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匣ノ中ノ獸  作者: yura.
匣ノ中ノ獸
34/65

case.6「BOX the B-ug:X-pod」

限界まで手を伸ばす。

けれど、その手が届く事はない。

「ッ……オリア」

名前を呼んでも、それは同じ。

笑みを消した紫苑が見届ける中、アニの体は奈落の底へと吸い込まれていった。

赤い空が黒に染まり。

ぼんやりとした闇が深淵に変わり。


――驚愕と絶望。


居た堪れない感情に呑まれたアニは、景色が流れ往く様をただ茫然と見つめたまま――その果て闇の底へと転げ落ちた。

「――……ッつう!!」

一体どれだけの時間を彷徨ったのか。

散漫とした意識が、痛烈な衝撃によって戻ってくる。

否、思考の全てが痛みへと塗り替えられた。

四肢が弾け飛ぶような激痛は、閉じる事は出来ずにいた眼に閃光を奔らせ、ズキズキとした鈍痛と熱が、投げ出した全身をんあぶるのだった。

「ぐっ……うぅ……!」

獣の唸りを喉から絞り出すが、それは所詮、自然現象だ。

痛みが引く――なんて事もなく、アニはチカチカと点滅する視界で天を見やった。

「んで……だよ」

穴というよりは壺といった雰囲気か。

もぞりと体を起こしたアニは、遣る瀬無い声を溢す。

そらが見えない程の深さだが、幸いにも命に別状はないらしい。


否――死んでいたのかもしれない。


手足はあらぬ方に曲がり、圧に耐えられなかった内臓が潰れ、血反吐ちへどだって吐き出したはずだった。

だが底に辿り着いた体は傷を癒し、何事もなかったかのように四肢ししを繋げている。

それとも、墜落ついらくのショックで嫌な夢を見ていただけなのだろうか。

「…………意味、分かんねぇ」

まるで自分が怪物になってしまったかのようだ。

怪異ならば落ちても平気だろう――落ちる前に考えた思考が自らに突き刺さる痛みに重なって、アニは重い息を吐き出した。


それ以上に――心が痛い。


ただ足を滑らせただけだったら、どれだけ救われただろうか。

背中に残る微かな感触と匂いに、嗚咽おえつが零れそうになってしまう。

「分かんねーよ……オリア」

しかし慟哭どうこくにも似た嘆きも闇に吸い込まれるだけのこと。

しん……と静まり返った暗がりの中、オリアは立ち上がれずにいた。

小さい子供がするように膝を抱え、傍にいない相手に想いを馳せる。

(なんで……こんなこと)

もはや頼れる箱も、縋れる人もいない。

それは水府すいふへの転落とは一線をかくすもので、本当の意味で一人きりになってしまったアニは動きを止めた。

(……何でだよ)

導いて欲しいのに、何故だと問いただしたいのに、それすらも叶わない。

突如として訪れた孤独が、アニの心をさいなんでいく。


それでも――会わなければ。


何故こんな真似をしたのかと。

もし自分に非があるのなら、挽回する機会が欲しいと。

もし理由があったなら許すからと――意図して裏切りという思考を排除したアニは、固まってしまいそうな膝をその場で真っ直ぐに伸ばした。

そのままよろよろと歩き出せば、ゴッと固い感触が左の肩を殴りつける。

「壁……か?」

無遠慮にぶつかった体の痛みはけして小さくないが、すぐに支えが見つかったのは暁光ぎょうこうだ。

一向に目は利かないが、鼻の調子は悪くない。

もしこのままグルリと一周したとしても、匂いで気づく事が出来るだろう。

手探りでペタペタと岩肌を探りながら、アニは壁伝いに歩き出した。

無論、まるっきり算段がないわけではない。

「たしか……北って言ってたよな」

この局面でオリアの話を信じるのもはなはだ無謀ではあるが、観光地らしく看板でも大々的に説明されていた内容だ。

北側に溶岩洞ようがんどうが続いている――少なくとも、この部分に嘘偽りはないのではなかろうか。

もしくは北へ来いという暗示か。

落ちた時点で終わりだろうと踏んだ怠慢か。

(いや、異装[I-sow](コイツ)もある。落ちて終わりとは思ってねーはずだ。それにまだ……)

まだオリアが悪いとは決まっていない。

本当に手が滑った可能性もある。

誰かにおどされていた可能性だってあるだろう。

電脳箱[K-hack(コハク)]か何か――逆らえない相手がオリアに命令した線も絶対にないわけではないのだ。

何より相手は怪異である可能性も高いわけで。

カケイの時のように、既に怪異にとり憑かれているならば、この所業にだって説明がつくだろう。

アニは懸命に前を向こうとし――


『ごめんなさい――Sir.アニ』


――脳内に蘇った電脳箱[K-hack(コハク)]の声に、冷や汗を垂らした。

その懺悔ざんげはまるで、初めからこうなる事を知っていたかのような口ぶりだ。

(……んなわけ)

一粒の汗はいやに冷たく背中を濡らし、アニはつい口籠くちごもる。

浮かび上がった予感を否定したいのに、続く言葉はどこにも見当たらなかった。

それどころか、この深淵のせいだろう。

次から次へと嫌な考えが湧き上がり、死から目覚めた骸骨アンデッドのように、アニの体に絡みついてくるのである。

(違う……。そんなわけ……)

頭では必死に否定するが、一度でも認識してしまえば、後はもう逃げる事の適わない〝くねくね〟のようなもの。

目を逸らしてきた違和感の先が。

不満の先が。

疑問の先が

恐怖の先が。

一つに繋がっていた事を、アニは遂に自ら悟ってしまう。


思えば、全てが変だった。

初めから何かがおかしかったのだ。


歯車が欠けていたのか、噛み合ったのか。

オリアとの出会いも、怪異との遭遇そうぐうも、偶然ではなかったのかもしれない。

(まさかオリアに会わせるために……?)

〝災禍の箱〟となった鉄の塊。

今までも得体の知れない物を配達する事はあったが、あそこまであからさまな物の配達を電脳箱[K-hack(コハク)]が受容する事はあっただろうか。

報酬が良いだけで、あんな意味の分からない依頼を受ける意味もなく――アニははたと足を止める。

(あれ……?)

あの日、箱を持ってきた人間。

たしかにその顔を見たはずなのに、その顔を思い出す事が適わない。

そもそも人だったのか、電脳箱[K-hack(コハク)]だったのか、ただ箱が置いてあっただけなのか――それともオリア《・・・》だったのか。

酷く曖昧あいまいな記憶に、アニは胃の中のものが逆流してくる気持ち悪さを感じ取った。

(何で思い出せねーんだ?)

数年前ならまだしも、ここ一ヵ月の話だ。

おおよその背格好くらいはピンときそうなものなのに、思い出そうとする光景にもやがかかるのだから気味が悪い。

その不和は際限なく広がり、アニの心に不穏の種をいていく。

否、とっくの昔に育っていたのだろう。

根を張った疑念を引っ張れば、巣食っていたつぼみが否応なしに花開いた。


何故オリアは、いつも狙ったように目の前に現れるのか。


考え得るその答えに、アニは一層表情をかげらせる。

(……あり得ねぇ…………)

咲いた思考は、到底あり得るものではない。

あり得て良いものではない。

だがそれ以外に説明できるものもなく、アニはゴツゴツとした壁にもたれかかった。

(けどそうでもなきゃ……)

頭に浮かぶのはつい先日の出来事。

水府に落ちた時、オリアは電脳箱[K-hack(コハク)]の体を我が物のように扱っていた。

電脳箱[K-hack(コハク)]を操作できるのなら、その逆――オリアの中に電脳箱[K-hack(コハク)]が入る事も可能なのではないか。

馬鹿げた考えとは思いつつ、もしそれが可能なら、オリアがどこにでも現れる理由にも説明がつく。

電脳箱[K-hack(コハク)]のように、いくつも肉体ボディを持っているならば、移動の手間なくアニの前に現れる事も実現出来るだろう。


それを助長する朝の違和感。

あの時、オリアの中身は本当にオリア自身だったのか。


ざわつく胸を押さえつけ、アニはか細い息を吐き出した。

(俺だけ……俺だけ何も知らなかったってのか……?)

電脳箱[K-hack(コハク)]たちには知り得ない怪異の情報。

その怪異について唯一知るオリア。

全てが初めから仕組まれた事だったならば。

オリアに助けを求めるよう誘導されていたならば。

オリアが何故怪異に詳しいのかも、オリアが電脳箱[K-hack(コハク)]を有していない理由も、納得がいってしまう。

ただ一つ分からないのは――

(でも何のために?俺とカイイを戦わせて……回収するため?だとして何のため(・・・・)なんだよ!?)

オリアが何をもって怪異の研究をしているのかだ。

飢えをなくせる――なんて、聞こえの良い事を語ってはいたが、このに及んでそんな善人ぶった事は言わないだろう。

そもそも悪い内容でなければ、素直に教えてくれているのではないだろうか。

もっとも、オリアは多くを語らない。

(もしかして……病気なのか?セントウだかがないと治んねーような。でも……でもよ、だったら何で言ってくれねーんだよ。頼ってくれりゃ、カイイでも何でも倒してやるってのによ)

いまだオリアを悪だと決めつけたくないアニは、行き場のない苦悩と不甲斐なさに唇を噛み締めた。

(……そんなに俺は頼りなかったかよ)

たとえ悪人だとしても、裏切るような事だけは、捨てるような真似だけはして欲しくなかった。

切ない本音を呑み込み、アニは先の見えない闇に目を向ける。

どちらにせよ、このまま引き下がる真似だけはしたくない。

何も知らないままでは終われない。

どこまでも続く真っ暗闇を前に、アニは自らをふるい立たせた。

「……行くしかないよな」

北も南も分からないが、北にしか道がないなら問題はない。

手と鼻の感覚を頼りに、嫌でも重くなる足をずりずりと引き摺って行く。

足をるのは、何があるか分からないからだが、靴の裏に伝わるのは砂礫されきの感触ばかり。

時折蹴る岩石の硬さに眉をひそめながら、アニは北と思しき方を目指していく。

それも束の間、アニはゾクリと背中を震わせた。

「何だ……?」

悪寒――というより武者震いか。

微かな呼気こきが耳を掠めれば、アニは考える間もなく前へと跳んだ。

「ッんだよ!?」

間髪入れずに響くのは、グジュリと生々しい水音が一つ。

何かを踏んだらしいと気付いたアニはつい愚痴ぐちを溢す。

ツンと鼻にくる酸っぱい香りは、中身をさらけ出した何かのものだろう。

流れるように足を払ったアニは暗闇を凝視し――その中に、微かな光を反射する石を見つけるのだった。

もっとも、それは石などではない。

乱反射する光を宿したたませわしなく動き回り、アニは反射的に足を蹴り上げた。

「気持ち悪ぃん……だよ!!」

パンッと弾け飛ぶのは腹か頭か。

気付けばアニは、幾十もの群体に囲まれていた。

否、もっと――音を聞きつけたのか、闇という闇の奥から、ぬるりと虫が湧いてくる。

あえて表現するならばが正確だろう。

虫というには巨大な塊が、うぞうぞと、それでいて素早く姿を現すのだった。

大きく開いた牙を持つモノ。

鋭く尖った角を持つモノ。

無数の目を光らせるモノ。

大きくなった、ただそれだけでもおぞましいそれらが、ギチギチと外殻がいかくきしませるさまは、もはや醜悪しゅうあくとしか言いようがなかった。

虫が苦手な人間ならとっくに失神している光景に、アニもうんざりといった風に表情かおゆがませる。

「鍋……な。鍋。黙って料理されるつもりもねーけどよ!!」

オリアが放った鍋という単語。

この穴が〝鍋〟で、この虫たちが〝材料なら〟、当然自分も〝材料〟の一つなのだろうか。

言わんとする意味を正しく理解したアニは、迫りくる無数の虫を叩き潰す。

「アイツ……ッ!!絶対ぶん殴る!!」

もちろんオリアへの悪態も添えて。

奥歯を噛み締めたアニは、闇から湧き出す虫を殴り飛ばした。

『ギッ』

『ジジジジジッ』

だが皆が皆、もろいわけではないらしい。

ちょうのような虫は呆気あっけなく吹き飛ぶも、硬質的なよろいまとった甲虫たちは、軸を崩す事なく詰め寄ってくる。

仲間意識があるようには見えないが、どうやら彼らにとってアニは、共通の獲物らしい。

我先にと身を乗り出し、凶器と化した体を突き立てた。

ドリルのような角が、剪定鋏せんていばさみのような鎌が、鞭のようにしなる口吻こうふんが鋭く迫り――アニは上半身を後ろに逸らしてそれらをかわす。

そのまま地面を手に、虫たちを蹴り飛ばしながらバク転で距離をとるのだった。

しかし、その隙を見逃さない虫が一匹。

強靭きょうじん大顎おおあごを持つ蜻蛉とんぼが素早く宙を旋回せんかいし、今まさに着地しようとするアニに飛び掛かる。

『ギチチチッ!』

「ガッ!?」

その動きは音速に等しく。

声かも分からない唸りが一瞬で駆け抜ける。

刹那、アニの右肩がブチリと噛み千切られ、破れたジャケットが糸を伸ばしていった。

ほつれた糸がアニと蜻蛉とんぼの間に長い橋を架けるのは一瞬のこと。

あまりの勢いに体が引きられかけるが、細い糸では人間の重みには耐えらなかったらしい。

ブチンッと糸が切れ――

『ギチチッ?』

いかりを失った蜻蛉とんぼは、カタカタと首を傾げながら岩壁へと飛び込んだ。

グシャリと頭が弾け飛び――しかして、蜻蛉は体だけで飛び回る。

自らの死に気付いていないのか。

獲物を探すように旋回を始めた蜻蛉とんぼに、さりとてアニは目もくれない。

「クソッ……!!」

真紅の目が見つめるのは小さな光。

蜻蛉の軌道上に舞い上がった小箱から飛び出した煌めきを、小さくなった瞳孔どうこうで追いかける。

「そいつは……っ!!」

それはオリアのために選んだ指輪。

蜻蛉とんぼの空襲でジャケットが裂けた折、胸ポケットから弾けていったらしい。

砕けた箱から飛び出した指輪を目に、アニは必死に手を伸ばす。


理性では分かっている。

こんな時に気にするべきではないと。

オリアに情を持つべきではないと。


それでも簡単には捨て切れず。

「邪魔すんなっ!!」

アニはその身を、黒々とした獣へと変貌へんぼうさせた。

影の如き獣の降臨は何を意味するのか。

『ギッ……チチチ』

『ジジジッ…………』

仲間だと思ったのか。

恐ろしい天敵が現れたと気付いたのか。

やかましく鳴いていた虫たちが、蜘蛛の子を散らすように闇の奥へと消えていく。

唯一留まるのは、頭を失った蜻蛉とんぼが一匹。

獲物を見つける事が出来ない哀れな虫が飛び続ける中、四本の足で地に降り立ったアニはパチリと目をしばたいた。

(逃げた……のか?)

幸いにも意識はハッキリとしたまま。

心の中で呟いたアニは、静まり返った闇をにらみ――コンッと響いた小気味こぎみの良い音に振り返る。

コロコロと転がる指輪はどこを目指すのやら。

(待て……!)

逃げる指輪にうずく獣心のまま、アニは淡い光の後を追いかけ始めた。

傍目はためにはボールを投げられた犬だが、本人には知るよしもないこと。

逃げ隠れた虫たちにきびすを返し、光を溢しながら回る指輪に着いていく。

先程、意識はハッキリしている――そう言ったが、本当に鮮明としているなら、指輪が止まるのを待ちはしないだろう。

そんな事にも気付かず、緩やかに速度を落としながら転がっていく指輪を見守って幾許。

闇の底でも異彩を放っていた光が、フッ……とその姿を消し去った。

『ギャワ!?』

突如として消えた指輪に、アニは獣めいた唸りをあげる。

心の中はともかく、狼のような口から漏れるのは獣の鳴き声らしい。

意思に反して零れた呻きが、そうさせるのか。

思わず顔を上げたアニは、天井に浮かぶ宝石の存在にはたと気が付いた。

ルビーかガーネットか。

鈍くにごった光を灯す赤色は何対なんついにも及び、不気味な光源となって穴の底を見下ろしている。

しかし、その上は漆黒そのもの。

赤々とした煌めきが怪しく揺れれば、それがシャンデリアでも何でもない事は、今のアニにも即座に理解出来た。

緊張を張り巡らせるアニの上で、無数の赤が花開き――

『ウフ――ンフフ』

果てのない闇が、しわがれた笑い声を反響させる。

そのままズルリ……と重苦しい空気が流れれば――巨大な渦が現れた。

『キレイ――キレイネェ――アタシニピッタリ』

否、その渦は初めからそこにあった。

円形に穿うがたれた穴の壁。

暗い岩壁に隙間なくビッチリと張り付いたそれは長く、大きく――天から垂れ下がった頭でアニを見やる。

燈火ともしびに見えたのは、いくつもの目を光らせる頭だったらしい。

闇の中にぼんやりと浮かんだ姿は、何度となく触れた白い腕。

オリアの腕に刻まれた青と、よく似た姿をしているのだった。


その怪物の名は――大百足おおむかで

その巨大さと強大さで、山をも砕くと伝えられる妖怪である。


大蛇だいじゃや龍に匹敵ひってきする程の力を持つとも謂われ、山だと思った場所が蜷局とぐろを巻いた大百足だった――などとも称されるほど。

勇猛果敢ゆうもうかかんの体現にして、金工の守護者でもある百足むかでは、神の遣いとして恐れと敬意をもってまつられてきたのだった。

そのふしは千にも及び、自然、ふしに生える一対いっついの腕は二千もの数を有している。

幾百もの虫を喰らってきただろう覇者はしゃは、どす黒く濁った赤目を光らせると、見せびらかすように牙の並んだ顎を開いた。

『グヒ――ギヒヒ――アタシノ――アタシガヒロッタ――アタシノサ――アゲナイ――アゲナァーイ――タノマレタッテアゲヤシナイヨォ!』

その中に眠るのは、アニが追ってきた指輪に他ならない。

『グァルアァッ!!』

『アヒ――イヒヒ――ウルサイイヌダネェ――カイヌシハドコノドイツダイ――モンクイッテヤル――アンマリウルサイカラケッチマッタッテ――シタヒキヌイテヤッタッテ――イキオイコロシチマタッテ――ナイテハンセイサセテヤンナイトネエェ!!』

怒りに身を任せて吠えれば、大百足は聞くにえない剣幕けんまくで叫び出す。

『アタシノダヨ――ヒトヲヌスットヨバワリスルキカイ――コノウソツキ――ドロボウネコガヨクイウヨォ――アンタノダンナニイッテヤル――オマエノニョウボウハダレニデモコシフルバイタダッテナ――ゲヒヒヒヒッ!』

その声は一つ、二つではない。

まるで何十、何百人がアニを責め立てるように、下卑げびた声が喚き散らした。

『ナンダイソノメ――コロシテヤル――オマエガヌスンダンダロ――アタシジャナイ――ケチナヤツダネェ――ウチニハミデテタカラモラッタダケダヨ――モンクガアンナラキニイイナ――フザケンジャナイヨ――ソノエダハアタシンダ――アタシノニワニアルダロ――カッテニキロウナンザユルサナイヨ!!』

それはもはやただの奇声。

ある事ない事――アニに対してですらない怒号が飛び交い、ガミガミ、ガミガミとアニの耳を掻き乱す。

無数に響く声のやかしさは、お喋りなからすとはまた違う五月蠅うるささで。

音害おんがいとも呼ぶべき騒音に、アニの頭はかち割れてしまいそうだった。

『グッ……グガゥ……ッ』

『シツケノナッテナイイヌチクショウガ――アイサレテルトデモオモッタカイ――バカダネェ――オマエナンカダレモアイシチャナイ――クイデモナイゴクツブシガヨォ――イッチョマエニアイサレテルナンテ――カゾクのイチインダナンテ――ギヒッ――ングフフッ――ナミダガデチマウヨ――アンマリニモオモシロオカシクテサァ!!』 

ふしの一つ一つに口が付いてでもいるのか。

入れ子人形(マトリョーシカ)のような顎に指輪をしまいこんだ大百足は、ただ喋り散らすだけで漆黒の獣を抑え込む。

しかし、その言葉選びは失態だ。

オリアに突き放されたばかりのアニは、喉が千切れん程の雄叫びを絞り出した。

(お前に……お前みたいな奴に……俺の気持ちが分かるかよっ!!)

口腔こうこうから溢れ出すのは、くぐもった獣の唸り声だったが、逆鱗げきりんに触れられたアニは壁を這い回る大百足に睨みを利かす。

『ガウルルルッ!!』

『ヒトサマニホエテンジャナイヨ――コノバカイヌガ――オヤノカオガミテミタイネェ――アァ――ギヒャヒャ――マヌケダカラモウシンダッテ――ソイツハワルイコトキイタネ――イーヒッヒッヒ!』

ぞろぞろ、ズルズルと壁を走る大百足のさげすみは止まず。

やかましさもさる事ながら、心ない暴言に憤りは積み重なり――しかして、その苛立ちとは逆にアニの頭は冴え渡る。


奇しくも、頼れる相手がいない事実が、アニの能力ちからを引き出したのだろう。


自ら思考したアニは、暴走列車のごとく這いずる大百足の動線に意識を向けた。

(さっきから同じとこ走ってんな)

龍とは違い、あの巨体を支えるには地面が必要らしい。

頭だけはアニを追って飛び出すが、絶えず壁を這い回りながらも、大百足がその巨体をちゅうに浮かべる事はない。

そしてもう一つ。

アニを狙いこそ、力任せの攻撃に転ずる事は一度とてなかった。

(崩れかねないって事か?)

二度にも渡る龍神りゅうじんとの邂逅かいこうが脳裏に浮かぶが、ここは大百足の領域というわけではないらしい。

元来なら動くだけで天災てんさいと成り得る怪物だが、この鍋の底ではそうもいかないという事だろう。

地盤の崩壊をきらうような動きに、アニは少しずつ余裕を見出していく。

恐らくは、あの喧噪けんそうこそが大百足の武器。

大顎が掠めそうになるのを難なくかわしながら、アニは騒がしいだけの大百足を下す方法を探すのだった。

(穴を崩すのは……駄目だな。生き埋めになりたくねーし、アイツ堅そうだしな。何かもっとあるはず……)

最初に考えたのは穴の崩壊。

だがそれは諸刃もろはの剣でもあり、アニはすぐに違う手段を考える。

(光……も駄目か)

次に考えたのは太陽の光。

龍神・回香ウキヨを干したように、金烏キンウのもたらす光ならば、この闇を照らす事が出来るのではないだろうか。

しかし、それもまた諸刃の剣だ。

一度ひとたびでも大百足が暴れ出せば、竪穴の崩壊は免れず――この穴どころか、カルデラ全体の崩壊待ったなしだろう。

『ナンダイナンダイ――シズカニナッチマッテ――アキラメガツイタカイ――クワレルキニナッタカイ――ソレトモコワクテコエモデナイノカイ――タベテヤルカラオモラシダケハカンベンシテホシイネェ!!』

しかして考えはまとまらない。

思考を乱す腹立たしい声も相まって、アニはどんどん答えをあぐねていく。

『ギャワワアアアッン!!』

『ウルサイ――ウルサイ――ダマラセテヤル――コノクソイヌ!!』

思わず叫ぶが、五月蠅さで大百足に勝つのは難しいのかもしれない。

鈍りそうになる体で大地を蹴り、飛び込んで来る大顎を寸でのところでかわした。

直前までアニがいた所は見るも無残なもの。

大きく抉れ、ぽーんと高く舞ったアニのすぐ横にまで、砕けた瓦礫が飛んでくる。

鋭い石棘いしとげがもたらすのは些細な痛みか。

(この匂い……)

ブワリと広がった刺激臭に、アニは思考を巡らせる。

鼻をつくのは硫黄いおうの香り。

穴に落ちる前にも感じた火山の匂いだ。

冬でも暑いくらいの熱気と、腐った卵のような強烈なガス臭さを思い出せば、この地が()に無縁だろう事に頭がいった。

その思考に行き着いたのは、ただ単純にこの地が火山地帯だからではない。


全ては、これまでつちかってきた経験。

災禍さいかの幻を、宝食ほうしょくの擬態を、背徳の光を我が物としてきた本能が、今成すべき答えを導き出すのだった。


その答えに――地面に降り立つと同時、獣の体はドプリと闇に溶けた。

生まれるのは小さな行潦にわたずみ

漆黒の水溜まりからは、たちどころに水が湧き、鍋の底をひたしていく。

『ミズモレカイ――アマモリカイ――アノダイクナメタシゴトシヤガッテ――アタシヲバカニシテンダネ!?』

しかし水など何のその。

突如として湧いた水に臆する素振りなく、大百足は尚も叫び続ける。

もっとも、その奇声が響くのは僅かなこと。

水が穴を満たせば、煩わしい声は大粒の泡となって波に消えるのだった。

『ガボボボッ――ゴボッ――グアボボッ!!』

藻掻もがけど、藻掻けど、水は絡まるばかり。

火山の熱を借りたのか。

鴉から継いだ陽光があぶるのか。

煮えたぎる熱湯に放り込まれた大百足は、その身を浮魚うきよへと変えていく。

長い長い体の先、プツンと千切れた尾が力なく浮かべば、それを皮切りに大百足は体を短くしていった。

一つ、二つと節が千切れ――早くも九百九十九。

大顎だけを沈め、全ての節が浮魚うきよとなって、水に満ちた上へと昇る。

一対いっついの足がついた節には――老女の顔。

苦悶くもんに満ちた女たちの口は、懲罰ちょうばつをもってようやく閉ざされたらしい。


彼女たちの名は――ガミガミ女。


ガミガミ女と言うと、その名を冠した拷問具が有名だが、その拷問具が刑罰に使われたかどうかは定かではないのだとか。

記録に残される刑罰は川に沈めるというもので、今まさにその罪があがなわれたという事だろう。

『ゴボッ――……ガッ――オボォ――…………』

死してなお他者を憎み、恨み、自らの罪を認めなかった怨嗟えんさの集合体――大百足。

その終幕に零れるのは、やはり恨みごとか。

沈んだ大顎が最後の泡を吐き出す中、姿を現すのは一匹の黒い龍。

赤い閃光を奔らせる龍が、たっぷりの水をたたえた鍋に沈む材料(・・)を見つめていた。


かくして――残るのは百足の頭だけ。

大顎からまろび出た指輪が、ただ静かにアニを待っている。


だが指輪に触れる事は叶わない。

『クソッ――……』

疲労か眠気か。

水が引いたそこで、人の姿に戻ったアニはどさりと倒れ込んだ。

(倒れてる場合じゃねーのに……)

また虫たちが寄ってくるかもしれない。

早くオリアの所に行きたいのに。

焦る気持ちとは裏腹に、体はもう動かない。

喉から漏れたのが悪態か、心の中の悪口かも判断がつかぬまま、アニはゆっくりと横たわるしかなかった。




闇の彼方かなたに見えたのは――白い光。

小さな光が見つめていた。




もしくは光を見ていたのか。

チカチカと眩しい白の下、青年はぼんやりと目を凝らす。

そこは休憩広場だっただろうか。

いくつか並ぶ椅子の一つを陣取った青年は、カップを手に談笑する二人の声に耳を傾けた。

『どうせならリラが良かったのに』

『リラ?随分と可愛い名前だね?』

『は~?ゴリラのリラよ!かっこいいでしょ?』

『ああ……なるほど。君は本当にゴリラが好きだね』

何を楽しげに語らっているのか。

髪も肌も白い女がフンッと鼻を鳴らす。

彼女が持つ唯一の色は、充血したかのような赤い目だけだ。

その丸い目をキラキラと輝かせ、女は胸をのけ反らせた。

『霊長類としての完成形よ?憧れて当然――っていうか、逆に嫌いになる理由ある?かっこよくて、優しくて、仲間想いで、頭良くて、力も強くて……霊長類どころか生物として頂点って感じ!』

『うーん……。現存する生物としては、まあ……理解は示せるかな』

『でしょでしょ~?でもそこよね。神話でも何でも、まだ見ぬ凄い生き物は五万といるのよ!それを見ずして死ねるか――って話!』

ドンッと胸を叩くのは、ドラミングのつもりだったのだろう。

ゴリラへの愛を語った女に、話を聞いていた男の方もうんうんと首肯しゅこうする。

『それよりイースター。あの子の事だけど……』

『ああ、問題はないわよ!念のため検査もしたけど……そうね。ちょーっと成長が早過ぎるって点を抜かせば心配ないわね』

『……え?』

『何に対しての〝え〟よ?』

『いや……これが普通なのかと思っていたから。成長……早いんだね?』

『うっわ……責任能力のなさに引くわ。ついでに知識のなさにも。もうちょっと分野外のこと勉強しようよ?』

『そう言って筋トレを勧める気だろう?』

『あはは!バレた?』

にこやかな女と、起伏きふくこそ少ないが柔和な男。

なごやかな空気に包まれるように、青年はうつらうつらと船を漕ぐ。

眠たげにまぶたを伏せるその姿に、女たちの方も微笑を一つ。

その微睡まどろみが消えぬ間に、女はどこか寂しげに目を伏せた。

『……ねえ』

『何だい?』

『もし……もしもよ?私が死んだら、骨くらい外に持ってってくれる?家族のとこに届けろとか、どこそこに埋めろとかは言わないからさ。ほんとそのへんに撒くだけで良いから……頼んだわよ?』

『……一方的に頼む事かい、それ』

『いーじゃない。よほどでもなきゃ、先に死ぬのは私だもん。先輩の頼みなんだから、黙って頷いておきなさいよ』

アルビノ――なんて言うと聞こえは良いが、結局はただの疾患しっかんだ。

病弱に生まれた自身をあざけるように。

もしくは十二分に生きたとでも誇るように、女はニッと笑ってみせた。

『君の方が長生きしそうだけどね』

勝気な彼女らしい笑みに、男もどこか物憂げに笑みを返す。

その声を青年は聞いていたのか、いないのか。

穏やかな時間は、白い光の中に消えていくのだった。



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