case.8「BOX the B-ug:Z-int」
「――……夢……だよな」
どれ程の時間眠っていたのだろう。
溶岩洞にいざ進まん――そのタイミングで倒れ伏したアニは、すっかり綺麗になった竪穴の底で目を覚ました。
今ならば、ここが肉団子と卵で埋め尽くされていたと言っても、誰も信じはしないだろう。
本人でさえ、夢だったのではないかと疑いたくなる光景を横目に、アニは酷く緩慢な動きで立ち上がる。
無論、先のぼやきは穴に対してのものではない。
ぼんやりと頭を揺らす感覚。
微睡みの中に見ていた光景に対して溢したものである。
「……家族……なんていたか?あんなにたくさん兄貴や姉貴がいて……母さんも一緒に…………」
思い返すのは自身の過去。
あまりに鮮明な夢は蓋をしていた記憶のように存在を主張し、アニは頭を悩ませる。
覚えているのは電脳箱[K-hack]のこと。
気付いた時には天涯孤独で、電脳箱[K-hack]だけが傍にいてくれた。
「……いつから。いつからコハクと生きてきたんだっけな」
十五かそこらか、もっと歳月を重ねてからか。
正確な時期は定かではないが、ハッキリと覚えているのは、電脳箱[K-hack]と二人で生きてきてからの事だ。
初めは――
『良いですか――Sir.アニ――働かなければ生きていけません』
『おう』
『そうですね――あなたは物を取ってくるのが得意です――運び屋――というのはいかがでしょう?』
『運び屋ぁ?』
『心配せずとも電脳箱が仕事を斡旋します――その他にも料理――洗濯――掃除――覚える事はたくさんあります――いずれも電脳箱が指導しますので大丈夫――迎えを待ちましょう』
そう、初めは――そんな話から始まったはずだ。
願いだったのか、気休めだったのか。
結局迎えが来る事はなかったが、縋る相手のいないアニは、電脳箱[K-hack]だけを頼りに生きてきたのである。
人並みに料理を覚え、買い物のコツを知り、小言を言われながらも洗濯や掃除をし、運び屋として色々なものを運び――電脳箱[K-hack]の言う事が全てだった。
その日々が続くとばかり思っていた。
だが、それももはや過去のこと。
真っ暗闇になってしまった未来から目を逸らすように、昔の事を考える。
(コハクと生きる前……俺は何をしてた?どこで生きてた?誰と……一緒だった?)
恐らく家族はいたはずだ。
夢ほどの大家族だったかは知れないが、少なくとも産みの親はいただろう。
しかし、その痕跡はどこにもない。
記憶にあるのは今住んでいるあの家だけで、家族の存在はおろか彼らの存在を示すもの一つ、アニの手元にはなかった。
「……この傷もいつ着いたんだ?」
チョーカーの下。
首を切断したかのようなケロイドも、一体いつの間に出来たのだろう。
電脳箱[K-hack]は〝知らない〟の一点張りだったが――
(本当にそうか?)
電脳箱[K-hack]に限って、そんな話があるだろうか。
本当は全てを知っていて、黙っていただけなのではないだろうか。
(俺を想ってかもしんねーけど……だからって、なあ。子供でもねーのに、いつまでも黙ってる事かよ)
もしかしたら、悲惨な出来事があったのかもしれない。
何もかもを忘れてしまう程の凄惨な事件が。
首の傷もその時についたもので――そこまでを考え、アニは重苦しい息を吐く。
(……考え過ぎか。傷はアイツには関係ないしな)
ナイーブになっているだけで、全てを繋げたいと思っているだけで、結局は全て都合が良いだけの願望だ。
異装[I-sow]の上から傷を撫で、止む無く一休憩する事になったアニはまた動き出す。
予想通りなら、ホールのように開けた空間はあと一つ。
一座目の山ブス、二座目の山ウズときて、残すは三座目の山テンだけだ。
「最後になりゃ良いけどな」
外への脱出口があるのか。
水府に迷い込んだ時のように、元居た場所で目覚めるのか。
兎にも角にも、この鍋から解放される事を願って、アニは熱気とガスに満ちた洞へと入っていった。
進み、進み、進み、進み――ただひたすら進み――――進み続けて数時間。
どれ程の距離を歩いただろう。
目が慣れたとはいえ暗い事に変わりはなく、慎重に移動するアニを嘲笑うかのように溶岩洞はどこまでも続いていく。
もはや前に進むのと戻るの、どちらが早いかも知れない程だ。
大粒の汗が噴き出る中、レザージャケットを腰に巻いたアニは、無心で北を目指し続けた。
永久にも思えるその時間が終わったのは、いつだっただろうか。
少しずつ熱気が薄れ始めたかと思えば、冷ややかな空気が辺りを包み込む。
その変化は視覚にも表れ、漆黒には対局の色が、岩壁を染め始めるのだった。
「火山の次は雪山ってか?」
雪が降っているわけではないが、冷めた白銀は冬の到来を思わせる。
現実に帰ってきたとも言えるが、果たしてここは現実なのか。
鼻を撫でるほのかに甘い香りは芳しく、そこには春の気配すら漂っているかのようだ。
一方で気温はとんと下がり、堪える寒さにジャケットを着直したアニは、白一色へと変わりゆく道を突き進んだ。
その果てに、三つ目の竪穴へと辿り着く。
恐らくここがテン。
ハッコウ盆地の終着点なのだろう。
覚悟を決めたアニは狭い通路から足を踏み出し――ゾワリと身を震わせた。
「……!!」
冷気というにはあまりに冷たく。
恐怖というにはあまりに優し過ぎる。
得体の知れぬ感覚に、アニは細く薄い息を何とかといった様子で呑み下す。
(んだ……これ)
自分が震えているのかも分からない。
これまでとは違う感覚に、足元がふらつくのを感じながら、アニは白い空間に目を向けた。
見えるのは山。
否――水府でも見た石塔だ。
誰かの死を悼むように積まれた岩山は、あまりに異質で気味が悪い。
鍋とも言うべき深淵には似合わぬ墓標に、アニは何とも渋い表情をする。
それも一瞬のこと――先に行くにつれ細さを増す塔の頂へと視線を移し、アニは真紅の目を小さくするのだった。
塔に座すは虫――ではなく人だ。
真っ白な人間が、物憂げにアニを見つめている。
その男――いや女かもしれない。
長く柔らかな髪を垂れ流す相手が、異形の目をもって問い質す。
『問おう――何故この箱を厭う』
「いと……?いや喋った!?」
『あい哀れな童なこと。言葉を解する物ノ怪など初めてではなかろうに。だがしかし……古き言葉では伝わらぬか。汝――何故この箱を嫌おうて』
白目の部分は紅く。
光の灯らない黒い眼には金輪が一つずつ。
どこか浮世離れした相手が、やはり男とも女ともつかぬ声で囁いた。
その顔立ちは、アニの切望だろうか。
オリアを彷彿とさせる面影を宿し、アニは思いがけず面食らう。
無論、驚いたのはそこだけではない。
オリアに似ていたのはもちろん、マトモな会話が出来る怪異がいるなどと、一体誰が想像しただろうか。
たしかに人語を話す怪異はいたが、そのいずれもが人を騙してきたもの。
自ら怪異だと明かし、落ち着き払って語り掛けてきたのは、あとにも先にもこの相手だけだった。
狂気に囚われた風でも、憎悪に駆られた風でもない特異な存在に、アニは視線を彷徨わせる。
「何でって……カイイは危険なんだろ?」
『誰が危険と決めた』
「……誰でも良いだろ。襲ってきてんのはたしかだ。俺だって別に戦いたくて戦ってるわけじゃねーよ」
『では襲わねば受け入れるのか』
「あ?それは……」
尋問なのか、興味本位なのか。
切り返す暇のない設問に、アニは言葉を詰まらせる。
今までは襲われたから戦った。
身を守るために怪異を斃した。
そうしろと言われたからそうしてきた。
だが果たして、その答えは正しかったのだろうか。
戦わずに済んだかもしれない甲虫の存在も相まって、続く言葉を言えなかった。
喉を唸らせるアニに、玉座に座るかのような怪異は胡乱に目を細める。
『そうよな。人も物ノ怪も同じこと。己に害あらば抗い、己に縁なくばどうとも思わない。観測出来ぬ事は存在せぬ事と同じ故、それも已む無きよ。吾とてそれは同じ……汝の選択を責めはしまい』
その言葉は甘く、優しく。
呆けるアニに、純白の怪異は微笑んだ。
『故に問おう――汝、吾を望むか?』
「え……?」
『吾はこの箱庭を壊したくないのだ。孤独にして孤独ではない永久の楽土。望みを叶え続ける楽園。この揺るぎなき安寧を手離しては……生きてはいけぬ』
「ここが……楽園だって?」
『外より来たりし者よ。ここは汝のための箱ではない。しかして汝のための箱にも成り得るであろう。とく強き者――とく優しき者――汝もここで永遠の刻を生きてはみぬか』
硫黄の中に混じる甘やかな香り。
蜂蜜のようにベットリと重く甘い匂いは、この怪異から漂っているらしい。
その匂いすら、オリアを思い起こすのは何故なのか。
誘われるように見上げれば、柔らかそうな怪異の姿が目に映る。
見れば、怪異には無数の腕が生えていた。
胸の前で交差する、首を絞めるかのような腕。
同じく胸の前で交差する、脇から伸びる腕。
横腹から生える、腰に添えられた腕。
自分の意志でそうしているのか、その状態で固定されているのか。
三対六本の腕が、自らを拘束するかのように怪異の体に纏わり付いていた。
その背中に生えるは、純白の翅。
模様一つない蝶のごとき翅が、髪と一塊になった羽衣のように、骨の浮いた体を包んでいる。
もこもこと柔らかい髪と翅の隙間から覗く足は、癒着しているのだろう。
一見では人魚の尾ビレといった様相か。
薄皮に包まれた風にも見えるその足が、玉座の如き石塔に垂れ下がっている。
もっとも、その姿は威厳のあるそれではない。
むしろその逆――逃げ出す事を許されない、磔にされた罪人のようだった。
その姿は神々《こうごう》しくも儚く、アニの心の中に〝助けてあげたい〟という想念を芽生えさせる。
「ここで……生きる?俺が?」
『そう……悲しき事など忘れてしまえば良い。認めたくない事など受け入れねば良い。望む事を繰り返せば良い。ここにいる者は皆そうだった。ここに来る者は皆それを選んだ。汝が同じ選択をして、誰がそれを責めようか』
「けど俺には……」
『全て――忘れてしまえ。腹を満たしたくば、吾をやろう。心を満たしたくば、吾に心を捧げば良い。一人生きていけぬ吾を哀れと思うなら――……吾と共に常夜の糸を織り上げてはくれまいか』
紡がれる声は優しく、ひたすらに甘美で。
視覚、聴覚、嗅覚――あらゆる感覚からゆるやかに働きかける誘いは、匂い以上に甘く、アニを釘付けにする。
芽生えた庇護欲は瞬く間に花開こうとし――けれど、アニは立ち止まった。
(……違う)
どれだけ優しかろうと。
どれだけ甘かろうと。
どれだけ似ていようと。
目の前にいるのは、憎らしいほど焦がれた相手ではない。
(ここは俺の居場所じゃない)
裏切られようと、捨てられようと――それでもまだ捨てられない情がある限り、アニの行くべき場所はオリアのいる場所なのだ。
オリアでなければ、駄目なのだ。
(これだってきっと……俺の夢だ)
今見えているものも、結局は願望が魅せる幻に過ぎないのだろう。
伸ばし掛けた手を引っ込め、アニは純白の怪異を睨みつけた。
「……その手には乗らねーよ」
『それが……汝の選択か』
「生憎、一発殴んなきゃなんねー奴がいてな。ここで立ち止まってるわけにはいかねーんだ」
『そんなもの忘れて――』
「忘れねーよ。アイツの事はどうやったって忘れらんねーよ。忘れたとしても……いつか思い出す。ムカつくし、腹立たしいし、人の話聞かねーし、何も言わねーし……嫌なとこばっかだけど。自分でも何でこんな執着しちまうのか分かんねーけど。それでも俺は……アイツが良い。永遠に生き続けるよりも、アイツのために死ぬ方が――……ずっと良い」
半分はかっこつけだ。
しかしオリアへの気持ちは、たしかなものだった。
先の事は分からずとも、オリアにもう一度会う――迷いなく言い切ったアニに、純白の怪異は何を想うのか。
小さな口をさらに小さく窄め、異形の目を静かに伏せる。
『なれば――終わりにしよう』
刹那、眩暈がする程の芳甘な香りが、洞の中を埋め尽くした。
「っ……!」
もっとも、ただ甘いだけの香りに惑わされるアニではない。
噎せ返る香に身を構え――すぐさま、その目的を正しく理解する。
「そういう事かよ……っ!!」
襲ってきたのは黒の大群。
蝶が、蛾が、蜻蛉が、飛蝗が、漆黒の津波と化してアニへと飛び掛かる。
『ギチチチチッ!!』
『ギギッ!!ギシシシ!!』
怪異の放つ色香には、虫を惹き付ける力があるらしい。
純白の怪異を守るように、あるいは上等な餌を奪われまいと怒るように、虫たちはアニに牙を剥くのだった。
蜚蠊の波より大きく、一匹一匹が強大な虫の渦。
無数の群れが織り成す音は大百足の喚き声にも負けず劣らず――アニはけたたましく吠える。
「邪魔すんなって言っただろ!!』
咆哮が消える間もなく、その姿は狼男のそれへと変わる。
赤い線を奔らせる腕が、今まさに噛み付こうとする虫たちを払いのけ、叩き潰すのは一瞬のこと。
獣の顎で飛んでくる蜻蛉を噛み千切り、ひしゃげた残骸を吐き捨てた。
『そっちがその気ならやってやる。一匹残らずかかってこいよ……!!』
そこに立つのは、もはや知恵なき獣でも、言葉なき獣でもない。
自らの意志を貫こうとするアニに、酩酊したかのように恐怖を忘れた虫たちが襲い掛かるのだった。
もっとも、終わりはすぐに訪れる。
大百足にも、甲虫にも届かぬ虫たちが束になったところで有象無象と変わらず。
静けさを取り戻した底で、漆黒の獣と純白の怪異が今一度視線を交わす。
しかして、その位置は逆さま。
崩れた石塔の上、地に落ちた怪異を見下ろすのはアニの方だった。
訪れる終わりに、純白の怪異は何を想うのか。
地に落ちた怪異が静かに口を開く。
『吾は神虫――汝らがそう呼びしモノ』
もはや守る者はなし。
崩れた石塔の上に横たわる姿は、神に捧げられる供物のようだった
神虫を名乗ったそれは、この結末を知っていたかのように微笑んでみせる。
『笑いたくば笑うが良い。神虫と呼ばれたところで、吾はただ一匹の蚕。自ら動く事すら出来ぬ愚直の身よ。火虫に守って貰っていたが、それももう終わったこと。吾一人が生きたところで……この箱も長くは持つまい』
火虫とは蜚蠊の異名。
竈――つまりは火の下に隠れ住む彼らを、古くはそう呼んだのだそうだ。
もちろんアニがそれを知る由もないが、守人を失った神虫は構わず声を紡いだ。
『吾らは蟲毒――誰がしを呪うために寄せ集められしモノ。この箱庭が終わらば、その呪いは完成するだろう。吾はずっと……それを忌避していた』
蟲毒――それは呪いを生む外法。
百種の虫を一つの箱に集め、共食いさせる事で神霊――類まれなる毒を生み出す事が出来るとされている。
その名を知らぬアニでも、呪いの恐ろしさは知り及ぶところ。
思わず身構えるアニの前で、神虫はその胸中を物語る。
『吾は神虫――疫鬼を払い、益をもたらす者。蟲毒に堕ちようとも、その役目を忘れはしまい。だからこそ……吾はここにいる。この箱を終わらせぬために。この箱を悍ましき呪いにさせぬために。それには……あの火虫が必要だった。子を望む親の情愛。親を望む子の執念。そしてあの蜈蚣も……。自らが独占するためとはいえ、火虫に近付く鬼を払うのに役立ってくれた』
誰かを呪わぬために。
誰かを恨まぬために。
虫たちを惑わし利用する孤独の王であり続けたのだと、静かに溢す。
たとえそれが偽りの安寧だとしても、神虫には秩序を守る責務があったのだろう。
だからこそアニを言葉巧みに惑わし、甲虫の代わりに自らを守らせようとした。
この蟲毒が永劫続くよう――呪いの如き願いをもって。
だがアニはそれを拒んだ。
そしてそれは、神虫にとっては蟲毒の終に等しきこと。
神虫は覆らない終わりの瞬間を、アニに委ねたのだった。
『とく強き者よ――蹂躙されるだけの吾が身を僅かでも哀れと思うなら……とどめを差してはくれまいか』
唯一自由な口で、神虫は語り掛ける。
恐らくその言葉に嘘はない。
言葉の通りにこの神虫は、虫たちを引き寄せ、殺し合わせるための火種として、蟲毒へと落とされたのだろう。
あの石塔も、哀れな贄のために作られた墓標だったのかもしれない。
(オリアじゃなくて良かったって思う俺は……酷いんだろうな)
最後までオリアに似た姿のままの神虫。
それはアニの望む幻だったのか。
神虫そのものの姿だったのか。
その答えを見つける間もなく、横たわる神虫は自ら目を閉じた。
『死するなら……ああ、煮え湯が良い。皆と同じ終わりが良い。何も知らず死せる方が、どんなに幸せな事だったか』
ただ静かに終わりを待つ姿は、漆黒の獣に捧げられる供物が如く。
言葉を呑み込んだアニは、一度だけ頷き――最期の願いを聞き届ける事にした。
今一度水を浸し。
今一度火を灯し。
さすればそこは釜となり、虫は煮え滾る熱湯の中で煮え朽ちる。
『とく優しき者――汝ならばきっと、吾らが呪いをも飲み伏せるであろう。吾らが孤独に打ち克てるであろう』
消え入る声はどこに還るのか。
残されたのは、白い、白い、純白の絹糸だった。
同時に、世界が黒く染まる。
ほつれた白が剥がれ落ち、本来あるべきだった溶岩洞へと姿を戻した。
暗い竪穴、ゴツゴツした岩肌、汗の噴き出る熱気。
嫌な現実ばかりがぶり返すが、三匹目の虫を最後に道は開かれたらしい。
あの神虫は知っていたのか、どうなのか。
どこへ続くとも知れない階段が、闇の奥でアニを誘っている。
『どこに繋がってんだ……?』
深い闇を見上げるが、アニの目をもってしても先は見えそうにない。
だが進める場所はここだけだ。
『外に出られりゃ良いんだけどな』
上に向かう階段だけに、期待は持てるだろう。
神虫の残した絹糸は獣の腹の中。
アニはその身を人に戻しながら、果てのない階段を昇り始めた。
非常階段といった趣のそこは、折り返し式になっており、次は早くも三十層目。
ひとまとまり十段の階段を何度となく昇ったところで、少しずつ明るくなっていく以外、変わり映えのなかった岩肌に変化が訪れる。
先程までの無骨さはどこへやら。
三十層目に到達したアニの前には、深海のような景色が広がっていた。
「……本物じゃねーよな?」
硝子ばりなのか、映像なのか。
仕組みは分からないが、先程よりは開放感があってずっと良い。
僅かに軽くなった足取りで、アニはまた十層を昇りきる。
「今度は空?」
どうやら一定の区切りで様相が変わる仕様らしい。
溶岩洞、深海ときて、今度は空の光景が広がり、得も言えぬ浮遊感と恐怖感が湧き上がる。
硝子なり壁がある以上、落ちる心配はないのに、いらぬ不安を抱いてしまうのだから、視覚情報とは恐ろしいものだ。
手すりに掴まったアニは、いくらかゆったりとした足取りで階段を昇っていった。
既に相当な段数を昇っているが、ランナーズハイというものだろうか。
脱出への手応えを感じるアニは、疲れも無視して階段を駆け上がる。
そうしてまた次の十層。
現れたのは鮮やかな海の情景だ。
鮮やかと言ったように、深海とは異なる明るい珊瑚礁の海が、階段を青く染めている。
華やかな色やヒレの魚が泳ぐ様をぼんやり見送り――アニははたと気が付いた。
「これって……俺の」
地底を牛耳る三匹の虫。
水府を支配する龍神・回香。
大空を照らす金烏。
もう一人の水府の支配者・菩提樹。
昇るにつれ姿を変える景色は、これまで対峙してきた怪異を表しているかのようだった。
だが、そんな偶然があるものか。
(……んなわけねーだろ)
気のせいだと言い聞かせ、しかして気が急くのは仕方のない事だろう。
アニは数段飛ばしで階段を駆け上がり――七十層目。
飛び込んできたのは海賊船――ではなく、色とりどりの花畑だった。
安堵しかけるが、頭に過るのはワギリの屋敷で見た光景。
白い花に囲まれた死人を思い出し、ハナカマキリが隠れる野原に包まれたアニは顔を引き攣らせた。
「……んだよ、これ」
長閑な花畑の風景とは裏腹に、嫌な予感ばかりが頭を駆け巡る。
何故こうも、信じたくない事ばかりが現実になろうとするのか。
いやに冷たい汗が背中を濡らすが、それでも行かなければならない。
もう一度オリアに会わなければいけない。
会って――どんな形であれ、決着をつけなければ――前にも後ろにも進む事は出来ないだろう。
「…………ッ」
気が重くなるのを振り切り、アニは大股で階段を昇り続けた。
一層、二層と匂いのしない偽りの花畑を見送り、八十層目。
「子供のイタズラか……?」
花畑の後には、落書きにしか見えない壁がアニの前に現れる。
クレヨンでぐちゃぐちゃっと描いたようなそれは、子供の力作か。
それとも発狂した誰かが描いたのか。
名状できないものを描こうと努めたのか。
どこか不安になる壁を見送ること幾許。
この前衛的な芸術が〝災禍の箱〟を示しているのなら、この先には出口が待ってくれている事だろう。
駆け込むように階段を飛び上がり――
「は?」
アニは目を疑った。
見慣れた天上、見慣れた壁面。
無機質で機械的なその景色は、何度も足を運んだ中心地店[Spot-C]そのものだった。
「何でここに……?」
これも奇妙な階段が見せる光景なのか。
本当に中心地店[Spot-C]に繋がっているのか。
はたまた似ているだけの別の場所なのか。
アニは愕然と周囲を見渡し――不気味に誘う階段に視線を落とす。
今は九十層目。
まだ階段は続いている。
もしかしたらここはまだ怪異の領域で、おかしな幻を見せられているのかもしれない。
「……付き合ってやるよ」
吐き捨てたアニは鉄製の階段を昇り、昇り――九十九層目。
百層に僅かに届かないそこで、建物の頂上へと躍り出た。
嗅ぎ慣れた街の匂い。
青色を滲ませる茜色の空。
冬の訪れを知らせる冷たい風。
そこには変哲ない日常が広がり、間違いなく外に出た開放感が湧き上がる。
もっとも、その清々しさを噛み締める余裕はどこにもない。
常ならば立ち入り禁止のはずの中心地店[Spot-C]の屋上。
世界の頂点たるその場所で、アニはただ一点に目を留める。
真紅の目に映るのは、オリアの姿。
電脳箱[K-hack]を連れた男が、煙草の一本も吸わずに立ち泥んでいた。
何もなければ、その胸に飛びつく事が出来たのだろうか。
だがアニの胸にあるのは疑心だけ。
もはや抱き付く事も、名前を呼ぶ事も出来ずにオリアを睨みつける。
(……何でいんだよ)
声にならない問いを奥歯で噛み潰す。
信じたかったのに。
嘘だと言って欲しかったのに。
オリアがここにいるという事実は、全て分かってやっていた――という事の裏付けでしかない。
アニが中心地店[Spot-C]に辿り着く事も。
きっと今までの怪異との戦いも。
衝撃的な出会いさえも。
全て――オリアの手の中だったのだ。
最悪な形で期待を裏切った相手に、アニはただ唇を噛み締める。
震える息を、力強く握った拳を、熱くなる目尻を堪えるには、何をどう問えば良いのか分からなかった。
静寂の中、緋と紫が交錯し――
「やあ――アニ。あまりに遅いから待ちくたびれて……死んでしまうかと思ったよ」
オリアがゆるりと微笑んだ。
その声が、その言葉が、アニの心を締め付ける。
もはや慟哭も嗚咽も闇の彼方。
哀れな獣は、紫紺に呑まれる茜色を見届けるしか出来なかった。
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