case.7「BOX the B-ug:Y-lot」
※害虫など生々しい表現多めです。
食事時を避けるなど苦手な方はご注意ください。
「……――あー……れ?」
あのまま眠っていたらしい。
ガス臭い闇の底で目覚めたアニは、気だるげに体を起こした。
「あ……指輪」
いつの間に掴んでいたのか。
固く握りしめた指の内側には、ピンクゴールドの小さな輪っかが一つ。
無意識にも大切に掴んだ金環の何と虚しい事か。
想いの乗ったそれに視線を落とし、アニはくしゃりと表情を歪ませる。
「……今更何だよ」
目が覚めたところでアニは一人きり。
電脳箱[K-hack]もいなければ、オリアもいない。
寂しく暗い穴に置き去りにされたアニは、遣る瀬無い声を溢すしかなかった。
「何だって……言うんだよ」
本音を言えば、少しだけ期待していた。
目が覚めたら、二人がいてくれるんじゃないかと。
悪夢を見ていただけなんだと。
怪異の見せる幻に囚われていただけなんだと、そう願っていた。
だが現実は――深く昏い闇の底。
電脳箱[K-hack]にも、オリアにも見限られたという仮説が嫌でも身を突き刺し、すぐに立ち上がる事が出来なかった。
いっそ優しい夢に抱かれていた方が幸せだったのかもしれない。
不思議な事だが、人間こんな時にでも夢を見る事は出来るらしい。
何度となく現れる白い部屋を思い返し、アニは熱の移った指輪を握りしめた。
(またあの場所……)
夢というには鮮明で。
かといって記憶というには曖昧で。
偶然と呼ぶには、あまりに繰り返し見るその光景に思いを馳せる。
(あれは誰で俺は……一体)
あそこにいるのは誰なのだろう。
忘れてはいけない残照は、しかして既に霞がかり、アニは重い息を吐き出した。
(……あと少しで分かりそうなのに)
あの白い部屋は何を意味しているのか。
自分に関係のある出来事なのか。
少しずつ靄が晴れながら、依然として朧げなままの輪郭をなぞり――アニは観念したように立ち上がった。
「先、急がねーと」
奮い立たせるべく、あえて声を発し、ジーンズを汚す泥汚れを手で払う。
乾いた泥はポロポロと落ちたが、こびりついた染みはそうもいかないらしい。
お気に入りのレザージャケットには、焦げ茶色の土がこびりつき、黒い革をまだらに染め上げていた。
そうでなくとも、巨大蜻蛉のせいで肩口が裂けた後なのだ。
アニは舌打ち代わりに表情を歪め――ぼそりと切ない声を溢した。
「……御機嫌取りかよ」
それはオリアへの悪態に他ならず。
一人浮かれていた自らを嘆きながら、アニはとぼとぼと歩き出す。
目指すは北側。
自ら張った水のせいで臭いは薄くなっているが、自らの痕跡を感じ取る事が出来ない程ではない。
嗅ぎ慣れない匂いがする方を目指し、一歩、また一歩と進んでいった。
(たしか……ブスとか何とか言ってたよな?)
名称までアニの頭に入っていないのはさておき――鍋とも言うべき溶岩洞。
噴火によって生まれたこのハッコウ盆地には、かつて三座の山が立ち並んでいたと伝えられている。
一つはブス。
一つはウズ。
一つはテン。
縦に続く山脈は北側――つまりは『箱』とも呼ばれる街の中心地に近付くほど標高を増し、山が健在だった頃には箱一番の高さを誇っていたのだった。
ともあれ、それは過去の栄華。
今は後釜のように、中心地店[Spot-C]が最も高い建造物として、箱の中央に聳え立っているのである。
崩れ落ちた山々は広大な溶岩洞へと姿を変え、その口は一座目の山――ブスへと繋がる大穴のみ。
巨大な、それでいて窮屈な洞窟を壁伝いに進みながら、アニはふと考える。
(さっきの場所がブスって事か?)
目が慣れた所でハッキリとは見通せない闇の中、あの場所だけは妙な広さと高さがあった。
観光地として開放されているのは、カルデラのほんの一部分だけ。
だとすれば、ガミガミ五月蠅いあの大百足がねぐらにしていた場所が、一座目の山ブスだったのではないだろうか。
「…………まさかな」
だがそれは、アニにとっては嫌な予感を招く考えでもあった。
もし大百足がブスの番人だとすれば――だ。
残るウズとテンには何が潜んでいるというのだろう。
先へ進む足を遅くしながら、アニはまたしても長く重い息を吐く。
「はー……あーあぁー…………」
このまま進んで良いのか。
オリアに会った時、何を問えば良いのか。
自分はちゃんと言いたい事を言えるのか。
(何で落としたんだって聞いて、思い詰めてるなら力になるって言って……いや、何でアイツを庇わなきゃいけないんだ。一発殴って……でもそれで俺の気は晴れるのか?アイツが……オリアが呆れるほど嫌な奴だったら、躊躇いなく殴って、それでっ……清々出来るのか?)
見えない道程。
読めない道筋。
気持ちまで闇に沈んでいく中、アニは酷く緩慢な足取りで闇の奥へと向かっていく。
その歩みが遅くなっているのは、気持ちの問題だけではなかったのだろう。
気付けば黒い波がアニの腰にまで纏わり付き――
「何だっ……コレ!?」
引き攣ったアニの体を越えて、ザワリ……と背中側へと流れていった。
背筋を抜けるゾワゾワとした悪寒と、羽毛にくすぐられたような気色の悪さ。
一瞬で通り過ぎた黒風に、アニはブルリと身を竦ませる。
「なっ……何だよ、今の……?」
ただの風というには、あまりにリアルな感触だ。
鳥肌となって全身に現れた気味悪さに、アニは思わず両腕を擦るのだった。
こんな時、オリアがいれば。
もしくは電脳箱[K-hack]がいれば、この怖気を共感してくれたのか。
それとも情けなく飛び上がったアニを笑うのか。
「……止まってても仕方ねーか」
楽しかった過去を追いやるように、アニは一人頭を振る。
そうして闇の中を彷徨い、また幾許。
オリアの語る北がどこまで続いているかも知れないが、熱気を孕んだ洞窟に終わりの二文字は見えてこなかった。
(山だとすりゃ、おかしい事はねーけどよ……気ぃ狂うっての)
たしかに、ここが連峰ならば次の一座までが遠くても不思議ではない。
だがここは光のない洞穴で、景色という景色も見えない深淵だ。
本当に先に進んでいるか分からない不安も相まって、アニの心は疲労以上に草臥れかけていた。
そこにまた、嫌にぬるりとした風が吹く。
「っ……!」
ゾワリ……とした寒気。
ザワザワと蠢く不快な感触。
手足を撫でる、ともすれば心地よいかもしれない感覚に、アニは反射的に体を強張らせた。
「……ッ」
殺気はないが、やはりこれは風ではない。
ほんの僅か――目先くらいは認識出来る程度には闇に慣れてきた目で、通り抜けようとする波を捉まえる。
闇に沈む影が視界に映り――
「うっわ!!汚ぇ!!あっち行け!!」
瞬間、アニはその場で暴れ出した。
それもそのはず、見えたのは虫の大群。
波のようにうねるそれが、有象無象の蜚蠊だと気付いてしまえば、じっと黙ってはいられない。
運び屋として、人並み以上にお洒落に気を遣う身として、不浄の代名詞たる黒虫を払いのけるのは至極当然の事だった。
幸い、群れを成した波は普通の虫らしい。
手足を振るアニを避けるように弧を描くと、そのまま闇の彼方へ消えていった。
だがアニは見逃さない。
「今の……っ」
真紅の目は、黒い波の上に乗った赤い顎を見落とさなかった。
それは大百足が残した残骸。
ガミガミ喚く事を止めた口を持って、一体どこに行こうと言うのか。
それだけではない。
波が運ぶのは頭を失った蜻蛉や、潰れた蛾の腹にまでのぼり、ますますもって不吉な予感が募っていく。
「クソッ!!」
疑心がもたらす焦燥はアニを奔らせ――きっとここがウズなのだろう。
「……まじかよ」
怪訝に顔を歪めるアニの前に現れたのは、嫌な予感そのもの。
声か衣擦れの音かも分からない音を溢す巨大な蜚蠊だった。
あるいは卵を抱くスカラベか。
波打つ黒風に囲まれた番人が、アニには目もくれずに腐った肉団子に喰らい付く。
その素材は考えずとも分かること。
新たに運ばれてきた材料が積み上げられる中、漆黒の甲虫はグチュグチュと音を立てながら肉の塊を貪り続けた。
『シルシュシュシュ……ッ』
もしかしたらそれは、怪異と出会ってきた中で、一番現実的な光景だったかもしれない。
そのリアルで気持ちの悪い様相に、アニは思わず口に手を当てた。
「…………きっつ」
つい口を出るぼやきに――さりとて、相手が気にする事はない。
波とも靄ともつかない黒いうねりが揺れるだけで、肉塊には程遠いアニに興味を示す様子はなかった。
もっとも、それは良い事ばかりではない。
アニが目指す先――北に繋がる洞は巨大な黒虫の向こう側。
異様に膨れた腹を持つ甲虫と、無数に積み上げられた肉団子と、足場なく溢れ返るシュラフのような塊の奥から、熱を孕んだ風が入り込んでいるのである。
ガスの臭いを充満させるそこに行くには、どう足掻いても蜚蠊の波を掻き分ける必要があるだろう。
シュラフ――寝袋のようだと言ったが、見た目には黒豆を人ほどの大きさにしたようなものか。
黒々とした塊を足先で小突き、アニはゴクリと唾を呑み込んだ。
(……踏んだらマズいよな?)
どうにも見覚えのあるそれは、恐らく甲虫の卵なのだろう。
正確には卵を守る卵鞘か。
以前、動物の糞と勘違いして電脳箱[K-hack]に正された記憶を引っ張り出したアニは、苦い思い出にも、悍ましい現実にも口をヘの字に曲げるのだった。
というのも普通の蜚蠊でも、一つの卵鞘の中に三十個ほどの卵が入っていると言うからだ。
それが今目の前にあるのは、ゆうに1mを越える大きさの揺り籠なのである。
数百もの卵が眠っているのか、先に見た巨大な虫が収まっているのか。
どちらにせよ、良い答えは詰まっていないだろう。
うっかり踏んで中身が出るだけならマシ。
しゃにむに肉団子に喰らい付く甲虫を見やり――アニはまた唾を呑み込んだ。
(ここ抜けんのか……?)
もし――も何もなく、あの甲虫はウズを統べる番人なのだろう。
小さな分身たちが甲斐甲斐しく世話をする様は、蟻や蜂の女王とよく似たもので――甲虫は大きく張った腹の先から、ゴロリと卵鞘を吐き出した。
無論、それを〝生命の神秘〟と思えるほどアニも純粋ではない。
見たくもない生々しい光景に、一層眉も口も歪めるしか出来なかった。
(……罰ゲームかよ)
傷口に塩どころかナイフを突き立てられている気分になるのは何故なのか。
災難続きのアニは半ば投げやりに、それでも足元に注意しながら、最初の一歩を踏みしめる。
「…………よし。よーし……」
ぬるりとした血肉の感触。
足先に当たる度に緊張が奔る卵鞘の硬さ。
ガスと腐敗臭が混じった空気の悪さ。
グチュグチュ、ピチャピチャと耳を嬲る咀嚼の音。
いやに静かな空間に響く不快な音に急かさせれるように、アニはゴミ捨て場の如き迷路を切り進んでいく。
願いは一つ。
巨大な女王が怒り狂わない事だけだ。
もしかしたら、卵が駄目になったところで、見向きもしないのかもしれない。
だがそれはアニの希望に他ならず。
今は敵意がなくとも、一挙手一投足を監視する波の存在が影を落とすのだった。
「敵じゃねえ。敵じゃねーよ」
もはやどちらに言い聞かせているのやら。
ブツブツと囁いたアニは、肉団子の壁と、崩れ落ちそうな卵鞘の山と――棘に覆われた女王の手足や、小刻みに震える羽が巻き起こす風を掻い潜る。
死肉にしか興味はないようだが、一つ間違えれば、あの肉塊の仲間入りだろう。
「気付くなよ……?」
物音に敏感ではなさそうなのが救いか。
嫌悪感と不快感が掻き立てられる中、アニは闇の迷宮をゆっくりと進んでいった。
せめて光があれば、一息に飛んでいけるのに。
そうは思えど、この深淵だ。
下手に照らそうものなら、相手を怒らせかねない上、餌がここにいると知らせるようなもの。
手の平に伝わる粘液の生温さに背筋を震わせながら、暗く深い闇の底を、一歩ずつ着実に進む他なかった。
果たして出口に近付ているのか、いないのか。
気が遠くなる――正確には意識が飛びそうになる腐乱臭に耐えること幾許。
少しずつ濃度を増していく硫黄の香りに、アニは光明を得始めた。
(……あと少し)
このまま匂いの方に進んでいけば、甲虫の領域から逃れられるはず。
浮かび上がった期待を胸に、地面を擦る足の速度を速めていく。
実際問題、アニとて怪異と死合いたいわけではないのだ。
死んだ虫を喰らうだけで、不必要に襲ってこない相手なら尚のこと。
体力温存はもちろん、まずは大穴の脱出が先決だと、息を潜めて先を急ぐ。
精神を抉る探索は数十分にも及び――そのおかげだろう。
随分と暗闇に慣れてしまった目が、ぽっかり空いた洞へと吸い寄せられる。
硫黄の隙間風と、汗を滲ませる熱気を感じれば、そこがゴールである事は一目瞭然。
蓋をするように聳え立つ肉団子さえ退かせば、このゴミ溜めからおさらば出来るだろう。
「……クソッ。やるしかねーか」
心底気乗りしないが、肉団子さえ何とか出来れば良いのである。
アニは独り言ち、ついでにジャケットを腰に巻いてから、邪魔な肉塊へと肩を付けた。
そのまま全身を使って肉塊を押し退ける。
その進みは蝸牛の如く。
粘液で滑る足を踏ん張り、ズリ……ズリ……と亀の歩みで道を切り開く。
(あと……ちょっと!)
隙間は既に十数cmほど。
小柄な人間なら通れそうな道が生まれ、アニは最後の一押しとばかりに崩れそうな肉塊に力を込めた。
瞬間――弾け飛ぶ激しい熱風。
突如起きた爆発が、肉塊ごとアニの体を吹き飛ばした。
「んぎゃ……ぁっつ!!??」
鼻の曲がる悪臭。
肌を焼く熱。
皮膚を溶かす毒となって飛んでくる粘液と、石か鉄かも分からない欠片。
四方八方から襲い来る衝撃に、アニは堪らず奇声を上げる。
その間にも爆発は連鎖的に起き――
『シュルルアアアッァァッ!!!!』
絶叫する甲虫だけを残し、肉塊という肉塊が、波という波が――卵という卵が無惨に弾け飛んでいった。
さながらポップコーンだが、アニの前に広がるのはそんな可愛らしい光景ではない。
血肉舞い跳ぶ地獄絵図に、地面を転がったアニは愕然とするばかり。
『シルシュシュ……シュアアアッ!!』
「俺じゃねえ……。俺のせいじゃねーよ……っ!!」
バチリ――と目が合った甲虫が発狂の怒声を上げ、アニもまた錯乱した様子で叫び返すのだった。
無論、アニの苦心など無意味なもの。
弁明の叫びを威嚇と受け取った甲虫が、死肉を浴びたアニへと襲い掛かった。
『キシュアアアッ!!』
「だから俺のせいじゃねーっての!!」
だが巨大な腹が邪魔をするらしい。
齧りつくように伸びた顎はまるで届かず、ガチンと硬質的な音を響かせる。
避けるまでもなく空振りに終わった一撃に、アニはゆっくりと一呼吸。
両腕で粘液を拭いながら、ギーギー叫ぶ甲虫に目を凝らした。
「……動けねーみたいだな」
どうやら壺のような腹で全身を支えているらしい。
長い足は前側だけでなく、背中側からも伸び、四点で地面をついている。
それは手も同じく。
腹に対して小さな頭から伸びる手も前後二本ずつ伸び、もはや本当に蜚蠊なのか判断がつかなかった。
オリアが見れば壁画に描かれるスカラベのようだ――という蘊蓄に始まり、阿修羅だの両面宿儺だの、何かしら感想を溢しただろうが、アニがそれを理解出来るわけもなく。
緊張をもって怒れる甲虫と睨み合う。
(……駄目か)
逃げようにも、爆発で跳んだ卵鞘が出入口を塞いでしまったらしい。
否、風の如き甲虫の群れが肉塊の弁をしたのだろう。
肉塊と交じり合った、ヘドロとしか表現しようのない粘液が、アニの行き先を阻むのだった。
「クッソ……何であのタイミングで」
折角あと少しだったというのに。
思わずぼやくが、オリアなり電脳箱[K-hack]なりがいれば、アニに白い目を向けた事は明白だ。
というのも、ここは火山。
噴火が起きていないだけで、溶岩洞の中はガスと熱で満ちているのである。
そこに肉塊に溜まった腐敗ガスが噴出。
硫黄など他の成分と混ざり合う事で発火が起き、狭い洞の空気が一気に膨張する事で爆発したのだった。
その爆発が更なる爆発を引き起こし――後は見ての通りだ。
自覚がないとはいえ、自らがもたらした結果にアニは首を絞められているのである。
もっとも、他に方法があったかと問われると、それもまた難しい話だろう。
疲れるからと。
意識が混濁するからと。
オリアを信じきれないからと。
異装[I-sow]に頼らない事を選択をした結果がこれだ。
成るべくして成った帰結が、牙を剥いたに過ぎなかった。
かくして――
『シュウゥ……シャアアアッ!!』
飽和した悲憤は、血肉に濡れた鍋底に火を灯す。
その呼び声に目を覚ましたのだろう。
無傷に済んだもの、罅割れたものを問わず、巨大な卵鞘から小さな塊が這い出してくるのだった。
透明なそれは幼虫――正確には幼齢と言うべきか。
小さな、それでも普通の成虫より遥かに大きな大群が我先にと溢れてくる。
一体全体、どこにその数が入っていたのか。
一心不乱に生まれてくる虫を相手に、アニはただ顔をヒクつかせるしかなかった。
「まじかよ……っ!?」
これを〝生命の神秘〟などと喜べる人間はいるのだろうか。
自らを守る外殻が固まるのを待つ事なく飛び掛かってくる虫を相手に、アニは勢い良く足を振り回した。
風を切った足はたしかな手応えを感じるが――焼け石に水。
数匹を蹴り潰すが、倍ではきかない虫がアニの足にしがみついた。
一匹一匹は大した事がなくとも、数十匹と集まれば、その重さは鉛の如く。
ズシリと重くなった足にバランスを崩した刹那、見えざる波がアニの体を呑み込んだ。
「ッ……クソ!!」
透明な体は闇に溶け込み、もはや何と格闘しているかも分からない。
だが身動きが取れない程の重圧と、体を齧られる激痛。
キシキシと耳を嬲る硬質的な音と、女王の遠吠えを聞けば、自分が肉団子にされそうな事は嫌でも理解できてしまう。
こうなってはもう、四の五の言っている暇はないだろう。
「結局!!コレかよ!!」
雄叫びを一つ。
忌々《いまいま》しく叫んだアニは、その身を漆黒の煙へと変貌させた。
いかに風のようであれ、実体を持った波では煙を捉える事は叶わない。
呑み込む相手を失った大群は、転げるように流れ、地面の上に散っていく。
その様を体全体に開く無数の目で見つめるように、漆黒の獣は大地の上に降り立った。
『グルル……ッ』
『シルシュシュシュルルル』
流動する赤い線。
金継ぎを思わせる赤は全身を流れながら、闇の中を明瞭なものへと変えていく。
深淵をも見通す眼はしかと甲虫を捉え、その姿を浮き彫りにするのだった。
(……気色悪ぃ)
その姿はやはり蜚蠊の如く。
怨恨が呪いを生み出すなら、畏怖が怪異を強くするのなら、嫌われ、無慈悲に殺され、迫害される彼らがウズの番人となってもおかしくはないのかもしれない。
瓢箪のようにも見える女王を一瞥し、獣は深い影溜まりを作った。
ドプリと溶けた影は溢れ出し、大きく開けた竪穴に水を流し込む。
大百足を平らげた行潦が底を満たせば――ウズを濡らすに終わった。
『ガウッ……ルル!』
『シュルシュルジュルルッ』
行潦とはひとところに溜まった水のこと。
ゆるやかに流れ消える水であり、たちどころに流れてしまえば、それを行潦と言う事は出来ないだろう。
排水溝に吸い込まれる水の如。
巨大な腹に呑まれた水は、立ちどころに行方知れぬものとなったのだった。
『ジュルルッ……ジュル』
あらゆる物を貪り尽くす食欲の権化に、大百足の時と同じ手は通用しないらしい。
それどころか――
『ブシュッ!!』
女王は飲み干した水を吐き出した。
高圧水流と化した水は、糸も容易く獣の体に風穴を開け――しかして獣も簡単に倒れる事はない。
千々《ちぢ》となった体は煙と同じ。
すぐさま形を取り戻した獣は、放水を続ける女王へと飛び掛かった。
『ガウルアッ!!』
『シャアアッ!!』
真っ直ぐに駆け出した獣。
それを迎え撃つ不動の女王。
恰好の的と言わんばかりに水を吐き出す女王の目の前で、獣はフッとその姿を掻き消した。
飛び散った岩、捨てられた卵鞘の残骸、ぞろぞろと飛び交う虫の波。
些細な場所にも鋭角は存在し――漆黒の獣はその隙間から現れ出づる。
立ち込める匂いは、きっと人間には認識できないものだろう。
だが異形の者には耐えがたい恐ろしいまでの死の匂いを、女王はたしかに感じ取ったらしい。
背後――否、女王に後ろなどはない。
両面に手足と顔を持つ甲虫は、影から姿を現した獣に牙を剥いた。
『シルシュアアッ!!』
女王――あるいは王なのか。
雄叫びを合図に虫の渦が獣へと襲い掛かり、煙の如き体へと纏わり付く。
もっとも、煙を掴む事は叶わない。
激しい水飛沫が虫の大群を吹き飛ばす中、漆黒の獣は対岸の岩陰からぬるりと姿を現した。
『グルアッ!!』
『シッ――シュルブジュア』
決着は――一瞬だった。
裂けたように大きく開いた顎。
狼のようにも、龍のようにも、百足のようにも、もしくは全てが混じった前例なき怪物のようにも見える鋭い顎から伸びた長い舌が、甲虫の頭を刺し貫く。
鋼よりも固い鎧を砕いたそれは、比類なき金工。
神の遣いと畏怖された大百足の加護を得し剣だった。
『グジュ……シ……シィ……』
奇しくも、蜚蠊の天敵の一つは百足だ。
軍曹とも称されるアシダガカグモが有名ではあるが、百足もまた蜚蠊の捕食者なのである。
そして、万物を喰らう蜚蠊であれ、金属まで喰らう事は叶わない。
大百足の司る金の力を前に、蜚蠊の首魁は16本の手足を震わせた。
その足が撫でるのは、大きく膨れた腹だ。
生を待つ子をあやす仕草に、さりとて獣も情けをかける事は出来ない。
『……グァオ』
短く吠え――甲虫の体を両断した。
『シ……シシ…………』
元々半分だったからか、番人としての矜持か。
真っ二つに裂けてなお、巨大な甲虫は子を守るように自らの腹を抱く。
すでに生れ落ちた子らも、くず折れる両親に寄り添うように、その周囲に集まるのだった。
(俺が悪いみたいじゃねーかよ)
悲しき家族の姿は、どうにもアニの心に影を落とす。
襲ってきたのはそっちだと言い聞かせ――けれど捨て置けないのも、アニという男の性質だ。
『……ギャウ』
悪かったよ――そう呟いて、漆黒の獣は炎を燃やす。
光の届かない深淵を照らす炎は、魂を導く陽光そのもの。
金色の炎に包まれた虫たちは、身を寄せ合って溶けていくのだった。
光に消え行く刹那、虫の一匹がアニの頭へと飛んでくる。
透明で柔らかなそれは、今まさに生まれた最期の一匹なのだろう。
小さな虫は犬の如き獣の額に舞い降り――光の粒子となって消えるのだった。
それは餞別か、置き土産か。
アニは活力が巡るのを感じ取る。
(……礼のつもりかよ)
ある種、蜚蠊自体が生命力の塊とも言えなくないが、生命を抱く甲虫――スカラベは太陽の化身と崇められてきたものだ。
かの金烏と同じ太陽神の遣いとして尊ばれてきた存在である。
この地に縛られていたのか。
あるべき姿を思い出したのか。
アニに生命力を託した虫たちは、太陽の元へと還ったのだのだろう。
炎が肉塊も卵鞘も全てを消し去るのを待って後、アニはその姿を人のものへと戻すのだった。
「……ッ……」
しかし、体に力が入らない。
活力を感じこそ、異装[I-sow]の反動はなおも厳しくアニを苛める。
獣へと変じたからか。
陽光が一緒に身を清めてくれたからか。
幸い身綺麗になったアニは狭い洞を進もうとするが――やはり意識は限界のようだ。
「……クソ」
膝から崩れ落ちたアニは、その場へと座り込んだ。
(早く行かなきゃ……なんねーのに)
あと何回、先を急げば良いのか。
この戦いは次で終わるのか。
怪異が襲って来る前に、目を覚ます事が出来るのか。
不安が悪夢となって迫る中、アニは静かに目を閉じる。
だが不思議と嫌な気はしない。
閉じた瞼には、白い光が見えていた。
その光は眩く。
きっと一番最初に焦がれたものだった。
その光を追って――
(……――ふわっ!)
まだ幼い少年は、空から降って来た白い塊を口で掴まえた。
虫なのか、綿毛なのか。
軽くて冷たいそれは、瞬く間に溶けると、生温い水滴だけを舌の上に残しいく。
その珍妙さが面白いのか、ただただ白を掴まえるのが楽しいのか。
少年は夢中になって、舞い落ちる白を追いかけるのだった。
(ふわふわ~!)
お気に入りは、ふわふわで大きな塊だ。
もふりと愛らしいフォルムの丸を追って、少年は草木の枯れた道を走り回る。
そこに――皆目を覚ましたのだろう。
一足早く目覚めた少年に続いて、家族たちが姿を見せた。
『遊んでないで行くぞ』
語り掛けるのは一番上の兄。
早くに亡くなった父に代わり、家族をまとめ上げる青年が威厳たっぷり――否、不遜に鼻を鳴らす。
どうやらヤンチャ盛りの少年が手に余るらしい。
厄介そうに息を吐き出してから、青年は先頭を歩き出した。
その後を追って、二番目の兄、三番目の兄、四番目の兄――以下略。
たくさんの兄姉たちが、痩せ細った道を進んでいく。
ぞろぞろと連れ立つ彼らは、謂わば流浪の民。
安住の地を求める列に遅れないよう、母に小突かれた少年も先を急ぐのだった。
季節は冬の初め。
草木はすでに萎れ、動物たちもほとんどが寝床へと籠り切っている。
つまりそれは、食べられるものもなければ、雨を凌げる場所もないということ。
大地が白銀に染まる前に、冬を越せる場所を見つけなければならなかった。
そんな事とは露知らず、列の後方を歩く少年は空へと目を向ける。
『かーさん。これなーに?』
『雪――だよ』
空から降ってくるふわふわ。
白くて愛らしいそれは雪と言うらしい。
『ゆき!おれゆきすき!』
『直そうも言ってられなくなるよ』
冬の到来を忌避する母たちにとって、雪の訪れは嬉しいものではない。
だが無知な少年には関係のないこと。
すっかり雪に魅了されてしまっていた。
だが雪というのは案外貴重なもののようだ。
初めて少年が雪を見た日から数日。
白くて魅力的にふわふわが、空から舞い降りてくる事はなかった。
家族はこれ幸いにと寂れた道を急ぐが――季節の移り変わりは避けられない。
一日、二日と時が経ち、一度は止んだ雪がまた降ってくる。
今度こそ雪が積もるのだろうか。
焦燥に駆られる家族とは裏腹に、少年はもはや、随分と久しぶりに見る雪に居ても経ってもいられなくなっていた。
『ゆき!ふわふわ!』
寒さも忘れる興奮が、退屈に押し潰されていた少年を駆り立てる。
その背に家族の呼び声は届かず、少年は止めどなく降ってくる雪を追いかけ、どこまでもどこまでも走っていった。
次はもっと大きいものを。
次はもっと柔らかいものを。
次は、次はと夢中になる内に、気付けば少年は独りぼっち。
仲間からはぐれ、帰り道も分からなくなっていたのだった。
せめて雪が積もっていたら、自分の足跡を追いかける事だって出来ただろう。
しかし、雪はまだ降り始めたばかり。
唯一頼りになる鼻も、遠く離れた家族の匂いまで見つける事は叶わず、暗い昏い闇の下、少年は一人にきりになってしまったのだった。
『かーさーん!にーさーん!ねーさーん!』
わんわんと泣き叫ぶが、帰ってくるのはこだました自分の声だけだ。
『うー……ぐすっ』
疲れ果てた少年は涙と共に夜を過ごし、家族を探す旅を始めるのだった。
しかし、一度はぐれた家族は見つからない。
見捨てられたのか。
もう死んだものと割り切られたのか。
(おれ……すてられたんだ)
話も聞かず、身勝手に飛び出した少年が、家族と再会を果たす事はなかった。
やがて空腹が募り、寂しさが募り、疲労が募り――少年はついには立てなくなってしまう。
きっと、このまま眠ってしまうのだろう。
骨の浮き出た体には、ふわふわと柔らかな雪が降り注ぐ。
(…………ゆき)
冷たいはずのそれを温かく感じるのは、終わりの時が近いからだろうか。
思わず感傷に耽りそうになるが、少年を看取る気でいるのは雪だけではないらしい。
ふらふらと現れた黒蛇。
招かれざる死の遣いに、少年はビクリと体を強張らせた。
『くっ、くるな……っ!』
まだ雪が積もっていないからか。
冬眠できるほどの餌にありつけなかったのか。
巨大な、それでいて痩せ細った大蛇が、活きの良い餌を前に、チロチロと舌なめずり――したように見えた。
事実、ほくそ笑んだのだろう。
地面を這って逃げようとする少年目掛け、大口を開けた蛇が飛び込んで来る。
『――ッ!!』
大口を開けた蟒蛇の何と恐ろしい事か。
恐怖のあまり身動きのとれない少年は、ぎゅっと目を瞑り――……しかし、いつまで経っても痛みはない。
『…………?』
恐る恐る目を開ければ、見知らぬ相手。
首を失った蛇の向こう側に、薄紫色の目をした人が立っていた。
その色は淡く美しく――もはや斧が落とした蛇の首も、じわりと広がる赤色も、鼻をつく鉄臭い臭いも意識の外側。
今まさに降り積もる雪のような相手に、少年はただただ胸を高鳴らせる。
この瞬間、少年は恋に落ちた。
唯一人、生涯の情熱を誓う相手を見つけたのである。
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