「BOX in the past」(01)
「財団B・O・X」にまつわる記録
夢を見た。
あるいは全てを思い出した。
(――そうだ)
噛み付いた熱は冷たく。
手繰り寄せた糸は細く。
それでも解けないように、消えてしまいそうな白を抱き留める。
(俺はずっとお前が――……)
甘い、甘い香り。
甘い、何よりも甘い充足。
噎せ返るような甘さを胸に、その怪異は全ての始まりを辿るように、真紅の目を閉じるのだった。
❖
しんしんと降り始めた真雪。
冬の訪れを知らせる、美しくも残酷な白が大地の上へと降りかかる。
その白を手で払い――
「……――おや?」
小ぶりの斧をその手に掴む傍ら、眼鏡の男は震える塊に目を向けた。
狙っていたのは、蟒蛇一匹。
恐らくは冬眠を前に急いていたのだろう。
年老いた個体だったのか。
巨体の割には無様に痩せ細った大蛇が、血走った目を光らせ、枯れ往く森を彷徨っていた。
専門家、あるいは愛好家でもなければ、見た目だけで毒の有無を判断するのは難しいもの。
眼鏡の男はいささか迷うが、相手は人間の手足くらい簡単にへし折ってしまいそうな巨大な蛇だ。
警備の目を掻い潜るのは多少気が引けたが、調査の邪魔をされたくない思いもあり、安全の確保のためにも先んじて手を打つ事にしたのである。
動物を愛する同僚には怒られそうだが、仮に男がやらずとも、警護もとい監視に同行する職員たちが手を下す事に変わりはない。
悪戯に蹂躙されるよりは、ひと思いに駆除される方が楽だろうと、少なからず論理的に判断した男は、隙を晒す蟒蛇へと手斧を振りかぶったのだった。
そこまでは良いとして――どうやら、大蛇はこの塊に気を取られていたらしい。
「……犬?いや、狼かな?」
これまた痩せ細った黒い毛玉に、男はこてんと首を傾げてみせる。
果たして冬の山奥に犬がいるだろうか。
狼の方が自然だが――その実、狼というものは、ほとんど生息していない。
絶滅に追いやられ、今居る場所にも生息確認はされていなかったはずだ。
しかし黒く汚れた塊は、犬というよりは狼に似ているようである。
無論、狼に似た犬種がいる事は眼鏡の男も知っているが、やはり専門家でもないと判断のつかぬこと。
「まあ……どっちでも良いか」
男はなおざりに溢し、プルプル震える獣から目を逸らした。
どちらにせよ、子供と思しき獣が一匹でいる事は珍しい。
十中八九、群れからはぐれたのだろうが――もっとも、そうと知って手を貸すような真似もしない。
男は大蛇の首を落とした斧を、手袋に覆われた手に掴み直した。
その際、小さな獣に手が当たるが、さして気にする事でもないだろう。
男は立ち上がり、白い息を吐き出した。
「熊が出なきゃ良いけど」
この世は弱肉強食。
最後まで面倒を見る気のない相手に手をかける方が酷というもの。
元より獣を助けるために、目に付いた蛇を排除したわけではないのだ。
どこか哀愁を誘う獣はそのまま、男は手早く踵を返す。
しかし、それは男の都合。
男が立ち去る前に、獣は厚手のブーツに守られた足にすり寄った。
「クゥン」
「あー……助けたわけじゃないんだけどな」
「クゥーン」
思わず溢すが、獣に言葉が分かるはずもなく。
反応を貰った獣は、立ち止まった男の足元をくるくると歩き回った。
先程までの元気のなさはどこへやら。
千切れんばかりに尻尾を振って、黒い獣は小さな体を擦りつける。
「アォン!」
「……困ったな。助けたわけじゃないし、君を連れて行く事は……出来ないんだ。あそこはそういう所だから」
「ワフッ!バフフフッ!」
「ああ……分かってる。言っても通じないのは分かってる。でも無理なものは無理なんだ。だから……ほら。取っておいで」
蛇一匹でここまで懐かれるとは。
予想外の状況に眉を下げた男は、近くに落ちていた枯れ枝を掴み――力の限り遠くへと投げ飛ばした。
「ウワンッ!!」
そこまで飛距離は伸びなかったが、獣は遊んで貰えると思ったのだろう。
嬉しそうに吠えると、飛んでいった枝目掛け一直線に走っていく。
長い尻尾がブンブンと揺れる様を見送――数秒。
「……合流しないと」
男は困惑とも安堵ともつかぬため息と共に、今度こそ踵を返すのだった。
そうとは知らず、獣は枝にまっしぐら。
吹き溜まりに転がった枝へと飛び込んだ。
(コレ!コレだ!)
勢いよく飛び込んだそこには無数の枯れ枝が落ちていたが、とびきり甘くて、とびきり美味しそうで、とびきり魅力的な匂いがする枝は一本だけだ。
男の匂いがついた枝にかぶりつき、獣はまた駆けだした。
一体どこにその元気があるのやら。
まるで傷が癒えた――それこそゲームよろしく、回復魔法を使ったかのように元気を取り戻した獣は、男がいた場所へと疾走する。
(コレ!もってきた!もってきたぞ!)
だが、そこに男の姿はない。
誇るように枝を取って来た獣を待つのは、申し訳なさそうに木の傍に寄せられた蟒蛇の亡骸だけだった。
(え……?)
ポトリ……と口から落ちる枯れ枝。
置いて行かれた獣が唖然とする中――眼鏡の男は本来の目的へと着手する。
無論――
「どこに行っていたのですか?Sir.ヴォクシー、あなたにもしもの事があったら……ここにいる全員、処罰されるのですよ。まあ命が保障されたあなたには、彼らの事などどうでも良いのでしょうが」
警備に同行する相手からの苦情と、寒い中待機していた職員たちからの冷たい視線のプレゼント付きだ。
偵察はおろか人員配置まで終わり男――ヴォクシーを待っていたらしい。
防護服に身を包み、その手にはマシンガンやらウージやら。
簡単に人を殺せる道具を持った相手に非難された男は、ほんの少し身を小さくする。
「悪かった。悪かったから……そう怒らないでくれ。蛇を見つけたから、先に処理しておこうと思って……」
「それこそ我々の仕事でしょう――Sir.ヴォクシー?」
「……正論過ぎて言葉も出ないよ。すまない。軽率だった事は謝るよ」
「ご理解頂き感謝します……が、もう一度言っておきます。あなたに万一があれば、ここにいる者は皆死にます。もっともそれを知るのは自分とあなただけですが……人が死ぬ瞬間など見たくないでしょう?」
「当然の事を聞かないでくれるかい?」
「自分も殺したくはありません。ああ――誤解なきように言うと、あなたのように優秀な人材を――です。有象無象が何人死のうが私には関係ない事ですから」
「……嫌な事を言うね。彼らのためにも以後気を付けるよ」
警護部隊の隊長といったところか。
実際には組織のNo.2。
専務理事でもある大柄な男がヴォクシーへと笑いかける。
内容はけして穏やかなものではなかったが、男にとっては天気を尋ねるくらい何てことのない話だったのかもしれない。
脅迫めいた言葉を投げかけられたヴォクシーは、口をへの字に曲げながら手袋を真新しいものに取り換える。
(僕用の脅し文句ってとこだろうけど……良い気はしないな。何かあった時に隠滅するのは事実だろうしね)
物騒極まりないが、それがヴォクシーの選んだ道。
ヴォクシーの属する組織というものだ。
その名も財団B・O・X。
通称BOX財団。
現在の科学では解明できない事を研究・解明し、人々のよりよい生活のために役立てる――健全でホワイトで慈愛に溢れる研究組織だ。
もっとも、それは表向きの話。
平和や科学の発展を謳うのは見せかけで、集めた資金を基に怪奇現象の調査・研究・収集行うのが財団の実態である。
そこだけを聞くと道楽にも聞こえるが、目的のためならば手段を選ばないのがこの財団B・O・Xというものだ。
不老不死や無限の金塊を餌に投資者を集め、金や権力を傘に違法に人材や資料を集めるのは序の口。
危険な薬や兵器を所有するに留まらず、時には人の命をゴミのように扱っているとか何とか。
甘い言葉と給金で人を誘い、一度でも属したが最後、死ぬまで外へは逃がさないのだった。
もしくは、死ねば出して貰えると言うべきか。
無論、そのどれもが噂に過ぎないが――火のないところに煙は立たない。
甘言に騙されたとは知らず、あくせく働く職員たちを横目に、ヴォクシーは心の中でため息を吐き出した。
(……自分だけなら良いんだけどな)
研究員として財団に属すると決めた時、そこが終の場所になる事は、薄々感じていた。
だからこそ自分が消耗品のように扱われる未来も、命を落とす可能性も、全てを受け入れて財団へとやって来た。
しかし、研究員として招かれたヴォクシーの待遇は破格なもので。
名前を覚える間もなく移り変わる人々を、どんな思いで見つめれば良いのだろう。
しかして文句は声に出さない。
護衛という名の人質を気遣うように、ヴォクシーは警護隊長を仰ぎ見る。
「寒いし……早く終わらせよう」
「やる気があるようで何より。案内しますので、私の傍を離れないでください。金で雇われただけの連中は、いつ裏切るか分かりませんからね」
一番の危険分子は君だ――そう言いたいのは山々だが、相手の言い分もそう間違っているものではない。
結局は誰も彼も同じこと。
それが金であれ、薬であれ、享楽であれ、自分の求めるもののために、この道を選んだのだ。
ヴォクシーは何も答えず、先導する隊長の後を着いていった。
目指すは人知れず滅びた廃村。
誰の所有物でもないその場所で、研究に役立つものを見つけるのが、此度のヴォクシーの仕事だった。
(気が引けない――と言えば嘘になる。けど、ただ朽ちるだけのものだ。有効に使わせて貰うよ)
行政すら匙を投げ、地図からも抹消された場所ともなれば、無断で立ち入ろうが、何を持ち帰ろうが、その結果悲劇が起きようが、全ては自己責任だ。
民話が記された書物や、祈祷や呪いに使われたかもしれない道具。
村で行われていた神事や祭、崇められていた神仏に関係する物。
そういった曰くありそうな記録を求め、自然に還りつつある村の跡を、慎重かつ丁寧に物色する。
かつて村に住んでいた人々はどこへ行ったのか。
雨風に晒され腐った木材と、伸び放題の蔦と、錆びた鉄器の欠片ばかりがヴォクシーを出迎え――早数時間。
「……持ち帰れそうなものはないか」
半ば分かってはいたが、成果という成果はどこにもない。
もっとも、成果がある方が稀なこと。
野晒しになって久しい場所に、朽ちずに済んでいた物はほとんどなく、手ぶらのままのヴォクシーは護衛を相手に乾いた息を吐き出した。
「霊現象が起きる気配もなし。動物は少ないけど……まったく居ないわけでもないしね。強いて言えば、腐敗の進行度が気になるってくらいかな」
「では……ハズレと?」
「今日の所はね。怪奇現象の観測なんてそうそう出来るわけじゃないし、時間も良くない。まあ……年月に対して綺麗過ぎるのは気になるかな。動物や虫を寄せ付けない何かがいる――その可能性は0ではないと思うよ」
霊場――霊山――鬼門――異界。
種類も表現も無数にあるが、そういった場所は往々《おうおう》にして死が満ちるものだ。
もしくは、時の流れが歪んでいるか。
鼻の利く獣たちが踏み荒らすのを恐れるその場所に、怪異と呼ばれる者たちは潜んでいるのである。
無論、街中を闊歩する幽霊も居るが――それらは大抵、恨みを募らせた地縛霊と呼ばれるものだ。
無差別に悪意を振りまき、凄惨な事件を引き起こしかねない彼らと、ただ静けさを守る廃村とでは、棲まう者はまったくの別だろう。
「おわすなら神仏――山神のようなものじゃないかな。村の終わりと共に滅びてしまったんだろうけどね」
状況を冷静に検分したヴォクシーは、憂うように空を仰いでから、泥と埃にまみれた手袋を脱ぎ取った。
燃えるゴミと化した手袋を受け取り、隊長はヴォクシーに視線を落とす。
「なるほど。ところで……体調はいかがですか?」
「別に……いつも通りだよ。気分はあまりよくないけど、それもいつもの事さ。仕事とはいえ、スレスレの事をするのはどうしても……ね」
「そればかりは慣れて頂かないと。あなたに訪れて頂きたい場所は五万とあるのですから」
「……はあ。一つくらい成果がある事を願っておくよ」
このやり取りも何度目か。
ヴォクシーの外部調査は決まって、この男が警護を受け持つのだが、体調を尋ねる義務があるのかもしれない。
(調査の後はお腹が空くけど、遠出すればそりゃ……ね。とり憑かれてるかって話ならまあ……。そもそも幽霊に会えてすらいないけど)
特筆すべきは異様なまでの空腹感。
しかしそれは、遠出と集中によるものとしか思えない。
ヴォクシーはお腹を擦り――
(……そういえば、前もこんな事あったな。あの時も無性にお腹が空いたけど……ふふ。あの時はたくさんご馳走になっちゃったな。結局ろくに返せないまま……元気にしてるかな)
ふと昔の事を思い出す。
口が上手く、気品に溢れ、いささか押しの強い――晴天の如き瞳の内に五芒星を宿した後輩。
食欲が異常だった時期、偶然にも傍にいてくれた彼は、事ある毎に食事に連れていってくれたものだった。
自分には不釣り合いな、華やかで、自信に満ちた彼は今、何をしているのだろう。
上手いこと世を渡っているだろうが、無論、それを知る手立てはない。
(もう連絡を取れない――って知ったら怒るだろうな。でも相談したら……絶対止めただろう?それに連絡をくれなかったのは君も同じだ。だから……おあいこだよ。僕たちの道はあそこで分かれたんだ)
つい言い訳じみてしまうのは、彼の存在がそれだけ大きかったからか。
財団――一度入れば、二度と出る事の叶わない檻に自ら足を踏み入れたヴォクシーは、泣きそうな顔で自分を見る男の姿を頭から追い払った。
「……帰ろう」
「分かりました。撤収します」
過去を懐かしむ理由など精々一つ。
憑かれてはいないが、疲れてはいるという事だ。
こんな時は早く戻って、コーヒーを片手に資料に目を通すのが一番だと、ヴォクシーは夜を待たずに廃村を去る。
(今回も成果なし……か)
きっと、夜まで待っても同じこと。
怪異なんてものも、幽霊なんてものも、いくら探しても観測出来やしないのだ。
空想を現実に変えるなんて事も。
そもそも幽霊を証明する事も。
どれだけ信じ、どれだけの時間を注ぎ、どれだけ労力を捧げようと、頭のおかしな者の夢でしかないのである。
自棄気味に踵を返し――
(いつになったら僕は……いや、まだだ。まだたったの三年。時間はいくらでもあるじゃないか)
それでも信じない事には始まらない。
夢を追わずにはいられない。
諦める事はまだ出来ない。
雪に呑まれ始めた山を感慨なしに見送り、ヴォクシーは待機していた護送車に乗り込んだ。
それから数時間。
否――一日掛かりだったか。
財団B・O・Xが抱える極東支部。
ヴォクシーの故郷でもある島国の森の奥――終の住処であり、仕事場でもある研究施設に戻って来たヴォクシーは、車を降りて早々、凝り固まった体を伸ばした。
「んー……うぅ…………ん?」
しかし、一本吸う前に何か起きたらしい。
煙草を求めて胸の前を彷徨う腕が、けたたましい叫びによって止められる。
「そっち行ったぞ!」
「早く捕まえろ!」
稀に職員同士の揉め合いが起きるが、その類だろうか。
ヴォクシーが乗っていた護送車。
そのすぐ後ろを走っていた運搬車両から聞こえてきた騒音に足を止めると、それは勢い良くヴォクシーの胸に飛び込んで来た。
「ッ……!?」
「ギャワワッ――ワフッ!!」
突然の事に体が動かなかったが、飛び付いて来た塊は、そこを目指してきたのだろう。
ガッシリとしがみ付く黒い塊に、ヴォクシーは紫苑の目を丸くした。
「えぇー……そんな事ある?」
「ワフッ!ハフッ!」
「せ、先生!!お怪我は!?」
「申し訳ありません!荷物に紛れ込んでいたようで……すぐ剥がします!」
黒くて小さくて小汚い塊。
それは間違いなく、ヴォクシーが助けた獣のそれだ。
いつの間に紛れ込んだのか。
執念深くヴォクシーを追いかけてきた獣は、絶対にここを離れまいと、詰め寄る職員たちに牙を剥く。
「ギャワワン!!ガウルルルッ!!」
「コイツ……ッ!」
「何て凶暴なんだ……!」
「そっち掴め!オイ!銃はやめろ!先生に何かあったらどうするんだ!?」
子供とはいえ鋭利な牙と爪を持った獣だ。
ヴォクシーに張り付いている以上、銃で仕留めるわけにもいかず、防護服を着た職員たちは手をこまねくばかり。
最悪、首が飛びかねない彼らを見やり――
「こら。暴れない」
「……ワフッ」
「そう……良い子だ。まったく……どうしてこんな所に来てしまったんだい?」
ヴォクシーは痩せ細った獣の尻を支えてやった。
犬どころか子供の扱いもろくに知らないが、静かに語り掛ければ、獣も自分に意識が向いたと気付いたらしい。
途端に溜飲を下げ、機嫌良く喉を鳴らし始めるのだった。
その様子に職員たちも毒気を抜かれたらしい。
ほっと胸を撫で下ろし、かといって見過ごす事も出来はしない。
静観していた隊長。
その男の顔色を窺って、一人、また一人と、権限を持つ男のために道を開けていくのだった。
波を割るように人が避ければ、向かい合うのはヴォクシーと隊長ただ二人だ。
「これは困りましたね」
「……困ってるようには聞こえないけどね。それで……どうするんだい?出来れば逃がしてあげて欲しいけど」
能面のような笑顔とはこの事か。
無意味な殺生を望まないヴォクシーは、とても困った風には見えない警護隊長――今は専務と言うべきかに、獣の放免を打診する。
もしかしたら、あのまま息絶えていたかもしれない獣だ。
しかし手を下さなければ、余計な恐怖を味わわずに生きられたかもしれない獣でもある。
実験用のマウスやモルモットを幾匹も弔ってきたヴォクシーが、今更命を尊ぶのもおかしいかもしれないが、今逃がす事が出来なければ、この獣の末路は二つに一つ。
殺処分か、実験動物にされるか――だ。
自分のせいでその二択を迫られるくらいなら、待ち受ける未来はともかく、逃がしてくれと頼むのも不思議な話ではないだろう。
「…………」
「…………ふむ」
重苦しい静寂が流れた末、隊長もとい専務は、ヴォクシーにいたく懐いた様子の獣に視線を落とした。
藍色の目でじっくりと獣を見つめ、同じくヴォクシーをじっとり見つめ――専務は目線だけを僅かに上へと向ける。
きっと何かを思案しているのだろう。
数秒そうした果て、やはり能面のような顔で微笑むのだった。
「他でもないあなたの頼みです。善処しましょう。無論、決めるのは会長ですので……希望に添えずとも、文句は言わないでください」
「……受け付けないの間違いだろう?」
「そうとも言います。では決定が下るまで……世話を任せます。しっかり手綱を握ってください。でなければ……」
「分かってるよ」
問答無用で殺処分――聞きたくもない物騒な言葉を遮り、ヴォクシーはついてきてしまった獣を撫でる。
「……一先ずは良かったね」
「アフッ!」
恐らく言葉は伝わっていない。
頭を撫でられ喜ぶ獣を胸に、ヴォクシーは施設に用意された研究棟へと向かっていった。
さてはて、犬ないし狼は何を食べるのか。
何も分からないが、動物の事ならば同僚の一人――イースターが何とかしてくれる事だろう。
(この子さえ大丈夫なら、そのまま押し付ければ良いしね)
シャワーを浴びるにも、体調を調べるにも、まずは専門家の元へ。
研究棟の中に用意された居住エリアに辿り着いたヴォクシーは、自室ではなく、一つ隣の部屋の扉を叩いた。
「イースター。僕だ。ヴォクシーだ」
「おっかえりー。何かあった?」
出てきたのは小柄な女性。
髪も肌も白い、下手をしたら少女にさえ思える女が、唯一の色彩を持つ赤い目でヴォクシーをチラと仰ぐ。
彼女の呼び名はイースター。
ヴォクシーと同じ、財団B・O・Xに身を置く研究員の一人である。
先天性色素欠乏症として生を受けた姿は、まさに白兎のよう。
だからこそ復活祭のうさぎの名を与えられたのだろうが――本人が気に入っているかどうかは別だ。
同僚というかは友達、もっと言えば姉弟のように気の置けないイースターを相手に、ヴォクシーはまだ小さな獣を押し付ける。
「この子、頼みたいんだけど」
「えっ!?何ナニなに!?飼って良いの!?実験動物じゃないよね!?うっわ~!!か~わいい~!!」
「ギャワッ!?」
「はーいはい!大丈夫だからねー!怪我してるみたいだし、ちゃちゃっと診ちゃおっか!ヴォクシーは邪魔だから部屋行って良いわよ。というか臭いしシャワー浴びてきたら?」
「そうさせて貰うよ。それじゃあ……暴れないでくれよ。適当に戻ってくるから」
遺伝子疾患の事もあるだろうが、イースターは人間より動物が好きらしい。
差し出された獣を即座に抱き上げ、ボサボサの毛に頬ずりをする。
傍ら、ヴォクシーへは辛辣なものだ。
もっともヴォクシーが臭いのは紛れもない事実で、腐臭と泥にまみれた体はお世辞にも綺麗なものではない。
それは獣も同じだが、雪で湿った獣の匂いは気にならないらしい。
「まだ一歳くらいかな。痩せてはいるけど元気そうね。傷の確認したら、君もお風呂入ろうね~!」
「ンワフッ!!ギャウ~……ッ!!」
小柄な容姿に反し、圧倒的なまでの力で抱きしめられた獣は成す術なし。
情けない声が背中に訴えかけるが、獣を託したヴォクシーは、自身も汗と疲れを落とすべく一つ隣の自室へ戻っていった。
(怒られそうだしやめとくか)
ポケットから出した煙草は、逡巡の後テーブルの上へ。
コーヒーメーカーのスイッチを入れてから、備え付けのシャワールームに身を滑らせる。
今頃、あの獣も風呂場の中か。
防音のため音は聞こえないが、慣れないお湯に慌てふためている事だろう。
だが相手はイースターだ。
いかにあの獣が凶暴でも、イースターに任せておけば問題はない。
同僚――つまりはヴォクシーと同じ研究員ではあるが、イースターの専門はまったくの別物。
れっきとした動物医である。
財団に来る以前は動物園で飼育員をしたり、保護区や禁猟区で動物の保護や治療をしたり、時には密猟者とステゴロでぶつかり合ったり――動物たちと共に波乱万丈な人生を送っていたとか何とか。
生物を熟知したイースターが相手では、どれだけ暴れたところで、手も足も出ない事だろう。
事実、それなりに体を鍛えているヴォクシーでも、彼女に勝てた試しはない。
走る速度でも、体力でも、腕相撲でも。
ゴリラを至上の存在とし、ゴリラを敬愛し、ゴリラに近付かんと努力を続けるイースターに敵う要素は何もなかった。
(……悔しくはないけど。何かこう……腑に落ちない感じはあるよね)
病弱に生まれたからこそ肉体改造にのめり込んだらしいが、どう考えてもボタンを掛け違えたようなもの。
スポーツ選手でも、インストラクターでも、普通に生きる道はいくらでもあっただろうに――運命とは不思議なものである。
(……っと、遅くなっても怒られるか。いやでも早過ぎても怒られるような……?)
その戯言もシャワーに流し、身を清め終えたヴォクシーは、カップに溜まったモカを胃の中に流し込む。
熱すぎず、温すぎず、温度も丁度良いもの。
ほろ苦さの合間に、ミルクの滑らかさと甘さが広がるのを堪能してから、ヴォクシーはまたイースターの――あの獣の元へと向かうのだった。
ただ一つ。
一つ失念した事があるとすれば――財団の残酷さだろうか。
「A班が総入れ替えだってよ」
「事務送りって話だけど……そっちのが楽そうだよな」
「たしかに。オレもこんな郊外じゃなくて、ビルのパトロール行きてぇよ。給料良くても出会いの一つねーもんなぁ」
数日も経たぬ内に、耳に入った警備隊の解体――および左遷。
気楽に語る職員の声に、ヴォクシーは一人顔を険しくする。
(……やっぱり駄目だったか)
丸く収まったようにも思えたが、あの専務が手緩い真似をするはずがない。
責任を問われた彼らは、恐らく二度と帰ってくる事はないのだろう。
それでも――
「ワフフッ」
「また大きくなった?子供とは聞いてたけど、随分と成長が早いんだね」
助かった命があることも事実。
事実上の実験動物のようなものだが、迷い込んだ獣は、研究棟で飼われる事になったのだった。
当然、世話はヴォクシーの管轄だ。
イースターに投げ出してる場合がほとんどだが――何故だろう。
獣がヴォクシー以外に尻尾を振る事はなかった。
「アォン」
「あまり暴れないようにね。君がこうしてここに居るだけでも……奇跡のようなものなんだから」
「ワフ?」
自室に居ても、休憩所でコーヒーを飲んでいても、換気エリアで煙草をふかしていても足元にすり寄ってくる獣。
イースター曰く〝狼犬〟らしい黒い犬は、ここが定位置と言わんばかりに、ヴォクシーの傍で満足気な顔をする。
その頭を撫で、ヴォクシーは寂しげに微笑んだ。
「君は……簡単に死なないでくれよ?」
「ワンッ!」
身綺麗になった犬の毛は柔らかくフカフカで心地が良い。
何も知らずに――けれど元気に応える犬に触れ、ヴォクシーは行き場のない虚しさをやり過ごすのである。
それが二人の始まり。
一人と一匹が出会った本当の場所。
大切な――何よりも大切な、生涯の全てを捧げたいと思える相手を見つけた獣は、甘くて優しい男に身を寄せる。
(おれの。おれのだ)
家族とははぐれてしまったが、大好きな雪のようにふわふわで綺麗なものを見つけたのだ。
(おれがまもってやるからな)
これを運命と言わずして、何と表現するのだろう。
傍に居るだけで満ち足りる。
触れるだけで気力が湧いてくる。
微かなほろ苦さを纏った甘さが身に染みれば、全身に血と力が漲ってくる。
(へへっ……おれの)
この幸福を知ってしまった以上、もう他のものは目に入らない。
獣は手に入れた幸運を噛み締めるように、自らの匂いをヴォクシーに擦りつけるのだった。




