってないみたいだし……考え過ぎってだけなら良いんだけど)
そういう趣向と言われればそれまでの事。しかし何の目的もなしに、この状況になるとは考え難い。
ヴォクシーは犬を撫でる傍ら、宙ぶらりんの状況に頭を捻らせた。
(うーん……非常食のわけないしな。訓練の命令もないし、まさか本当にペットとして置いてくれているだけ?そこまで日和った組織とも思えないけど……彼女が嬉しそうだし良いのかな?)
つい思考を巡らせてしまうのは、ヴォクシーの悪い癖だ。
ああだこうだと余計な考えを巡らせては、頭を休めるどころか疲労を蓄積させていくのである。
それはさておき彼女――イースターの喜びようは相当なものだった。
動物を愛する者として、ひたむきな愛を注げる動物がいるのは幸せな事らしく、何かにつけ犬に手を出すのである。
犬の方は過度なスキンシップに気後れしている風だが、世話をされている自覚はあるのだろう。
う゛ーう゛ー喉を唸らせる事はあっても、牙を剥く素振りは見せなかった。
だが、それだけの話。
犬の世話に力を注ぐのは他でもないイースターだというのに、犬が尻尾を振るのはヴォクシーにだけ。
ヴォクシーよりよほど飼い主らしい彼女に、いつまでもつれないのは、果たしてどういう事なのか。
今まさに横を離れない犬を見やり、ヴォクシーは小さく息を吐く。
「……何で僕に懐いたかな」
「ウ?」
「悪い気はしないけどね。君と会うまで
忘れていたけど、小さい頃は動物を飼ってみたいと思ってたんだ。母さんが家を出て行って……子供心に寂しかったのかな。我儘を言っちゃいけないと思っていたから、父さんには言えなかったけど……犬や猫を飼ってる友達が少し羨ましかったんだ」
「ガウッ」
掻き消える煙の向こうに浮かぶ記憶。
幼い日の事を思い出し、ヴォクシーは苦笑と共に犬を撫で回した。
苦いのは産みの親のこと。
もう上手く顔を思い出す事もできない母親が、家を出て行ったのはいつだっただろうか。
普通になれなかったヴォクシーは、ふと過去に耽り、切なさに顔を歪めた。
(……普通に暮らしてれば良いけどね)
別段、恨んでいるわけではない。
憎むつもりもない。
全ては普通に生まれる事が出来なかった自分の責任だ。
幼なかったとはいえ、母の畏れも苦しみも知らず、ただ無知に、ただ無邪気に、その心を追い詰めてしまった自身のせいで――母はただの被害者でしかなかった。
だからこそ、気が触れてしまった母を恨もうとは思わない。
愛した父を跳ね除け、一度は愛そうとした息子を捨てた母を憎みはしない。
(でも僕にとっては、それが普通だった。それが僕の普通だったんだよ)
ただ一つ後悔があるとすれば、普遍になろうと願ってしまった事か。
他人と違う生き方を過ちだと思い込んでしまった事だろうか。
一つに結った黒髪に触れ、ヴォクシーは視線を落とす。
(彼らは……愛すべき隣人だったのにね)
幼き日に聞いた声はもう届かない。
あの日見た姿はどこにもない。
否――自ら閉ざしてしまったのだ。
人間とはかくも不便なもの。
本当の価値を知るのは、いつだって失った後になってからなのである。
「ワフッ?」
「……何でもない。何でもないよ。ただ少し……昔を懐かしんでいたんだ。叶うなら、もう一度彼らに会いたいってね。僕はきっと……焦がれているんだよ。彼らに、彼らという存在に恋をしているんだ」
自ら閉じた箱。
それでいて見失ってしまった鍵。
開ける事が出来なくなってしまった箱を胸に、ヴォクシーは短くなった煙草を携帯灰皿へと放り込む。
「そろそろ戻ろうか」
「ワン!」
ここへは鍵を求めてやって来たのだ。
物思いにばかり耽っていられないと、忠実な犬を連れて仕事に戻る。
停滞の日々は緩やかに流れ――数日、数十日――また一ヵ月。
黒い子犬が研究棟で過ごす時間は、着実に増えていった。
しかしイースターをもってしても説明の出来ない早過ぎる成長――否、巨大な成長は誰が想像しただろうか。
狼犬だとしても大き過ぎる犬は、推定一歳未満にして、抱き上げるのも難しいサイズに育ったのである。
そんな犬に――
「やっぱおかしい」
イースターは難しい顔でデータを睨む。
ショートボブの短い髪の下、露出した首を掻く姿は艶やかには程遠く、良くも悪くも野生味に溢れる彼女にヴォクシーは視線を向けた。
「この前の……成長が早過ぎるって話?」
「そ~……それ。個体差があるにしたって大きすぎるし、まだ成長期真っ盛りだからね。落ち着いてきてるならともかく、体重もまた増えてるし、ん~……何がこの子をこんな大きくしてるんだろ?」
「君の育て方が良いんじゃないかい?」
「それは当然――っていうか、本当はヴォクシーの仕事だからね?」
「君がやりたくてやってるものとばかり。ともかく……イースターの腕が良いってだけの事だと思うけど」
「はいはい、お世辞どーも。まあ嬉しいけどね。そういう問題じゃないのよ」
「わふー……」
今は犬の定期健診の時間。
大人しく触診を受ける犬をぐにぐに弄りながら、イースターは椅子にもたれかかる相手に目線だけを送る。
健康状態は至って良好。
良好なのだが――人にせよ犬にせよ、ある程度の基準というものがあるものだ。
それを著しく超えるのは何かしらの異常であり、看過して良いものではない。
動物を飼うのにまるで向いてないヴォクシーに呆れる心を抑え、イースターは犬の検診を続けていく。
「大きくなってる割にちょっと痩せ気味なのが気になるかなー。あんまりご飯食べてない?でもガッツいてないだけで、ある程度食べてるし……うーん。だとすれば何でこう大きくなるかな。変な血統ってわけでもないしー……」
その手は休まる事を知らず。
ヴォクシーと寸分違わない思考の渦が、独り言となって漏れ出すのだった。
こうなっては後が長い。
ブツブツと独り言を溢すイースターを見やり、ヴォクシーは気だるそうに椅子から立ち上がる。
「元気なら良いよ。犬も疲れてきたみたいだし、そろそろ放してあげて欲しいな」
「ん?あー……ごめんごめん!今日もありがとね~!」
「……バフ」
その声に我に返ったイースターは犬から手を離し――すぐに表情を凍らせた。
「ちょっとヴォクシー」
「何だい?」
「犬……って、まさか名前ないの?」
一緒に過ごして数カ月。
あの子、この子とばかり呼んでいると思っていたが、まさか犬と呼ぶのを聞く事になろうとは。
あまりに薄情で杜撰で愛のない発言に、イースターは真っ赤な瞳でヴォクシーを睨んだ。
その眼差しをひらりと躱し、ヴォクシーは悪びれなく目を瞬く。
「名前か。困った事もないし、特に考えた事はなかったね」
こうも飼い主に向いてない人間がいるものか。
当然その一言はイースターの逆鱗に触れるもので、イースターは可愛らしい顔を怪訝に顰めた。
「…………F●ck you」
最大限の誹りが送られるが、もっともヴォクシーは動じない。
否、イースターを相手に血を昇らせたりはしない。
「まあ、考えておくよ」
「ワフッ」
解放された犬と共に、そそくさとイースターの傍を離れるのだった。
穏やかな日々はその後も続き――また幾許。
「おや。今日も置いて行かれたのだね」
「ワフ」
「キミの主人はいつもの場所だ。会議がしたいカラ……呼びに行っておくれ。キミが行けば、カレも動く気になるだろう」
「オンッ」
にこやかな壮年に声を掛けられる。
ヴォクシーより数回りは年齢を刻んだ巨漢は、まるで御仏か何かのようだった。
彼の呼び名はエルファス。
研究棟の責任者であり、ヴォクシーの上司にあたる人物だ。
先端巨大症に生まれた彼は、常人より巨大な鼻と耳、ずっしりと重い足――そして丸々肥えた腹を持っている。
腹だけは後付けのものだが、その姿は象の如く。
エレファントの名を頂くのに、これ以上ない特徴だろう。
どこか愛嬌すら感じさせる姿はもちろん、性格も穏やかそのもの。
イースターと同じく犬の存在を快く受け入れた一人で、心休まると微笑んで、犬の存在を受け入れてくれている。
もっとも、それはエルファスの事情。
(たまーにムカつくんだよな)
ヴォクシーと仲睦ましい姿を見せられる犬は、エルファスの事を少しだけ、ほんの少しだけ僻んでいた。
それが父子のような関係であると気付くのはいつの事か。
数学者として財団に招かれたエルファスの横を通り過ぎた犬は、卒のない返事と共にヴォクシーの元へと行くのだった。
また別の日には、何度見ても不思議な影。
「ヴォクシーのとこ?」
「ワフ」
「さっき声かけたけど……キミが行く方が効果的か。ちゃんと連れて来てよ?」
「アオン」
体の半分が白く、もう半分が黒い奇妙な青年の横を抜けていく。
彼の呼び名はモウ。
研究員の中では一番若く、下っ端のように扱われる事も多い青年だ。
彼も容姿に悩んできたのだろう。
尋常性白斑に生まれたモウは、体のおよそ半分が白く、半分が黒い、雌雄モザイクにも似た様相をしているのだった。
牛というには少し違和感もあるが、穏やかな気質の青年には、牛が合っていたという事だろうか。
牛の鳴き声にちなんだのか、モウの名を与えられたのだった。
そんな彼はシステムエンジニアとして働いており、ノートパソコンを脇に研究室へと向かっていく。
「……ペットも悪くないな」
思わず溢すのは趣味のこと。
研究員になる以前、ゲーム制作会社に勤めていたモウは、今も個人的にゲームを作り続けているのである。
どこに公表するでもないが、モウにとって空想世界は生き甲斐であり、自らの思う自由そのもの。
財団に来たのも、少年時代より焦がれた魔法やモンスターが、現実になる日を夢見ての事だった。
「えーっと……とりあえずベースデータだけ作っとくか。後でここに隠し部屋を設定して……その前にデバッグ用の通路消しとかないと。あーいや、まだいっか?先に組み合わせてから…………」
独り言が長いのは研究員の特性なのか。
ヴォクシー、イースターに続き独り言を溢しながら、モウは自分の世界を築き上げる。
「そういや……ヴォクシーって日本人だっけ。やっぱゲームっていったら日本だもんね、日本!ヴォクシーにアイディア聞いてみようかな?」
足取りは軽く、声も軽く。
いつか日の目を見る時が来る事を信じて、モウは鼻歌混じりに制作メモを増やしていくのだった。
またまた別の日には、見知った顔。
「おっはよー……って何で逃げるのよ!」
「……ン」
「誰が世話してると思ってるの!?私よ!わ・た・し!!もうちょっと私にも懐いてくれたって良いじゃない!!」
「…………バフ」
スキンシップをもとめてやまないイースターの脇を、出来る限り素早くすり抜ける。
嫌っているわけではないが、厄介である事もまたたしか。
どこまででも撫でてこようとする白い手を振り切って、犬はバビュンッと逃げ出した。
いかにイースターが筋骨隆々でも、獣に勝てる道理はない。
走り去る背を見送り、頬を膨らませるのだった。
「ヴォクシーばっかずるーい!!」
その声は研究施設のどこまで響くのか。
犬は何も聞かなかった事にして、ヴォクシーを探すのだった。
そうして月日を積み重ね――また幾許。
事件は起きた。
偶然にも二人きりになったヴォクシーと全身真っ黒の男。
似合わないからとすぐに白衣をその辺りに投げ捨てる男が、ヴォクシーへと魔の手を伸ばしたのである。
彼の呼び名はダイン。
工学者として電子機器の施工や修理を受け持つ研究員の一人だ。
イースターと似て非なる遺伝子疾患――メラニズムに生まれたダインは、金に輝く瞳以外、全てが黒に染まっている。
一見すると黒豹のようだが、その姿は水面から目だけを覗かせるクロコダイルにも似ているだろう。
面長の輪郭や、鋭い眦、少ししゃくれた顎、見るからに厳つく逞しい体つきも、その感想に拍車をかけ――影に潜んで襲い来る淡水の覇者らしさを体現するのだった。
性格もまた荒々しく、それ以上に悪い意味で明け透けないと言うべきか。
「なあヴォクシー。少しくらい良いだろ?息抜きしねーと、ここじゃやってけないぜ?」
「息抜きしすぎも……じゃないかな?」
「ハハッ!手厳しいな。つーか普通抜くもんだろ?お前よくそれで平気だな?あー……それとも日本人は皆そうなのか?」
「……さてね」
真昼間から下品な話に付き合わされ、ヴォクシーは何度となくため息をつく。
開放的と節度がないは紙一重のもの。
ともすればセクハラでしかない発言を受け流し、ヴォクシーは世界各国から集めた伝承や怪異にまつわる物品を分類ごとにまとめていく。
それでも気が散るというもので。
(……早く戻って来ないかな)
救い主はエルファスか、イースターか、それともモウか。
実験のために別室にいる三人を思い浮かべ、何とかという思いでダインの口撃をすり抜けるのだった。
だがダインの方も諦めはしない。
前々からヴォクシーにアプローチをかけていたダインは、邪魔が居ないのを好機とばかりに舌なめずりをした。
その眼光はやはり鰐の如く。
ヴォクシーが仕事に集中するのを待って、ダインはその背後へと忍び寄る。
「ヴォクシー……俺は声掛けたぜ?」
いつものように引いたと思ったのか。
仕事に熱中し始めたヴォクシーには、もはやダインの声も聞こえない。
資料だけを見つめるヴォクシーに、ダインは漆黒の手を伸ばしたのだった。
「ッ……!?」
「無視すんなよ?ああ、返事は良いぜ。コッチに聞くからよ」
「ダイン……!!何して……っ!?」
羽交い絞めにした体は一回り小さく、抵抗も大した事がないもの。
ダインはテーブルの上に組み伏したヴォクシーに自身の息子を押し当てる。
「触るだけでも堪んねぇな……!」
男にしては細い首。
無精に伸びた柔らかな髪の毛。
実年齢からは程遠い滑らかな肌。
メリハリの少ない子供のような体型。
ズボンの上から触れたアソコもささやかなもので――ダインにとっては理想の子供じみた体に熱は増すばかり。
緊張と恐怖で硬直する手足も、無力に打ちひしがれるしかない声も良い刺激となって、一層ダインを興奮させた。
「まさか犬相手じゃなきゃ、たたねぇなんて言わないよな?」
「ッ……こんな事して」
「あー?ははっ、大丈夫だって。んな口聞けなくなるくらい良くしてやるからよ」
コーヒーの香ばしさ。
煙草のほろ苦さ。
その中に揺れるヴォクシー自身の甘く芳醇な匂い。
犬のように鼻を動かし、ダインは肺一杯にその甘香を堪能する。
他の誰も気にしていない――否、気付いていないようだが、ヴォクシーの放つ香りは酷く抗い難いもので、蠱惑的な蜜を前にダインはごくりと生唾を呑み込んだ。
「ハッ……ヴォクシー」
「やめ……っ」
「そう怖がるなって。ちゃーんと優しくしてやるからよ」
泣きそうな顔もまた煽情的なもの。
ダインは剥き出しになった自身の熱を押し当てる。
だが乱暴にするのが目的ではない。
「ほら……力抜けよ」
気が急くのをぐっと我慢して、怯えるヴォクシーの双丘へと手を伸ばした。
息を呑む声が小さく響き――
「……あ゛?」
高揚する間もなく、ダインは不機嫌な声を背後に向ける。
聞こえたのは自動ドアが開く乾いた音。
震える声を塗り潰すその音は、さりとて今聞こえて良いはずのものではない。
エルファスたちが戻ってくるにはまだ早く――ダインは突然開いたドアに目を向けた。
そこにいたのは黒い犬。
状況を理解してない様子の犬に、ダインはギリ……と奥歯を噛んだ。
「お前……ったく、どんだけヴォクシーの事が好きなんだよ」
何の意図か因果か、ヴォクシーの傍にいる事を許された野犬。
ヴォクシーの騎士を気取って隣を離れない犬に、何度苛立ちを募らせた事か。
生意気な犬を相手にダインは顔を歪め――すぐにヴォクシーに意識を戻した。
「どっか行け。こっちは今忙しいんだ。それとも何だ?指くわえて見てるか?お前の飼い主が女になるとこをよ!」
「ッ……やめッ」
「ほら、ヴォクシー……お前も教えてやれよ。お前が誰のものかってよ」
大きかろうと所詮は犬。
物言えぬ乱入者を気にも留めず、ダインは乱暴にヴォクシーのズボンへと手を伸ばす。
しかし、暴言を吐けたのはそこまでだ。
「ウルル……――グガウッ!!!!」
紫苑の目に雫を溜めるヴォクシー。
その光景を見た瞬間、犬の頭には血が湧きたち、次の瞬間にはヴォクシーを組み敷くダインへと飛び掛かっていた。
慌てて避けようとしたのが運の尽きか。
それとも逃げる余裕すらなかったか。
こだまするのは――ダインの絶叫。
腹の底から唸り声を轟かせた犬は、もつれあいの末、剥き出しになっていたダインの息子に噛みついたのだった。
飛び散る赤色が犬の顔を染める中、ダインは床を転がり――ヴォクシーは力が抜けたのだろう。
「ひっ……ひい!俺の……ッ!俺のがああ……っ!?」
激痛とショックに慌てふためくダインには一瞥もくれず、解放されたヴォクシーはへなへなと座り込む。
その最中にもダインはよろよろと、それでいて素早く部屋を飛び出し、医務室の方へと走っていくのだった。
「クソッ……!クソが!覚えてろ……覚えてろよ、このクソ犬……!!」
「ギャワワン!!グギャウ!!」
尻尾を巻いて逃げ出すダインに、犬はなおも叫び――
(クソッ!!逃げやがって!!)
しかし、追いかける真似はしない。
二度と舐めた真似が出来ないよう、噛み千切るつもりだったが、今はヴォクシーを慰めるのが先決だ。
(オレのに手出してんじゃねえ!!二度ともどってくんな!!)
這う這うの体で転がるダインを威嚇の遠吠えで見送り、犬は脱力したヴォクシーへとすり寄った。
(大丈夫か!?)
「あ……怖かった……」
(何もされてねーよな!?なあ!?やっぱかみちぎるべきだったか!?)
泣いてしまいそうな顔。
小刻みに震える体。
拒絶するように歪む悲しい匂い。
(うあっ!わ、わわっ!泣くな!泣くなよ!オレがいるだろ……っ!おいはらってやったから……!!もう大丈夫だから!!オレまで……嫌わないでくれよ!!)
ヴォクシーの傍に居なければ――その想いがなければ、確実にダインに追い打ちをかけていた事だろう。
復讐より大切な人を選んだ犬は、ヴォクシーに体をこすり付けては、必死にその苦悩を癒そうとするのだった。
影の差した匂いは重く、暗く。
拒絶の感情がヒリヒリと身を焼き尽くす。
それでも――献身が伝わったらしい。
息詰まる空気は甘さを帯び、やがて長い長いため息の末に、ヴォクシーは笑ってみせた。
「ありがとう。助かったよ」
だがレンズ越しに覗く紫苑には悲しみが宿ったままだ。
不安に首を傾げれば、ヴォクシーはただ優しく頭を撫でてくれた。
「ごめん。……ごめんね」
「アウ?」
「僕のせいで君を巻き込んでしまった。手は尽くすけど……もう一緒には居られないかもしれない」
何を言っているかは知れないが、簡単に恐怖は消え去らないという事だろう。
いつまでも声を震わせるヴォクシーに、犬は黙って体を寄せる。
(すぐ気付いてやれなくてごめんな。次からはもっと……もっと早く助けに来るからな)
すれ違う思いが届く日は来るのかどうか。
互いの不安と後悔が交わる事がないまま――その夜、ヴォクシーは犬を抱きしめて眠った。
「……ごめんね」
(あったかい……へへっ)
いつもは床に用意されたベッドの上。
初めてヴォクシーの寝床に乗った犬は、幸せいっぱいにヴォクシーの胸に身を寄せる。
(すき。すきだ――なのに名前も分かんねぇ。でも好きだ)
ずっと、この腕に抱かれていたい。
この温もりと香りに包まれていたい。
いつか――いつかはきっと。
(お前と同じになりたい。お前といっぱい喋りたい。二本足で立って、あったかいものに包まれて、カリカリなんかじゃなくてグチャグチャした餌食って……そんでお前のこと抱きしめるんだ)
愚かな願いだとしても、ヴォクシーに相応しい雄になりたい。
ヴォクシーと共に生きていきたい。
(お前も……同じ気持ちだといいな)
悲しみに暮れるヴォクシーの気など知らず、犬は幸福の中に微睡むのだった。
❖
「……誰もいねーのか?」
時刻は深夜、丑三つ時。
病棟に運ばれたダインは、簡素なベッドの上で目を覚ました。
ここに来たのは十数日前。
忌々《いまいま》しい獣に、大事な大事な息子を噛み千切られかけたのが原因だ。
研究棟にある医務室では事足りず、研究棟の一つ隣――病棟での緊急手術を行う羽目になったのである。
もっとも、それは延命のためではない。
壊死が広がらないよう、患部の切除を余儀なくされたのだ。
全身に麻酔を打たれ、何日も熱と悪夢にうなされ、男としての誇りも失い――募るのは憎悪だけ。
目覚めた後も汗は引かず、高熱はぶり返し、食事も喉を通らず、何故こんな苦しい思いをしなければいけないのだろう。
(絶対許さねぇ……)
心の中で呪詛を吐き、真夜中に覚醒したダインはまだ熱い額を腕で拭った。
「……クソッ」
夜中とはいえ、どうして看護師の一人いないのか。
怒鳴る相手のいない状況に、ダインは余計に怒りを募らせる。
痛み止めもなければ、酒もない。
そんな状態で寝ろという方が無理な話。
目が冴えてしまったダインは、悪夢を追い払うように体を起こした。
邪魔になるのは見慣れない細い管。
その先が伸びる場所に気付き、ダインはまた低い声を絞り出す。
「覚えてろよ、あのクソ犬」
腹から伸びるチューブも、ベッドの下に置かれた尿を溜めるための器も、何もかもが気に入らない。
気に食わないが――最後に笑うのはあの犬ではない。
ダインは息を吐き、身の振り様を考える。
(他はともかく……あの犬だけは叩き潰す。じゃねえと俺の気が済まねえ)
どのみちあの場にいたのは自分とヴォクシーだけ。
普段の行いの悪さはともかく、第三者が物言えぬ犬の時点で、ダインとヴォクシーの言い分に決着がつく事はないのだ。
使い捨ての職員ならいざ知らず。
貴重な研究員であるダインに手を上げたとなれば、憎い犬だけは自ずと排除できるだろう。
問題はどうヴォクシーを言い包めるか――だろうか。
本人はあまり自覚がないようだが、ヴォクシーは上層部のお気に入りだ。
磨けば光る原石とでも言うべきか。
日本人らしい、あどけなさの残る顔立ちも、西洋人に比べて線の細い体つきも、蠱惑的な色を宿した紫苑の瞳も。
ヴォクシー自身が考えるよりずっと、他者を惹き付ける魅力を有しているのである。
何より、あの甘く濃密な香り。
得体の知れないものすら引き寄せる暁光に触れてしまえば、一度で諦める気も到底おきない。
むしろ執着が増したというべきか。
(ヴォクシー……。ヴォクシー……!次は優しくなんかしねえ。すぐブチ込んでやる。ヒヒッ……ハハハッ!どんな顔で泣くんだろうなぁ……?)
人間、手に入らないものほど欲しくなるというもの。
ダインはヴォクシーへの執着を燃やし――束の間、緩みそうになる頬を元に戻した。
(……なんだ?)
聞こえてきたのは足音だろうか。
物音が聞こえた気がして、ダインは暗がりの方へ視線を向ける。
見回りの職員か看護師が来たと考えるのが普通だが――やはり気のせいかもしれない。
それ以上の音は届かず、拍子抜けしたダインはボリボリと頭を掻いた。
その横に大柄な男が現れる。
「うおっ!?」
いつの間に近付いたのか。
それとも最初からそこにいたのか。
屈強なダインと比べても、一回りは大き巨人の如き男に、ダインはビクリと体を震わせるのだった。
「起きていたのですね」
「な、なんだよ……脅かしやがって。お前は……どっかで見たな。よくヴォクシーの奴といる――……」
「専務理事ならびに警護隊長を務めております――クレインと申します。顔も名前も覚えて頂かなくて結構。その必要がどこにもありませんので」
「……あんだと?」
つい息が上がりそうになるが、それは具合が悪いからに他ならない。
言い聞かせるように口角を上げ、ダインは目の前の男の顔を見る。
だが笑うのは一瞬のこと。
不可解な言葉にすぐさま笑みを消した。
いつもなら掴みかかるところだが、そこまでの気力は戻っていない。
眉を寄せるに留まったダインに、クレインと名乗った男は薄く笑む。
「昨今は死刑囚もそう多くありませんからね。人の売買も厳しくなるばかり。あまり買い過ぎても疑われてしまいますし……再利用が一番なのです」
「何が言いてぇんだよ」
「そこまで馬鹿だったとは……いえ、馬鹿だからこそ此度の騒動が起きたのでしたね。研究員ダイン――おっと、間違えました。Dクラス職員ゲイブ・ガードナー」
「……D……クラス?」
天気の話でもするように普遍の男。
その何て事のない声が、気味の悪い言葉ばかりを紡ぎ――その最後、ダインの名を告げる。
思わず鸚鵡返しに溢すダインに、クレインは能面の如き笑みを注いだ。
「犯罪者を実験に使っている――噂くらいは聞いた事があるでしょう?もっとも噂ではなく、真実なのですがね。あなたにはDクラス職員として、命を張って仕事に励んで頂きます」
「待て……待てよ。俺は……っ」
「忘れたとは言わせません。投獄されたあなたを解放したのは我々です。研究員として職務を果たせないのなら、犯罪者に戻って頂くほかないでしょう?」
ダイン――本名をゲイブ・ガードナー。
メラニズムに生まれた彼は、小さい頃から酷い仕打ちを受け、薄汚い大人というものを嫌うようになった。
結果、彼は幼い子供に性欲を抱くようになるのだが――当然、手を出してしまえば、ただの犯罪者でしかない。
脅迫、窃盗、暴行と、いくつもの罪を重ねた末にブタ箱にブチ込まれたのだった。
しかし優秀な工学者であったことも事実。
財団B・O・Xの目に留まった彼は、研究員として財団に所属する代わりに、釈放の機会を得たのである。
その権利を剥奪されると気付き――ダインは痛みを無視してクレインに追い縋った。
「待て……っ!待ってくれ!もう一度!もう一度で良い!チャンスをくれ!」
「もう一度?」
「もう馬鹿な真似はしない!いやっ、しません!ちゃんと仕事に打ち込みますから……!お願いします!」
「不思議な事を言いますね。あなたはすでに命を拾われた。そしてその命をドブに捨てた。何故二度目の機会を与えなければいけないのですか?」
だが剥奪――否、人権すらない実験体への降格は決定済みらしい。
まるで理解できないと嘯くクレインに、ダインは青筋を浮かべるのだった。
「ふざっ……ふざけんなよ!!」
やり直せると思った矢先の事だ。
ただでさえ怒り狂っていたダインは、後先考えずに拳を突き出した。
熱にうなされているとはいえ、憎悪の乗った渾身の一撃だ。
黒い拳はクレインと名乗った男の顔面を捉え、その鼻を叩き潰した。
ボキリと砕ける音が響き――ダインは短い息を吐く。
「は……?何でだよ……?」
曲がっているのは、捩じれているのは、振りかぶったはずの自分の指だ。
血を流す手を見つめ、ダインは視線を小刻みに震わせる。
背筋を伝うのは嫌な冷や汗。
今までずっと暴力で物を言わせていたのに、それが適わないとなった途端――ダインの中にそこはかとない恐怖が湧き出してくる。
逃げる事もままならないダインに降り注ぐのは、やはり平坦なままの声。
「もう終わりですか?」
「ひっ……!!」
「腕はまだ一本あるでしょう?足は二本もある。ほら、どこからでもどうぞ?」
「あ……ああっ!!許してくれ……っ!!頼むからっ……!!嫌だ、嫌だ……俺は研究員だろ!?」
「元――ですがね」
ニコリ……と笑った顔は能面だったのか。
もっと悍ましい何かだったのか。
暗闇に無惨な声が響き渡り――それを境にダインは施設から姿を消した。
無論、その事実を知る者はいない。
ダインが生き地獄を味わっているとも知らず、日常は何の気なく回っていくのである。




