case.1「BOX the P-un」(01)
箱――そう言われて想像するのは何だろうか。
箱を積み重ねたか如き街に暮らす者たちが、こぞってこの場所の事だと笑うのはさておき、外も中もくたびれたオンボロ車の助手席には物々しい箱が座っている。
きっちりとシートベルトが回された姿は愛らしいと言えば良いのやら。
やはりくたびれた布に包まれた姿は、大切に守られる赤子のようでもあった。
もっとも、箱には愛嬌の欠片もない。
傷だらけのハンドルを操る青年――運び屋を営むアニは、託された箱を横目に、だんだんと殺風景になっていく道を進んでいく。
右隣りに鎮座する箱との間には――
『Sir.アニ――次の十字路を右。直進888mの後、再び右です』
電脳箱[K-hack]がピカピカと青色の光を奔らせては、行くべき道を示してくれた。
男とも女ともつかない声は心地よく、かといって眠くなるような安らぎはない。
良くも悪くも事務的に諭してくれる電脳箱[K-hack]に従って、アニは黒い煙を吐き出す車をさらに奥、さらに奥へと走らせた。
無数の箱が並ぶ無秩序で散らかった街中から一転。
点々と箱が並ぶだけの寂しい景色も飛び越え、小さな傷で曇りつつある窓の外には深い山が広がっていく。
車は停めず、しかして不安は募るもの。
「本当にここで良いのか?」
唸るように声を絞り出し、自身と箱の丁度中央。
ハンドルの右隣りに設けられた穴にスッポリ嵌る電脳箱[K-hack]へと視線を送る。
『このまま直進8931m――8888m――案内に間違いはありません』
「お前を疑ってるわけじゃねーよ。けどこんな山奥に人が住んでるってのか?」
『マップにて目的地に建造物が確認出来ています。居住登録が行われていないため、依頼人オリアが住んでいる確証はありませんが――申請時の電波を辿る限り間違いはありません。このまま直進を続けてください』
「分かったよ!!」
電脳箱[K-hack]が怒っている――はずはないのだが、高圧的にも聞こえる無機質な音に、アニは思わず頭を掻いた。
乱雑に掻き毟られた髪は黒く――否、褐色だろうか。
ところどころ赤の混じった髪は、単に黒と言うよりは、褐色という方がお似合いだろう。
フロントガラスに映る分には短いその髪はトゲトゲしく、それでいて結われた後ろ毛は獣か何かの尾のようにしなやかだ。
その尾が、動いた拍子に首を撫でる。
「…………ん゛」
つい呻くのは、さわりとした感触を受け取った首が痛むからか。
厚い革のチョーカーが守ってくれているものの、ふとした事で古傷が痛んでしまうのだろう。
それはもう痛々しい傷痕が、消えない楔のようにアニの逞しい首を彩っているのだった。
(雨、降んなきゃ良いけど)
左手で黒いチョーカーに隠れた傷痕を擦りながら、アニはどんよりと暗くなっていく空を見やる。
天候が崩れそうなのか。
夜に向かっているだけなのか。
雨の日には決まってジクジクと痛む古傷に気を取られつつも、人気のない山道に入っていった。
直進が続くせいか、道案内を務める電脳箱[K-hack]も黙ったまま。
居心地の悪さがそうさせるのか、アニはいつになく自身の思考を回転させる。
(そういやこの傷……いつ着いたんだっけな?コハクも知らねーって事は、子供の頃なんだろうけど……あーっ!駄目だ!考えても分かんねえ!)
だが思考は電脳箱[K-hack]の領分だ。
アニは再び頭を掻き毟り、考える事を放棄する。
「あとどんくらいだ?」
『推定1時間程――生命体の反応はありませんので、100km/Hまで速度を上げても問題ありません。日暮れ前に到着可能です』
「OK。この後も案内頼むぞ」
『かしこまりました。次――左です』
道だろうが、着る服だろうが何だろうが、電脳箱[K-hack]が居れば問題ない。
無駄な思考などしなくとも、電脳箱[K-hack]さえいれば、間違いのない方に導いてくれるのである。
(ちょっと飛ばすか)
いつ聞いても変わらない電子音。
電脳箱[K-hack]という不変の存在に、アニはどこか満足した気持ちを胸に抱く。
そうして深い山を走ること――小一時間。
アニは目的地までもう少しというところで車を停めた。
「はー……っ!やっぱ長距離は疲れんな……!」
道路というにはお粗末な獣道。
何とか道の形になっている土と森とのギリギリラインに車を寄せ、アニは数時間ぶりとなる外の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
何が楽しくて、こんな山奥にまで来なければいけないのか。
休憩所はおろか民家一つ見えない山道ではろくに休む事も出来ず――人がいないのをこれ幸いにと、太い木の根元を借りるように用を足す。
「ふぅー……」
依頼人オリアに厠を借りても良いのだが、それもまた恰好がつかないだろう。
間に合った事への安堵か。
ただの開放感か。
アニは心底ほっとした吐息を山に溶かしながら、ある意味では最重要の用を終わらせるのだった。
『Sir.アニ――手を拭いてください』
人心地が付いた瞬間、アニを現実に引き戻すのは無慈悲な声だ。
「見んなよ」
『仮に見たところで問題はないはずです』
「俺が見られたくねーんだよ。お前に言っても分かんねーだろうけどよ」
『羞恥――というものですね。電脳箱にはない感覚ですが、知識としては理解しています』
「理解してんなら見んなよ」
本当に見ていたのか、どうなのか。
背後にふよふよと浮かぶ光る箱を一瞥し、アニはやれやれと口を曲げる。
こう言っては難だが、電脳箱[K-hack]に出来るのは指示だけだ。
アニは身支度を整えると、ドアを開けっ放しにしておいた車からアルコールティッシュを一枚――のつもりが、連続して二枚取って手を拭いた。
「これで良いだろ?ついでにお前も拭いてやろうか?」
『二重の意味で結構です』
「二重って何だよ」
『Sir.アニの清潔が保たれた事が一つ――電脳箱を拭く必要はないという事が一つ――以上二つです』
「あー……うん。よく分かんねーけど」
電脳箱[K-hack]にとっては渾身のジョークか何かだったのかもしれない。
しかしアニには何の話かサッパリだ。
いつもの小難しい解説と一蹴して、山の暗さまで入りこんできそうな車に乗り込んだ。
黒を好んで黒い車-もちろん安価な中古車だ-を買ったは良かったが、闇に紛れるのは頂けない。
買い替える時にはもっと明るい色にしようと思いながら座りの良い場所を探し――――ガタリ。
「…………は?」
聞こえるはずのない音に、アニはシートベルトを掴んだ手を止める。
「今の聞こえたか?」
『今の――とは?』
「今なんか聞こえただろ!?ガタッって!!」
『電脳箱には観測出来ていません。Sir.アニの勘違い――もしくは山から聞こえてきた音と判断します』
「いや!!んな山とか風とか、そんな感じじゃなかっただろ!?」
ダッシュボードに収まり直した電脳箱[K-hack]に噛みつく勢いで、アニは大きな声を出す。
その声は扉を閉めた車の中にしか響かなかったが、剣幕はなかなかのものだったのだろう。
電脳箱[K-hack]は考えるように答えを出しあぐね――――ガタリ。
「っ……ほら!!今の!!」
再び鳴った異音に、アニは勝ち誇ったように黙った電脳箱[K-hack]を見た。
安全運転をしろと煩い電脳箱[K-hack]。
その指示に従って顔に似合わずシートベルトをきちんと絞めるのがアニなのだが、もはやそれどころではない。
音の出所を探ろうとして――――ガタガタガタガタガタガタッ。
ガタガタガタ
ガタガタガタガタガタガタガタ
ガタガ――……ガタガタガタッ
小刻みどころか、ここから出せと言わんばかりに暴れ狂う轟音にアニはヒュッと息を呑んだ。
赤い目に飛び込むのは――今日の依頼品。
ガタガタと暴れる鉄の箱を前に、どうしてか乾いた笑みが零れ落ちる。
「はっ……?」
ガタガタガタ。
「え……ちょっ……嘘だろ?」
ガタガタガタガタ。
耳障り程度ならどれほど良かったか。
鼓膜を破らん勢いで、その音はバンバンと乱暴に鉄の壁を打ち鳴らす。
手なのか、足なのか。
内側から激しく叩きつける衝撃に、頑丈なはずの鉄がメキメキと悲鳴を上げだす始末。
ボコリ、ボコリと箱が盛り上がり――それも刹那、八十八cm角の正方形にぽっかりと大きな穴が開いた。
先程の騒音とは打って変わり、黙りこくった深淵を見つめ――
「コハク……これ、中見た事になったりしないよな……?」
『残念ですが依頼人次第です』
「……だよな」
アニはいの一番に仕事の成果に気を留める。
けして中身を見ないように――そんな注文があったというのに、この有様だ。
中を見たわけではないが、どう弁明しても白にはならないだろう。
折角の〝基本価格に44%上乗せ〟という好待遇の仕事だったのに、これでは0%――いや、マイナスになってしまうかもしれない。
嫌な汗が頬を伝い落ち――――ドロリ――――と黒い何かが溢れ出す。
影というには濃く。
液体というには変幻自在。
生物というには奇妙なその出で立ちは、ぐつぐつと煮え滾るマグマが形を持っているかのようだ。
眼球を生み出してはボコリと割る様は異様な光景としか言い難く――アニはわけも分らない内に車を飛び出した。
「っ……!!」
シートベルトをしていなかったのが幸いか。
咄嗟に電脳箱[K-hack]を引っ掴み、転げるように山の中へと躍り出る。
アウトレットで買ったお気に入り――というかは一張羅の革ジャンが汚れるのも、今は気にしている場合ではない。
「コッ……!コハクッ!!」
バンッだったのか。
ガシャンッだったのか。
ただでさえオンボロの扉や窓を破壊して追ってくる影を確認する間もなく、アニは電脳箱[K-hack]を手に走り出した。
「なっ!なんだアレ!?何なんだよ!?」
『データにありません』
しかし、手の中に収まった電脳箱[K-hack]は要領を得ない。
冗談めくように返事に時間を掛ける事はあっても、憶測すら出てこないのはどういう事なのか。
いやに赤い黄昏に包まれる山道の中、アニは手に掴んだ箱に怒鳴りつけた。
「データッ!?データにないって!どういう事だよ!?」
『検索――データにありません』
「はっ!?はああっ!?ふざけんなよ!?分かんねー事ないんじゃなかったのかよ!?」
『再度検索――データにありません――全回路接続――データありません――演算施行――――データありません』
返ってくるのはこだまだけか。
否、やまびこをも吸い込む山に消え、アニの耳には無情な電脳箱[K-hack]の声だけが響き渡った。
『データありません――データありません――データありません――データありません――データありません――データありません――データありません――データありま』
「コハク……!?おい!?やめろよ!!こんな時にふざけんんじゃねえ!!」
だがその声も、もはや普通ではない。
『データありません――データありません――データありませぇん――データありまぁせぇんん――デエエェタああありありませせ――――……んせまりあターデ』
歪んだ声で同じ言葉を繰り返し――果てに奇妙な言葉を紡ぎ出す。
「ひっ……!!」
壊れるにしたって、あまりに気持ちの悪いその声に、アニは思わず電脳箱[K-hack]を投げ捨てた。
自走する機能も壊れてしまったのか。
『んせまりあターデ――んせまっ――』
手を足を口を伸ばす影が、地に落ちてなお煩く囀る電脳箱[K-hack]を飲み込んで、走るアニを追いかける。
「何だってんだよ!!」
何故走っているのかも、何故逃げているのかも、何故追いかけられているのかも分からない。
分からないが、アレは駄目だと本能が訴えている。
考える事を捨てたからこそ研ぎ澄まされただろう本能に従って、アニは死に物狂いで山を駆け抜けるのだった。
走って、走って、どこを目指しているかも分からないまま走って――いつの間にやら山を抜けたのか。
「どこだここ……っ!?」
視界の開けたアニは、息を切らしたまま後ろを振り返った。
だが――
「おあああっ!!いるじゃねーかよ!?全っ然振り切れてねえ!!」
背後には箱から溢れ出して来ただろう何かの姿。
木や岩を飲み込んだのか。
津波と化した影が、すぐそこまで迫っていた。
足には自信があったのだが、山をも飲み込む波を相手に勝てる人間はない。
アニはもつれ始めた足を懸命に動かし、ほうぼうの体で影から伸びる手足を躱していく。
しかし、鬼ごっこはもう終わりだ。
着一刻と距離を詰めた影が、汗を浮かべるアニの首をしかと掴んだ。
「がっ!?」
ぐんっと引っ張られる感覚と、空気を断たれた苦しさにアニは真紅の目を見開く。
何なのかも分からない存在に喰われるのか、殺されるのか――それすら分からず、血の回らない頭では何を叫ぶべきかも分からない。
(ふざけんなよ。こんな仕事、受けなきゃ良かった)
精々考えられるのはそれだけで、文句も音に出来ぬまま、それでも首に纏わり付く黒に爪を立てる。
しかし、乾いた喉は熱く燃え、なけなしの抵抗も力を失っていくばかり。
「あ゛……ぐ、うぅ……」
呻き声さえ掻き消え、とうとうアニは黒く汚れた手をダラリと下げた。
泥なのか、煤なのか。
運び屋の文字が入った白いTシャツも薄汚れ、溝鼠にでもなったかのようだ。
無論、そんな感想がアニの脳裏に過るわけもなく、ズキズキと痛む頭で空を仰ぐ。
夜を待つ空に雨が流れていないのを不思議に思うのは何故なのか。
雨水を求めるように舌を伸ばし、アニは声にならない叫びを漏らした。
揺らぐ――あるいは傾く視界に見えるのは白色で。
「少しばかり失礼するよ」
場違いなくらい穏やかな音が響いたと思ったその時には、アニは背中から地面に倒れ込んでいた。
「がっ……ゲホッ!!ガハッ!!」
重く鈍い一閃が黒々とした手を斬りつけたらしい。
したたかに背中を打ち付けたアニの背後では、黒ずんだ影がブワリと毛を逆立てたようだった。
煤を毛羽立てたと言った方が正しいか。
とにかく形容しがたい黒が、怒りに身を振るわせたのだろう。
咳き込んでいるのか、息を吸い込んでいるのか。
自分のしている事さえ判断が付かないまま、アニは悍ましい気配を感じとる。
それ以上に――この男は何者なのか。
忽然と姿を現した男に、アニは困惑する他なかった。
白というにはいささか黄色い――否、ピンク色か。
いくらか高い位置で結われた淡い色のその髪は、櫛を通さないアニ以上にボサボサという表現が似合う傷み具合のようだ。
癖毛というにもヨレヨレの髪が、色もまばらに揺れている。
使い込まれた鼈甲縁の眼鏡の奥に宿る色もまた淡く、その紫は藤とも根雪ともつかない朧さだ。
風が吹くだけで霞んでしまいかねない儚い色彩に、アニはどうしてか胸を締め付けられる。
(……んで…………)
だがその痛みは、キュウキュウと悲鳴を上げる肺がもたらすものに相違ない。
何とも雨が似合いそうな――むしろ雨の似合って欲しくない男の足元で、アニはヒューヒューとか細い呼吸を繰り返す。
きっと、儚い――なんて印象は夢のまた夢だ。
存外逞しい男の手には小ぶりの斧が握られている。
何かにとっての血液なのか。
黒い煤を被った男は、持っていた斧で地面に四角の線を引き始めた。
「ここは領域――しばらく待って貰うとしよう」
まるで子供遊びかのようだ。
二人を囲う四本線の内の一本に斧を突き立て、男はパンパンと手を払う。
だがこちらとあちらを隔てる線に、黒々とした何かもそれ以上近付いてくる事が出来ないらしい。
アニがパチクリと目を瞬く中、眼鏡の男は転がったままのアニに視線を落とした。
「初めまして――で良いかな?Sir.アニ。僕はオリア。歴史でも伝承でも発掘でも何でも齧ってるけどまあ、民俗学者……ってとこかな。研究というか蒐集だね!君にアレの配達を頼んだわけだけど……まさかこんな事になるとはねぇ」
民俗学者を名乗る男――依頼人オリアはどこか他人事気味にヘラヘラと笑う。
あまりに楽観的なその様子に、恐怖も痛みもどこへやら。
アニはムカつくくらい能天気な男に掴み掛かった。
「てっ、てめーがオリアか!!人に何てもん運ばせてんだよ!!」
「いやはや僕もこうなるとまでは思ってなくてねぇ?」
「はあ!?どの口で言ってんだ!?つーかアレ!!何なんだよ!?コハクに聞いても分かんねーって言うし、そのままぶっ壊れちまうし、何がどうなってんのか説明しろよ!?ああ!?」
もはや仕事の成否など関係がない。
怒りのまま捲し立て、アニはフーッフーッと興奮した息を吐く。
荒々しい手を払いのける事もなく、オリアは逡巡し――やがて目を細めてニコリと微笑んだ。
「怪異――――って知ってるかい?」
02に続く。
評価等々頂けましたら嬉しいです!