case.9「BOX the K-hack」
紫紺に飲まれてゆく茜色。
青や緑を散りばめた雲間は水平線の彼方へ消え去り、月はおろか星も浮かない天上には暗澹の帳が降ろされる。
今は誰彼か、彼誰か。
その線引きさえ不明瞭になりそうな中、固く拳を握りしめたアニは、これまた固く結んだ唇を何とかといった様子でこじ開けた。
「……――オリア」
やっとの事で言えたのは名前だけ。
無償に恋焦がれる、しかして自分を弄するばかりの名を呼べば、立ち泥む相手は目を細めるのだった。
笑ったのか、ただ目を伏せただけか。
レンズの向こうに潜む紫苑は、今まさに移り行く空と同じ。
黄昏にも、黎明にも似た薄明が、悲しいほど静かにアニを見つめていた。
その眼差しに後悔の色は見られない。
あくまで泰然とした様子のオリアに、握り拳に力を込めたアニは、自然と低くなる声を絞り出した。
「言う事は……ねーのかよ」
何故突き落としたのか。
何故自分だったのか。
怪異を調査する本当の目的は何なのか。
電脳箱[K-hack]との関係は何なのか。
どこから――一体どこから、その手の内だったのか。
尽きる事のない疑問を、あえてオリアに委ねる形で問い質すのは、まだどこかで希望を捨て切れていないからだろう。
(一言……たった一言で良い。しかたなかったんだって。本当は辛かったんだって。お前がそう言ってくれるなら俺は……)
それが藁のような希望でも。
命令されてどうしようもなかったと。
怪異に操られていたんだと。
本当はこんな事したくなかったんだと。
たった一言、後悔を告げてくれれば、アニはそれで良かった。
それが愛というものなんだと、悪いところも呑み込んでオリアを許す事が出来た。
弁明を待つアニに――さりとてオリアは、初めから言うべき答えを決めていたのだろう。
問いへの答えは短く。
オリアはゆるりと微笑んだ。
「人間ごっこは楽しかったかい?」
ごっこ――そう揶揄され、アニは眉間に皺を刻む。
「何だよそれ……?」
弁明には程遠いオリアの言葉。
告げられたその内容に、アニは鼓動が五月蠅く騒ぐのを感じとった。
はぐらかすな――そう叫びたいのに、何故言葉が出てこないのか。
引き攣った唇では、ろくな音を紡げない。
「なに、何言って……」
「思い当たる節はあるはずだよ」
「んなわけ……っ!」
「千切れた腕が瞬時に治る者を、獣の姿へと変われる者を、発狂せず怪異と渡り合える者を――普通、人間とは呼ばないよ。それともまさか……君はまだ自分が人間だとでも思っていたのかい?」
どこかで気づいていた違和感。
見て見ぬふりをした齟齬。
気のせいで終わらせてきた事実を指摘され、アニは返す言葉を詰まらせる。
思えば――だ。
怪異にさえ人間扱いされた事はなかった。
チリと呼ばれた事はあれど、それはただの人違い。
宝食の箱も、背徳の箱も、こぞってアニを〝犬畜生〟と言い捨てたのである。
最後に出遭った神虫。
あの蟲毒の王でさえ、アニを虫の一匹として扱ったのだから、ますますもって信憑性は増すばかり。
化物じみた自身の生命力――それが本当に化物故のものだったのだと突き付けられ、握りしめられていたアニの拳からは力が抜けていった。
だがそれは一瞬のこと。
アニは自らの首に手を当てる。
「異装[I-sow]の……っ!!コイツの力だろ!?お前がそう言ったじゃねーか!!」
指先に触れる厚い革の感触。
傷を癒すのも、姿を変えるのも、怪異と戦えるのも全て、この異装[I-sow]がもたらした効能だ。
オリアに渡された異装[I-sow]を示し、アニは自分は人だと天高く吠えた。
しかし、当の本人には何一つ響かないらしい。
潜在能力を引き出す――そう説明したのはオリアではないかと叫んだところで、のらりくらり。
首を傾げるでも、驚きに目を丸くするでもなく、オリアは淡々と言い捨てる。
「たしかに君にはそう説明したね。でもそれは――……嘘だよ」
右から左へと通り抜ける否定の言葉。
一瞬、何を言われたか分からず、アニは震える息を吐き出した。
頭では分かっている。
いつもの後出しだと。
聞かれなかったから答えなかった――などと悪びれなく論ずるオリアの性質だと。
それでも今は、腹立たしい以上に、ただただ理解が追い付かない。
短い息を吐き出すしかないアニに、オリアはゆるりと首を振る。
「正確には嘘ではないんだけどね。異装[I-sow]は君の能力を引き出すための装置。君が忘れてしまった――あるいは君が受容しうる力を呼び起こす橋渡しに過ぎない。主語を言わなかっただけで、君の底に眠る潜在的な能力を引き出し、馴染ませるという意味では、何ら間違った説明はしていないよ。まあ……本来君は異装[I-sow]がなくても戦えたはずなんだけどね」
「……んなの」
「ずるい――かな?でも聞かなかったのは君だ。捨てなかったのも君自身だ。僕がそういう人間である事くらい、君はとうに分かっていたはず。自ら思考し取捨選択する道を進んだのなら――その選択を人の責任にすべきではないよ」
アニの言わんとする言葉を奪い、オリアはその上で平然と真実を口にする。
しかしアニには分からない。
異装[I-sow]の本来の目的。
それが人の可能性を広げるものではなく、アニの覚醒を促すものだったと言われても、その意図を計りかねるのだった。
怪訝に呻くアニに、なおもオリアは口を緩めず――やはり冷淡に呟いた。
「謂わば人形遊びだよ。君は観測対象で僕は観測者。望む結果を得るために演算を続けるのが――この『箱』の意義」
抑揚のない声は虚しく。
人間ごっこに続き、人形遊びと断じられたアニは言葉を失くす。
人間である事を否定され。
生きてきた時間さえ嘲られ。
これ以上の最悪はないはずなのに――
「全部僕が用意してあげたんだ。君の素性、君の職業、君の服も住まいも、君の生き方も――全部」
オリアはにこやかに微笑んだ。
夜空が連れるのは寒気か、怖気か。
晴れやかな笑顔を、こんなにも恐ろしいと思うのは初めてのこと。
追い打ちをかけるオリアの言葉に、アニは震える声を絞り出す。
「んなわけ、ねーよ。そんなの……」
「そうかい?じゃあ……そうだね。物心着いた時には家族はなし。過去の事は思い出せず――電脳箱[K-hack]と二人生きてきた。そんな君が初めて好きになったのは――当時、三つ隣に住んでいた靴屋の店員イセだったね」
「……は?」
「でも彼女には既に恋人がいた。告白するも振られるに終わり……君が初めて付き合った相手は、定食屋で出会ったカユ。イセに手酷く振られた4カ月後――浮かない顔をしていた君に声を掛けてくれたのをきっかけに仲良くなって……アプローチしたのは彼女からか。告白された君は、カユと交際を始めた」
「おい、待て……」
何故オリアがそれを知っているのか。
一度だって語っていない自らの過去が、何故こうも事細かに暴かれなければいけないのか。
先とは違う焦燥がアニを襲うが、オリアの口が止まる事はない。
「初体験は付き合ってから三カ月――誘ったのは君からだったね」
「っ……やめ」
「もっとも、長くは続かなかった。彼女はすぐに銀行員のコガに鞍替えし……君は捨てられたわけだ。別れ際に言われたのは〝男はお金〟だったかな。以来君は貯金に回すお金を増やすようになったけど……その貯金もジャケットと車の購入ですり減ってしまったね」
「んで、そこまで知って……?」
「その後は……その一件が尾を引いたんだろう。程なくして送迎を依頼してきたヤソと出会うも、進展がないまま自然消滅してしまったね。ヤソとはあまり趣味が合わなかったから……それも仕方ない事かな?」
もはや驚愕の声を溢す余力もない。
オリアの口から語られる自身の過去に、アニは驚きを通り越し、恐怖を感じていた。
「服の趣味はイセの影響だね。所謂パンクというやつだ。彼女に振り向いて欲しくてピアスを空けてみたり……何とまあ君はいじらしいね。パンより米派なのはカユがいたからで、酒も煙草も嗜まないのはヤソが嫌っていたからで……君はいつも相手に尽くそうとする」
もしかしたら電脳箱[K-hack]に聞いたのかもしれない。
共に歩んできた電脳箱[K-hack]なら、語られた出来事を知っていて当然のこと。
何食わぬ顔で電脳箱[K-hack]を従えるオリアが、アニの過去を把握していても不思議な事はない。
しかして気味の悪さは途方もなく。
恥ずかしさや悔しさも相まって、暴かれる過日を止めようと口を開いた刹那――オリアが笑みを消した。
「でも――全部、嘘」
冷ややかな声。
冷ややかな視線。
冬の厳しさを運ぶ旋律に、アニは何も言い返せない。
何が嘘なんだと、そう問わなければいけないのに、吐き出した息は音にならなかった。
代わりに――
「全部嘘。全部僕が用意してあげた設定。だから――ほら」
にこりと笑ったオリアが手を叩く。
指を鳴らさないのは、単純にオリアが指パッチン出来ないのが理由だが――それは置いておこう。
パンッと小気味の良い音が響けば、アニの頭からイセの姿が零れ落ちた。
世を憂い、週末には小さな箱で熱唱していたパンクロッカーはどこへやら。
定食屋であくせくと働いていたカユの笑顔も消え、何かにつけアニを足にしていたヤソの声も消え――アニの頭には、薄れた記憶の虚しさだけが残される。
否――そこに居たのは黒い箱。
「あ……れ……?」
「君は空っぽなんだよ。全部紛い物だ。イセもカユもヤソも……コガだって。誰も彼も最初から存在しないというのにね」
イセとは誰だっただろうか。
カユも、ヤソも、コガも――果たして誰だったのだろうか。
アニの目の前にいるのは、いつだって黒い黒い電脳箱[K-hack]たちで――もはやカケイの顔すら思い出せない。
「何だよ、これ……っ!?」
一人に一つの黒い箱。
まるでその箱が、アニにしか見えない幻を映し出していたかのようだ。
カケイなんて娘はいなくて。
ワギリなんて老人もいなくて。
アニが話しかけていたのは、アニが運んでいたのは、いつだって黒い箱ひとつ。
自分以外には電脳箱[K-hack]しか存在しない光景がフラッシュバックし、アニはせり上がる胃液を呑み込んだ。
「んで……だよ。何なんだよっ。何の意味があって……っ!こんなっ……!」
「もちろん僕との行為もだ」
「……は……?」
「君が一人した気になっているだけで、そう思い込んでいるだけで――君はただ虚空を相手に夜を過ごしただけだ」
「………………っ」
削ぎ落されていく記憶。
綻んでいく日常。
その中でもとりわけ深く、オリアの放った一言が痛烈なまでに胸を抉る。
何を否定されても、オリアへの想いを否定される事だけはされたくなかった。
それだけは、揺るぎない自分の意思だと信じたかった。
だがオリアは、それすら嘘だと笑うのだ。
喉を焼く酸っぱい粘液を呑み込み、アニはただオリアを睨みつける。
「…………んな」
「過去が知りたかったんだろう?これが君の望んだ――君の記録だよ」
「……ざけんなよ」
「……ふざけてはいないよ。それとも君は……一介の観測対象が、まともに相手をして貰えるとでも思っていたのかい?」
「それがっ!ふざけてるって言ってんだよ!!」
観測対象――再度オリアの口から飛び出した言葉に、アニは拳を握りしめた。
怒りよりもずっと悲しみが勝っていたが、もはや殴らなければ気が済まない。
「お前は!!お前って奴はよ!!どうしてそんな事しか言えねーんだ!!」
許すも許さないもその後だ。
何故先に言ってくれないんだと、最初から頼ってくれないんだと、怒りなのか悔しさなのかも分からない感情の濁流に身を任せ、勢いだけで足を踏み切った。
だがアニはすぐに立ち止まる。
否、動けなかった。
「なっ!?」
『暴力禁止――妨害禁止――移動禁止』
『危険――危険――危険』
「離せよ!!邪魔すんなっ!!」
どこから――というのも愚問か。
中心地店[Spot-C]から湧き出しただろう電脳箱[K-hack]たちが、アニの四肢に纏わり付いて離れない。
チェーン状の手足を伸ばした箱は重く、アニをその場に縫い付けるのだった。
『制圧――確保――完了』
「これもお前の差し金か……っ!!」
「差し金も何も……おかしいと思わなかったのかい?疑問に思った事はないのかい?」
塵も積もれば何とやら。
無数の箱の拘束力は凄まじく、それでもアニはじりじりと前へ進む。
倒れる事なくにじり寄るアニに、オリアはゆるやかに笑むばかり。
咆哮するアニには構わず、物憂げに囁いた。
「僕が電脳箱[K-hack]を連れていないのはね――アニ。僕が電脳箱[K-hack]を造ったからだよ。彼らは僕の目であり、手足であり――僕の遺志そのもの」
「それが何だってんだ!!」
「つまりここは――……君のための檻。君という怪異を観測するためだけの箱。君には分からないだろうけど、仮想現実というものだね。事象の把握は当然、どこに移動するのも……その服を用意するのだって、僕にとっては片手間も同じ。人も街も全てが偽りの……胃袋の中というわけだ」
M・O・W――檻であり箱たる電子世界の名を溢し、オリアはアニに目を向ける。
怒りに燃える獣は、黒い箱たちに囚われたまま。
激情に滾る真紅を見つめ、オリアはゆっくりと笑みを消していった。
「でももう――終わりだ。もう君に用はない」
小さな声が紡ぐのは箱の終幕。
一歩、また一歩と距離を詰めるアニの前で、オリアは静かに終わりを告げる。
「君という怪異の観測はもう終わり。一緒に他の怪異――君が無力化してくれた相手のデータも取れたからね。君には感謝しているよ。おかげで……僕の悲願が果たされる」
「このっ!!何考えてやがる!?」
「……いつの世も人の考える事は、そう変わらないよ」
「はぐらかすんじゃねえ!!」
「はぐらかすも何も、わざわざ君に言う義理はないだろう?」
所詮は観測対象――そう蔑むように、オリアはアニを見る。
「憎いかい?腹立たしいかい?僕を殴りたい――って顔をしているね」
「っ……分かってんなら殴らせろよ!!今だったら全部チャラにしてやるからよ!!ちゃんとっ……!!全部話せよ!!こんな馬鹿みてーな事するくらいなら俺を頼れよ!!」
この期に及んでオリアに縋ろうとするのは、アニの義理堅さか。
あるいは――オリア以外に縋れるものが何もないと分かってしまったからか。
依然として手を伸ばそうとするアニに、オリアは寂しげに微笑んだ。
「だったら……追いかけておいで。どうせ無理だろうけど」
「勝手に決めつけんな!!それが望みなら、どこまでだって追いかけてやる!!」
「……そう。そこまで言うなら、地の底だろうが、次元の果てだろうが、待っていてあげるよ。あまりに遅いと……置いて行くけどね」
空はもうどっぷりと暗く。
星の瞬かない闇の下、オリアは静かに踵を返した。
どこへ逃げようというのか。
背中を向けたオリアに、アニは千切れんばかりに腕を伸ばす。
否――腕は千切れていた。
焼けつく痛みが襲うのも構わず、アニはオリアに食い下がる。
「ふざけんなっ!!オリア!!待て……待てよ!!逃げんじゃねーぞ!!オリアッ!!!!」
その背に抱かれる菩薩は、アニを救ってはくれないのだろう。
蜘蛛の糸を垂らしてはくれないのだろう。
前進を続けるアニの元に訪れるのは、さらに大量の電脳箱[K-hack]だけ。
無限に増える箱に呑まれながらも、アニは大地を踏みしめ咆哮した。
「オリアッ!!俺はっ……俺はまだ!!お前に何も――……ッ!!!!」
だが、どれだけ手を伸ばそうと、どれだけ腕をかこうと、どれだけ祈ろうと、オリアには届かない。
哀れんでいるのか、嘲笑っているのか。
「じゃあね――アニ。また会えるのを期待しているよ」
物憂げな紫苑と視線が絡み合ったのも一瞬――オリアの姿がかき消えた。
初めからここ《・・》には居なかったのだろう。
電脳箱[K-hack]たちを振り切った手が掴んだのは、残り香一つない虚しさだけ。
電子の揺れを僅かに滲ませる虚空が、アニを一人置いていくのだった。
跡形もなく消え去ったオリアを相手に、アニは怒りに震える拳を握りしめる。
「ッ……ざけんな」
やっとオリアの元に戻って来れたのに。
やっとその手を掴めると思ったのに。
このまま――このまま終わらせるわけにはいかない。
終わるわけにはいかない。
「絶対……絶対見つけてやる。泣いて謝って反省するまで許さねーからな……!!」
それが良い意味でも、悪い意味でも――オリアしか居ないのなら、何としてでもオリアを見つけなければいけない。
激情を燃やしたアニは、主を失い静まり返った箱を乱暴に蹴飛ばした。
見知った電脳箱[K-hack]はオリアと共に消えたらしい。
あの箱にも文句を言ってやると息巻いたところで、転がった箱が火花を散らす。
蹴った衝撃で壊れたのか。
僅かに目を留めたアニを嘲笑うように、世界そのものが崩壊を始めるのだった。
「待て。待てよ、おい……?」
ぐらりと揺れる――否、解けていく足場。
割れたようにノイズを散らす空。
次々に火花を飛ばす黒い箱。
電子の泡となって消え始める世界に、アニは堪らず息を呑む。
「ここまでするかよ……クソがッ!」
もう用はない――たしかにそう言われたが、よもや存在すら許さないというのだろうか。
今だ仮想現実も、オリアの言う『箱』の真相も理解しきれていないが、異常事態だという事だけはハッキリと分かる。
「絶対泣かせてやるからな……っ!!」
アニはしゃにむに走り出し、中心地店[Spot-C]の屋上を飛び出した。
飛び移れそうな建物は遥か下。
無傷に辿り着けそうな位置にはないが、倒壊に巻き込まれるよりはマシだろう。
しかし、崩壊は止まらない。
目に見える全てが電子と化し――アニの背後、箱を包む巨大な影へと姿を変える。
それは――大蛇か大鰐か。
息つく暇もなく、『箱』そのものがアニへと襲い掛かるのだった。




