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匣ノ中ノ獸  作者: yura.
匣ノ中ノ獸
32/65

case.6「BOX the B-ug」

修正

「隣に立ったオリア曰く~またとないチャンスだろう」までの内容が抜けていたので追加しました

時は進み――月末。

忙殺の中に時は進み、気が付けば水府の帰還から数日が過ぎていた。


カケイについては案の定だ。

戻って来た電脳箱[K-hack(コハク)]からデータを取得出来たのもあるだろうが、浮瀬山うきせやまの登山中に行方知れずになった――という顛末てんまつを得た。

問題の場所となった浮瀬湖うきせこ

あの湖から絶えず山水さんすいが流れ落ちているのも理由だろう。

川に落ち、渓流けいりゅうに呑まれてしまえば最後、行き着くのは海の果てだ。

事実、カケイはに至ったわけだが、広大な海域を探すのは現実的ではない。

無理心中を図った事も影響してか。

捜索は早々に打ち切られ、水没ショートから目を覚ましたカケイの電脳箱[K-hack(コハク)]――そのついをもって、一つの終幕となったのである。

その悲劇を、親戚筋に続いて娘まで失ったカケイの生家――オムの家はどう思うのか。

アニの元には当たり障りない業務連絡と謝罪しか届かなかったが、やはり思うところがあるのだろう。

旧ワギリの邸宅。

今はカケイの邸宅-それも旧を冠す事になるのだが-であるそこを、春を待たずに取り壊す事になったらしい。

ワギリの犠牲者然り、不幸が起きやすい事はデータを見れば明らかなこと。

伝承や曰くを信じる心がなくとも、負のたまり場と化した原因を取り払うに至ったようだった。

それが根本的な解決になるかはさておき――聴取やら謝罪やら。


長い長い拘束から解放されたアニは、数日ぶりの我が家へと雪崩れ込んだ。


「はああぁぁー……っ」

開口一番に溢れるのは、当然ため息だ。

水府もとい三十一地区からの脱出。

その足で中心地店[S-pot C(サポートセンター)]を訪れたアニが、

政務を担う電脳箱[K-hack(コハク)]たちに捕まった事は言わずもがな。

アニの電脳箱[K-hack(コハク)]を直し、カケイの電脳箱[K-hack(コハク)]を直し――無実が確認出来るまで、中心地店[S-pot C(サポートセンター)]に押し込められる羽目になったのである。


カケイが無理心中を図ったこと。

川に落ち、アニだけが助かったこと。

探したがカケイは見つからなかったこと。


要点だけをまとめれば、一つも嘘はない。

探したという点に語弊ごへいがない事もないが、怪異に取り込まれたカケイを、水府から引き上げる事は叶わなかったのだ。

電脳箱[K-hack(コハク)]に観測できない事を〝見つからない〟と表現するなら、それは〝見つからなかった〟という事だ。

これ幸いに開放されたアニは、しかして複雑な思いを抱えながら、もはやベッド同然のソファに沈んでいった。

(……救われねーな)

考えるのは――カケイのこと。

もしくは二柱の龍神か。

チリという男に焦がれ続けた回香ウキヨ菩提樹タイジュ

アニに適わぬ想いを寄せたカケイ。

恋心を利用されたのか、二人の想いが奇しくも重なり合ったのか、カケイは龍神へと姿を変えてしまった。

もしかしたら、それは呪いだったのかもしれない。

回香ウキヨの――菩提樹タイジュの残した呪いが、カケイをむしばんだ可能性もあるのだろう。

オリアの見解を思い起こしながら、アニはまた大きな息を吐き出した。

(病気みたいなもん……とか言ってたっけな)

カケイの前にはワギリがあって。

ワギリの前にはチリがあって――そもそも龍神がそのとがを生み出したのだ。

蔓延まんえんし続ける負の連鎖にボリボリと頭を掻いては、アニは寂しくソファの上を転がるしかなかった。

二人掛けのソファではあるが、寝転がる分には一人が限度というもの。

隣に誰も居ない物足りなさをやり過ごすように、枕代わりのクッションを抱きしめる。

(……何してんだろ)

気が付けば――正しくは気を抜けば、か。

アニの脳内にはオリアの微笑えがおが蘇る。

(…………)

たまに気味が悪いと思うのは、未知への恐れというものだろう。

得体の知れなさを怪訝けげんに感じながらも、その不和すら呑み込んで抱きしめたいと思うのだから――これを恋慕と呼ばないわけにはいかない。

「……よし」

小さく気合を溢したアニは、レザージャケットを手にソファから飛び降りた。

心中事件から数日――中心地店[S-pot C(サポートセンター)]に行くより先にクリーニングに出したジャケットはすっかり乾いたが、やはりあの世(・・・)の水は良くなかったのだろう。

塩水だったのか、水が腐っていたのか。

一気に傷んだ気がするジャケットを羽織って、履き慣れない革靴に足を通す。

足に馴染んだトレッキングシューズが乾いていないわけではないのだが――

『Sir.アニ――お出掛けですか?』

「……ちょっとな」

『ちょっと――つまりSir.オリアの所に行くのですね――隠しても無駄です』

「隠してもねーし……今日は違ーよ。まあその、手土産くらい……な?」

『ああ……贈り物――無駄でしかないでしょうに――……いえ――案内します』

ハイキングに行こうというわけではない。

こちらはこちらですっかり元気を取り戻した電脳箱[K-hack(コハク)]が宙を舞う中、アニは来たばかりの道を戻っていく。

(……可愛かったな)

やはりと言うべきかはさておきのこと。性格が動作にも反映されるのか。

ただの気持ちの問題か。

オリアが入っていた時とは一転、憎たらしさが二割増しに見える電脳箱[K-hack(コハク)]を伴って、アニは傷の多い車へと乗り込むのだった。

何かブツブツと呟いていた気もするが、いつもの五月蠅うるさい小言だろう。

アニは特別気に掛けず、寂れた街へと回れ右するのだった。


その翌日――朝。

紙袋を手に、アニは車へと乗り込んだ。


目指すはオリアの住む十八地区。

待てど暮らせど連絡のないオリアの顔を見るべく、まだ人気ひとけの少ない道を走り始めるのである。

『到着予定時刻――九時です』

「ちょっと早いか?」

『約束なしには早いでしょうが――問題はないかと――……Sir.オリアを一般論で括る方が無意味ですので』

「たしかにな」

いささか気が逸っている気がしないでもないが、相手はあの常識外れのオリアだ。

少し早く着いたって問題ないだろう。

そもそも連絡をしろという話だが――都合の良い方便を胸に、アニはアクセルを踏む足を深くする。

『次――右です』

響くのは電脳箱[K-hack(コハク)]の案内の声。

その案内がなくとも道は分かっているが、道路の状況や天候を考えると、電脳箱[K-hack(コハク)]に従うのが一番といったところか。

適度に休憩を挟みながら、お気に入りのジャケットを見に纏ったアニは、電脳箱[K-hack(コハク)]に導かれるまま山奥へと入っていく。

「懐かしい……ってのも変か」

『まだ一月も経っていませんからね――このまま直進9kmです』

車窓の外に広がるのは、もはや懐古すら感じる山林だ。

地図を見る限りでも、オリアの研究所くらいしかないのだろう。

人が通れるのは片道一車線の狭い道だけで、深い木々に囲まれた山間は、まるで世界から隔離かくりされているかのようだ。

もっとも、道は絶えず続いているわけで。

(……隔離ってなんだよ)

自分で考えながら、アニは思い浮かんだ発想にしわを刻むのだった。

だが、オリアを訪れようという人物はほとんどいないらしい。

申し訳程度の道路には、落ちた木の実や枯れ葉が所狭しと並び、往来の無さを静かに物語っている。

(つーか、アイツ。どうやって外に出てんだよ)

この道路の状況では、オリア自身、ろくに出歩いていないのではなかろうか。

運転をしないなら猶更のこと。

しれっと外で顔を合わせる時、オリアはどうやって出てきているのだろう。

ふとした疑問――否、嫉妬か。

自分ではない誰かに微笑うオリアの姿を想像したアニは、苛立ちのままアクセルを踏み込んだ。

幸い、枯れ葉は乾ききっているらしい。

嫌な滑り方をする事なく、枯れ葉を踏み砕いた車は無人むじんの道を突き進んでいく。


手土産は菓子折りと――指輪。


目立つ以外にはセンスの欠片もない数珠を首にかけるような男だ。

少しくらい洒落っ気のあるアクセサリーが一つくらいあっても良いだろう。

無論、それは方便に過ぎず、アニは緊張で息を荒くする。

(受け取ってくれる……くれるよな?)

胸ポケットを膨らませる小箱。

その中に眠っているのは、ピンクゴールドの指輪だ。

どこか寂しげなオリアの髪の色。

薄っすらと赤みがかった、あのベージュの髪に似た色合いの、シンプルなデザインのものである。

サイズは分からなかったが、指は十本もあるのだ。

どこか一本くらい、ピタリと嵌る場所があるだろう。

もしサイズが合わなくても、リングと同じ色のチェーンを通せば――そこまでを考え、アニはハッと我に返る。

力むあまり、前のめりになっていたらしい。

(……っぶね)

対向車はないがスピードの出し過ぎは、もれなく電脳箱[K-hack(コハク)]のお小言だ。

アクセルを踏み込んでいた足を浮かせ――それでも急ぎ気味に、アニは残る道を進んでいくのだった。

そうして暗い山道を幾許。

脇道のない一本道をひた進めば、目的の場所は現れた。

山を切り拓いた場所なのか。

開けた視界の先には、いくつかの箱を並べた建造物が待っている。

前は足早に帰ってしまったため気が付かなかったが、変なコードや機材が張り巡らされたコンテナは、見るからに研究所といった様相だ。

だがしかし、こんな形だっただろうか。

柵に覆われた敷地の前で車を停めたアニは、思わずといった風に首を傾けた。

(でかくなってねーか?)

薄らぼんやりとした記憶では、ここまで機材は溢れ返っていなかったはずだ。

もしかしたらコンテナも増加しているのではないだろうか。

一ヵ月かそこらで起きたとは思えない変化に、アニはますますもって眉間の皺を深くするばかり。

柵――これも猪避けのような殺傷能力の高そうなものだが、ぐるりと張り巡らされた外壁に導かれるように、オリアの家の前に立つのだった。

(いるよな……?)

今更ながらにオリアの不在を心配しつつ、備え付けのベルに手を伸ばす。

ある意味では、この呼び鈴というのも貴重なものだ。

電脳箱[K-hack(コハク)]同士が連絡を取り合う箱の中においては、必要性が薄いのだから当然の話。

どこかアナログなオリアの屋敷に、余計に気を逸らせながら応答を待つ。

ピンポーン……と少し間の抜けた音が消え――もう一度。

念のためと二度目のチャイムを鳴らそうとしたところで、目の前の扉がぎこちなく動いた。

「やあ――アニ」

「おっ……おう!いたんだな」

「手が離せないから――少し待って貰っても?」

「あ……っと。お邪魔……します?」

にこやかなオリアに出迎えられ、アニはつい声を裏返す。

そのままオリアに促されるまま。

室内に通されたアニは、入ってすぐの居間と思しき場所に立ち尽くした。

「5分――いや10分――座って待っててくれ」

「ん……?おう……分かった」

しかし、何故だろう。

会えた喜びよりも、奇妙な感覚が肌を撫でる。

(何だ?この感じ……)

オリアのはずなのに、何かが違う。

スッと胸が冷めるような感覚――とでも言えば良いだろうか。

美味しいと話題のものを食べ、思ったよりも美味しくなかった時のあの感覚。

もっと言えば、嫌悪と悲壮の中間。

かといって嘆く程でもないもどかしさに、椅子に掛けながらもアニは首を傾げた。

随分と久々に会うせいで、そう思ってしまうのだろうか。

たかが数日、されど数日。

歳月の重さを数えるように、アニはやはり久方ぶりとなる家の中を覗き見る。

今いるのは8畳ほどだろうか。

正方形の中に狭い玄関、簡素なキッチン、食卓テーブル、家電を始め用途の分からない機械が窮屈そうに並んでいる。

玄関を北側に扉は東西に一つずつ。

片方は今しがたオリアが消えていった場所で、もう一つは――そこまでを考え、アニはカッと顔を赤らめた。

(……)

そこは初めて睦みあった部屋に他ならず。

オリアを意識するきっかけともなったその場所に、アニはつい落ち着きをなくしていく。

(オリアはどう思ってんだろ。ほんとは嫌だったり……いやでも、アイツの性格からして、嫌なら嫌って言うよな?)

今の関係に名前をつけるなら――きっと褒められたものではないだろう。

だが今だって何の抵抗もしがらみもなく、家の中に招いてくれたのだ。

アニはそわそわと肩を揺らしながら、オリアが消えた扉に視線を注ぐ。

邪魔な板を取り除きたいと思えど、今日はこれからが本番だ。

余計な事はしまいと意気込み――数分。

「お待たせ――アニ」

予告から相違なく、隣室へと消えたオリアがひょこりと顔を出す。

「……大丈夫か?」

「何がだい?」

「や……。顔色悪いっつーか……さっきよりやつれてねーか?」

「そのつもりはないのだけど……どういう風の吹き回しだい?君がここに来る理由なんてないだろう?」

「んだよ、その言い草。俺が来たら悪いってのか?」

手が離せない何か――それが一気に疲れたように見える理由なのだろうか。

だがオリアは、その話題に触れられたくないらしい。

(前もだったよな)

いつだかに聞いた足の不調。

その時にもオリアは不機嫌を隠さなかった。

動物の本能ではないが、不調を知られるのが嫌な性質タチとでもとるべきか。

話を逸らしたオリアにあえて追及はせず、アニは持ってきた紙袋を突き出した。

「ほら!この前の礼っつーか……お前にはいっつも助けられてるからよ」

「ああ……ありがとう。それより丁度良かった。行きたい場所があってね。君に依頼しようと思ってたところなんだ」

その紙袋を受け取り――オリアは中身を確認する事なく、にこりとむ。

袋は既にテーブルの上。

興味の一切がないかの如く放られた菓子折りを見やり――

(一緒にしなくて良かった……!)

アニは思わず胸を撫で下ろした。

本命の指輪はポケットの中。

虚しく追いやられずに済んだ指輪を胸に、アニはオリアの話に、ここぞとばかりに身を乗り出す。

「どこ行きたいんだよ?」

「六十四地区まで頼めるかな?ただ時間が押してて。可能なら今からでもお願いしたいくらいなんだ。もちろん、その分は上乗せするけど……いけそうかな?」

「まあ……空いてっけど」

正確には空けてきた――だが、憂いた様子のオリアに、アニは即座に首肯しゅこうする。

そうでなくとも、今日は食事に誘うつもりだったのだ。

待ってましたと首を縦に振り、指輪を渡すプランを思い描いていく。

(六十四地区なら、やっぱ帰りか?余裕あればどっかレストランでも……あとでコハクに良い場所聞いとかねーとな)

星がつくようなレストランでも。

お湯に浸かってのんびり出来る宿でも。

夜景が綺麗な高台でも。

指輪をプレゼントするにピッタリなロケーションはいくらでもあるわけだ。

(〝僕もアニのこと〟……なんてな)

もはや頭には薔薇色の未来が浮かび――指輪を手に慎ましく、それでいて嬉しそうに笑うオリアの姿に、アニはいそいそと席を立つ。

そして、その逞しい妄想を現実にすべく、楽しいドライブに繰り出すのだった。


やって来たのは車で9時間ほど。

オリアの怪異蘊蓄が垂れ流され続けた末に、二人と一体は遥々南東――六十四地区へと辿り着いた。


位置としては三十一地区からずっと東。

日が沈むその前に、目的地に滑り込んだのだった。

「たっけぇ……」

思わず溢したアニの足元。

見下ろした視線の先では、底の見えない奈落が大口を開けている。

隕石が落ちたのか、火山が噴火したのか。

開場時間ギリギリに駆け込んだそこは、巷でも有名なカルデラ盆地だ。

正式名称はハッコウ盆地。

かつては〝ブス〟、〝ウズ〟、〝テン〟と呼ばれる三つの山が座していたそうだが、強大な自然の力によって、一つの大穴の底に収まってしまったらしい。

時代の変遷と共に観光地へと変わったカルデラで、アニはまたオリアの教鞭に耳を傾ける。

「カルデラは〝釜〟や〝鍋〟を意味する言葉なんだそうだ」

「鍋……。これ鍋か……?」

「火山に由来するものだからね。火の入った鍋みたいに見えたんだろう。その名前の通り――じゃないけどね。この地には怪異が引き寄せられやすいとか、眉唾まゆつばな噂も多いんだよ」

どこが名前の通りなのか。

そもそも怪異の噂を誰がするのか――余計な質問はせずに、アニはオリアの後ろを着いていく。

鼻を撫でるのは煙の匂い。

オリアが纏うそれとはまるで違う、硫黄いおうと焦げ臭さに溢れた匂いが、冬でも熱いカルデラを満たしている。

なだらかな斜面はゴツゴツと険しく、革靴だったら苦労した事だろう。

遠出する事を念頭にトレッキングシューズを選んで良かったと、アニは進むごとに人の減っていく山道を登っていく。

「つーか……まーたカイイかよ」

「またも何も……それ以外に何があると思うんだい?」

「だとは思ってるけどよ。たまには話題の店に行きたいとか、絶景スポット行きたいとか……あんだろ?」

「うーん。ここも十二分に観光地だけどね」

「でもカイイの調査なんだろ?」

「それは……そう。それが僕のすべき事だから」

その調査がいまいちピンと来ないのだが、オリアには満足のいく結果が得られているのだろう。

異装[I-sow](コイツ)もその成果って事だしな。薬か何か知らねーが、人のためになるってんなら……悪くはないのか?)

そのための皺寄せが酷いのはさておき、何かしら世のために使われるのだろう。

そんな事も露知らず、観光を終える人々。

アニたちとは逆方向に進む彼らを嘆息気味に見送りながら、アニは熱気に満ちた深穴へと目を向ける。

盛り上がった尾根――外輪山と穴との間にあるのは、どこか心許ない遮熱材の巻かれた柵が一つ。

背の高いアニには一層頼りない柵に掴まり、アニはそっと下を覗き込んだ。

「……鍋は無理だろ」

見下ろした先は底の見えない真っ暗闇だ。

どこまで続いているのやら。

大きく暗い穴が、龍の顎のように口を開けている。

もし足を滑らせでもしたら、一たまりもないだろう。


それこそ――怪異でもない限り。


無論それは嫌な予感でもあるわけで、アニはつい顔を引き攣らせた。

「降りるとか言わねーよな?」

「流石にそれはね。でも調査結果によると、底はちゃんと存在しているそうだよ。溶岩洞ようがんどうになっていて、北に繋がっているとか。まあ、過酷――正確には特異な環境のせいで、その調査も打ち切られたらしいけどね」

「んだよ。何も分かってねーって事かよ」

「いや、そうとも言い切れないよ?不思議な話……電脳箱[K-hack(コハク)]が機能しなくなるそうでね。無人の調査は断念。もっとも電脳箱[K-hack(コハク)]なしの有人調査は不可能に等しいものだ。深部への進入禁止を定めつつ、いずれの調査のために観光地として資金繰り――という現実的な事は一旦良いか。とにかく、怪異が関係している可能性が高いというわけだね」

隣に立ったオリア曰く、やはり怪異の影がある場所らしい。

電脳箱[K-hack(コハク)]が機能しなくなる――身に覚えのあり過ぎる怪現象を耳に、アニは絡みそうになる唾を呑み込んだ。

異装[I-sow(イソウ)]を持つアニはまだしも、ガスや臭気に満ちた溶岩洞ようがんどうの調査は容易なものではない。

怪異を抜きにしても危険なその場所に、アニは嫌な汗を一滴ひとしずく

「……降りるとか言わねーよな?」

「言わないよ」

もう一度聞くが、降りる気はないらしい。

夜に潜入しよう――などと言い出すかもはしれないが、今すぐどうこうというつもりはないようだ。

オリアの言葉に一先ず胸を撫で下ろし、今一度穴の底へと目を向けた。

吸い込まれそうな穴は暗く、深く。

深淵という言葉はこの穴のためにあると言っても過言ではないだろう。

(……行くとか言いませんように)

こんな場所、異装[I-sow(イソウ)]があったとしても足を踏み入れたくはない。

オリアがこれ以上の興味を示さない事ばかりを祈って――幾許。

気付けば周囲に人はなく二人きり。

閉場までの時間が迫っている表れな上、口数の少ない電脳箱[K-hack(コハク)]がいるにはいるが、アニにとってはまたとないチャンスだろう。

いささか気味悪くあるが、目の前には絶景があって――空は丁度、オリアの瞳のような紫色だ。

幻想的なその瞬間に、アニはごくりと唾を呑む。

(……どうする?今いくか?)

思わず確かめるのはポケットに入れた小箱の感触。

ジャケットの上から贈り物の有無を確かめ、もう一度唾を呑み込んだ。

二度目ともなると、乾いた喉が嚥下するだけになったが、それも緊張故というものか。

「オリア――……」

アニは顔を上げると同時、目を瞬いた。


トンッ……と背中に触れる感触。


存外強かったのか。

それとも追い風でも吹いたのか。

「――は?」

アニの足はふわりと地を離れ、重さに従うように前側へと傾いた。


つまりは奈落の底へと――だ。


堪える間もなく、ぐるりと一周する視界。

がくんとバランスを失った平衡感覚。

空中でゆっくりと回りながら、アニは自分がいた場所へと目を向ける。

「な――んで」

手を伸ばしたところで、その手をオリアが掴んでくれる事はないのだろう。

掴むためではなく、突き落とすために伸ばされた腕。

笑みの一切を消した紫苑の眼差しに、アニは声を詰まらせる。

「オリア……ッ」

かろうじて吐き出した声も、やはり届く事はないのだろう。

雑踏すらなく、空気が裂ける音だけがアニの鼓膜を支配する中、聞こえたのはかぼそい声音。

『ごめんなさい――Sir.アニ』

消え入りそうな電脳箱[K-hack(コハク)]の声が、深淵に呑まれゆくアニの耳を切なく撫でる。

しかして、その箱もアニを助ける事はない。

オリアの傍に浮かんだ箱は、まるで初めからそこが自身の定位置かのように、墜落するアニを見つめていた。

次回10/16に閑話更新予定です

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