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匣ノ中ノ獸  作者: yura.
匣ノ中ノ獸
30/65

case.5「BOX the B-ankh」(05)

進めど進めど変わらぬ風景。

雲一つ作らない、のっぺりとした赤色が世界を包むその中を、黒い箱を抱えた男—―アニがくだっていく。

川辺を埋め尽くすように石塚が並ぶさまはやはり気味が悪かったが、オリアが居てくれるからだろう。

「あれって何なんだ?」

供養塔くようとう—―言ってしまえば墓だね。賽の河原の場合、墓というのも違う気はするけれど』

「ふーん。じゃあ死体が埋まってるってわけじゃないんだな?」

『恐らくはね』

遠隔操作—―とは名ばかりのこと。

機械仕掛けの箱を支配ハッキングするオリアの答えに、アニは臆する事なく直進できた。

墓という言葉に良い気分はしないものの、箱の至る場所にも置かれたランドマーク――ていよく待ち合わせの目印に使われるオブジェだと思えば恐ろしい事はない。

(っても……蹴るのもな)

とはいえ、オリアがよく口にする〝いわく〟のありそうな被造物だ。

役目を終えたのか、積む者が絶えたのかまでは知れないが、放棄された石塚を大股に飛び越えていく。

そのピョンピョンと跳ねるような足取りが、白い影を思い越したのかもしれない。

もしくは断崖絶壁を警戒する意識が、嫌でもその影をチラつかせるのか。

無言の川下りに飽き始めたアニは、大事だいじに抱えたオリアに問いかける。

「なあ。こんなとこにウサギが住んでると思うか?」

『それは……何かの比喩ひゆかい?それとも謎解きかな?』

アニ自身、あれを夢だと思いたかったのかもしれない。

何気なく遠回しに尋ねるも――オリアの知識を持ってしても、賽の河原と兎の存在は結び付かないらしい。

要領を得なかった返答にアニは片方の眉を下げ、奇妙な白兎との出会いについてを物語る。

「あー……っとな。ウサギに助けられた……ああうん。助けられたんだと思う。おかげで崖から落ちる羽目になったけどよ。カケイ……って言って良いのか?逃げられたのは、そいつが居たからだろうな」

『兎に……ね』

腹立たしい気持ちもあるが、結果的にはあの白兎のおかげで逃げ延びたのだ。

その事をオリアに告げ――もう一つ。

アニは思い出したように、もう一人の協力者の姿を声に出した。

『前も――そっちは人だったけどよ。えーっと……〝背徳はいとくの箱〟だったな。あのカラス野郎のとこで、顔の半分が白くて半分が黒い変な奴が道を教えてくれたんだ。たしか……レ……レテ?いや、レツェ?とか言ってたっけな」

『……レツェ。レツェ――か。たしかにそう言ったんだね?』

「おう。知ってんのか?」

『…………どうだろう。レツェなんて名前の知り合いはいなかったはずだよ』

あの青年はあの青年で何者だったのか。

幻のように消え去った青年の事を語ると、オリアは瞬きでもするように薄紫の光を明滅めいめつさせた。

(ノイズの原因は君だったか)

音に変えない言葉は箱の底。

さりとて嘘は吐かず――四角形の体を揺らしたオリアは、濡れそぼったままのアニを仰ぐ。

『まあ……亀といえば兎とも言えるからね。キミが休んでいる間に、亀はとっくにゴールしているのかも』

「俺はウサギじゃねー……って、今度は何の話だよ?」

『油断大敵—―という教訓さ。だが相手は龍でもある。それを思えば、窮鼠猫きゅうそねこを噛む――過信すべきでないのは、向こうの方かもしれないね』

「それは知ってるぜ!ピンチになれば鼠だって猫に噛みつく――ってやつだろ?」

『そのままだからね。何にせよ、油断は禁物だ。僕の忠告――忘れないように頼むよ』

白兎の正体は何か――薄々それに気付きながらも、オリアは〝うさぎとかめ〟の寓話ぐうわだけを口にする。

そのまま先に語った三つの忠告。

食わず、積まず、振り返らず――の〝三不サンズ〟を念押ししてから、つい速度を緩めるアニの尻を叩くのだった。

尻を叩くはもちろん比喩ひゆだが、再びの忠告にアニも緊張を取り戻したのだろう。

一歩の幅を大きくして、石塚の隙間を通り抜けていった。


兎はおろか、亀も龍の姿も見えないまま――支流は終わりを告げるらしい。


自分の歩いて来た場所が、いくつもある支流の一つであった事に気付くと同時、アニは片手で鼻を抑えた。

「うっ……!何だこれ……?」

幅を増した河川の脇。

白い河岸の上には、変わらず無数の石塚が並んでいるのだが――そこには奇妙な影が付随するのだった。

(魚……?いや、人間……なのか?)

膨れるように盛り上がった背中。

その背中はラクダのこぶにも近く、こけとも粘膜ねんまくともつかないぬめりをまとっている。

ガスを溜め込んでいるのか。

思わずふさいだ鼻を襲うのは、生物なまものが腐ったかのような強烈な悪臭あくしゅうだった。

(クッ……セェ!!!!)

これなら幽霊船で味わったカビ臭さの方が断然マシだ。

吐瀉としゃを誘発する刺激臭に、アニは口だけで細い呼吸を繰り返す。

嗅覚を伴わない今のオリアには、その悪辣あくらつさを推し量る事は出来ず――否、元から気にする心づもりもないのか。

アニを気遣う様子もなかったが、あまりの臭さにアニもそれどころではない。

脱兎だっとの如く巨岩の影に隠れると、少しでも匂いを遮断しゃだんすべく、腰に挟んでいたシャツを顔にあてがうのだった。

(うー……鼻曲がる)

鼻と口を抑えるが、一度嗅いだ刺激臭はなかなか消えず。

アニは顔を歪めながら、奇妙な影を盗み見た。


オリアの忠告—―石を積むなの真意がこれなのか。


じっと様子をうかがってみるが、奇怪な魚人ぎょじんたちはただ熱心に、ただ執拗しつように、白い塊を高く積み重ねるだけ。

岩の影に逃げ込んだアニに気付く事も、まして周囲に目を向ける事もなく、目の前の石と格闘を続けている。

(石積んでっけど……それだけ?)

より高く、より長く、より大きく。

それだけを目標にするように、パクパクと口を動かす怪物は、次から次へと白い石を手に掴む。

踏むだけで砂と化す石の扱いは繊細そのもの。

時には掴むだけで砕け散る粉を苦々しく見下ろしながら、彼らは石の塔を築き上げるのだった。

だがアニは聞いてしまう。

『助けて……』

『帰りたい……帰りたいよぉ……』

『父さん……母さん……』

『いっそ殺してくれ…………』

石を積む彼らの声は悲しい程に切実で――嘆きに気付いたアニは瞳を震わせた。

(助けて――って、言ったのか?)

どうやらここは空から降る滝の真下。

白い石塚は、滝に近付くための足場のようにも思われる。

否—―事実、彼らにとってはてんを目指す階段なのだろう。

魚人ぎょじんたちは時折手を休めると、試すように石山に乗り――それまでの努力も虚しく、崩れる砂と共に地に転落するのだった。

『家に帰りたい……』

『亀なんて助けなければ良かった』

『こんな仕打ち……あんまりだ』

『もっと……もっと高く積まないといけないのに……もう渡せるものがない』

転がり落ちては、また石を積んで、そしてまた地に落ちて――終わりのない繰り返しを何と例えようか。

地獄の如き光景を前に、アニの手を離れた箱がくるりと舞った。

『言っただろう?あの世のモノを口にすれば、あの世の住人になると。彼らはそれと知らず黄泉戸喫ヨモツヘグイをに興じ、水府すいふの住人—―人でも魚でもない怪物になってしまったんだろうね』

「助ける方法は……ッ」

『ない――ないんだよ。謂わばコレは魂の契約。恐らく初めは本当の歓待かんたいで、彼らも彼岸ひがんのもてなしを受け入れたんだ。でもいざ婚姻こんいんが進むと、浮世うきよが恋しくなったのだろうね。最後で良い――一度だけ帰らせてくれ――家族に事を伝えたい――そう言って、帰郷を願ったんじゃないかな。しかしてその願いは、回香ウキヨ逆鱗げきりんに触れる事に他ならない。帰りたいという願望が裏切りと見做みなさされ――彼らは対価を払わなければいけなくなってしまった』

転がってなお諦めない――否、それしか彼らにはないのだろう。

酷く冷淡なオリアの声にも、馬鹿みたいに石塚にすがる怪物にも歯痒はがゆさを感じながら、アニは黒い箱を掴み寄せる。

「対価って何だよ!?あの石がそうだって言うのか!?」

『近からず遠からず……正確には己の価値(・・・・)と呼ぶべきかな。古来、貨幣かへいの先駆けとなったのは石というものだ。名前や信念、記憶に財産—―そういった己を構築する価値を石に代え、精算を果たしているんだろう』

「けど、あの様子じゃ……」

『そうだね。本来の価値を失った石は、もろく崩れやすい滑石チョークと同じ。差し出した時点で価値は石屑いしくずに落ち――もはや彼岸ひがんを埋め尽くすまでに至ったわけだ。誰のものかも知れない信念なき石を積んだところで……てんまで届く道を作るなんて無理な話。魂の全てを差し出す事でしか石積みを逃れられないなんて――……同情はするよ。自業自得でもあるけどね』

胸に渦巻くのは怒りなのか、憐憫なのか。

しかし叫ぼうと、嘆こうと、何かが変わる事はない。

あくまで平静に語るオリアに、アニはただうつむくしか出来なかった。

箱の形になったオリアはというと――はなから割り切っているのだろう。

眉間に深いしわを刻むアニを目のように光る二つの電灯で見上げると、何の気なしに音を溢した。

『哀れむのも、彼らのために怒るのも君の自由だ。けど……ここに居るのは抜け殻みたいなもの。いや、こちらが本体たましいかな。ウキヨ伝説を鑑みても、彼らの帰るべき肉体はすでに浮魚うきよ—―つまりは水死体すいしたいになって上がっているはずだよ』

「……なんだよ、それ」

『知ってるかい?水死体というのはね。内部にガスを溜め込んで、風船のように膨れ上がるんだ。血の気を失った肌は青白くなり、力を失った手足はヒレのように漂い、ろくに崩れる事なく水の中を彷徨さまようのだから――それこそ人魚のように見えたんだろう』

「だったら……何だよ。死んでんだから納得しろってか……?」

『……いいや。理解は必要ないよ。怪異がもたらす不条理とは、いつだってそういうものだから。ただ……君は少し優し過ぎる。まるで牙を抜かれてしまったかのようだね』

すっかり聞き馴染んだオリアの声であり、ノイズ混じりの電子音でもあるそれを――アニはどう感じるのか。

話題を変えるにしては無頓着むとんちゃくが過ぎる発言に、アニは思わず呼吸を止めた。

(気味悪いなんて……んなわけ)

顔が見えないのが原因だと、そう言い聞かせても、胸に巣食う悍ましさは掻き消えない。

時折—―時折垣間見えるオリアの不気味に、アニは泣きそうなくらい顔をゆがめた。

「お前……さっきから変だぞ」

絞り出した声は、何に対しての恐れか。

やはりフラフラと遠くに行ってしまいそうなオリア――黒い箱を握りしめ、アニは行き場のない焦燥に身を焦がす。

だがオリアはあくまでいつもの通り。

『それはまた今更の感想だね。僕はずっと普通じゃなかった。普通にはなれなかった――……ああ、いや。僕の話はいいんだ。とにかく――彼らは成仏する事も許されない鳥籠とりかごの鳥。自らの価値—―姿も記憶も奪われた残滓ざんしのようなものだ。それを救うのもまた君の自由だが……そこに価値が付随ふずいするとは限らない。どうするかは――……』

はぐらかすように苦笑を漏らし――それも束の間、オリアはノイズを奔らせる声を止める。

代わりに差し込んだのは、暗い影。

「……っ……まさか」

『そのまさか――だね』

巨岩をも包む大きな影。

その闇の大きさに、岩を背にしゃがむアニは冷や汗を流し、本能のままに前へと飛び出した。

「っぶね!!」

首筋を掠める豪風。

背中に奔った鋭い痛み。

直後、轟音ごうおんが響けば――何が起きたかは、振り向かずとも分かるだろう。

背中にぶつかる砂礫されきにも、噴き出した血にも構わず、アニはただ地面を蹴った。

『チリ様』

その背を追って、静かな怒りを宿した声が響く。


ズウゥン……と地を揺らす重圧の中に轟くのは、鼓膜を揺らす龍の地鳴りに他ならず、アニは後先考えずに前へと突き進んだ。

川から頭を出した龍の姿を見るのは、しくもオリアだけだ。

とはいえ、レンズ越しに見える龍神の姿は一瞬だけ。

アニの胸に抱かれたオリアは、ザリザリと音飛びする声を

『チリ様—―隠し鬼はもうおしまい。あなたの体を、心を、魂を、全て私にくださいな。さすれば浮気夜うきよの罪を塗り替えて、ここに不夜ふやの城を築きましょう』

「だからっ!!俺はチリじゃねえっての!!」

『チリ様—―チリ様—―……ああ、アニさん。何故逃げるんですか?私の事が嫌いですか?ここにいれば……私たち幸せになれるんですよ?何にも悩まず、何にも支配されず、自由に生きられるんですよ?どうしてこっちを見てくれないんですか?』

「あ゛ーっ!そうだけど!チリじゃねーとは言ったけど!そういう問題じゃねーだろっ!!」

『いやはや、君も律儀だね』

背後に迫るのは回香ウキヨかカケイか。

声色を変える怪物から逃げながらも、アニは逐一叫び返す。

根の良さ――もとい世間知らずを晒すアニにオリアは呆れを見せるが、今はそれどころではないだろう。

位置にして真横か。

突き進んだ先に見えるのは、10mはあろうかという別の支流で――だが、もはや足を止めるだけの余裕もなければ、止まれるような速度でもない。

「おっ!!うおおおぉぉっ!?」

アニはオリアに返事をする暇もなしに、激しく流れる川を跳び越えた。

人間ひとの姿のままでも、これだけの事が出来るのは異装[I-sow(イソウ)]のおかげなのか。

「っぶね!!」

勢い余った跳躍ちょうやくつまづきかけながらも、アニはすぐ脇に迫った龍の牙をかわすのだった。

もっとも、相手は激流などものともしない怪物だ。

後ろ――正確には横から迫る魔の手は執拗しつようで、避けるだけでもギリギリだった。

それでも手に持った箱は落とさずに。

片手が塞がるのも構わず、オリアを胸に抱いたアニは白い川辺を走り続けた。

否—―走らざるを得なかった。

「クッソ!!どうなってんだ!?」

『どうもこうも……見たままじゃないかな。簡単に逃がしてくれる気はないらしいね』

テレビゲームで言えば、円形のフィールドだろうか。

気付けば周囲は滝を噴き出すがけに囲まれ、蟻地獄のようなくぼみがアニを閉じ込めているのである。

底に繋がる滝-元は支流である-は全部で八つ。

八大地獄に見立てたのか。

それとも八つの頭を持つとされた龍に影響を受けたのか。

水嵩みずかさを増し始めた溜池からは、長い体を持つ龍が、これまた長い半身を伸ばしている。

その目は真っ直ぐにアニを捉えていた。

『チリ様――アニさん――……行かないで。こっちを見て。私を……わたくしを見て。全部、全部許すわ。全部流すわ。代わりに渡して……石を渡して。あなたの全てを投げて……綿津見わたしに溺れて』

黄金に輝く目は瞳孔を広げ、足を休めないアニにすがりつく。

その間にも魚人――石を積む者たちは滝を落ち、溜池の表面に真っ逆さま。

成す術なく水を漂い――しかして、石を積む事をやめられないのだろう。

水中を移ろいながらも、彼らの手は石を探して揺らめいていた。

だがアニにそれを知る余地はない。

ゆらゆらと泳ぐ人魚たちには脇目も振らず、迫る龍の爪を逃れるのである。

『チリ様――アニさん――愛しているのに……焦がれても、焼かれても、あなただけを愛しているのに……っ』

「っ……知るかよ!!こんな愛あってたまるか!!」

そもそも回香ウキヨを燃やしたのは、チリという男だ。

オリアの推察を裏付けるかのような回香ウキヨの声に、アニはつい怒号をあげた。

ついでにあまりに暴力的な偏愛を否定するが、それを聞き入れる相手ではない。

『溺れて。溺れて。溺れ――溺れて――……ワタシに溺れて』

河岸に半身を乗り出した龍は、鳥にも似た無数の腕をアニに伸ばす。

ボトボトと落ちるのは――鱗らしい。

ジュッと背中を焼く激痛に、アニは歯を食いしばるのだった。

「い゛っ……!!マジかよ!?」

魚人たちの腐乱臭。

鼻を曲げるその悪臭に紛れ気が付かなかったが、地を這いずる龍もそれと同じ――否、もっと酷い臭気を放っているようである。

いつから腐り始めたのか。

もしくは最初から腐りつつあったのか。

青とも緑ともつかない鱗を腐った肉と共に落としながら、孑孑ぼうふらにまみれた龍はアニの後を追いかける。

その体はドロドロにただれ――もはや悠然ゆうぜんと座す事も出来ないのだろう。

半身がブツリと千切れる事にも構わず。

もしくは半身を失った事にも気付かず、ますますもって異形の姿と化した龍は腐敗した肉を振り撒いた。

見えずとも分かる異質な様子に、アニは胸に抱く箱をぎゅっと握りしめる。

「なっ!!何だよアレ……っ!?」

有体ありていに言えば生ける屍(ゾンビ)といったところかな』

「ゾンビって何だよ!?」

動く死体(アンデッド)の総称みたいなものだよ。疾患しっかんを持つ人を死者に見立てたとか、ていよく奴隷どれいを使うためとか……起源には諸説あるけどね。ここが冥府めいふである事を思えば、ゾンビが出て来てもおかしくはないんじゃないかな』

聞いたは良いが、ゾンビとは何なのか。

死体が動いている以上の事が分からないまま、アニは都度道を阻む河川群をパルクールよろしく飛び越える。

もっとも、追従する龍には河川などあってないようなもの。

ぬめりのある肉片を落としながら、派手な水飛沫をたてるのだった。

その姿は龍にたがわず――否、蛇足だそくか。

巨大なかしらと首を支える腕は幾百いくびゃくにも増え、芋虫いもむしのような気味の悪さを宿していた。

内臓やら脊椎せきついやら。

短く途切れた肉の塊から飛び出すそれは尾のように風を切り、もはやアニの知る龍とは異なる怪物と成り果てている。

その姿をレンズに捉えたオリアは、やはりどこか他人事に声を溢した。

『これはまた……見事に腐っているね』

「呑気かよ!?お前にもこの匂い嗅がせてやろうか!?目ぇ覚めるぞ!!」

『それは遠慮するとして……解釈かいしゃくというものかな。不変と不死は等しからず。不死を死ねない事と捉えるなら、朽ちてなお藻掻もがく姿も……あながち間違いじゃないだろうからね。言ってしまえば木乃伊ミイラも動く死体に通ずるもの。当然あの世は死者の領分であり――つくろっていただけで、あれが彼女の本来の性質すがたなんだろう』

かの伊邪那美命イザナミノミコトもそうだった――ぼやくように付け足しながら、オリアは龍神・回香ウキヨについての実態を検めていく。

だがアニが聞きたいのは、右から左に流れていく長話ではない。

逃げる間にも道は残り僅か。

二つめの川を跳び越え、三つ、四つ、五つ――そのまま一周してしまいそうな河岸の先にあるのは、腐敗に満ちた足場だけだった。

(死んでも踏みたくねえ……っ!!)

仮にも龍から溢れたけがれだ。

触れた傍から体が腐ってしまいそうな汚泥おでいに、アニはブルリと身を震わせる。

かといって、上にも下にも逃げ場はない。

下は言わずもがな。

魚人と腐肉が渦巻く水に飛び込む勇気が湧くはずもなく――しかして上は遥か遠い天上だ。

異装[I-sow(イソウ)]に頼ったところで、足場のない空を駆ける事は難しく、御釈迦様おしゃかさまの助けもなしに雲を突き抜ける事は出来そうになかった。

「オリア……ッ!!」

六つ目の川を越え、七つ目も目前。

アニは手元の箱に縋るが――

「何かねーのかよ!?」

『うーん……怪異が――せいかな?視界も回線も――安定――安定しなくてね。鬼門然きもんしかり――力場りきばのようなものがあって――磁場じばが乱れ――乱れる――れるんだ』

「おいっ!?大丈夫か!?頼むからいなくなったりすんなよ!?」

『……――こう――こうかな?』

頼みのつなは、なかなかに不安なものだ。

電子音が不穏に揺れる間に七つ目の川も、龍の巨体で穢されてしまうのだった。

バシャン、バシャンと煩い水音を背に、アニは壊れんばかりに黒い箱を握りしめた。

あまりに力強い祈りだったが、痛覚を共有していなかったのが幸いか。

オリアは焦燥に駆られるアニに語り掛ける。

『君の望みを叶える方法があるとすれば――一つ。川を閉ざす――それだけだよ』

その声はやはり平坦で。

けれどアニにとっては救い以外の何物でもないことも事実。

一縷いちるの希望を見たアニは、落ち着き払ったオリアの声に意識を向けた。

『昇った先に崖。落ちた先に山。浮揚ふようと沈殿は切っても切れず、あまねく場所に水を満たす。その満潮まんちょうが呪いとなるのならば、根源から呑み干してしまえば良いだけだ』

「呑み干す!?何も口にするなって言ったのはそっちだろ!?」

『ああ……言葉のまま受け取ればそうか。だが君は喰らっただろう?星月せいげつを呑み込む程の陽光を』

慌てふためきながらもアニはオリアに噛みつくが、その真意は別にあるらしい。

オリアは〝背徳の箱〟との邂逅かいこうを――さらには〝浮沈の箱〟との遭遇を物語る。

からすは神をかたっていたに過ぎないが、君はもう一つ――既に龍を喰らっている。回香かのじょと同じ菩提樹カミの身を』

太陽の化身とも言うべき〝背徳の箱〟。

そして回香ウキヨとも同一視される菩提樹タイジュの存在。

たとえ相手が神であろうとも、その力を引き出せば〝水をす〟ことも不可能ではないだろう。

水府の入り口にして、龍神のみなもととも言える水がなくなれば、新たな犠牲者が出る事もない。

『正面から戦ってくれても良いのだけどね。君の……囚われた魂をも救いたいという意志を尊重するなら、それくらいしか道はないだろう。それに――……』

「何だよ!?」

『それが〝チリ〟の役割というものなのやも。鶴は千年、亀は万年—―玉手箱を開けた勇士ゆうしは鶴となり、日の中に消えていったそうだ。君がその名を渡されたのなら――この地獄にを灯すと良い』

かつてチリという男が龍を燃やした。

それは龍宮に眠る金銀財宝を持ち帰るためだったのか。

悍ましき龍を封じるためだったのか。

ただ帰るべき場所に帰りたかっただけなのか。

真実はとかく――奇しくもチリの面影を重ねられたアニは、その姿を漆黒の獣へと変えていった。

それは伝承を破り、陽光を持ち帰った火犬プルケ

それは天罰によって黒く染まったからす

金継ぎが如く赤い線を奔らせる獣を前に、黒い箱は光を収めた。

「グルルルッ」

『僕はここまでだね。また会おう――アニ』

薄紫の光は――消えたのか。

それとも獣の口に飲み込まれただけか。

真紅の線が煌々と光りを帯び、またぐと同時に八つ目の河川が消え去った。

『チリ様ッ……!!』

悲痛な叫びが轟くも、その声も厚い蒸気の雲に呑まれて消えていく。

『アニ、さん……ッ!おいていかないで……!一人にしないで……私を見て――――……』

最後の最後までアニに縋る少女の声は止まなかったが、振り返った先にいるのは腐れただれた怪物だけだろう。

川も、滝も、黄昏も全てをした獣は、崖を踏み台に天高くへと飛び上がった。

そのまま赤い閃光は大きく大きく広がり――朝も夜もない水府すいふに光を灯す。


それは正しく太陽の如く。


夜明けの光が全てを呑み込み、世界は白一色に染まるのだった。

その光が哀れな魂を導くのだろう。

陽光は魚人とも呼ぶべきいびつな殻をも壊し、自由を得た彼らは天上へと昇っていく。

そこは〝浮世うきよ〟への道。

一匹の陽光と共に、彼らもまた帰るべき場所へと帰っていくのだった。



源を失いし龍は朽ちるのを待つばかり。

その終わりを嘆く者はいるのか、いないのか――一振りの雨が降る。



ビシャビシャと、あるいはザーザーと。

空から降り注ぐ雨に、意識を取り戻したアニは辺りを見渡した。

「はっ……あ――戻って、きたのか?」

気味の悪い夕焼けは見当たらず。

恨めしそうな声も聞こえない。

浅い湖の真ん中に浮かんでいる事を除けば、至って普通の状況だろう。

とっくの昔に黄昏を追い越した夜空を見上げれば――途端に全身の力がどこかへと抜けていった。

「はああぁぁぁ……っ」

冷たい雨でさえ心地よいと思うのは、あの彼岸ひがんがそれだけ悍ましかったからだろうか。

風邪を引きかねない冷たさに、ため息を溢し――

「……あ?」

アニはぷかり……と浮かび上がった影に目を留めた。

「これって……」

それはおよそ9cm角の黒い箱だ。

一瞬ドキリとするが、アニの胸にはずっと抱えていた箱が一つ。

うんともすんとも言わない浮魚うきよに、アニはそれがカケイの電脳箱[K-hack](コハク)なのだと思い至る。

一人ここに置き去りにされたのか。

それとも箱だけが帰ってきたのか。

(お前も災難だったな)

空っぽになってしまったかのような箱を右手に、アニは空が泣いているとしか思えない雨をその身に受けるのだった。

事実それは、ようやく報われた者たちの涙だったのかもしれない。

(たぶん……帰ってこれたんだよな)

バケツをひっくり返したような雨は短く。

瞬く間に消える雨を見送り、アニは左手に抱いた箱に視線を落とす。

「……帰るか」

ぼそりと溢すが、返事はない。

元の場所に戻った事で通信が切れたらしく、オリアの声がささやく事はなかった。

それをいやに寂しく思いながら、暗闇に包まれた山を下りていく。

下りる――という感覚に、一瞬足を踏み出す事を躊躇ためらったが、怪異は去ったのだ。

果てのない川下りに比べれば遥かに小さい一座いちざを踏みしめ、アニは足早に地上へと下り立った。

ふもとで待ちぼうけていたのは古い車。

傷の多い扉に手を触れ、アニはふいに動きを止める。

「…………」

残されたのは、沈黙を喫する箱が一つ。

恐らくは山で遭難そうなんした事になるのだろうが――箱のあるじはもう居ない。

(……二度と出てくんなよ)

とり憑かれたのか、人魚を喰らったのか。

変わり果ててしまったあるじに語り掛け、アニは車を走らせる。

何かを食べる気にもなれず。

まして何かを車に積む気にもなれず。

アニはまっすぐに自宅を目指す。

夜明けの光が差し始めてもお構いなし。

最後まで振り返る事だけはしなかった。


     ❖


彼岸ひがんが閉じるのを確認し、オリアは一人(うつむ)いた。

安堵—―否、徒労感か。

「…………ゴホ」

丸めた背中が小さく揺れれば、鉄臭い赤色が手を染める。

内臓が腐り続けているならまだマシだが、とっくの昔に壊死えししてしまったのかもしれない。

生温い赤は暗い色を帯びていた。

黒ずんだべにを引く姿に、諦観ていかんてっしていた箱が声を震わせる。

創造主マスター……!』

「ゲホッ……その呼び名は、頂けないね」

『そのような事を仰っている場合ですか』

箱—―というのも、おかしな話。

電子パネルから発せられた音は、紛う事なくに内蔵された声色だったが、飛び回る箱は存在しない。

電子音だけを響かせる存在に、オリアは重い息を吐き出した。

「あと少し……あと少しなんだ。あと少しで僕の悲願が叶う。だから君は……観測に専念してくれ」

『ですが……』

「あと少しの辛抱だ。それで……全てが終わる。全てが解決する。そのためにも今ここで失敗するわけにはいかない。それとも君は……情が湧いたのかな?」

口を濡らす血を拭い、オリアは力なく笑ってみせる。

試すような言葉に、声は押し黙り――小さく溢した。

『かも……しれません』

その声にもオリアは目を細めるばかり。

どこか定まらない様子で煙草の一本を手に取ると、紫煙を燻らせるのだった。

『…………』

「今日は何も言わないのだね」

『言ったところで……でしょう?』

「ああ、そうだ。これが最後の一本—―ジェフには感謝しないとね」

ミントの風味を漂わせる煙を吐き、オリアは後ろを見やる。

「それにしても……レツェか。時折ノイズが入るとは思ってたけど、まさか介入されていたとはね。けど、さすがはモウ。僕が考える程度の事はお見通し――ってとこかな」

視線の先には棚に乗った平たい箱。

正確にはアタッシュケースか。

鍵の付いたトランクを物憂げに見つめては、疲弊の滲んだ声を溢す。

「彼女も居るみたいだしね。エルファス……どうせ君も居るんだろう?」

だが返事をする者はいない。

電子機器の動作音とファンの音と――もう一つ。

静かな鼓動の音を耳に、男は自らの後頭部に突き刺さったままの電極を撫でた。

「あり得ない話ではないからね。君たちが居たとして、何ら不思議な事はない。ただそれは……いや、何も言うまい。それも――終わりだ」

その指を止め、オリアは黒い箱を見る。

硝子越しに眠るそれはひつぎなのかもしれない。

小人たちは荒くれもので、目覚めのキスもない――冷たいばかりの硝子の棺。

哀れな箱から視線を外し、オリアは零れ落ちそうになる灰を薄い皿に押し付けた。

吸い殻の溜まった灰皿は煤と泥にまみれた無法地帯で――汚れきった鏡のようでもある。

無論、魔法の鏡なんてものはない。

勝手に自らの下賤げせんさを突きつけられた気分になっただけの事だ。

だがそう思う時点で、心がり切れているのを裏付けるようなものだろう。

「…………」

オリアは無言で煙を吐き出し、痛みも感覚も鈍った体で、眩しく光る電光版へと紫苑しおんの目を向ける。

その顔は――けして笑わず。



「最後の仕上げだよ――アニ」

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