case.1「BOX the P-un」(02)
「怪異って知ってるかい?」
その言葉にアニは目を瞬く。
「カイイ……?」
聞き慣れない言葉の意味を想像する事は難しく、しかして答えてくれる電脳箱[K-hack]もいない。
広がり続ける靄となって蠢く何かと、目を細めるオリアとを交互に見る以外、アニに出来る事はなかった。
それすら想定の内だったのか。
怒りを困惑に変えた赤を見下ろし、オリアは小ぶりの斧から話した手をふらふらと宙に泳がせた。
「伝承、噂、怪談、伝説、それに民話――まあ、表現は何でも良いんだけどね。この世には説明のつかない、あるいは人智の及ばない不可思議なものがたくさん溢れているんだ。怪異もその内の一つ。幽霊や怪奇現象、祟りや呪い――なんてものが怪異と呼ばれる傾向にあるんじゃないかな」
身振り手振りを添えながら、オリアは〝怪異〟が何たるかを口にする。
もっとも、アニにとってはちんぷんかんの教鞭だ。
早口に語られるオリアの答弁に、先にも増して目をパチクリと瞬くしかなかった。
それも束の間――我に返る。
「だから何だってんだよ!?俺が聞きたいのはカイイの事じゃねえ!!アレが何かって聞いてんだ!!」
電脳箱[K-hack]がいれば諫めもしたのだろうか。
寄る辺のないアニは、思わず離しかけていたオリアの胸ぐらを掴み直し、荒々しい剣幕を見せた。
唾が飛んだが、それを気にする――否、それに気付く繊細さなどは持ち合わせていない。
感情のまま叫ぶアニに、オリアは手袋に覆われた指をすっと伸ばした。
間近にまで迫った顔と顔の間に白い人差し指が伸び――
「近道を選びたい気持ちは分かるが、少し遠回りをしようじゃないか。と言っても、答えはもう出ているのだけどね。昔から続く伝承はもちろん、新たに語られた寓話が力を持つ事もあるわけで……我々人類は科学的に説明の出来ないものを、こういった怪異のせいにしてきたというわけだ。まさに今のようにね?」
どこか悪戯に、コツン――とアニの鼻先を小突く。
「っ――!?」
急な接近に意表を突かれたのか。
楽しげに笑うオリアに気圧されたアニはよろよろと半歩下がった。
その拍子に何度履いても硬いままのトレッキングシューズが、地面に引かれた線を踏みそうになる。
四角形に穴が空きかけ――
「おっと!その先は危ないよ?」
「えっ!?あ、おう!?」
引き戻されたアニは声を裏返した。
一気に詰まった距離感がもたらすのは場違いな感想で。
(っ……イイ匂いがする)
やはり少しよれたジャケットを羽織るオリアの胸に飛び込んだアニは、鼻腔をくすぐる甘やかな香りに、自分が置かれている状況をつい忘れそうになるのだった。
微かな苦味と煙たさを感じる香りはどこで嗅いだものだったか。
煙草にも似た眠気を誘う甘い香りに抱かれたアニの頬を、オリアの手が静かに包み込んだ。
「君の知りたいアレ。アレはさしずめ――〝災いの箱〟といったところかな」
「災いの……箱?」
「さる神話の話――全てを与えられた娘がいたんだ。力も魅力も狡猾さも全てを兼ね備えた娘には、とある箱が与えられてね。箱を与えた神様――電脳箱[K-hack]のようなものだね。神様はこう言った。〝絶対に箱を開けてはいけない〟――と」
「それって今の状況じゃ……」
「まさしくだね。さて……Sir.アニ。箱を与えられた娘はどうしたと思う?箱を開けただろうか?神様の言いつけを守っただろうか?」
「どうって……そりゃ、開けないんじゃねーのか?カミサマってのが開けるなって言ったんだろ?」
口煩い電脳箱[K-hack]がいないからかもしれない。
朗々と心地の良いオリアの声に、アニはすっかり溜飲を下げて、紡がれる話に聞き入った。
正直、神というものも怪異というものもアニには分からない。
それでもオリアの話は、不思議なくらい耳によく馴染む。
読み聞かせるような、反面、自らの知識を嬉々として語らんとするその声に、アニはただ物語の続きを待つのだった。
果たして娘はどうなったのか。
指示に従って生きてきたが故の揺るぎない答えを胸に、安堵ある返事を待ちわびるアニへと、オリアはゆるりと微笑んでみせた。
「それが残念――娘は好奇心に勝てなかったんだよ」
灯された言葉にアニは目を丸くする。
電脳箱[K-hack]に導かれるアニにとっては信じ難い話、答えを与えてくれる存在に逆らうなど、そもそも考えもしない事だ。
いかに好奇心が芽生えても、箱を開けるなんて、それこそ理解が及ばない。
馬鹿のする事だとか、愚か者がする事だとか、そんな次元の話ではなく――アニには命令に逆らう事自体が、考える事すら出来ないものだった。
意味が分からないと表情で訴えかければ、オリアは頬に触れていた手を大きな傷痕の残る首に伸ばした。
「……っ」
「すごい傷だ。痛むかい?」
「別に……っつーか、今いいだろ!?」
あの何かに捕まった時に、チョーカーが切れたのだろう。
剥き出しになった凹凸を撫でられるこそばゆさが、神経を通してあちらこちらへと広がっていくかのようだ。
労るような手の温もりを振りほどけないの理由も分からず、アニは朝焼けを思い起こす薄紫の眼差しからふいと目を逸らした。
その首に硬い感触が新たに触れる。
カチリ――と硬質的な音が零れた時には、アニの首には黒いチョーカーがつけられているのだった。
「は??」
すっとんきょうな声が落ちるのも当然か。
犬にでもつけるかのような首輪の存在に、アニはいきなり現実――もしくは地獄に突き落とされたかのような気分になった。
ご丁寧に名札までぶら下がっているのだから性質が悪い。
無論、銀のプレートに刻まれているのはアニの名前ではなく、奇っ怪な紋様か何かなのだが、気分が良いとは言えない贈り物にアニはつい眉を寄せる。
「……んだよコレ」
「んー……拡張装置?いや、増幅装置とでも言うべきかな?僕は異装[I-sow]――と呼んでいるけどね。サイズが合って良かったよ!」
もっともオリアの回答は呑気なもの。
自己完結する要領を得ないその答えに、アニはまた勢いよくオリアに食い下がった。
「サイズが合って良かった――じゃねーよ!イソウなんて言われても分かんねーし、ほんと何なんだ!?アレもコレも全部!意味分かんねーんだよ!!」
叫び――しかして今度は線を踏まないよう気を付ける。
それを健気と言わず何と言うのか。
荒れくれているようで〝指示〟というものに律儀に従うアニを見て、オリアは含みを持った眼差しで笑うのだった。
「簡単な話――分からないなら分かるようになれば良い。アレは君の生み出した虚像。君の根底に眠る恐怖。さりとて今は干渉出来得る肉を持った存在だ。対処出来るものならば怖くはない――違うかい?」
とはいえ、その言葉の意味をアニが理解する事はあるのか。
顔を顰めるしかないアニを見つめ、オリアは有無を言わさぬ手つきで首輪を飾るチャームを引き寄せた。
「な、にを……っ!」
「少しばかり君の力を引き出そう――というだけの事さ。人間は自身の能力のほんの数%しか使えていない――というのが通説でね。僕の造った異装[I-sow]は、その扱いきれていない力を引き出すための電気信号を――……という説明は今は良いかな。とにかく、いつまでもこうしているわけにもいかないしね。異装[I-sow]が君に力を与えてくれる――はず――だから、君にはアレと殴り合って貰おうというわけだよ」
「はああっ!?アレとやり合えってか!?めちゃくなもん運ばせた上で言う事かよ!?人を何だと思ってんだ!?」
「なに、少し――ほんの少しくらい――そう雀の涙くらい!身体に影響が出るだろうけど心配はいらないよ!ちゃんと僕が観測――いや管理してるから、君は何も考えずアレとぶつかっておいで」
「ふざけんな!!イソウかナニか知んねーが、テメーで行けってんだ!!」
「まあまあ、そう言わずに――まあ、言わせるつもりもないのだけど」
「は――――……?」
だがオリアの言葉は馬鹿げたもので。
アニはまた掴みかからん喧騒でオリアへと唾を飛ばす。
巻き気味に口を動かすオリアは、やはりそれをものともせず――
「それじゃあ行っておいで――――アニ」
アニの首を彩る楔。
鍵とも呼ぶべき銀の杭を、ゆるりと笑んでからぎゅっと押し込んだ。
「ガッ……ア、ガ……ッ!!グウウウゥ……ッ!!」
刹那――刺されるような、引きちぎられるような激痛がアニを襲い、意識という意識を奪っていく。
消える事のない傷痕が広がっているとでもいうのか。
裂目のような赤黒い線が大きく口を開いては、呻くアニの体を覆っていった。
ギラギラと光る赤は血管か、それとはまた別の繊維か。
金継ぎの如く、黒一色の中に赤い光彩を走らせる様はすでに人に非ず。
狼男と言うには獣臭く、犬と言うにはどうにも人間臭い漆黒の獣が、まだ月も出ぬ間から暗がりの空の下に現れるのだった。
「グルルル…………」
「古来、狼と月には深い関係があると言うけれど……さて君はどうなのだろうね?」
喉の奥から獣の唸り声をあげるアニをどこか物憂げに見つめ――それも束の間、オリアは地面に突き刺した斧を抜き取った。
それによって封が切られたとでもいうのか。
膨れ上がっては萎むを繰り返していた怪物にも、邪魔立てするものがなくなった事を感じ取ったのだろう。
蠢く巨体を、歓喜とも怒りともつかぬ歓喜とも怒りともつかぬ絶叫と共に揺らすのだった。
その醜怪を背に、オリアは抜き取った斧を自らの肩にトンと乗せる。
「言ったろう?これは領域――君を寄せ付けないものじゃなく、此岸を閉じ込めるための匣。目には目を、歯には歯を――人非ざる者同士、喰らい合うと良い」
そして、その声を合図にするように、漆黒の影と化したアニが怪物へと喰らい掛かった。
――文字通り、犬歯の並ぶ鋭い顎で。
靄か霞か。
手斧と入れ替わりに口へ運んだ紙煙草の紫煙に乗るかのように、煙にも似た揺らめきが、空を覆わんとする巨体の面積を瞬く間に奪っていく。
少しずつ開けていく空は茜色のまま。
まるで時が止まっているかのように、いつまでもいつまでも不気味に赤い夕焼けが顔を見せる中、オリアは一人、怪物たちが奏でる狂騒を耳にするのだった。
霞のごとき体は吹き出す手足を煙に巻き。
解き放たれた牙は溢れる絶望を噛み砕き。
赫灼と燃える顎が、汚泥の如き幽魂を吐き出し続ける白銀――否、鈍い銀色を反射する箱にその牙を突き立てた。
それは鍵を回すかの如。
穿たれた箱には鍵穴が刻まれ――
「オオオオォォーン!!」
甲高い遠吠えが一つ。
勝利の雄叫びが響くその中を、蠢く影が一筋の濁流となって、風穴を開いた箱になだれ込んでいく。
ギュルギュルと渦を巻く奇怪な波は、誰ソ彼の色をも呑み込みながら、箱の奥底へと消えていった。
ゴトリ――と転がった鉄は物言わず。
何事もなかったかのように、紫紺の帳が夜半の訪れを知らせていく。
紺碧を走らせた空には細く欠けた月が昇り、後にはもう狼の遠吠えめいた山びこばかりが、薄暗い天幕を震わせるだけだった。
燻る煙と共に吐き出るのは感嘆で。
「ふむ……やっぱり怪異には怪異をぶつけるしかない――という事かな?」
いやに納得したような、あるいは思考に耽るかのような、どうにも眠たげな声を溢しながら、オリアは一方的に終わった蹂躙を目に焼き付ける。
銀色の箱は物言わぬまま。
本当に時が止まっていたのか。
それとも、それだけ呆気のない共喰いだったのか。
オリアは最後まで吸いきれなかった煙草を放り投げ、あちこち革の剥げた靴で、しぶとく燃えようとする火を踏み消した。
だが、一度灯った焔は潰えない。
「グルルアッ!!」
「おや?」
斧も煙草も手放したオリアに、闇夜の中でも赤々と揺らめく獣が飛び掛かるのだった。
濁流の怪異を噛み千切った顎が狙うのは、幾重にも数珠や十字架を巻いた白い首で。
深紅の閃光が奔った――そう思った時にはオリアの視界は反転し、天に散る星を背負った獣が、地に五体を預けるオリアの上に覆い被さっていた。
「クルルル……クゥン」
「これは……ふむ。想定外だねぇ」
緋と紫が交錯するのは一瞬のこと。
赤黒い舌が青白い肌を舐め――――色が散る。
繊維が舞い、吐息が溢れ、帳を降ろしたそこには、獣が腹を満たす湿っぽい音ばかりが響き渡るのだった。
03に続く。
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