case.5「BOX the B-ankh」(04)
バシャアアアンッ――と高く上がった飛沫。
距離と速度に比例して天高くまで舞い上がった雫を前に、娘は目を凝らす。
『……チリ様』
見下ろした先は、散り散りに枝分かれする支流の群れ。
崖下に広がる川の流れを見下ろしながら、人形のような顔立ちの娘は眉を顰めた。
見やれど、見やれど、浮き上がるものはなし。
よほど深くまで水に抱かれたのか。
水面に浮かぶものはなく、これではどの流れに呑まれたのかが分からない。
ブクブクと煩い気泡は飛沫が作り出すものに他ならず。
剣呑に表情を歪めた娘は、高く浮かせた龍の半身を水中に戻した。
トプン……と沈んだ体は溶けるように水に馴染み、唯一残っていた人間の部位も川の底へと沈んでいく。
そのまま流れに身を任せ――
『迎えに行ってあげましょう。どこまで逃げようとも……行き着く先は皆同じなのですから』
黒く長い影は姿を消した。
月光のように大地を見下ろす金色も消え、不気味な茜色だけが天を覆う。
紫を待たぬ空の下—―……
「……—―ゲホッ!ゲホゲホッ!」
水から這い上がり――アニは一も二もなく咳き込んだ。
手に持った電脳箱[K-hack]を守るためか。
単に受け身を取り損ねただけか。
顔面から着水した拍子に、水が逆流したらしい。
鼻から喉までがツーンと痛み、体は酸素を求めているというのに、思うように空気を取り込めなかった。
「あのっ……!ウサギの奴……っ!」
咽ながらも文句は忘れない。
怒りのまま叫び、アニはゴツゴツとした岩肌を這いずった。
「ハアッ……!ここっ、どこだよ!?」
地面の上でごろりと一回転。
見上げた真上に空はなく、入江を思わせる暗い岩壁ばかりが広がっている。
ピチョン……ピチョン……と水滴の音が響くあたり、近くに滝があるのかもしれないが――だから何だというのがアニの気持ちだ。
いやに緑がかった川を抜け出したアニは、
電脳箱[K-hack]を一旦脇に、ずぶ濡れになった衣服を絞り始めるのだった。
「……またずぶ濡れだよ」
下着はともかくとしても、肌に張り付くズボンとシャツを脱ぎ、雑巾よろしくぎゅっと水を切る。
赤いシャツはそのままタオル代わりに。
雑に体を拭いたアニはズボンを履き直し――悔しさから唇を噛んだ。
「せっかくオリアがくれたってのに……!」
袖を通してたったの数日。
絞るに絞れない分厚いレザージャケットを胸に、アニは顔のパーツというパーツ中央に寄せ集める。
お気に入りの――しかもオリアがプレゼントしてくれたジャケットだ。
破れなかっただけマシとはいえ、ぐったりと萎れた姿に、ボタボタ水を溢すジャケットよろしくアニも泣きそうだった。
無論、本当に泣きはしないのだが、気分はもう土砂降りだ。
(……帰ったらクリーニングだな)
ぐっしょり濡れそぼったジャケットを腰に、そしてタオル代わりのTシャツを腰とズボンと間に挟み、アニは気分も重く立ち上がるのだった。
「コハクは無事だな。あのうさぎは……やっぱいねーか。カイイからは逃げられたみてぇだが……」
平らな岩の上に置いた黒い箱。
黙りこくった電脳箱[K-hack]を掴み、アニは光の入らない洞の中に目を向ける。
足元には自分の流れてきた川が一本。
それ以外には、浸食によって丸みを帯びた岩が広がるだけで、これという物はなさそうだ。
フナムシなのか、ゲジなのか。
名前のピンとこない虫がいるくらいのもので、例の兎はおろか、鼠一匹姿を見せる事はなかった。
匂いはというと――どこまでも続く水の匂いに満たされているらしい。
鼻に入った水が尾を引き摺るのもあって、泥臭い水の香りだけが、アニの鼻を占めるのだった。
どこか土っぽいカビ臭さに顔を顰めるも、鼻がまったく利かないよりは良いだろう。
遥か遠く、出入口と思わしき場所に僅かな光が灯っている事に気付いたアニは、電脳箱[K-hack]を手に歩き出した。
「うぇっ。気持ち悪っ」
思わず溢すのは、ぐちょぐちょと湿った靴の重さと冷たさ故だ。
かといって、靴を脱ぐという選択肢はなく、アニはとぼとぼと川沿いを下るのだった。
幸い、上下は川の流れが示してくれる。
(……逃げられはしたしな)
あの兎—―意固地にアニを振り向かせようとしなかったあの兎が本当に信頼出来るかはさておき、一先ず龍神から逃げおおせる事が適ったのだ。
怪異はもちろん、姿の見えない兎にも警戒しつつ、アニは下に向かう道を突き進む。
目指すは洞の外—―否、引きずり込まれた湖の外側だ。
(とにかく出口を見つけねーと)
異装[I-sow]に頼る事も考えたが、やはりリスクは避けられないだろう。
制御の面は当然、異装[I-sow]を使った後は記憶が曖昧になる上に、最後にはいつも意識を失ってしまうのだ。
制限時間があるわけではなさそうだが、下手に頼って、肝心な時に倒れてしまっては意味がない。
ここぞという時に使うべきだと、アニは冷静—―正確には弱腰に先を急ぐ。
オリアに判断を委ねてきた弊害とも言えるが、アニがそれに気付く由もなし。
電灯にもならない電脳箱[K-hack]と共に、洞の外へと顔を出すのだった。
「…………まぶし」
沈む事のない茜色は禍々しい程に濃く、アニの網膜を照り付ける。
その下には崩れた石塚。
幅の広い川を彩るように、一つ二つではない石の山が立ち泥んでいた。
それはまるで――墓の如く。
足首ほどのものから、膝ほどのものまで。
数えるのも億劫な夥しい数の小山が、洞を抜け出たアニを迎えてくれる。
「んだ……コレ?」
子供の砂遊びだって、ここまで醜悪にはならないだろう。
遥か先まで続く無秩序な、それでいて空虚な川辺の気味悪さに、アニは視線を彷徨わせた。
刹那――指に伝わる微かな振動。
それは鳥の囀りか、警報か。
腕を引かれた感触に身構え――アニは真紅の目を見開いた。
「コハク……?」
電源が切れたはずの電脳箱[K-hack]。
その箱が小さな光を灯し、アニの指にどこか心地よい波を伝えるのだった。
しかし、聞こえるのはノイズだけだ。
『—―――……—―……』
「ッ!」
期待に胸を膨らませたのも一瞬。
アニは再び体を強張らせ、ザリザリと嫌な音を溢すコハクに視線を注ぐ。
『—―ナン……セツゾ――ルイ――……コう――かな?』
その間にも電脳箱[K-hack]はキーキーと硝子を引っ掻くような音を鳴らし――どうやら交信に成功したらしい。
弱々しい光を紫に変えると、電脳箱[K-hack]はふわりと宙に舞い上がった。
『あ――あーあー……テステス――……やあ、アニ。随分と回線が悪い所にいるようだね?』
「オ、オ――オリアッ!!」
その声にアニはパアッと顔を明るくする。
もう駄目だと思っていた電脳箱[K-hack]が動いたのはもちろん、聞こえた声は、口調は、何よりも欲していたそれだ。
「悪いもクソもねーよ!!助けてくれ!!変なとこに来ちまったんだ!!」
電脳箱[K-hack]—―否、オリアを両手で掴み、懇願とも歓喜ともつかぬ声を上げるのだった。
切迫したアニの剣幕に――
『うん……?変な所?具体的には?』
電脳箱[K-hack]の操作権を掴んだオリアも、どこか他人事ながら話を聞く気になったようだ。
骨張ったアニの手の中にちょこんと落ち着くと、白とも紫ともつかぬ光をゆっくりと明滅させる。
瞬きするようなその動作に、アニも少しは平静さを取り戻したのだろう。
(ここは駄目だ……!)
キョロキョロと周囲を探り、隠れる場所がない事を目視すると、後ろに一歩後退。
洞の影の中へと身を潜め――そうしてから一握の希望に縋るように、クゥーンクゥーンと切ない声を溢した。
「カケイって言って覚えてるか?あの女に突き落とされて――……」
話すのは事の次第。
カケイに告白された――という一点だけは省き、カケイと共に三十一地区を訪れた事、その場所で湖に落とされた事—―そして今に至る事を短く告げる。
助けを求めるアニの声に、オリアはしかと頷いたらしい。
『なるほどなるほど。Sir.カケイに連れて行かれた先で湖に落とされた――と』
「……おう」
しかし何故だろうか。
改めて言われると、妙に情けなく聞こえるのだから不思議なもの。
急な羞恥に唇をきゅっと結びながらも、アニは救いの声を待つ。
望みの天恵は一秒と待たず。
姿勢を低くするアニの掌の上—―いつにも増して可愛らしく見える箱が、ピカピカと紫の光を付け消しした。
『結論から言えば――〝賽の河原〟だね』
「サイ?強そうだな」
『強そう……というのは、よく分からないけど、強いは強いのかな?簡単に言えばそこは生と死を別つ境界。あの世、冥府、地獄、黄泉の国—―表現は何でも良いけど、死後の世界に繋がる最後の関門がその場所と言えるだろうね』
アニの思い浮かべたサイは動物の犀なのだが――それは良いだろう。
適当に聞き流したオリアは、いつもと変わらぬ調子で問いかける。
『君の訪れた〝浮瀬湖〟—―名前を聞いて何か思わなかったかい?』
「いや別に?よくある名前だろ?」
『……そこはかの〝ウキヨ伝説〟が生まれた地—―回香が龍神となった湖とされる場所だよ。諸説はともかく、名前の通りとも言えるだろうね。浮揚を抱く回香が山頂を領域とし、沈殿を抱く菩提樹が湖底を領域とする。前にも水府と冥府は同じようなものだと言ったと思うけど、あの世を天上と捉えるなら、今君のいる場所が境界—―回香の支配する水府だとしても、おかしくはないんじゃないかな?』
「え?いや?でもウキヨは死んだって……お前が」
『だとして――それは推測に過ぎないものだよ。Sir.ワギリの性質を思えば、回香の木乃伊もあの屋敷にあったのかもしれないね。うーん……もしかしたらSir.チリが持ち帰った箱に入っていたのが、回香の木乃伊だったのかも。なかなか興味深い話だ』
悦に入り出したオリアはさておき――〝賽の河原〟とは冥途との境にある河原のこと。
三途川と呼ばれる、あの世へと渡航するための川を挟む無限地獄とも考えられている場所だ。
地獄と称されるのはその河原が、親不孝に亡くなった者が受難を負う場でもあるからだろう。
供養のために石を積んでは鬼に崩される――報われない努力の象徴でもあるその名を口に、オリアは声を転がした。
『Sir.チリの残した箱—―回香の封印をSir.カケイが解いてしまったのか。それとも縁深い彼女が、姉妹の呪いによって新たな龍となったのか。どのみち君は、助けた亀の導きで龍宮城へと続く道—―つまりはこの場所へと至ったわけだ』
「んな導きあって堪るか――って、もしかして亀ってカケイの事だったのか?前にも言ってた気するけどよ」
『それは……ようやくの気付きだね。その亀が龍に変じたのは登竜門—―鯉が滝を昇りきると龍に化ける――なんて故事によるものかな。それとは別に竜生九子が一つ—―贔屓と言ってね。竜が生んだ亀の伝承もあるくらいなんだ。その亀が竜になったという逸話はないけど……怪異とは複雑に絡み合うものさ。憑かれたのであれ、呪われたのであれ、共鳴したのであれ――亀とも言うべき彼女が龍に変じたとて、何らおかしな事ではないはずだよ』
「…………おぉう」
状況を分かっていないのか。
一度語り出すと止まらないのか。
焦るアニの心情とはよそに、オリアはいつもと変わらぬ様子で怪異についての蘊蓄を垂れていく。
アニはアニで、やはりいつも通りに理解が及ばないのだが、ここが〝賽の河原〟だろうこと。
そして怪異の正体が以前倒した怪異〝浮沈の箱〟こと龍神・菩提樹に連なるモノだろう事だけは、何となしに把握するのだった。
「とりあえず……この前のタイジュだかの仲間って事だな?」
『その認識で問題ないと思うよ』
「じゃあカケイは……」
だがそれは――嫌な現実に他ならない。
ワギリの辿った結末を思い出し、アニはつい言葉を濁す。
カケイの事を特別に想っているわけではないが、少なからず同じ時間を共にした間だ。
加えて電脳箱[K-hack]の決定とはいえ、好意を抱いてくれていた相手ともなると、義理堅いアニは後ろめたさを感じてしまう。
押し黙ったアニに、四角い形をしたオリアは声をかけた。
『先にも言ったけど、ここは境界。此岸にいる僕に出来るのは、精々《せいぜい》アドバイスを送る事だけだ。この通信もいつ切れるか分からないし……まずは彼岸を離れる事を考えなければね』
それは励ましだったのか。
電脳箱[K-hack]の体で浮かび上がったオリアは、アニの頭の上に降り立った。
ポスッと髪の毛に収まった姿は、まさしく営巣する小鳥のようでもあり――少し離れた水面にその姿を見たアニは唇を噛む。
(落ち着け……これはコハクだ。コハク。中身はオリアだけど……クソッ。可愛いとか思ってねーし)
見知った電脳箱[K-hack]の形だと分かっていても、その言動はオリアのそれだ。
小鳥のような――いや、もっと違う、蚕蛾のような儚さか。
呆気なく壊れてしまいそうな接触にドギマギしつつ、アニは深く長い息を吐く。
良くも悪くも、気持ちを変えるきっかけにはなったらしい。
話を逸らすようにアニは口を開いた。
「逃げ出すのは賛成だけどよ。この前の……あの釣りみたいなのとか使えないのかよ?」
『ああ……あれ。着眼点は悪くないけど、難しい話かな?』
釣りという表現に一瞬惑うも、オリアはアニの指し示すものを導き出す。
それは――蜘蛛の糸。
手斧に付与した結界もその類だが、アニが忘れているのなら良いだろう。
慈悲深い仏様が垂らしてくれる救いの一手—―水府に落ちたアニを引きずり出すのに使った糸の存在を思い出し、しかしてオリアは体を揺らした。
「駄目なのか?」
『あれは……試作品—―と言うべきかな。むしろあれこそが完成品だったわけだけど……一度しか使えないモノなんだ。それに仮に使えたとしても、君が居るのは三十一地区だろう?ここに繋がる鬼門は他にもあるかもしれないけどね。今から僕がそこに行くのは……少し。そう少し、現実的ではないんじゃないかな?』
「……なるほどなぁ」
たしかにオリアの住む十八地区から三十一地区までは近くない。
数時間を待てるかと問われると難しいわけで、アニは表情を暗くする。
試作品—―という言葉を深く気にしないのは、それがオリアの言う研究か何かの成果だと思ったからだ。
(前もそんな感じのこと言ってたしな)
多くの人を救えるだったか。
食糧難が改善できるだったか。
夢を語るオリアを思い浮かべ――アニは渋々《しぶしぶ》ながらも重い腰を起こした。
気は乗らないが、オリアが駆け付けてくれたのだ。
これ以上ない助け舟に、アニは永遠に続く茜色に目を向ける。
「—―あっちで良いのか?」
『そうだね。沈殿の中にも浮揚を目指すのが菩提樹ならば、回香はその反転。浮揚の中にも沈殿を探すべきだろう』
「あー……っと?下流に行く……で良いんだよな?」
『真偽は分からないけどね』
衣服も靴もたいして乾いていないが、いつまでも立ち尽くしているわけにはいかない。
決意を固めると、頭に乗っていたオリアがふわりと宙に躍り出た。
『僕から言えるのは二つ――いや三つか』
「何だよ」
目の前を泳ぐ黒い箱。
薄紫の光を溢すオリアを見つめ、アニはそっと手を伸ばす。
まるで雪か羽毛のようだ。
揺れ動いていた箱は、浅黒いアニの手の上に舞い降りる。
『一つ――どれだけ飢えても、ここにあるモノを口にしてはいけないよ』
優美なその光景に反し――
『黄泉戸喫と言ってね。あの世のモノを口にすると、そちら側の住人になってしまうと信じられているんだ。龍宮のもてなしにも、そういった意味があったのかもしれないね。それとも、もう――……』
「食ってねえ!飲んでもねえ!水はちょっと舐めたかもしんねーけど……」
『なら大丈夫じゃないかな?』
箱が紡ぐのは冷徹な声だ。
すぐ浮つきそうになるアニを律するその声に、アニはぶんぶんと首を振る。
箱の奥に物憂げでアンニュイな笑みが見え隠れするのは幻覚に相違なく。
顔を引き締めるアニに、オリアはなおも静かに言い放つ。
『二つ――石を積んではいけないよ。その石は君の価値だ。どれだけ甘い言葉を囁かれても――それは人魚の歌声に他ならない。引き込まれたくなければ、けして精算をしてはいけないよ』
最後はどこか冗談交じりに。
『三つ――けして振り返ってはいけないよ。行きはよいよい帰りは怖い――なんて言うくらいだしね。君が振り返って損をする事はない気もするけど……念には念を入れてかな。君が言いつけを守れるか、それとも好奇心に屈するか――高みの見物をするとしよう』
三つの忠告を聞き届けたアニは、出口を探そう――暗にそう告げるオリアを伴って、薄暗い洞を出る。
外は紅く、空は朱く、その色を映し込む川までが赤々と見えて気色が悪い。
「……離れんなよ?」
『言いながらガッシリ掴んでいるじゃないか。僕の体じゃないし、別に構わないけどね』
ふらふら飛んでいきそうなオリアを胸に、アニはまた川沿いを下っていく。
白く脆い足場は続けど――その向こうに真っ白な兎の姿はついぞ見当たらなかった。




